総本山の第九世日有上人の「聞き書き」に、次のような御文があります。
「当門徒の御勤めの事一大事なり。何にもしつかに然るべきなり。高下あるべからず。ゆるべからず。何にもすぐに、終わり強に読むべきなり。
 日時上人は御勤めの座ごとに御せっかんを召され候べしなり。
 勤めの時、目つかいにより、貌の持ち様、手の持ち様、ひざのくみ様にても、その人の余念を顕すと御沙汰候。いわんや、よそ見これあるべからず。
余事余念無くして唱えるところの題目を、事行の妙法蓮華経と申し、即身成仏の当体と仰せられ給い候」(歴代法主全集一巻三三四頁)
と。
 これを承けて日享上人は、
「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。
口より出す声は早口であったり、粘口であったりしてはならぬ。落ち着いて、確固と、尻強に、中音に唱えねばならぬ。
唱うる数には定まりがない。多くとも、少なくとも、その人の都合であるが、身体の方は、両の指掌を合わせて、指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向かうように、そして身体中が歓喜で、踊躍するようにありたい。
御本尊と我らと、一体不二になるまで励まねばならぬ」(日蓮正宗綱要一三四頁)
 このいずれの御文を拝しても、勤行・唱題の時の姿勢、あるいは声の発声の仕方がいかに大切であるか、わかります。
何よりも、冒頭の「当門徒の御勤めの事一大事なり」の一節が、強烈な印象をもって迫ってまいります。
要は、張りのある声が出ているか、ということだと思います。題目を唱えながら、念仏の哀音のような、弱々しい声になっていないか。そうだと、一緒に唱えていたり、近くにいても、何となく気が滅入ってきます。生命力が旺盛になるどころではありません。
 なんと言っているかわからない、早すぎるお経やお題目になっていないか。適度なリズムがあるか。声が妙に高すぎたり、あるいは低すぎるのも問題である。
 題目は、尻強、つまり南無妙法蓮華経の後ろの方が尻つぼみになるのではなく、右肩あがりのように強く唱えるのがよい。
 粘口がいけないと言われるのですから、タンタンタンと切るように、軽やかに唱えるようにする。
日時上人は御勤めの座ごとに、御せっかんを召されたという。私たちの時代の「せっかん」と言えば、言うことを聞かない子に体で教えるために、おしりを叩いたり、灸をすえたり、片手の食指と中指を揃えて相手の手首を打つ、いわゆるしっぺなどを指します。
 また、厳しく指導することを「せっかんする」と言いますから、勤行ごとに、間違いを直し、正しい方式を忘れないように、厳しい指導があったものと思われます。
 いわゆる、勤行あるいは唱題の時、目はどうしているか。うつむいてないか、御本尊以外の何かに目がいってないか、あるいは顔はどうか。顔をあげて、御本尊の方をちゃんと見ているか。手はちゃんと数珠をかけて、胸の上にしっかりと置いて、指先が鼻の下に向くように、意識しておこなっているか。
 膝は、ちゃんと合わせて座っているか。だらしなく開いたりしていないか。御本尊と正対しているかどうか。
これで、心がしっかり御本尊の方に向いているかどうか、あるいは他のことを考えながら題目を唱えているかどうか窺い知ることができる、と言われるのです。
 これらわずかのことですらそうなのですから、いわんやよそ見などはもってのほかです。
 このように、他のことに心を奪われたりすることなく、雑念を払って、ひとえに御本尊を拝して一心不乱に唱える題目を、事行の南無妙法蓮華経といい、その人は即身成仏の境界をただちに成就して、自身を妙法蓮華の当体であると、悟り顕すことができるようになれるのです。
 唱題はぜひぜひ、歓喜で体中が踊躍、踊るように心が躍動し、悦びにうちふるえてゾクゾクするようにありたいですね。御本尊様という大聖人のお心と、私たちの心とが一体となれるまで励んでまいりましょう。
 ところで、この唱題の時の、私たちの姿勢に対する厳格な指導を拝見する時、どうしてここまでされるのだろう、という思いがわき上がって来るのを禁じ得ません。何か、特別な意味があって、大切なことを伝えようとされているのに違い有りません。
 私はそれを、二つの御書の具体化が、あの合掌の形であろうと推測します。御法門の具象化が合掌の形だから、このように厳重なのだろうと思います。
 その一つは『日女御前御返事』(一三八八頁)です。
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我ら衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界も欠けず一界にあるなり。之に依って曼陀羅とは申すなり。曼陀羅と云ふは天竺の名なり。此には輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり。」
との御文がそうです。
 この御書をストレートに拝するならば、私たちの御本尊というものは、御本仏・日蓮大聖人の御当体として、尊く有り難いとただ拝むだけでなく、このような輝くばかりの命が必ず私たちのこの胸深く存する、ということを信ずることが大切なのだ、とおっしゃっているのだということです。
都とは都会ということです。都会とは只にぎわっている場所のことではなく、「都てが会する所」、という意味です。都てが会する所とは、私たちの心の奥底の、九識の阿摩羅識という所に、一切の真如・十界三千の諸法のすべてが凝縮して集まっている。収斂されている。あたかも目の前の御本尊様のようなお姿をして存している。これが仏界なのです。
よくお聞きする十界具足という言葉は、十界の中の一界も欠けることなく、十界の中のどの一界にも具わっていることを言います。これで、曼陀羅とお呼びするのです。
 なぜなら、曼陀羅とは天竺・古代インドの言葉で、翻訳すれば、まーるい十五夜お月様のように、欠けることなくすべてが具わっている、という意味であり、また功徳聚と言って、一切の功徳が聚集して、つまり、集まっているものと訳するからです。
 このことを言葉だけで理解するのではなく、この曼陀羅が私たち、御本尊を受持信行するものの、この胸中の肉のかたまりのその奥に存在することを意識させ、実際に信解させるために、この曼陀羅の意味を具えた数珠を指に掛け、胸の上に置くのです。
 曼陀羅とは何だったでしょうか?そう、輪円具足と功徳聚でしたね。
 真ん丸お月様みたいな形のものはありませんか?数珠のたまは、ほとんどが真ん丸ではありませんか。これ、輪円具足ということの表示でしょう?
それからもう一つ、功徳が集まっていることを表しているような、数珠の珠はありませんか?えっ?そんなのは無いけど、「功徳を納むる壺」という珠ならある?
 それこそ、功徳聚という意味を形にして示している物ではありませんか。
大抵の人は、自分が題目を唱えて、その功徳が溜まる壺だと思い込んでいます。
 ところがこの壺には、すでに功徳が納まっているのです。大聖人という、本因妙の教主釈尊が修行遊ばされた、広大な修行の功徳、万行万善諸波羅蜜の一切の功徳とも言い、この一行に一切の行の功徳を具えているものと言うも同じ事で、これ以上すぐれたものは存在しないと、釈尊が太鼓判を押された功徳が全部聚っているもの……、つまりこれも、我が前の曼陀羅の表示ではありませんか。
 それが、必ず我が胸中の肉団におわします。だから、胸の上に置いて、むやみに動かすな。だらーと、居眠り状態寸前で、だらしなく手を下げてはいけません。興奮状態なのか、あるいは一生懸命唱えていることを人に見せようとしているのか、合掌した手を口元まで上げすぎてはいけません。ちゃんと胸につけて、離さないように。なんと申しましても、この曼陀羅、我らが胸中の肉団におわします、という御法門を形に示す、いわゆる御本仏がお示しくだされた化儀、修行の作法なのだから……。
 次の御書は『一生成仏抄』(四十六頁)です。その御文を挙げます。
 「譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」
この御文を解釈するとき、一様に、「お題目を唱えることは、私たちの心を磨くことだ」とおっしゃいます。
ところが日寛上人は、「それは表面だけの解釈で、実は、仏様のお心も、私たちの心も同じ鏡なのだ。只その違いは、磨かれているか磨かれていないかの相違にすぎない。
もし、磨けば、もともと鏡なのだから、本来の機能を取り戻して、宝玉のような光を放ち、しかも我が前の御本尊の相貌、つまり御本仏の一念に十界三千の諸法を具えている姿を写しだして、妙法の当体として尊厳に満ちた境界となることができると仰せなのだ。その磨く作業こそ、信の一字という磨き粉をまぶし、口に南無妙法蓮華経と唱えることをもって磨くと言うのである。だから、日夜朝暮に怠りなく南無妙法蓮華経と唱えて磨いていくことが肝要なのです」と、御指南されているのです。
ですから、
 「唯所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく。ゆえにこの経を諸仏の智慧と云ふなり。一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、この一念の心法界に遍満するを指して万法とは云ふなり。この理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし。ただし妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、もし己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」
とも、
 「妙法と唱え蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く深く信心を発こすべきなり」
とも、
 「もし心の外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分も無きがごとし」
とおっしゃっているのです。
 なかなか慎重な人は、私たちの心も仏様のお心も、本来同じ鏡と言うところを、どうしても納得できないでいます。そういう人がいます。
 もしそうだったなら、その直前の御文、「また衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ふも穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我らが心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦かくの如し。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏となづけたり」は、全く無駄な文章になってしまいます。
 この中に「こころけがれたる人」とは、「御本尊を信ぜざる人」のことであり、この人たちはこの世界を仏の常寂光土であることが、どうしても見えないのです。御本尊を信じて題目を唱える人は、この娑婆世界をただちに寂光土と感見することができるのです。
 つまり、浄土という仏の荘厳された世界と見ることも、穢土といううす汚ない、地獄・餓鬼・畜生・修羅などの世界と見ることも、ひとえにその人の善悪の心にかかっているのです。
また、迷いの凡夫という衆生も、悟りの仏様も決して別に存在するのではない。御本尊の信行によって、我ら一人ひとりが妙法の当体と信解させていただく時が仏であり、この仏の御化導に迷う時を、迷いの渦中の衆生という、とこのように仰せなのです。
 その明瞭の状態を取り戻した、いわゆる明鏡に十界三千の諸法を映し出した姿こそ、御本仏と内証等しき無作三身という境界を開かせていただけるのです。
このことを実際の形に示して、常に自覚を促せられるのが御本仏の御化導、つまり化儀なのです。
それで、御本尊のさまざまな意義を数珠という法具の上に表現し、南無という形の合掌した指にからませて、胸の上に置くのです。
 だから、とっても大切な所作なのです。
一生懸命信心のこころざしをもって磨いたわが心という鏡、ここに大聖人と等しき十界三千の諸法を今鮮やかに映し出して、私たち一人ひとりが妙法の当体として、御本仏のみこころに叶って、かならずや一生成仏の素懐を遂げさせていただけるんですよ。
なんと尊いことではありませんか。
 ちなみに、私たちにとって映し出される十界三千の森羅万法とは、ほかでもありません。我が前の御本尊様です。これがあざやかに映し出されているのです。
 だから、「お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。乃至身体の方は両の指掌を合わせて、指先が鼻の下に向くように、眼は確かに御本尊に向かうように、そして身体中が歓喜で、踊躍するようにありたい。御本尊と我らと、一体不二になるまで励まねばならぬ」とおおせなのです。
 大聖人さまが、出世の御本懐を遂げられた大事な十月、心を新たにして、また御本尊様に向かって真剣に題目を唱えてまいりましょう。            

以上