『聖人御難事』

『聖人御難事』(一三九六頁)

「去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の刻に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すが如し。余は二十七年なり」

初めに

この御書は弘安二年十月一日、大聖人様が御年五十八歳の時に、「人々御中」と宛名が示しているように、門下一同に与えられた書です。
また、その後に、「さぶらうざへもん殿のもとにとゞめらるべし」と但し書きがあることから四条中務三郎左衛門尉頼基、すなわち「四条金吾」の元に留め置いて、順次皆で拝読していくよう、言い置かれているのです。

この御書に出世の本懐成就を宣言

この御書が殊に重要とされるのは、末法の御本仏であられる日蓮大聖人様が、御自ら「弘安二年に出世の本懐を遂げられた、細かく言えば、今まさに遂げつつあることを宣言あそばされた書」であるからです。

出世の本懐とは大御本尊御図顕 その出世の御本懐

いわゆる、この世にお出ましあそばされた御本仏の究極の目的とは、我が総本山大石寺の奉安堂に御安置申し上げるところの、本門戒壇の大御本尊様をお顕わしになる事です。
なぜなら、人々がこれを信じて題目を唱えれば、必ず煩悩も宿業も苦悩も転じて、無作三身という最高の幸福境界を開いていく事ができるからであります。

創価学会もこの事を認めていた

この事については、創価学会もかつては、例えば『御書辞典』にこの『聖人御難事』を、 「一閻浮提総与の本尊建立の十一日前に日蓮大聖人が門下一同に与えられた書。
同年九月に神四郎をはじめ二十名が捕らえられるという熱原の法難が起こったため、大聖人がこれを契機として出世の本懐である本尊を建立することを表明され、また熱原の信徒をはじめ門下を激励されたもの。
最初に釈迦・天台・伝教の出世の本懐までの年数をあげ、大聖人は二十七年であるとしている。」(創価学会版・日蓮大聖人御書辞典三七七頁) と解説しています。

創価学会出世の本懐を否定

ところが、最近の創価学会教学部の秘密資料によると、秋谷元会長は、 「弘安二年の御本尊については、南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御本尊であるが、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠は無い。
日寛上人より『究竟中の究竟』等、宗派の確立のために確定されたとも推定される。
弘安二年の御本尊も、何の徳用も働かない。………他宗の身延系、中山系、京都系が保持している真筆の御本尊と同じ事になる」 と、言い放ったとのことです。
それでは、「聖人御難事の『余は二十七年なり』という大聖人の『出世の本懐』の表明についてはどう説明するのか」、という教学部陣の疑問について、谷川総長は、 「出世の本懐の意味だって変えればいいんだ。
独立した教団なんだから、変えてもいいんだし、変えられるんだ。南無妙法蓮華経の御本尊を顕わしたことにすればいいんじゃないか」と、声を荒げて主張したというのです。(創価学会内部資料三頁・四頁) そして、十一月七日十時半からの師範会議、十一時からの最高指導会議、十三時からの参議会、十四時からの総務会、引き続いての全国県長会議と矢継ぎ早の型どおりの手続きを踏んで、原田会長の「創価学会は弘安二年の本門戒壇の大御本尊は受持の対象としない」との、これ以上無い、大聖人に対する最悪の師敵対の発表を行ったのです。

創価学会の新しい根本の本尊を認定

しかも、創価学会はそれに代わる本尊を独自に認定するとして、これも何と、第二代戸田会長が、当時の御法主日昇上人に申請し下付された、通称「大折伏大願成就の大御本尊」現在創価学会の「大誓堂」という総本部に安置されているという「創価学会常住御本尊」の事だと言うから、開いた口が塞がりません。
それとて、本門戒壇の大御本尊の「分身散体の御本尊」ではありませんか。
その大元を捨てて、その書写本尊を根本とするとは、どう考えても幼稚、悩乱しているとしか言いようがありません。

戒壇の御本尊は総体、書写の本尊は別体

今日のこの事態を予想されてか、日寛上人は次の様な言葉を残されています。
「就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段)
「本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり」(観心本尊抄文段)
「故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その所は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、則ちこれ根源なり。乃至凡そこの本尊は久遠元初の自受用の当体なり」(法華取要抄文段)
つまり、戒壇の御本尊を抜きにして、大聖人の仏法は無いのです。

正信会も本尊に迷う

この創価学会の例のみならず、かつて日蓮正宗の僧侶であり信徒であった自称正信会の者らも、戒壇の御本尊という「大聖人出世の本懐」を否定します。
いわく、 「『戒壇の大御本尊は』、肉眼で拝し得るものではないために古来御宝蔵に奉安され、遙拝されてきた。
板の上にお文字をもって示された御本仏の内証を拝し、己心に頂戴してこそ、御本尊の実義がある。宗祖の御魂こそが信仰上、永遠性を有する本尊であり、墨に染め流して図顕された曼荼羅は、無常を免れない。
つまり、本門戒壇の大御本尊をそのまま本尊と見るのではなく、その奥に存在する御本仏の内証本尊(心法)を拝するのである。」(継命四七二頁) と、戒壇の大御本尊御顕示をもって、自らの出世の本懐とされた大聖人の御化導を無にして、「形ある御本尊をそのまま拝んでも価値が無い」という言いぐさです。

今こそ大聖人の御正意を拝す

このような邪義が横行する今こそ、この御書の意味を再確認しなければならない時であると感じましたので、皆さんにお話しをするのです。よく聞いて下さい。

先ず宗旨建立の場所と日時

大聖人様はこの『聖人御難事』の冒頭、先ず、題目を人々に向かって初めて唱え出された時と場所を述べられます。それは誰もが知っている建長五年四月二十八日、場所は、「安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり」とは、現在の千葉県鴨川市に当たります。
そこは、「天照大神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」という場所であると、わざわざ注釈されています。
この御厨とは、神が住み神の供物を納める屋舎の事だったそうですが、後には神宮や神社に付属する土地を指すようになりました。
この御厨、ほとんどは伊勢神宮の神領を総称したものなのです。 なぜ、わざわざこのような事を述べられたかというと、この安房国東条郷は、鎌倉や京都からすると辺国・都から遠く離れた辺鄙な所であるが、ある意味、日本国の中心ともいうべき意義が存する。その所から、妙法広宣流布の第一声が放たれたことを言わんがために、この前置きが丁寧に描かれているのです。
このことを『新尼御前御返事』(七六四頁)に、
「而るを安房国東条郷は辺国なれども、日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御祈請の文をもって会加の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給いけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給いぬ。此の人東条郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず」 と、おっしゃっているのです。
「この東条の郡の内、清澄寺と申す寺の、諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時にこの法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり」
ご自分が幼い頃出家して学問に励まれた清澄寺、そこで、幼い頃「智慧の宝珠」を授けてくれた虚空蔵菩薩、あるいは才能を見出して学問の機会を与えてくださった師の道善御房の御恩を報ぜんが為、そして日本国の中心地である等の意義を鑑みて、午の刻、つまり太陽が真上から照らして地上に影の無いことから、すべての人を照らし平等に救いゆくことを表わす、この時刻を選んで妙法を宣布されてから二十七年の月日が流れて、まさに今弘安二年を迎えているのである、と。

三国四師の本懐成就までの年数

過去の法華経の行者を振り返ってみれば、仏は四十余年、つまり、三十歳で菩提樹の下で阿耨多羅三藐三菩提(無上正覚・この上無い正しい悟り)を得てから四十二年後、七十二歳の時に法華経を説いて出世の本懐を遂げられました。
これは、周知のことです。 次の「天台大師は三十余年」とは、天台大師は十八歳の時果願寺の法緒という方の元で出家し、法華三部経を研鑽した後、二十三歳で大蘇山(河南省南部)の慧思(南岳大師)を師として事え、法華三昧の行に入り、法華経『薬王品第二十三』の一文、 「是真精進。是名真法。供養如来(是れ真の精進なり。是を真の法をもって如来を供養すと名づく)」(法華経並びに開結五二六頁) によって悟りを開きました。これをその場所の名前から「大蘇開悟」といいます。
これから三十四年後、大師が五十七歳の時に、荊州の玉泉寺で摩訶止観を講説し、ついに出世の本懐を遂げるのです。それで「天台大師は三十余年」と言うのです。(日蓮正宗入門六十七頁) その次の「伝教大師は二十余年」とは、かつて御隠尊日顯上人猊下様は、「宗旨建立七百五十年慶祝記念 特別大法要御書講の砌」(平成十四年四月二十七日/於総本山御影堂/大白法平成十四年五月一日号所載)に、 「また『伝教大師は二十余年』とは、大師十九歳の延暦四年、叡山に入り日夜法華経を修して五つの願を発し、爾来、延暦七年一乗止観院を建立、延暦二十一年正月十九日高尾において六宗と対論し、同二十三年入唐、同二十四年五月に帰朝、この間道邃、行満両師より天台の深奥の法門秘書を承け携えて帰朝しました。
発願の年より中国の天台の秘書をことごとく伝来するに至るまで二十余年となります。
しかしまた、伝教大師は弘仁十年、大乗円頓戒壇の建立を願い出られましたが、南都六宗の反対という大難があって許されず、弘仁十三年六月、伝教大師の没後七日目に勅許が下り、同月円頓戒壇が建てられたと伝えます。
さらに五年後の天長四年五月、延暦寺に戒壇院が建立されました。
延暦二十四年の帰朝より戒壇建立まで二十二年であり、大師の没後ではありますが、大難という意味からは『二十余年の出世の本懐』とは、これを仰せられたものかと思われます」 と御教示あそばされています。

「其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし」

これらの方々が出世の本懐を遂げられるまでは、一人の例外も無く、それはそれは大変な迫害法難の連続であったことは、先々より大聖人様が教えてこられた通りです。
法華経の真の行者は、多くの人を仏道に導かれるので、魔が興起して、本懐を成就させまいと魔の軍隊を次々と差し向けてくるのは、必定なのです。
法華経には、「しかも此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と説かれています。法華経を説こうとすれば、如来――仏が現に在した時ですら、なお怨嫉が甚だしい。
況んや、その仏様が疾うに亡くなられた後の、末代悪世には、比較にならない大難が降りかかってくるのは、当然なのです。
だからといって、釈迦如来がお受けになった法難がちっぽけな取るに足らないものだったのかというと、そうではありません。例えばこうです。

釈尊の法難

一、「阿耆多王の馬麦」 バラモン種の阿耆多王が、釈迦とお弟子に供養をさせていただきたいと申し出て、自国に五百人の弟子と共に仏を招いたが、悪人にそそのかされて供養を忘れたがために、九十日間というもの、年老いた人のくれた馬の食べる麦を食べ、飢えを凌がれました。

二、「小指の出仏身血、大石の頂きにかかりし」
いわゆる「調達が山を推す」といわれるもので、調達、すなわち提婆達多が釈尊の一行めがけて、耆闍崛山、いわゆる霊鷲山の崖の上から大岩を投げ飛ばして殺そうとしましたが、金剛力士が金剛杵という杵を投げつけて、これを粉砕したまでは良かったのですが、その小石の中の一個が釈尊の足の小指に当たってしまい、そこから出血してしまった事を言うのです。

三、「善星比丘等の八人が身は仏の御弟子、心は外道に伴ひて昼夜十二時に仏の短をねらいし」
善星比丘というのは、釈尊が出家される以前の子供ですが、後に出家して釈尊の弟子に形の上ではなったものの、釈尊がいかに素晴らしい教えを説いても受け容れようとせず、ついには仏や悟り、そして皆が求めている涅槃などをも「ありもしない戯言だ」と、悪しき考えにもとづいて否定をし、更には外道の者らと結託して仏の欠点を暴こうとするなど、仏教教団を破壊するために色々画策して動き回りました。

四、「無量の釈子の波瑠璃王に殺されし」
波瑠璃王とは、釈尊が生きておられた時の舎衛国の王で、父は波斯匿王、母は勝鬘夫人と言います。 勝鬘夫人は元釈迦族の大名の一使用人でしたが、波斯匿王が迦毘羅衛城を訪れた際、ぜひ高貴な家柄の釈迦族の女性を妻にしたいと懇望した時、王家より釈迦族の娘と偽って紹介されて、第二夫人として嫁いだのですが、その子の波瑠璃が王子となって迦毘羅衛城に凱旋したとき、人々が「使用人の子」と蔑む陰口を耳にし、この恥辱を晴らす為にと、長行大臣と謀って波斯匿王から玉座を奪い、王となって迦毘羅衛城を襲い、釈迦族五百人を殺戮したことを言います。

五、「無量の弟子がゑい象にふまれし、阿闍世王の大難をなせし等」
これは、提婆達多にそそのかされた阿闍世王が、どう猛な象たちに酒を飲ませて仏や弟子達を襲わせた事件で、多くの弟子が犠牲になったと伝えられています。
大聖人様はこの様に釈尊が受けられた数々の難を挙げられ、「これらが経文で言うところの小難である」と、おっしゃいました。なぜなら、末代悪世には、更にこれを上回る大難が法華経の行者に降りかかってくることを、釈尊みずからお示しになっているからです。
それでは、「況んや、滅度の後をや」と言われた経文に相当する大難を、龍樹や天親、あるいは天台や伝教等の名だたる方々が、果たしてお受けになったことがあったでしょうか。
この方々を、「法華経の行者では無い」と言おうとすれば、どうして法華経の意義を世に宣揚したこの人々が、法華経の行者などではない、などと言えるでしょうか。
また、「行者である」と言おうとするならば、仏のように身をあやめられ、血を滴らせた人はいません。いわんや、仏に過ぎた大難を受けた方は、これまで一人も現れて来ていないのです。
仏が確信をもって未来の事を記し置かれた金文のはずなのに、他のことが皆現実となっているだけに、この一点だけがそうでなかったということが、かえって全体の印象を悪くし、空しい気分にさえ陥ってしまいます。そういうことって、やっぱりあり得ないことなのか、と。
残念ながら、仏の説・お考えを述べられたものであるけれども、法華経は仏の大虚妄・大ウソとなってしまいました。

大聖人の況滅度後の大難

そういった中で、日蓮大聖人はこの二十七年の間というもの、文応元年八月二十七日には松葉が谷の草庵を襲撃され、弘長元年の五月十二日には伊豆の国へ流刑となり、文永元年十一月十一日には房州小松原にて東条景信の兵士によって襲われ、弟子の鏡忍房、それに信徒の工藤吉隆は大聖人をお護りする中で討ち死にし、御自身も頭に刀傷を負い、左腕を打ち折られるなどの被害を受けられました。
さらに、文永八年九月十二日には、公には佐渡ヶ島に流刑となっていたものの、その途上、密命によって龍の口で多くの兵士に幾重も取り囲まれた中で頸を切られようとしましたが、危うい所を諸天の加護によって虎口を脱することが出来ました。
その外にも信徒が所領を奪われ、または左遷されるなど、あるいは宗祖御自身へは日常的に罵詈雑言を浴びせかけられ、そして杖やこぶしでぶたれ、石を投げつけられ、毒を盛られ、流血を見ない日はほとんど無かったと言っても良いほどだったのです。
その他に、弟子らは土牢に押し込められることもありました。
これらの迫害法難が、仏に及ぶか、はたまた勝れているかなどとは、口幅ったくて言えるものではありませんが、また申すものでもありませんが、少なくとも、彼の龍樹・天親・天台・伝教は、日蓮大聖人と肩を並べることは到底できないでしょう。

大聖人が況滅度後の経文を立証

ゆえに、日蓮大聖人がもしこの末法にお出ましにならなかったら、仏は大嘘つきの人となり、多宝如来や十方分身の諸仏が「法華経は皆真実なり」と証明されたことは、皆偽りの証明だったことになります。仏が御入滅されてより二千二百三十余年が間、仏が残された「如来の現在すら猶怨嫉多し。
況んや滅度の後をや」の経文を真実であることを証明して、仏の御言を助けた人は「日蓮一人である」というのは事実なのです。
ところで、そもそも、他の日蓮門下に、「出世の本懐」という概念がありません。ある必要がないのです。
なぜなら、彼らにとって宗祖日蓮大聖人とは、お釈迦様のお使いとして、法華経を縮めた妙法蓮華経に南無の二字をくっつけた、いわゆるお題目を法華経全体の代わりに唱えさせることを目的として、世にお出ましになった。
つまり、お題目は法華経という経典の代わりだし、この題目さえ唱えれば、本尊は何でも良いのです。だから、お釈迦様あり、鬼子母神あり、帝釈天あり、好き勝手し放題なのです。
これが、本尊雑乱を招いているのです。

非滅現滅・非生現生下種の本尊出現

大聖人は『上野殿御返事』(一三六一頁)に、 「三世の諸仏の成道は、子丑のをはりとらのきざみの成道なり」 と述べられ、三世の諸仏はかならず丑寅の刻限に成道を遂げられる例を挙げられ、御自身もそうであったことを門下にお示しになるのです。
それが、『開目抄』(五六三頁)の、 「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたる」 の御文です。
この御文を見て、当時の人々の死生観を研究している人達は感慨一入のものがあるといいます。
なぜなら、人の死というものは、精神のたましいの魂と、肉体のたましいの魄というものがバラバラになった状態のことをいい、それが共に北のいわゆる子の方角――戌亥の陽の尽きた純陰の状態から一陽の萌す、つまり一陽来復という新しい生命の誕生・蘇生・更新を表わす方角へ向かったという事であり、しかも水の中に浮かぶ佐渡ヶ島に行くということは、胎児が羊水中に浮かんでいる光景を想像させます。
ですから、龍ノ口の頸の座というのは、「頸はねられぬ」との死を表わす出来事であり、これと生を表わす佐渡配流との一連の流れが、一つの法難として受け止めるべき事と、古来より教示されてきたのです。 この死は「非滅の滅」です。
そして、魂魄が一つになった生は「非生の生」です。
こうして、久遠元初の自受用身という本仏が出現されたのです。これが下種の御本尊です。
でも、どうしてこのように下種の御本尊である「久遠元初の自受用報身如来」と顕われる事が出来たのでしょう。
そのことを日寛上人は『当流行事抄』(六巻抄一八〇頁)に、 「本因妙抄に云はく『釈尊久遠名字即の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移すなり』と云々。血脈抄に云はく『今の修行は久遠名字の振る舞いに介爾計りも相違なし』と云々。行位全く同じきなり」 と、日蓮大聖人は、単なる法華経の崇拝者や殉教者では無い、ということがはっきりと御指南されています。
久遠元初の時の本仏が修行あそばされたその修行を、久遠の仏様と同じ名字即の、凡夫僧のお姿で御修行されたので、同じように久遠元初の自受用報身如来となることが出来たと御教示されているのです。

大聖人は本因妙の行者

それではその修行とは何かと言うと、これは『当体義抄文段』(文段集六三四頁)に、
「問う、釈尊は久遠五百塵点劫の当初、如なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。答う、是れ種家の本因妙に由るなり」 と御教示になっています。
つまり、「行位全同」ですから、大聖人様も本因妙の御修行をされたということです。
というと、そんなことは知っている。当たり前の事をもったいぶって言うんじゃ無い、などという声が聞こえてきそうです。
じゃあ、どういうのを本因妙と言うんでしょう?と尋ねると、誰も答えてくれないんです。不思議ですね。だって、日蓮大聖人様は「本因妙の教主」ですよ。
しかも、「一天四海本因妙広宣流布」を、四座で皆御祈念しているではありませんか? 日寛上人はこの本因妙のことを『撰時抄文段』(文段集三四一頁)に、
「本因妙の文に云わく『我本行菩薩道、所成寿命』と云々。「我」とは釈迦如来なり、「本」とは五百塵点劫の当初、凡夫の御時なり。「行」とは即ち本時の行妙なり。「菩薩」とは是れ因人、復位妙を顕わすなり。慧命は即ち本時の智妙なり。智には必ず境有り。即ち是れ境妙なり。六重本迹の第二の理本、之を思い合わすべし」 と御教示になっています。
すなわち、境妙・智妙・行妙・位妙の四つを束ねて本因妙というのです。

大聖人の修行の時の本尊とは

この中で特に問題なのが、「六重本迹の第二の理本」ということです。
これが、大聖人が御修行の時境妙本尊とされたものなのです。
六重本迹とは、第一に理事本迹と言って、大聖人の一念が妙法蓮華経である、というのを「理本」と言います。
それに対して、法界の十界三千の諸法を「事迹」と言います。これが、それぞれ別のものと思われていた時を「理即の凡夫」と言います。
そして、次が六重本迹の第二となるのですが、先ほどの理本と事迹が一体となったものが、また「理本」といいます。これが何度も言うように、大聖人が御修行の時に境妙本尊とされたものなのです。この理本、境妙本尊なるがゆえに、「理境」と言います。
すなわち、あの『当体義抄』(御書六九五頁)で、
「至理は名無し。聖人、理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減なし」
と示された箇所なのです。
一法とは、大聖人の一念の心法です。この一念の心法に十界三千の諸法が具わっているのを覚知されるのです。これが、大聖人が修行の時に対境とされた本尊です。
いつ、この本尊を感得されたのか。それはこの修行が始まる一番前です。日寛上人は四月二十八日の払暁、いわゆる嵩が森に立って、遙か太平洋を望む寸前、まるで行きがけの駄賃のように、このことを覚知された如きに表現されていますが、これは何もかもあからさまに話して、法門への軽侮の念を起こさせないよう、細心の注意を払われたご教導なのです。
これこそは、我が宗門にのみ伝わる『御本尊七箇之相承』(平成校定日蓮大聖人御書第三巻二〇九五頁)の内の「明星直見の本尊の事」でしょう。
すなわち、 「明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代凡夫幼稚の為に何物を以て本尊と為すべしと虚空蔵菩薩に御祈請ありし時、古僧示して言く、汝等が身を以て本尊と為す可し。明星ヶ池を見給へとの給ふ。即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影今の大曼荼羅なり」
この御文に、 「本尊とは、法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝御書一七七三頁)の深義が明かされていると同時に、大聖人が本因妙の 境妙本尊を感得あそばされた時の事が記されているのを見過ごしてはなりません。
これ、前代未聞なればこそ、一ヶ月間の煩悶があったのではないでしょうか。その外には考えられません。
この意味は、妙法蓮華経という大聖人の一身一念に十界三千の諸法を具した姿を感得されたのです。
だから、まだ境智冥合されていませんので、今私達が拝見するような、南無妙法蓮華経の回りに十界の衆生が縦横に描かれている姿ではなかったのです。
南無の二字が欠けた妙法蓮華経の五字に十界の衆生が収斂された形であったろうと思います。
大聖人がこの法を師と為して修行あそばされたところ、ついにあの龍ノ口で境智冥合して真身の成道を遂げ、久遠元初の自受用報身如来となられたのです。
これが南無妙法蓮華経の、現在の御本尊様のお姿です。

本因妙の修行とはどんな形?

本因妙の御修行とは、つまりはかつての不軽菩薩のように、だれかれと人を選ばず、謗法を破折して、「妙法を信受すべし。さすれば必ず一生のうちに成仏の境界に至るべし」と折伏されたのが、いわゆる大聖人の己心に集約された法界の衆生すべてを礼拝される、本地の御自行だったのです。だから「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」なのです。
このことを『御義口伝』(御書一七八一頁)に、 「第二十 我本行菩薩道の文礼拝住所の事 御義口伝に云はく、我とは本因妙の時を指すなり。
本行菩薩道の文は不軽菩薩なり。
これを礼拝の住所と指すなり」 と御指南されているのです。
さて、この本地の御自行によって久遠元初の自受用報身如来となられたわけですが、これと御本尊御図顕とは、どういう関係があるのでしょうか。

発迹顕本と御本尊御図顕

この事については、日寛上人が分かり易いように御教示されています。その一文を示します。
それは『観心本尊抄文段』(文段集二〇三頁)です。
「応に知るべし、この久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種の本尊と顕われたもうと雖も、雖近不見にして自受用身即一念三千を識らず、故に本尊に迷うなり。本尊に迷う故に亦我が色心に迷う故に生死を離れず。故に仏は大慈悲を起こし、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」
私達は、末法の善根を持たない荒凡夫ですから、下種の本尊が出現されても内証が見えないのです。
ですから、大聖人は大慈大悲を奮い起こされて自受用身即一念三千のお姿を一幅の本尊に図顕して、末代幼稚の私達に授与下されたのです。首に掛けて下さったのです。
この御本尊でなければ私達には見えないのです。
しかも、「故に我等但此の御本尊を信受し、余事を雑えず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その義を識らずというと雖も、自然に自受用身即一念三千の本尊を知るに当たる。ゆえに、本尊を知るに当たるゆえに、亦我が色心の全体、事の一念三千の本尊なりと知るに当たれり」と、
赤子が母乳の成分を知らなくても、口に含めば自然とその身を養うことが出来るように、必ずや仏界を開いていく事が出来るようになるのです。
ここで人々は、日蓮大聖人が確かに龍ノ口の御法難の後、妙法の曼荼羅をお顕わしになっているけれど、なぜ色々な形があるのか、どうして大石寺にある戒壇の大御本尊だけを「出世の本懐」というのか、疑問を抱かれるのでは無いでしょうか?

御本尊様の変化の理由

それは写真版の「御本尊集」を見れば、ある事に気づくのですが、御本尊は『見宝塔品第十一』から順に『提婆達多品第十二』『勧持品第十三』『安楽行品第十四』『従地涌出品第十五』『如来寿量品第十六』と経文に描かれている虚空会の儀式の変遷をたどって書かれているのです。
「御書年表」にも書かれている「文永八年十月九日付」相模依智の本間邸で図顕された本尊①は、南無妙法蓮華経と日蓮の署名だけの、まさに宝塔涌現を顕わされたものです。

次の「文永九年二月十六日付、佐渡の国に於いて図す」と書かれた本尊②には、左には「南無釈迦牟尼佛、右には南無多宝如来」と書かれていますから、次の段階の「宝塔の中に二仏が並座された」お姿でしょうか。こうして、どんどん進んでいって、釈子日目に授与された本尊には「提婆達多」の名前が突如として記されていますから、これは「提婆達多品」でしょう。
そして上行菩薩等の四菩薩が書かれるのは「従地涌出品第十五」、そしてついに寿量品にたどり着きますが、この時文上・文底を顕わす御工夫が示されているのを読み取ることができます。

文上から文底へその変化の見分け方

それは「南無十方分身諸仏と南無東方善徳如来」の名が残っている時③は文上、このお名前が忽然と消えた時が文底に入った事を顕わしているのです。
このことを日寛上人は『当流行事抄』(六巻抄一八三頁)に、 「問う、およそ寿量品の意は唯釈尊一仏とやせん、別に余仏有りとやせん。もし唯一仏と言わば、玄文の第七に正しく東方の善徳仏及び神力品の十方諸仏をもってすなわち余仏と為す。もし余仏有りと云わばなんぞ『毘盧遮那の一本』等と云うや。 答う、若し文上の意は久遠本果を以て本地と為す、故に余仏有り。何となれば本果は実に是れ垂迹なり。故に本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枚一葉なり。故に本果の釈尊の外更に余仏あるなり。若し文底の意は久遠元初をもって本地と為す、故に唯一仏のみにして余仏無し。何となれば本地自受用身は天の一月の如く樹の一根の如し」 と、
寿量品文上の久遠実成の釈尊は、今日の釈尊と同様、先に権教方便の教えを説いて後に法華経を説くが故に、垂迹の仏となり、天台大師が指摘したように釈尊以外に余仏を認めないわけには参りません。 ゆえに文上を顕わす時、釈尊以外に東方善徳如来と十方分身諸仏とを書く事に定まっているのです。 こうして、あたかも雪降りの時などに、相方を見失ってしまった時には、その人の残した足跡をたどれば必ず本人を探したどりつくように、虚空会の儀式を順にたどって、ついには寿量文底の、久遠元初の本地自受用身にたどりつくように、迹を借りて本をお顕わしになったのです。

一閻浮提第一の本尊この国に立つべし

そして、その究竟の御本尊を御図顕になったのが、神四郎・弥五郎・弥六郎等の貧しい農民達が、大聖人の大仏法に巡り会った喜びに、いかなる困難が降りかかってきても、決してこの信心から離れまじと、不自惜身命の振る舞いを示した時、大聖人は「我が法ここに成就せり」とお感じになって、ついに大御本尊という、仏の教えのすべてがここを指し示している、仏法の最大肝要をお示しになられたのです。 私達はこの根本の御本尊を何時如何なる時も忘れず、悩乱して頭七分に割れてしまった人等を救って参りましょう。
以上

〈参考資料〉 御本尊集(発行所 立正安国会)

〈参照文〉 『寿量品演説抄』(一五八頁) 「迹とは足跡と読むなり。若し、本地第一番の事を尋ね知らんと欲せば迹中示現利益の相を漸々と尋ね行けば即ち本地の事を知るなり。譬えば、雪降りに其の後を尋ねて行けば必ず其の人に尋ね逢うが如しと云う意なり」

 

 

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