朝のテレビで、ある気象予報士が初日の出の写真を見せながら、雲の切れ目から差し込む太陽光線のことを何と言うか、というクイズをやっていました。
 それは光芒が正解、というものでした。
 アメリカやヨーロッパなどでは、「天国への階段」などともいうそうです。
 私たちの御本尊様にも、この光芒が表されていまして、それはどれかというと、お題目の文字のはしの方が、ずーっと長く引き伸ばされていますね。あれがそうです。これを御書の『日女御前御返事』の中には、
 「妙法五字の光明に照らされて本有の尊形となる。これを本尊とは申すなり」(御書一三八八ページ)とおおせになっているのです。
 よく、邪宗教の方では「ヒゲ文字」といって、何だかその意味もわからずに、ただ大聖人の文字のクセだと思い込んでいるようなのですが、
 「諸宗は皆本尊に迷えり」(法華本門開目抄五五四ページ)として、私ども一人一人の即身成仏のために顕された御本尊に、たとえ一字一点たりとも、意味のない、無駄なものはございません。
 日蓮正宗では古来よりこのことを「光明点」と言うことを、習い伝えてまいりました。
 あの太陽光線がススキの穂先の様に地上にさしこむのは、多くは雨上がりの、雲の切れ間ができて、天気が回復しかかった時に見られるものですから、当然、植物の葉などもまだ乾ききっておらず、その濡れた葉っぱのところに太陽の光が当たって、キラキラとかがやいているのを見ることができるのであります。
 その様子を表現されたのが、あの御本尊様のおすがたなのです。だから、すべてのものが金色の文字で書かれているのです。
 よくみんなが見えるようにと、黒色の漆に金色の文字を書かれたのではありません。
 あの南無妙法蓮華経の両脇にある色々な仏様や菩薩などのことを、他宗では十界勧請といっていますが、これは、インドのお釈迦様の説法を聞いておられた人々や、お経文の中の有名な方々に集まっていただいたものではありません。
 あれは私たちのことなのです。
 この地球上のどんな人であれ、皆、御本仏の体より発する光を浴びて、金色さんぜんとかがやいている姿が表されているのです。
 これを『船守弥三郎殿許御書』には、
「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ」(御書二六二ページ)と仰せになっているのです。
 でも、このことを信じない、あるいは知らない人たちは、「せっかくの宝の持ち腐れ」で、地獄・餓鬼・畜生・修羅闘諍のちまたを、これからもほっつき歩き回らなければならないのです。
 私たちは、大聖人の正系門家である日蓮正宗に籍を置かせていただいて、御法主上人の御指南に基づいて御書を拝し題目の修行をさせていただいていますから、頭では理解できなくても、おのずと信心で体得させていただけるのです。
 たとえば、方便品の如是相というのも、私たちは色んな顔かたちや姿、それに身体に障害を持つ人など世の中にはさまざまな方がおられますが、これを『御講聞書』(御書一八二六ページ)には、
 「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る男女貴賎等の色心、本有の妙境妙智なり。父母果縛の肉身の外に、別に三十二相八十種好の相好これ無し。即身成仏とは是なり」
と申されているのです。
 日ごろ、いやしい、なさけない、もう少し良かったらと思っている私たちの姿かたちのほかに、真実の仏の相好は無いんだよ、と言われているのです。
 私たちは、恥ずかしくも、自分の今の姿かたちを、過去の宿業のなせるわざとばかり思い込んで、ずいぶん自分自身をさげすんできました。時には、人の姿かたちを見遣り、ひそかに卑しんで溜飲をさげたこともあったでしょう。
 それらは全部、正しい仏法を知らない、あるいは謗法による無知の犯した罪だったのです。
 私たちはこの姿形を卑しむのではなくて、このことのほかに本当の仏の姿は無いと知ることができるのです。逆に、私たちが良く知っている絵に描かれたものや仏像は、人々がこうであって欲しい、こういうものであるに違いないという、頭に思い描いたイメージに沿って出てきた、期待はずれにならないように化けて出てこられた仏の姿だったのです。
 仏様って、お化けじゃないんですから、そんなに人間離れした姿格好であるはずがありません。もし、そんなんだったら、誰も仏様になれるなんて思わないでしょう?
 たとえば『方便品』にも、「無上両足尊」とあって、二足歩行するいわゆる人間のなかにあって、この上無き人、これが仏さまなのです。
 私たちも両親からいただいたこの色心、体と心が妙法蓮華経の当体だと、題目の修行によって深く信解できた方が仏なのです。というより、今一心不乱に御本尊様に勤行・唱題出来ているあなた方がその妙法蓮華の正体だというのが、仏様の御説法なのです。
 私たちが使っている業とは、過去の五逆罪(父殺し・母殺し・阿羅漢という立派な僧侶に対する謗法と殺人・清浄なる正法の組織の破壊と攻撃・そして仏の身より血を出すという最悪の仏への暴力)あるいは十悪業道、それに四重悪といって殺生・偸盗・邪淫・妄語等よりもたらされたという現在の私たちの境界・境遇のことです。
 これが私たちの振る舞いなどを制約しているわけですから、「この業道すなわち結縛の法なり。たとえば籠に入れる鳥のごとし」(始聞仏乗義・御書一二〇八ページ)というように私たちをがんじがらめにして、なんと情けないと、常に私たちを悲嘆にくれさせていたわけです。
 ところが、過去の重罪を深く懺悔して唱題をもって御本尊に向かう人は、この業の十界の全体の姿が、諸法実相の一仏の境界へと転ぜられていくのです。
 それが、是相如(この相、如なり)、如とは空の義といって、実体が無い、ものごとが集まって一つの物を形作っているのであって、本体と称すべきものが無いことを言っているのです。
 私たちだって多くの細胞が寄り集まって出来ていますし、また幼児期・少年・青年・壮年・老年期とすごして、死後に火葬してしまえば、カルシウムの骨しか残らないわけでしょう?また、進化論でいえば、太古の昔から人類がこのような格好でいたわけでなく、みんな環境に順応したり、あるいは重力などなど、さまざまな原因で今日のような姿に落ち着いているのですが、未来の人類は、固いものを食べなかったり、機械に依存することが非常に多くなったりで、頭でっかちの宇宙人のようになるとの予想がされています。
 しかし、そうは言っても、「我思うゆえに我あり」で、他とはあきらかに違う、自分というものが、生まれてから今日にいたるまで、背たけや見かけが少々変化してもここにあるわけで、これを如是相(かくのごとき相)といって、仮に今みとめうる姿ということで、これを仮諦という一つの真理といっているのです。
 ところがここに問題が出てきます。私たちのこの姿かたちというものは、先にあげた真理として本当は実体は無いものなのか、あるいは現実として存在するもののどっちなのかということです。
 そこに、相如是という、私たちの相は、本体の無いものであると同時に、実際に私たちというものがここに認めうるもの。これを少々ややこしいのですが、あるものでなければ、無いものでもない。しかも、あるものであって、無いものでもあるというので、これを中道というのです。
 すなわち、私たちの個々のすがたは、中道一実の妙体(一生成仏抄・御書四七ページ)なのです。妙体とは、実は語略といって、言葉が省略されているのです。正式には妙法蓮華の正体というのが正しいのです。だから、もう一度言い直すと、私たちのそれぞれの姿は、中道一実の妙法蓮華の正体の姿だということになるのです。
 だから、私たちは宿業すなわち私たちの身体や心をしばり、がんじがらめにする結縛の法から脱却して解き放たれる、つまり解脱することができるのです。
 ゆえに、私たちの姿かたちは、仏様が民衆を救うために、相手に応じて変化しあらわされたお姿同様の、地涌の菩薩が誓願の元に出現された応身如来へと開かれるのです。
 如是性という部分もそうです。性とは私たちの心性、真実の心の姿ということですが、以前の方便の経典の中では、ただ煩悩がコンコンとわきいずる迷いの源泉のようばかり言われてきましたが、仏様が「所詮、妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり」(当体義抄・御書六九四ページ)と御指南されたことを信の一字でお受けし、御本尊で顕さんとなされたのは、我々の色心、この心と体の全体なのだと信解させていただくのです。
 これこそ、以信代慧、最高の智慧般若ではありませんか。
 ゆえに、煩悩の心が三大秘法の信心によって般若という智慧に開かれていくので、ですから「煩悩即般若なり」(始聞仏乗義・御書一二〇八ページ)と仰せになられているのです。
 この「我らが色心二法、妙法蓮華経なり」と悟る智慧を報身如来と申し上げるのです。
 最後は、私たちの身体・如是体は、生老病死の四苦をはじめ、あらゆる苦しみがここから生まれます。
 だから、身体は、苦しみで出来上がっているなどと形容され、そういった六道に二度と生まれてこないためにはいかなる修行をすべきかが、長い間論じられてきたのです。
 日寛上人は『三重秘伝抄』の中に、「衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり。五陰仮に和合するを衆生と名づくるなり」と申され、この中に九界の衆生に約せば、陰は善法を陰蓋(おおい隠す)ゆえに陰といい、また陰は積聚(つもり集まる)の意味で、九界の衆生は生死等の苦しみが積もりつもって集まっているゆえに、陰というと。
 それに対して、仏界に約せば、常楽我浄という四つの仏の生命が重沓(重なりあっている事)し、慈悲覆蓋(慈悲の心が常にその心をおおい包んでいる)がゆえに、仏をも五陰仮和合の衆生というとされているのです。
 つまり、私たちも三大秘法の御本尊を受持し唱題をすることによって、「妙法蓮華の当体とは、日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり」と仰せくだされた一分に、私たちも入らせていただけるのです。
 そうすると、今まで正しい仏法を見失って、生老病死などのさまざまな苦しみが、次々と現れていたこの身体が、ただちに常楽我浄の四徳波羅蜜の命につつまれ、ありとあらゆる真理・真如の集まりたる仏の本体へとよみがえっていくのです。
 大聖人は『十如是事』という御書の中でこのことを、
 「如是体とは我がこの身体なり。これを法身如来とも、また中道とも、法性とも、寂滅とも云ふなり」(御書一〇四ページ)と申され、あらゆる苦しみの源と思われていた我々の身体を、仏の命と一切の悟り開かれた教えが重なりあって形造っている法身如来であるとお示しになっているのです。
 ですから、我々御法主上人の御指南のままに御本尊を受持して広宣流布に邁進する法華講員は、煩悩は即般若の報身如来、業は即解脱の応身如来、苦は即法身の法身如来という、つくろわず、はたらかさず、そのままにこれらを一身に具える無作三身の大境界をかならず成就することができるのであります。
 これが、御本尊様に表されているのです。このような会いがたき大仏法なのです。
 大聖人は『妙密上人御消息』という御書のなかで、
「題目を唱ふるならば、存外に功徳身にあつまらせ給ふべし。その功徳は大海の露をあつめ、須弥山の微塵を積むがごとし乃至金はやけばいよいよ色まさり、剣はとげばいよいよ利くなる。法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる。二十八品は正しき事はわずかなり。讃むる言こそ多く候へと思し食すべし」(御書九六九ページ)と仰せになっています。
 つまり、法華経には仏の悟られた真理についてふれられた部分というものは、わずかしかない。もちろん、これがすべての仏教の根幹・中心をなすわけですが、それが占めているのは、法華経一部八巻二十八品、六万九千三百八十四文字の中にわずかであり、あとの九十なんパーセントというものは、この部分をほめる言葉で埋めつくされているのです。
 悪口をいう人は、「自画自賛もはなはだしい。法華経は法華経自体をほめる言葉ばっかりじゃないか」ということを、よく書いたりしているのです。
 一番重要なところは、寿量品の文の底に秘し沈めて、未来に御出現になる御本仏・日蓮大聖人が拾い出されて三大秘法として建立し、末代の我らにお弘めくださるのですから、それはわずかともいえるでしょう。
 ところが、この最重要な仏法を信じて功徳福運を受ける方法は、これひとえにほむることにあるのです。
 「讃むるものは福を安明に積み、そしる者は罪を無間にひらく」(撰時抄・御書八七〇ページ)とは伝教大師の言葉であるが、この三大秘法の御本尊を、あるいは題目をほめたたえるものは、福を安明に積むことができる。
 安明とは古代インドで考えられていた、世界の中心にそびえているという最も高い須弥山のことです。
 最も高い山ならば、どれだけ多くの土によって成り立っているでしょう。そのように、福をうずたかく積むことができるのです。
 それは、勤行をし、唱題を重ね、人に向かっては、その功徳を、お力を語っていくことです。折伏がそうです。折伏は、知識をひけらかすことではありません。御本尊の功徳をたたえていくことなのです。このことで、人を救い、我がためにも福運を積むことができるのです。
 その反対に、御本尊や題目をそしる人は、かならず地獄の現象があらわれるのです。いわゆる、罪を無間地獄にひらく、ということです。
 このほむるという仏道修行は、勤行唱題と折伏ばかりではありません。先ほどらい申し上げた、御本尊を受持せる人は妙法蓮華の当体、無作三身如来ですから、この同士をたたえ、励ましあっていくのも、また功徳福運を積ませていただくことになるのです。
 どうか、皆様には、温かなはげましの言葉をもって、いつも、相手が発奮されるような言葉を交わされるよう念じて、今日の法話とさせていただきます。                

 以上