今日は、わたしの話をする前に、私が尊敬する僧侶の内のお一人、岐阜・久成寺の御住職であられる小林京道御尊師の法話を紹介します。
 師は、お医者さんの父のもとに生を受けられましたが、発心して僧侶になられました。
 師のお話やお書きになったものを見ると、本当に深い仏法理解の境界が拝されます。
 師は、まだこの問題が起こる前から、北海道の富良野という――あの『北の国から』のロケ地で有名になった所ですが――、そこの妙峰寺というところでご夫婦ともども頑張って法華講を結成されるなど、早くから折伏弘教に挺身されてきた方です。
 では、師のお話しを紹介します。
「さて、『折伏行は、大聖人様がもっとも賞される振る舞いである』ことを、今日は申し上げ、開会挨拶に代えたいと思います。
 以前『大白法』に掲載されていた話ですが、ある会社を経営していた人が、借金をかかえ、これから会社をどうやっていったならばいいかと苦悶するなか、折伏を通してこの問題を解決していこうと、一念発起した方の体験が掲載されておりました。
 それによると、ひたすら折伏に精励することによって、次第に会社の業績も良くなり、やがて会社の借金を全額返済し、いまでは黒字の会社経営になった、と結ばれていました。
 このような話は、皆様にとっては何も珍しい話ではなく、すでにそれに類した体験発表は、過去に何回も聞かれたことがあるでしょう。
 ところで私共は、いつも御本尊様々々々々、とお題目を唱えますが、その御本尊様の御徳として主師親の三徳が具わっており、とりわけ、この世のなかの主としての御徳をお持ちであることに気づかなければなりません。
 では、主の御徳とは何でありましょう。それは申すまでもなく、この世の始まり(久遠元初)より、すべてのものは大聖人様のもの(今この三界は皆我が有なり)であり、大聖人様の火に暖まり、大聖人様の水を飲み、大聖人様の五穀で身をやしない、居る家も、国も、着る衣類も、皆大聖人様より給わったものでありますから、大聖人様は私共にとって、深々重々の主君にましますのであります。
 日寛上人は、衆生というのはその旨を受けても、どうしてもそこまで考えが及ばなく、かえって反対に、大聖人様をそまつにする行いをするが故に、
 『主君を知らざるが故に貧窮と云い』(御書文段二五六ページ)
と、いつまでたっても貧しさより逃れることができない、と御指南あそばされております。
 さらに、日寛上人は『主』としての御境界を、
 『主君の故に明らかに賞罰を行い給ふなり』(歴代法主全書六巻五六四ページ)
との、権能がましますことを示されております。
 その説明として、『説苑』(君道・臣術・建本・立節・貴徳・復恩など二十編に分け、序説の後に逸話を列挙した訓戒的説話集。漢の劉向撰。平安時代我が国に将来。古今の有名な人の逸話をしるした書。)という本の、
 『功ある人が出たならば、それを賞しなければ、人々の善は進まず、過ち有るにそれを誅せざる則んば、悪も懼れず』
との文を引用し、いろいろな難に値いながらも妙法を弘通する者を賞しなければ、つまり、褒めたり、褒美を与えたりしなければ、誰も、人々に妙法を勧めようとはしなくなる……。
 そこで、『福、十号に過ぐ』『福を安明(須彌山を訳した名。八万四千由旬の高さという。一由旬は三十里。)に積む』(これ程までうず高く、福を積める、ということ)との賞号を以て讃えられるのである。
 それとは逆に、日和見主義、あるいは傍観者、あるいは臆病者で、一切謗法を見ても彼らを呵責(間違いを責めること)も、駈遣(のうのうとのさばっているのをその侭にしておかないこと)も、挙処(はっきりと過ちをあげて、糾明し、処断すること)もしない者を罰しなければ、人々は謗法を恐れなくなります。
 そこで、仏は賞罰をもって衆生を導かれ(されば、釈迦仏は賞罰ただしき仏なり)(四条金吾殿御返事・一一七八ページ)、成仏せしめられるが故に、主としての御境界にましますと御指南されております。
 最初にもうしあげた体験は、大聖人様を主として仰ぎ、大聖人様を蔑ろにするものを退治し、折伏し、大聖人様が真実の主(師・親)であることに気づかせる行いは、大聖人様より賞され、現実に、本人にとっても望外のご褒美、功徳を沢山いただいた姿であることを知るべきであります。
 大聖人様より、功徳、ご褒美を給わるということは、それは御書に、
 『法華経にだにもほめられたてまつりなば、なにかたつまじかるべき』(御書七五七頁)
とある通り、もうそこは何も申し上げることはない世界ではないでしょうか。
 このように、大聖人様を主として拝し奉って仕え、折伏しぬく果報は大変大きなものであり、その姿は御法主上人猊下様も必ずお喜びになっていただけるものと確信し、これからもいよいよ折伏に邁進してまいりましょう。」
と、このように激励されていますが、本当に勇気がわいてくるご指導です。
 大聖人さまは『如説修行抄』(御書・六七三ページ)に、
 「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、あに法華経修行の時を失ふべき物怪にあらずや」
 と仰っています。
 権実雑乱とは、何が権教方便の教えなのか、どれが仏様御本意の真実の教えなのか分からなくなってしまっている状態のことです。
 権教とは、仮の教えのことです。法華経以前の教えは、真実の教えを表面では隠して、人々の気持ちや願いに応じて教えを展開されましたが、これを随他意といいます。
 それに対して、仏様の御本意の教えを、自分の意のままに説かれたものを随自意といいます。これが法華経なのです。
 随他意の教え、つまり法華経以前の経は、人々の心を一つに融合させ、法華経をしっかりと受け入れられるように、調えるために説かれたのです。
 あたかも家を建てる時に、足場を築くようなものです。建築中に必要だった足場も、本体の家が出来上がってしまえば、家で生活するのに邪魔になってしまいますので撤去しますが、それが、法華経を説かれるにあたって、これまでの教えは全部法華経にみんなを導くための方便であるから、これを正直に捨てよ、という仏様の御宣言なのです。
 しかし、人はその仏様のご意思を無視して、勝手にさまざまなお経を持ち出して、勝手に広めて、それぞれ得々として、我が宗が第一などとほざいています。
 しかも民衆はこれを分別する能力が無く、しまいには、まさに今日のように、方便の教え、真実の教えが混じりこんで、いずれが正でいずれが邪であるか分からない、いわゆる宗教の正邪不明の状態と成り果ててしまったのです。
 また、お釈迦様が亡くなられて二千年がたつと末法の世になるとは、お釈迦様みずからのお言葉ですが、そこで猛威をふるうのが、劣謂勝見という、劣った教えをもって、法華経という仏様の一番尊い教えより勝れるという、下克上の間違った考え方・見解だと、仏様は言い置かれました。
 まさに、その未来記の通り、すべての人々の成仏が叶う教えとして、「我が滅度の後、まさに受持すべし」と遺言された南無妙法蓮華経の御本尊を見下し、卑しみ、あるいは誹謗して、千人の中に一人も成仏するものはいない、ゆえに、捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと悪口するものなど、枚挙にいとまがありません。
 この者たちは人々の成仏の道をふさぐ、謗法の悪人です。かれらが跋扈するのを見ながら聞きながら、知らんふりをして、われ関せずとて、一人仏間にとじこもって題目をあげ、御本尊と自分という一対一だ、などとのたもうのは、御本尊を信じているようで、御本尊を本当に信じているとは言えません。
これを今の御書には、「山林に閉じこもりて」とおっしゃっているのです。
 御本尊のことを馬鹿にする人を見て、これを何とか間違いに気づかせたいと思わないというのは、まだ御本尊を唯一無二と信じていない証拠です。この御本尊様は、二も無く三も無しの御本尊様です。
 「摂受の修行」というのは、「四安楽行」のことです。
 四安楽行とは、一には身安楽行といって、身を安定させ、誘惑を避け、静寂な所で修行をしよう、ということを指します。
 「身を安定させ」とは、あっちこっち走り回ったり動いたりしない、ということです。
 「誘惑を避け」とは、御講に行こう、広布唱題会に参加しよう、総本山に御登山しよう、座談会だよ、やれ広布推進会だよ、などなど一切耳をかさず、信心とは自分と御本尊だというかたくなな姿勢を改めようとしないことです。
 そして、「静寂な所で修行する」とは、静かな場所で、誰とも交わることもせず、人の体験を聞こうとせず、猊下の広宣流布を実現するためのきめ細やかな御指導、また烈々たる獅子吼もあえて無視をして、自分だけの望みを叶えることを目的とすることをいいます。
 二番目は口安楽行です。この御本尊をほかの人に勧める時、他人を軽蔑せず、その過失をあばかず、穏やかな心で口に述べ説くことです。
 この言葉のなかに、摂受の人は、折伏を行ずる人のやり方を、ほかの人が信じている宗教のことをとやかく言い、口を差し挟んで、それは間違っている、邪教だなどと軽蔑し、その宗教がいかに間違っているか、その過失を、これでもかこれでもかとあばいて、激しい口調で相手を責め立てている、なんとも常識をわきまえない行動だ、と見ていることが表されています。
 だから、自分は常識ゆたかに、他人が何を信じていようと軽蔑することなく、しかもそれを容認しつつ、つまりその宗教の過失をたとえ知っていたとしても、それをあばくようなことはせず、おだやかな心で相手に自分の宗教のことを言上しよう、というのが、この口安楽行です。
 しかし、大聖人は「それでは、その調子でやってごらん。たとえば念仏の信者からは、あなたが私のことを思っていろいろ仰って下さるのは有り難いが、私んとこの坊さんは、法華経は千人信じても、その中の一人も成仏するものとていやしない。だから、捨てなさい、その経典を閉じなさい、そんなことしたって無駄だから、そこら辺にでも差し置きなさい、どうせなら抛ちなさい、ほっぽいてしまいなさい、と言われています。
 そういうついて行けない法華経を信じて、成仏も往生も、出来るかできないか分からないものに時間を費やすよりも、一辺でも南無阿弥陀仏と称えさえすれば往生できるお念仏の方が、どんだけ有り難いか。さぁさぁ、もうあなたとお話しすることすら時間の無駄だから、帰っておくれ、と言われるのが関の山でしょう。
 その時、あなたはどんな言葉を返すというのか、と。
 あるいは真言宗を信じている人にお話しをしてごらん。彼らはきっとこう言うでしょう。 
 あなた方が大切にしている一念三千も、大日経の中にちゃんと書いてあるんですよ。だから、理は同じ、理同だ。しかし、真言宗はさらにその上に、印を手に結び、口に陀羅尼を呪する、つまり、事の上では完全に優れているわけだ。これを事勝というんだよ。
 寿量品の仏、寿量品のほとけって、もったいぶって有り難そうにいうけど、大日如来に比すれば、まだ迷いの中の凡夫のようなものだ。だから例えてみれば、大日如来のお乗りになる馬の、轡取りにも劣り、草履取りにも劣る、下劣な仏様だよ。
 そんなもんやってるより、天皇さまも信じている真言宗やったほうが、どんなにいいか、あんた分からんのか、もっと仏教、勉強したらどうね。どね、あんたも真言宗に入ったら、と言われるでしょう。そんな時、あんたどの面さげて、帰ってきますか。
 禅宗もそう。仏法の極理は、釈迦牟尼仏より迦葉へ、以心伝心、心から心へと伝えられたんだよ。虚空会の儀式の時、教主釈尊から上行菩薩、つまり末法に出現の日蓮へ付嘱された?そんな夢物語信じてるの?
 どうやら知らないようだから教えてあげるけれど、お釈迦様がお棺の中に身を横たえておられたのを、やおら上半身をもたげられて、一つの花を手にとって、これをひねって迦葉に示し、にこっと笑みをたたえられた瞬間、仏法の極理は伝えられたのだよ。これを拈華微笑、迦葉尊者のみが一人その意味を悟った時出た表情が「破顔微笑」と言うんだよ。
 だから、あなたが自宗の根拠としている法華経といったって、ただ月を指す指のようなもので、禅の心である月をわかったなら、もうそれを指し示すだけの指、つまり経は無用なのだよ。これを不立文字というんだよ。分かったかい。いつまでも経文にとらわれていたら、駄目だよ。などと、呵々大笑され、これらの主張は一笑に付されるのは間違いなし、です。
 創価学会だってそうです。相手の過失をあばかず、指摘することもなしに、どうやって日蓮正宗の正義を、猊下のお心をお伝えするんです?
 ちなみに、彼らと話してごらん。猊下は日達上人の代で血脈は断絶しているから、信ずるに足りない。私たちは創価学会のおかげで信心につけた。御本尊は一人ひとりの胸中にある。だから別にお掛けする必要もないのだが、中にはさびしいと思うものもいるようだから、そういう人はかければいい。そんな、どこから発行しているからといって、そんなに目くじらたてる必要はない。血脈相承の猊下なんかいなくたって、池田先生がおられれば良い。相承を受けたというなら、その内容の一端を述べよ。なんも知らんくせに、偉そうに言うな。
 法華講は、勤行も唱題もしてない。御書も学んだことがない。もちろん、自分で開いて読むこともない。まったく無知の集団。血脈相承なんかなくても、御書さえあればいい。学会の方便・自我偈・題目という、一通りの勤行は、御書を読んでわかった。
 等々、おだやかに、彼らの主張を容認しつつという人は、結局、教学を学んだこともないから、何にも答えられず、ただすごすごと帰ってくるだけ。彼らの妄執を取り払って、救ってあげたいとわずかでも思うなら、真剣に題目をあげ、寺院でおこなわれている勉強会に出席して、一言も聞き漏らすまいぞ、というぐらいの真剣さで望むべきです。
 そうすると、少しばかり余裕をもって、彼らの邪義をうちやぶって、正義を伝えることができるでしょう。
 三番目は「意安楽行」です。これは、他の宗教を学ぶ者に嫉妬・そしり、争う心を抱かないことです。
 ここにも、摂受の者の、折伏を行ずる人への誤解が読み取れます。他の宗教への折伏を、彼ら信者を奪い取ろうとする行為だと思っているのです。自分たちの集団の少なさのあせりから、数を増やそうとするあまり過激になって、人をそしり、他の宗教と争う心に支配されるようになる、と。
 これは全然違います。私たちは数の多さ・少なさを、彼とこれと比較して、それで惨めになったり、他の者に対して嫉妬をすることは全くありません。
 彼らが数の多いのをよいことに、間違った宗教に足を踏み入れ、やがて不幸になっていく、いな、すでに不幸のどん底に堕ちているのを見るに忍びないので、大慈悲心を奮い起こして、仏様のご真意をお話ししているのです。
 誰が好んで人に嫌われたりするでしょう。私たちは、その場は嫌われても良い。ただし、その人の過ちを知りつつ、それを仲違いを恐れて黙って、表面仲の良いことを装うことこそ、その友人の仇となるから勇気をもって切り出しているのです。
 私たちこそ、真の仏の使いです。だから、経文の証拠をもって、丁寧にお話ししているのです。これが折伏です。
 四番目が「誓願安楽行」です。大慈大悲の心で、一切衆生を救わんと誓願を立てることです。これは、何もおかしいことは無いように思えます。ところが、この大慈大悲というのが問題です。
 これは只単に優しいことではありません。仏法に背いていることが分かっていても、じっと堪忍して、慈眼視衆生だなんていって、やさしいほほえみの表情で、哀れな人々を見そなわす、なんて、思い上がりもいいところ。無慈悲のきわみ、仏法の大精神を知らない者のたわごとです。
 大慈大悲とは、抜苦与楽、その人の苦しみや悲しみ、宿業の根本原因を取り除いて、真実の楽を与えゆくことです。
 それでは、あらゆる苦しみ、悲しみ、宿業の根本原因とは何ぞや。それは正法に背いた謗法という罪です。
 これを徹底して破折して取り除かせ、真実の仏の御本意たる三大秘法の御本尊を受持せしめること。これが、本当の楽を受けることになるのです。あらゆるものを、変毒為薬できる唯一の道です。
 何の造作も必要有りません。信心強盛に、ただ余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、私たちの迷いの凡身が、たちまち仏身となるのです。
 日蓮大聖人さまはこれを、天真独朗の即身成仏とお名付けになりました。
 さぁ、仏の所遣として、仏の事を行ずる折伏を、みんなで行じてまいりましょう。