創価学会、戒壇の大御本尊を否定

大白法(号外)

創価学会ついに戒壇の大御本尊を否定

「会則 教義条項」の驚くべき変更内容

創価学会は、十一月七日に行われた「総務会」において「創価学会会則 教義条項」の変更を議決し、同日の「全国総県長会議」の席上、会長の原田稔は、今後、学会が自ら「御本尊を認定」するとして、「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(聖教新聞 十一月八日付)と述べました。

この発表は、本門戒壇の大御本尊を否定するということであり、御本仏日蓮大聖人への大反逆の行為です。

あきれた自語相違

①池田大作スピーチ(破門後・平成五年九月)

「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」

②創価学会の本尊は大御本尊の書写

・総本部(大誓堂)にある創価学会常住御本尊

(総本山第六十四世日昇上人書写)

・創価学会発行本尊のもとである日寛上人御本尊どちらも、「大御本尊の書写」

③勤行「祈念文」(現行・平成十六年九月制定)

「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申しあげます」

④「任用試験のために」(大百蓮華 平成二十六年八月号)

「『出世の本懐』弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されました」

しかし今回、↓

「弘安2年の御本尊は授持の対象にはいたしません(原田発言)

それでもあなたは学会について行きますか?

<会則改変の流れ>

昭和54年4月24日制定

「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」

と。「本門戒壇の大御本尊を根本とする」と明記していたが、

平成14年3月28日の改変

「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」

と、「弘安二年十月十二日の本門戒壇」の文言を削り、会員の大御本尊への信仰心・渇仰心をできるだけ薄めようとした。

今回の改変

「この会は、日蓮大聖人を末法の御本尊と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」

と、教義の根幹である御本尊に関する定義を変更した。

あなたは、御本尊を捨てますか?

今回の会則変更の説明の中で、原田は、「当時(中略)会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この『一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊』については、『弘安2年(1279年)の大御本尊』を指すとの説明を行っていました」と述べました。これは、教義・信仰の一番大事な根幹である御本尊について、これまでは「会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ」本音を言わなかったということであり、学会員をだますために嘘をついていたということです。

また、原田は、「創価学会は(中略)広宣流布のための御本尊を認定します」と述べました。

自分たちが御本尊を認定するということは、それは救われる立場の者が、救う立場である仏(御本仏)を認定するということになり、本末転倒した増上慢の言です。

さらに、原田は、「会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と発表しました。

日蓮大聖人は『聖人御難事』に、「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書 一三九六ページ)

と教示されるように、弘安二年十月十二日に「本門戒壇の大御本尊」を建立され、「出世の本懐」を遂げられたのです。この御本尊について、日寛上人が『観心本尊抄文段』に、「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮堤総体の本尊なる故なり」(御書文段 一九七ページ)と仰せのように、大御本尊こそ、本門三大秘法随一の究極の御法体であり、一閻浮提総与の大御本尊であります。大御本尊との決別は、大聖人、日寛上人に背く大謗法です。

あなたは、これまでの会長指導を否定するのですか?

かつて、戸田会長は、「ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです」(戸田城聖先生講演集 下 一一二ページ)と、大聖人の仏法は大御本尊を離れては絶対にだめであることを指導していました。

さらに池田会長も、「大聖人様の出世の御本懐として、万人から仰がれる大御本尊であらせられる。われわれが登山して、大御本尊を拝することは、そのまま日蓮大聖人様にお目通りすることであり、偉大なる功徳を享受できることは言うまでもない」(大百蓮華昭和三十八年十月号)と、学会の信心の根源は本門戒壇の大御本尊であり、そこに絶対信を置くよう指導しています。

大御本尊との決別は、学会を再建した戸田会長や池田会長の指導に背くことなのです。

あなたは、現執行部の暴挙を認めますか?

創価学会総本部(大誓堂)にある常住御本尊は、総本山第六十四世日昇上人が本門戒壇の大御本尊を書写した御本尊です。また、創価学会発行の日寛上人本尊も、日寛上人が大御本尊を書写した御本尊を複写したものです。故に、「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」と言いながら、これらの本尊を拝むことは、大いなる矛盾であり、支離滅裂な信仰です。

本門戒壇の大御本尊こそ日蓮大聖人の「出世の本懐」であり、信仰の根本です。この大御本尊の受持によってのみ、私たちの成仏が叶うのです。

今こそ、決断の時

勇気を出して創価学会と決別しましょう

『持妙法華問答抄』

『持妙法華問答抄』 (三〇〇頁)
「寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願わくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

この御書は、弘長三年(一二六三)三月、日蓮大聖人様が御年四十二歳の時、伊豆御配流の御赦免直後に鎌倉でおしたためになられたものとされています。
しかし、古来の説の中には、六老僧の一人である日持が執筆したのを、大聖人様が印可されたものとも言われていますが、日持が門下となったのはその七年後、大聖人様が四十九歳の文永七年のことですから、そもそも弟子にもなっていない者が執筆をして、それを大聖人様が師として印可されたとすれば、大変おかしな話になってまいります。
これも、正本が残っていませんから何とも言えませんが、それでもしかしたら、日持が大聖人門下に加わった年と何とか辻褄を合わせようとして、建治二年(一二七六)説や弘安三年(一二八〇)説が生じたのかもしれません。
それはさておいて、この御書の大意として、まず法華経こそ我等の成仏の直道であり、法華経はすべての教えの中で最も勝れている(法華独勝)ことを、多くの経文を引いて立証されています。
しかし動もすると、人は法華経のみが勝れたお経であると言うと、何と狭量な、了見の狭い、心狭い人だと批難します。それに対して大聖人様は、「法華独りいみじと申すが心せばく候はゞ、釈尊程心せばき人は世に候はじ。何ぞ誤りの甚だしきや」(御書二九三頁)とお答えになりました。
つまり、法華経独りのみが勝れていると主張する事が、心狭い事であると言うならば、お釈迦様ほど心の狭い人は居ない、ということになります。と云うのも、これはお釈迦様ご自身の言葉であるからです。
その証拠の経文は枚挙に暇がありませんが、法華経を説くに当たってその露払い・開経として説かれた『無量義経』には、「(今まですでに)種々に法を説きき。種々に法を説く事、方便力を以てす。四十余年には、未だ真実を顕わさず」と、あるいは『法華経方便品第二』には、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説くべし」とも、「唯一仏乗のみ有って二も無く三も無し」とも説かれ、その後の経文にも、「余の経典の一偈をも受けざれ」などと、明確に示されているのです。
その後、「法華経をどのように心得て菩提の岸、すなわち成仏へと到るべきなのでしょうか」との質問には、
「利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是還って愚癡邪見の至りなり。一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は信心肝要なり」
と、他宗の僧らは、わざと法華経を我等の手の届かない高みに置いて、高嶺の花であるかのように思わせて、利智・澱みの無い智慧をはたらかせて一心に仏道を求め、智慧によって心を思索し、分別し、照らし見ることの出来る者のみが、法華経の救済の対象であると、智慧の無い私たちのような者には、全く役に立たないとばかりに退けようとするが、これこそが甚だしい愚かな、間違った考えです。
法華経は「一切衆生、皆成仏道の教え」と言って、今まで果たされなかった、女性も、悪人も、一闡提という仏法の因果の功徳を信じない人も、五逆罪(父を殺し・母を殺し・阿羅漢という高僧を殺め・仏の身より血を出し・和合僧団を破壊するなどの五つの逆罪)の人も、謗法という仏の御正意の、南無妙法蓮華経の御本尊に背き、またその御本尊を信ずる人を軽んじ、賤しみ、憎み、嫉むなどの最悪重罪の人も、ついにはすべての人が救われていく教えですから、物事を正しく見たり聞いたりする判断力に秀で、欲望煩悩に左右されにくく、法門を聞いてすぐ理解できる、いわゆる上根上機の人は観念観法の修行をもされればいい。
しかし、今は末法濁世ですから、ほとんどは下根下機という、仏道修行をする力が乏しい者達ばかりですので、妙法の御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱える│これを総体の受持と言います│、この「受持の一行が修行の肝要」となるのです。これを「受持即観心」と言うのです。また、これより他に求めてはいけないのです。
これこそが、『持妙法華問答抄』という御書の名の、「持」の意味なのです。
ゆえに、この御本尊やこれを信ずる人を謗れば、かならず厳しき因果律として地獄の穴に転落し、長き苦悩の末に最後は又御本尊やこれを信仰する人に出会って救われることにはなりますが、謗法という御本尊に背くことがいかに重罪であるかを説かれているのです。
また、限りある命なのに、はかない世間の名聞名利にうつつを抜かして仏法を忘れるようでは、その志の程、これ以上ふがいない事はありません。
もし私たちが御本尊様を信じ題目を唱えるならば、「何をもってか衆生をして無上道に入らしめん」との、仏の御本意に叶い、御本意に叶えば自然に仏の御恩を報ずることになりますから、お釈迦様のみならず、三世十方の諸仏も皆お喜び下されるのです。
仏様がお喜びになれば、諸天善神も必ずお喜びになるのです。ですから、伝教大師が法華経を講ぜられた時には、八幡大菩薩がわざわざ現れて、紫の袈裟を御供養されたというではありませんか。
これらのことからも、「七難即滅七福即生」という国土の災難を払う御祈祷をするときも、御本尊に対して行うのが一番です。
なぜなら、「現世安穏」と法華経に説かれているからです。
もし、他国侵逼の難と言って、外国の軍隊によって日本国が攻められようとする時にも、あるいは自界叛逆の難と言って、同士討ちや内乱が勃発するのを防ごうとする時の祈祷にも、この妙法の経典に過ぎたるものはありません。なぜなら、やはり法華経のなかに「百由旬の内に諸の衰患無からしむ」と書かれているからです。
由旬とは、昔インドの国王の軍隊が、一日に移動する距離を言ったものだといいます。その百倍の領域を、法華経を人々が信ずるならば、患いや衰えが無いようにせしめる、ということが約束されているのです。
そうであるのに、当時の祈祷は逆さまだと言われるのです。災いを除き、福を招来しようというのが祈祷であるはずなのに、あえて仏の御意思に逆行して、不幸を招き入れようとしているからです。
人々が自分たちの未来を託そうとしている経文は、お釈迦様がお亡くなりになった直後から千年の正法時代、さらに次の千年の像法時代に広まるべし、として釈尊が留め置かれた権教、つまり仮の、方便の教えです。
末代私たちの時代に広まる事が定められた、最上真実の秘法ではありません。
それは例えば、去年の暦を引っ張り出してきて用いるようなものであり、カラスを体の色が似ているからと鵜の代わりとして使うようなものです。全く役に立たないでしょう?
このようになってしまったのも、ひとえに方便権教に凝り固まって執着・しがみついている謗法の邪師を貴んで、未だ真実の教えを奉じている明師に出会っていないからです。
何と惜しい事でしょうか、「文武の卞和があら玉、何くにか納めけん」│この卞和が璞のことは、日寛上人が『寿量品演説抄』(日蓮正宗歴代法主全書第四巻一九八頁)に詳しく書かれています。その内容は、こうです。
楚の時代に卞邑│卞という村に和という人がいました。それで卞和と言うのですが、この卞和がある日、荊山の山歩きを楽しんでいる時、璞玉といっていまだ琢かれていない玉、それも大きさが一尺にも余る、と言いますから、およそ三十センチメートルもあるような大きな原石を手にする事が出来ました。
それも、世に比類無き玉である事が、自身の長年の経験から分かりました。
そこで、当時の楚の国王である厲王に献じて、「どうぞ磨かせてみてください。きっとご満足いただけるはずです」と言上しました。
さっそく王は、玉造の職人・玊人を読んで磨かせようとしました。玉と玊は別の字です。玉は宝石、玊は玉造りの職人のことです。ところが玊人はこの璞玉を見るなり磨きもしないで、「これは只の石です。玉などではありません」と答えたものですから、厲王は怒って「王を欺いた罪は浅くないぞ」と、足を切って罰したのです。
しばらくして厲王が亡くなって、武王が即位しました。卞和は今度こそという思いをもって璞玉を王に献じ、同じように「玊人に磨かせてみてください。ご期待は裏切らないはずです」と言上しました。王は悦んでこれを玊人に琢かせましたが、腕が未熟だった所為か一向に光りが現れません。
王はいったん悦んだ分落胆も大きかったようで、「我を欺いたな」と、残っていた右の足を切り取った上に、両足を失った卞和を、獣にでも食らわれてしまえと、荊山に置き去りにしたのです。
かくて、二十有余年の歳月が流れ、卞和は命ながらえたものの、この璞をかき抱いて泣き過ごしておりました。
その後文王が即位して、彼の山に入って狩りをする事三昼夜、その途中、卞和が両足を失って泣き悲しむ様子をご覧になって、「世の中には刑罰によって両足を失う者は少なくない。それなのに、どうしてお前はそのように泣くのだ」と。
それに対して卞和が答えて言うのには、「私はこの刑に処せられたのを、嘆いているのではありません。世の中にこの玉の真価を知るものが無くて、真の玉なのに瓦石と言われ、忠事・誠を致し心を尽くしているのに、これを慢事・人を侮る言動だとされたことが悲しくて泣いているのです」と、答えたのです。
そこで文王は、この璞玉を召して玊人に琢かせたところ、見事な光が天地に輝き渡りました。試に道路端に掲げれば十七両の車を照らしたので「車照の玉」と呼ばれ、宮殿に置いてみれば夜、十二の辻を照らしたので夜光の玉とも謳われました。ようやく、日の目を見たわけです。
このようにして、この玉は代々天子の宝となって趙王の代にまで伝わりました。その趙の隣国に秦という破竹の勢いの王がいて、この玉を手に入れたいが為に十五の城と交換に玉を譲ってくれるよう申し出があったのです。
当時、一城と言えば、縦横一万三百六十六里の城壁に囲まれている、実に広大なものです。それを十五連ねるということですから莫大な所領です。これは損は無いと思って、趙王は秦王に玉を渡しました。秦王は十五城に換える価値の有る玉ということで、「連城の玉」と名づけました。
しかし玉を譲ったものの、約束の城は一つも譲渡されません。欺かれたと知っても後の祭り、大国にあらがう術とてないからです。地団駄踏んで悔しがる王を見かねて、藺相如という家臣が、智慧を巡らし命をかけてようやく玉を取り返します。
このように、この宝玉をめぐる争奪戦が繰り広げられていったのです。
なんと惜しい事でしょう。卞和が身命を賭して文王武王に献じた宝玉は、最初は誰も一顧だにしませんでしたが、素晴らしいと世の評判になると、急に色めき立って、争うようにして我が手元に置きたいと願う。今は果たしてどこに、誰の元へ納まっているのでしょうか。――「惜しいかな、文武の卞和があら玉、何くにか納めけん」
それに比して、何と嬉しい事でしょう。転輪聖王が普段は奥深く秘蔵して、滅多矢鱈には目にする事すら許されない、特に勲功の有った者だけに髻から取り出して与えられる明珠を、今こうして日蓮大聖人様の御化導によって我が身に得る事が出来ようとは……。
それこそ、三大秘法総在の御本尊様であり、如意宝珠という、ありとあらゆる宝を生み出す、その大元であります。――「嬉しいかな、釈尊出世の髻の中の明珠、今度我が身に得たる事よ」
この御本尊様をお受けして題目を唱える時、誰もが仏になる事が出来るとは、十方よりお集まりの諸仏も、皆證明遊ばされている所で、わずかな疑いも差し挟みようがありません。――「十方諸仏の証誠としているがせならず」
いくら、「法華経の信心は、世間には憎む者のみが多く、素直に信じることは難しい」と仏自ら説かれているのも、一切の方便を廃して仏ご自身の心を説かれた、いわゆる随自意の教えであるからで、それでこそ、これを行ずれば必ず仏に成られる訳で、それをどうしてスッパリ疑念を捨ててこの信心に取り組まないで、一分の疑いを残して、せっかく「この人、仏道において、決定して疑い有る事無けん」と仰せられているのに、この度仏に成ろうとしないのだろうか。――「さこそは『一切世間には怨多く信じ難し』と知りながら、争でか一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや」
過去久遠より今日に到るまでの気の遠くなる年月を、ただ漠然と苦しみを受けてこられたのですか?普通だったら、「もうあんな苦しみは受けたくない、御免だ」と、「これから逃れる道はないか」と、必死に探し求めるものでしょう?それでこそ、過去の苦労も生かされるのです。どうしてそのために少しでも時間を割いて、不変常住の妙因、すなわち御本尊様に題目を唱え、少々のことではびくともしない、永遠に崩れざる成仏の因・種・功徳を植えようと考えなさらないのか。――「過去遠遠の苦しみは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん」
今世での信心を果たしておけば、それが未来永劫にわたって受ける楽しみともなり、仮に不十分であるにせよ心を養うものともなりますが、あえて、わざわざ、遮二無二、稲光や朝露のように儚く、後の憂いや苦の因ともなる名利を、嘘をついたり、他を蹴落としたり足を引っ張りなどして悪名を世にたれ流しながらまでして、貪ってはなりません。
信心を根本にして、その功徳の実証として社会に名を立て、広宣流布にお役に立てるなら、これは当然許される事で、大いに励むべきことであり、大聖人様もお褒め下さる素晴らしい事に違いありません。――「未来永々のたのしみはかつがつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず」
私たちの住んでいる欲界・色界・無色界の三界は心安きことは無く、ただボウボウと燃え盛る家の中で、火事とも知らず遊びほうけている子供のようで、危険きわまりないこと、これに過ぎたるものは有りません、とは仏様のお言葉であり、それゆえ、様々な事象は幻のようなものであり、化城のようなものだとは、菩薩の言葉です。
――「『三界は安きこと無し、猶火宅の如し』とは如来の教え、『所以に諸法は幻の如く化の如し』とは菩薩の詞なり」
南無妙法蓮華経がこの国に広く流布した時、国土も仏国土となるのですが、その時にこそあらゆる災いが除かれるということが『如説修行抄』に、「天下万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、吹く風枝を鳴らさず、雨土くれを砕かず、世は義農の世となり│」と説かれています。また、「この法、法位に住して、世間相常住なり」との御金言のごとく、御本仏のまします寂光の都・本覚の栖であってこそ、私たちの幸せが招来されるのです。それが、「衆生の心けがるれば土もけがれ、衆生の心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔て無し。只我等が心の善悪によると見えたり」(一生成仏抄・御書四十六頁)との御文です。
ただ望むところは、現世は安穏にして、後生は必ず善き処に生まれることができる妙法を持つのみこそが、今生後生の最高の栄誉・誇りとすべきことであります。
そして、あらゆる邪宗謗法の余念・雑念・未練等を捨てて、ひたすら心を御本尊という一境に止め集中して題目を我も唱え、人をも、本当の幸せを掴んでいただくために御本尊の信心を勧めていく│、これこそ、この度この世に生まれ来た、最高の思い出にして参りたいものです。
以上

 

 

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ある本で、「灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如し」という文章を見たんですが、どういう意味ですか?

ある本で、「灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如し」という文章を見たんですが、どういう意味ですか?

これは、総本山第二十六世日寛上人が、私たちの修行に正行と助行とある中で、助行の役割についてご説明なさった箇所です。
正行とは、御本尊様にお題目を唱えることで、助行とは方便品と寿量品とを読んで、正行甚深の功徳を弥増しし、また明らかにすることです。
それでは質問の御文について、少し解説を加えてみましょうね。
まず、「灰汁の清水を助け」という部分ですが、これは「かいじゅう」ではありません。
「あく」と読むのです。 「灰汁」とう言葉を「世界大百科事典」で調べてみますと、 「植物の水で浸出した液。この液は洗濯に有効で、しかも酸と相反する性質をもつ。主成分は、陸の植物の場合は炭酸カリウムなど、海の植物の場合は炭酸ナトリウムなどである。
あくづけ、アク抜きなどに使う」 などと書かれているところから、短絡して、「灰汁の清水を助け」とは、「たとえば洗濯をするときに、洗剤を加えて水の助けとする意味」とする場合が多いように見受けられます。 しかし、これでは「灰汁が清水を助ける」意味とはなりません。
これは、日寛上人の生きておられた時代背景を考慮にいれて解釈しなければなりません。 と言うのも、この時代、灰汁を使った画期的な方法が、ある物の生産効率を上げるのに革命?を起こしていたのです。
あるものとは「清酒」です。元は濁酒(だくしゅ—にごりざけ、どぶろく、もろみざけとも呼ぶ)を長時間掛けて沈殿するのを待って、その上澄みを取る静置法が主流だったのですが、江戸時代の初期に大阪の鴻池が濁酒に灰をいれてろ過する方法・いわゆる「灰澄まし法」を発見し、効率良くろ過・漉して透明にした〈澄み酒・清酒〉を作れるようになったのです。
これが今でも名残として、造り酒屋の軒先に、新酒が出来たことのデモンストレーションとして、杉の葉で作った丸い玉を下げるのです。
これを杉玉とか酒林とも呼ばれています。 それも、文政十二年板行の『北窓瑣談』という書には、「酒の今の如く清酒になりしは、わずかに百四五十年この方の事とぞ」とあるそうで、文政十二年板行と言えば西暦一八二九年ですから、それより百四五十年と言えば、一六七九年から一六八九年ごろの延宝年間ということになります。
日寛上人が『三重秘伝抄』を著わされたのが正徳三年(一七一三)、御登座あそばされたのが享保三年(一七一八)ですから、まさにその三十年後で流行の真っ盛り、ということで、これを例えに用いられたようです。 このように、濁った液体を澄んだ清水の状態にするのに有効なのが、この「灰汁」を加える方法なのです。
灰汁はこのように、濁り水を不透明な状態から透明な清水にするのを助けますから、私たちの唱える題目が、釈尊の法華経や、あるいは像法時代に、天台大師や伝教大師が唱えたものと同一なものかどうか不透明なものを、明確に、今よりさかのぼること久遠元初の時、名字凡身の御本仏が御修行あそばされた、いわゆる「本地の御自行」、これ真実の仏になる因なるゆえに「本因妙」と称し奉るのですが、これを私どもにお与え下された『三大秘法』と申し上げる、唯一の仏道修行であることを明らかににするために、この『方便品』と『寿量品』とを助行として拝読するのです。
「塩酢の米麺の味を助くるが如し」と言うのは、塩はお米の味を際立たせる。お酢も素麺の味を引き立たせるように、唱題の功徳を際立たせ、引き立てるのに、大いに力となるのです。
それで、唱題の助行とするのです。 これからの文章は、インターネット記事からの受け売りですが、平安・鎌倉時代の「延喜式」「天延二年記」「小右記」「中右記」「江家次第」「長秋記」などの記録によると、宮中での饗宴には必ず素麺が出され、酒のあと酢素麺を食べる習わしがあったようです。
酒でもてなした後、酢素麺を食べるのが最高の料理で、この方法が宮中から公家などの上流社会に伝わり、江戸時代に入ると、庶民も酒の後、酢素麺を食べる習慣になりました。
江戸時代も中期になると、地元で作られる醤油を使ったつゆが一般化し、醤油のつゆと酢を適宜に使い分けていたようです。
酢素麺は当時高級料理とされていました。
播州地方でも、昭和三十年代頃までは酢をベースとしたつゆが主流で、醤油を使ったつゆは少なかったようです。現在では、醤油ベースのつゆ(めんつゆ)が主流になり、酢素麺はあまり食べなくなったのは、皆さんご承知の通りです。
お酢で食べるから最高の料理で、宮中のもてなし料理の中でも特にこだわりがあったことを知る事ができます。
また、お米を食べるにしても、炊きたてのご飯を、塩をまぶして握ったおにぎりが最高の料理であることを、この三月に終了したNHKの朝の連続ドラマ「ごちそうさん」でも、主人公の差し出したおにぎりを、アメリカの進駐軍の将校までもが、こんな美味いものはないとばかりに目を丸くしてほおばっているのが、印象的に描かれていました。
このように、お酢も、現在のめんつゆも、麺の味を引き立てる、風味豊かにする。
あるいは、お塩も、ご飯をいよいよおいしくして、栄養を身につかせる大きな働きをもっていることが、私たちの修行の関係によく似ているので、これを、正行を助ける行・助行とするのです。
この方便品と寿量品、そして題目を唱えることで、迹門・本門・文底へと浅いところより次第に深い所に至り、寿量文底の三大秘法の題目という意義が具わることになるのです。
ゆえに、この助行と正行たる題目を合わせ行ずることで、本当の大益を得る事が出来るのです。 以上

 

 

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星名五郎太郎殿御返事

星名五郎太郎殿御返事(御書三六三頁)

「凡眼を以て定むべきにあらず。浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼とし、仏智を以て先とせん。」
この御書は、日蓮大聖人が文永四年十二月五日、御年四十六歳の時、総州(現在の千葉県)に住んでいた星名五郎太郎殿に与えられたお手紙です。
星名五郎太郎殿とは、佐久間兵庫亮の家臣であるとは言われていますが、詳しいことは分かっていません。
この星名五郎太郎殿が使いをもって法門をお尋ねしたことについて、その使いを待たせておしたためになったのが、このお手紙です。
書き出しは、「漢の明夜夢みしにより、迦・竺二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来……」と始まっていますが、これはインドから中国、そして朝鮮半島を経て日本へとの、仏法伝来のことが述べられています。
一見すると、省略された言葉が多く、むずかしい語句が並んでいるように思えますが、相手もすでにご承知の事柄なので、言葉を略されたのかもしれません。
これに似た内容は、他の御書にも見ることができます。たとえば、『四條金吾殿御返事』(御書一一七七頁)にも、
「漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給ひしかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同じき永平十年丁卯の歳迎へ取り…」とあるように、後漢の明帝が、永平七年、ある夢を見ることに始まることが記されているのです。
それは、身の丈が丈六、これは一丈六尺のことで…つまり、約四・八五メートルもあり、しかも全身が金色に覆われ、うなじからは満月のような光を発している人が、宮殿の庭に飛来するというものでした。
あまりの不思議な夢であったところから、これが何を意味しているのか側近の者らに尋ねるのですが、いまだかつて聞いたこともないことでしたので、みな首をかしげるばかりで、誰も答えられるものがいません。
そうした中、太史傅毅というものが進み出て申し上げるのには、私が聞いた話によりますと、周の昭王の時代の四月八日、突然河川や井戸、あるいは池の水があふれ、同時に大地が震動し、五色の光が現れ西方にまで行きわたったことがあり、それについて臣下が「西方に偉大な聖人が生まれた瑞相である」と奏上したことがあったとのこと。夢に御覧になられた金人は、その「仏」と言われる方かもしれません、と。
そこで明帝は、中郎将蔡愔、中郎秦景、博士王遵ら十八人をインドに遣わして仏法を求め、永平十年、迦葉摩騰・竺法蘭の二高僧に会って仏像と経典を得、これを白馬の背中に載せて、ついに洛陽の都にたどりつくのです。
このように白馬によってもたらされた教えなので、仏教を「白馬の教」とも称し、この仏法をもたらした迦葉摩騰・竺法蘭のために「白馬寺」を建てて、その功に報い崇めたといいます。
こうして、唐の神武皇帝(六代・玄宗皇帝のこと)に至るまで、天竺の仏法は震旦(中国)に流布し、梁の代に至り、百済国の聖明王より我が朝の人王第三十代欽明天皇の十三年に、日本国に初めて仏法が伝えられ、それより以降すべての経論も伝わり、八宗十宗も皆日本国に広まりました。
このような先人の功績により、幸いにも私たちは末法に生まれながらも、霊鷲山での御説法をうけたまわることが出来、身は中国よりはるか遠く離れた辺国に住んでいながら、仏法大河の流れをこうして直接この手に汲み取ることができたのです。
「但し委しく尋ね見れば、仏法に於いて大小権実前後のおもむきあり」……ただし、こうして中国や日本に伝わった教えであるけれど、改めて委しく調べて見ますと、その仏法の中にも大乗教や小乗教、権大乗教や実大乗教、そしてこれらの教えの広まるべき前後・後先というものが定められています。
「若し此の義に迷いぬれば邪見に住して、仏法を習ふといへども、還って十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚だしきなり」……もし、この勝劣・浅深・高下・後先・順序などに迷ってしまえば、間違った考えに陥ってしまい、折角仏法を習いながら、かえって十悪業・五逆罪を作る罪よりも重い罪を負うことになります。これを謗法といいます。
ちなみに五逆罪とは、仏法上最も重い五種の罪で、これが業因となって必ず無間地獄の苦果を受けるので、無間業とも五無間ともいいます。これが、父を殺し、母を殺し、阿羅漢を殺し、仏の身より血を出し、和合僧を破る、の五つです。
このいずれも大変な行為ですが、最後の和合僧をやぶるとは、仏の教団を分裂混乱させることですから、これは人々の心を三宝から離れさせることにもつながるので、五逆罪の中でも特に重罪であると、説かれています。
十悪業とは、殺生・偸盗(盗み)・邪淫(不倫)という身に行う三悪、悪口・両舌(二枚舌)・妄語(うそ)・綺語(真実に反して巧みに言葉を飾り立てること)の口の四悪、貪欲(欲張り)・瞋恚(いかり)・愚癡(おろか)の心の三悪を言います。
この罪を犯せば、社会での信頼を失い、人格は破綻し、人々からは常にそしりを受けるなど、まともに生きていくことが出来なくなります。
我々がもし謗法という罪を犯せば、これらよりも甚だしい罰を受けなければならないと言われるのです。
「ここを以て世を厭ひ道を願はん人、先づ此の義を存ずべし。例せば彼の苦岸比丘の如し」……つまり、せっかく仏法を信じても、仏法の筋目に違って邪見に住することとなって、地獄に堕ちることになるということを、知らなければならないと言うことです。
その例として「苦岸比丘」のことを挙げられています。
苦岸比丘と言うのは、過去の大荘厳仏の滅後末法の僧侶の名前です。この大荘厳仏の弟子たちは五派に分裂したといいますが、その中に普事という方を師とした一派のみは、仏の正統な教えを受け継ぎ成仏をすることが出来ましたが、残りの四派の者は仏の教えに背き、邪義を信じてことごとく地獄に堕ちてしまいました。
苦岸比丘は、この邪義・異説を唱えた四派の、その中の一派の師として人々を煽動した者なのです。
「故に大経に云はく『若し邪見なる事有らんに、命終の時正に阿鼻獄に堕つべし』と云へり」……ゆえに涅槃経には、「もし邪見の信心を持つ人は、臨終の時、必ず阿鼻獄に堕ちるであろう」と述べられているのです。
「問ふ、何を以てか邪見の失を知らん」……どうしたら、自分が仏の御意思に背いているかどうかを知ることが出来るでしょうか。
「余不肖の身たりといへども、随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ。」……私はさほど優れた者ではないけれど、それ相応に未来の果報が如何なるものか恐れもし、また現世での振る舞いも慎み、正しい信仰をしたいと願う者の一人です。
「願はくは此の義を知り、若し邪見に住せば、ひるがへして正見におもむかん」……出来ることならば何とかして、いずれが仏の御本意なのか、またどのようにすれば仏のご真意の教えにたどり着けるのか。もし、私が間違った信心をしているというならば、それを捨てて正しい信心に着きたいと思います。
「答ふ、凡眼を以て定むべきにあらず。浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼とし、仏智を以て先とせん」……大聖人様がこれにお答えになるのには、私たちの好き嫌いなどの、その時々の一時の感情に左右されやすいものの見方でもって定めるべきではありません。
あるいは、自分の浅はかな智恵でもって明らかにすべきものでもありません。
仏の説き置かれた経文を眼とし、仏の智慧を何よりも先として選び取らなければなりません。
「但恐らくは、若し此の義を明かさば、定めていかりをなし、憤りを含まんことを。さもあらばあれ、仏勅を重んぜんにはしかず」……ただし、この事を明らかにすると、人は誰も「間違っているならばこれを改めて正しい方を選ぶのにやぶさかではない」と言いますが、実際は自分のあやまちを露骨に指摘されると、人が変わったように怒り狂うものです。
これを貪・瞋・癡の煩悩の中には瞋恚(いかり)と言います。
たとえそうなったとしても、それはもうそれでやむを得ない、どうあろうとも仏の勅命には背くことは出来ないのです。
「其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ、但愚者の行ひなり」……おしなべて、世間の人は遠い昔の人のことを訳もなく貴ぶが、今どきの人の言うことだとこれを軽んじ卑しむのを常とする。これは誠に愚かなことです。これは、弘法や善導、それに法然らにたぶらかされ、大聖人の正理に耳を傾けようとしない、現在の人々の愚かさを批難されたのです。
「其れ若し非ならば遠くとも破すべし。其れ若し理ならば近くとも捨つべからず。人貴むとも非ならば何ぞ今用ゐん」……もし道理に背いていれば、今に名高い先師だと言ってもこれを破折しなければならないし、道理に叶っているならば、今世に出たばかりの若造に思えても捨ててはならないはずです。多くの人が素晴らしい人であると讃える、伝説上の人物であったとしても、その説くところが経文に照らして間違っているならば、どうしてこれを用いるでしょうか。(中略)
「凡そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。是ほどの理をば何なる人なりとも知るべきなり」……大まかに全体の要旨を掴んで申し上げれば、そもそも仏法というものは、善人悪人を選ばず、皆成仏せしめるを以て、最第一と定めるべきなのです。これほど大切な道理は、誰人たりとも弁えて置くべき事なのです。
「今法華経には二乗成仏あり、真言経には之れ無し。あまつさへあながちに是をきらへり。法華経には女人成仏之あり。真言経にはすべて是なし。法華経には悪人の成仏あり、真言経には全くなし。何を以てか法華経に勝れたりと云ふべき」……今法華経には声聞・縁覚の弟子方が成仏しているが、真言や念仏のお経の中には全く説かれていません。それどころか逆に忌み嫌われているのです。
この他にも法華経には女人成仏が、はっきりと実際の人を立てて示されています。真言や念仏の経にはすべてこの事を記されたものはありません。
そして、法華経には過去に罪を犯した悪人の成仏が説かれています。真言や念仏の経には全く無いのです。
彼らが、自分らの経の優位を主張する根拠がどこにあるのか、全く首を傾げざるを得ないのです。
このように、私たちの信仰は、本当に仏の御真意に基づく最高の宗教なのです。
これを知って、ただおのれだけ満足しているのではなく、人にも教えていかなければなりません。これもまた、仏の御本意なのです。
今年は『折伏貫徹の年』です。みんなが自行化他の信心に立ち上がって、折伏貫徹の喜びを分かち合いましょう。
以上