皆さんがご存じの、日顕上人が作詞された「地涌讃徳」という歌は、「地涌の菩薩の徳を讃える歌」という題名ですが、不思議にも内容は南無妙法蓮華経と、仏の四徳波羅蜜が読み込まれています。
これは、地涌上行の再誕日蓮大聖人は即南無妙法蓮華経という仏様であり(これを久遠元初の自受用報身如来と申します)、四徳波羅蜜を具えたもうお方であるから、――(その眷属の我々にも、一分その徳を具えています)――これを述べる事が地涌の菩薩の徳を讃えることになることを、示されているのです。
 今日はこのことについて、お書きします。
その一番には「ああ芙蓉峰 おごそかに」とありますが、芙蓉とは蓮の花のことで、芙蓉峰とは、富士山を上空から眺めますと、その火口の形が、あたかも蓮の花の八つの花びらの様であるところから、「芙蓉の峰」「芙蓉峰」と呼ばれてきたのです。
 その富士山を日蓮正宗では古来より「大日蓮華山」と呼んでまいりました。
つまり、日蓮大聖人様と同じ名前の山なのです。
 この富士の裾野に日蓮大聖人の仏法が、七百年間、何も付け足さず、何も差し引かず、しかもいささかの濁りもなく、また傷もつけずに、御法主様や大衆の渾身のご努力によって、流れ伝えられてきたのであります。
 まことに、この富士の山の孤高の美しさ、気高さは、他に例えるものとてありません。
 「ああ芙蓉峰 おごそかに」の歌詞は、御本仏日蓮大聖人の御法魂、いえいえ、そのように持って回った言い方をしなくても、御本仏がまさに生きてここにおわしますことを、讃えておいでなのです。
 しかし、一旦世の中に目を転ずれば、ここに全ての人々を救済しゆく仏法があるにもかかわらず、これをあえて信ずる事もなく、飽きもせず霧の中を彷徨い続けている人がいかに多いことでしょう。
 私たちは、自分だけが幸せを享受しているのではなく、大慈悲心を奮い起こして、何とか他の人たちも、戒壇の大御本尊さまの元へ導いてあげようではないかと、先ず呼びかけられるのです。
 この「地涌讃徳」の歌詞を改めて読んでみますと、二番は南無の二字について、三番の歌詞は妙法の二字について、四番は蓮華の二字について、五番は経の一字について書かれていることが判ります。
 つまり、二番の初めの「桜梅桃李ことごとく 無作三身の思いあり」とは、当代随一の人気者「スマップ」が歌って大ヒットとなった「世界でたった一つの花」の内容と、よく似たところがあります。
 世の中に、さくらや梅、それに桃にスモモと、春を待って一斉に咲き出す花にはそれぞれ趣があり、人の好みもまちまちですが、花たちが、誰が一番で誰がビリかなどと美しさに順位や優劣をつけ、他のものを見下したり、逆に落ち込んだりする、などという事はありません。
 それは、人間が勝手に騒いでいるだけのことであって、仏様の目からご覧になっても、それぞれの価値に上下はありません。
 これと人間も同じなのです。私たちのそれぞれ違った外見を、仏は桜梅桃李に例えておられるのです。
この地球上にあるものは、すべて太陽の光の変化したものだとも言われています。よく考えてみると、本当のことです。これは、素敵なことですね。
なぜなら、太陽の光を浴びないと植物は生長しないのです。この植物が無いとこれを食べる草食動物は生きていけません。この草食動物がいて、肉食動物が生きていけるのです。これらの死骸が肥料となり、雨に流されて海に溶けこんではプランクトンのエサになり、このプランクトンがあらゆる海の生き物の栄養となって、あの多種多様な生命分布となっているのです。
 仏法では、「諸法実相の悟りの前には、覚体にあらざるなし」という仏様のお言葉のように、私たちの色々な姿形の違いでさえ、法華経以前の教えでは、前世に悪い事をしたことの報い、いわゆる宿業である、とのみされてきましたが、これらも、「仏の多様な生命表現の一つ」であることが、法華経で明かされるのです。
 これが、「如是相(即仮と言って、実際に私たちがこの目で見る事ができる姿のことです)。是相如(即空と言って、このもの自体にもともと本体があるわけではない、ということです)。相如是(即中と言って、嫌い捨てるべきものでもなく、かといって囚われるべきものでもない、不思議な妙法蓮華という仏の姿)であるという、私たちが方便品の最後を、三度くり返して読む意味なのです。
 ですから、大聖人さまは『草木成仏口決』(御書五二二頁)に、「口決に云はく、『草にも木にも成る仏なり』云々。この意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。経に云はく『如来秘密神通之力』云々。法界は釈迦如来の御身にあらずと云ふ事なし」と、仰せになっているのです。
 この中に法界とは十界のことで、または「一切法」とも言います。これが、「一切法は皆仏法なり」という意味なのです。この法界全体を、久遠元初自受用報身如来という御本仏お一人の御身と拝するのです。
このことを『三世諸仏総勘文教相廃立』(御書一四一七頁)には、
 「十法界の依報正報は法身の仏、一体三身の徳なりと知りて、一切の法は皆仏法なりと通達し解了する、これを名字即と名づく」
と、仰っているのです。
 ゆえに、もう宿業という、私たちの身の上に表れている人との様々な違いが、足枷や手かせ、あるいは縄や鎖となってわが身を縛ることはありません。
この法門がなかなか理解し難いのです。
 たとえば、身体に障害を持っている人がどうして苦しむのか。それは、色々ご不自由であるから……、ということもおありでしょうが、本当は、自分の、この姿が人とは違うということ。
 人から、それほど露骨でなくても、何となく卑しむ、馬鹿にした視線が自分に向けられていることに気づいた時に人は傷つき、悩み苦しむのです。
 だから、もし人間の姿というものが、普通一般の健常者でなく、心身に障害を持っておられるというものも、いわゆる「普通」という概念だったなら、これが人間の通常、当たり前だったら、誰も卑しむ者もいなければ、また本人たちも苦しむこともないわけです。
仏のお悟りは、この障害というものが、単なる遺伝子のエラーではなく、一つ一つが仏様の多様な生命表現だということなのです。
 だから、業即解脱であり、仏様の三種類の身の上には応身如来の姿と言われるのです。
 この道理で、私たちの煩悩の心も、般若という仏の智慧へと転じ報身如来と顕れ、さらには生死果縛の身といわれる、あらゆる苦悩が集まっていると言われるこの身体が「法身の蔵を具足して、仏と一にして異なり有る事なし」(当体義抄・六九四頁)と、おっしゃっているように、あらゆる真如・つまり仏の悟られた真理を具えた法身如来であると開かれるのです。
 これが、どのようなものにも、一身に具わっていますから、無作三身というのです。
 つくろわず、他より力をはたらきかけることもなく、飾る事もなく元のままにこの三つを自ずとそなえ、おのおの持てる用きを発揮しているのです。
 しかし、人間だけは、邪宗謗法というこの本理に逆らう人がいて、この恩恵から遠ざかっている人がいますから、御本仏の御金言を信じて、御本尊様に一生懸命題目を唱える人々のみが、初めて、無作三身という尊極の当体としてその理を、また用きを、その身に顕現できるのです。これは、なんと素晴らしい事でしょう。
 このようなことは、今縷々述べてきたように、仏の経文の上から、あるいは道理の上からも確固たるものですから、かけがえのないわが人生を価値あるものにしていきたい、と考えている人が、どうしてこの御本尊を信じてこのような境界を成就しようとしないのか、本当に勿体ない事だと首をかしげざるを得ません。
南無妙法蓮華経の中の南無の二字は、帰命という意味と、常楽我淨の四徳波羅蜜の中には楽波羅蜜に該当します。ですから、歌詞の中に「帰命の楽を聞かざるや」とあるのです。
 南無とは帰命、すなわち、私たちの命を全部御本尊にお任せします、という意味です。
でもそれは、自分は何もかも御本尊にお任せして何もしない……、ということではありません。仏様の仰せのことを精一杯させていただいて、しかもある状態であった場合、それは仏様のお計らいである、という意味があるのです。
 ただ信仰すれば、過去に自分のしたことは差し置いて、何でもかんでも良くなるものだと思う、そういうわがまま勝手な、虫のいい考えはもう止めましょう。
たとえば、お釈迦様は終生、腰の痛みに悩まされていたといいます。仏様ですから、本当はどうでもなったはずなのに、あえてその苦痛から逃げるようなことはなさいませんでした。
 それはかつて、いわゆる前世で提婆達多とどっちが耶輸多羅姫をお嫁さんにするか相撲をして争った時に、お釈迦様は「さばおり」という技で勝利をおさめましたが、この時、相手の腰を折るという損傷を負わせたことの宿業が、今世で自分に現れたものだったからです。
 お釈迦様は、神通力や功徳、あるいは仏の果報でこの腰痛を無くそうとなさらず、今世でこれを償おうとされたのです。
 そのようなお姿を拝する時、私たちは言いしれぬ感動を覚えます。
 日蓮大聖人様も、「生涯いくばくもならず。思へば一夜の仮の宿を忘れて、いくばくの名利を得ん。また得たりとも、これ夢の中の栄へ、めずらしからぬ楽しみなり。ただ、先世の業因に任せて営むべし」(持妙法華問答抄・二九四頁)と仰せになっています。
 ところが私たちは、わずかな信行を人質に、これだけやったのに、こういう状態なのはどういうわけだと、過去の自分の行為にはほおかむりをして、やたらと御本尊様に不平不満を漏らしがちです。
 これは本当におそろしいことです。南無と、全部おまかせすると何回も言っておきながら、それとは裏腹な言葉を平気で吐くとは、まことにお互い凡夫とはいえ、悲しいものですね。
 それに、私たちが本気で南無しようとする時、真剣な修行のところには、成仏させじと魔のさわりがおこってきます。その時こそ、腹の据えどきでしょう?これでいよいよ罪障を消滅することができる。いよいよ成仏する時が来た、ということですから、まさに「難、来たるをもって安楽と意得べきなり」(御義口伝・一七六三頁)と、いうことなのです。
 さらには、真剣に南無したてまつる時は、自ずと御本尊とわが心とが一体となるようになります。そうなれば、『総勘文抄』に「故に弘決にまた云はく『一切の諸仏、己心は仏心と異ならずと観たまふに由るが故に仏となることを得』と。これを観心と云ふ。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終をさわるべき悪業もあるまじ、生死に留まるべき妄念もあるまじ」(一四二○頁)と仰せのように、悪業も、煩悩の妄念も無い成仏の境界に立てるようになるのですから、これ以上の安楽な境地は無いと言えるのです。
 ゆえに、二番の歌詞は南無、すなわち楽波羅蜜、すなわち我らの安楽の境地を明かされた部分であると申し上げるのです。
 三番の歌詞の冒頭は、「霧立ちこめる人の世に」とございます。ここに、日輪、すなわち太陽のごとき、煩悩の心の闇を照らす徳をお持ちの上行の再誕・日蓮大聖人が御誕生になり、妙法を弘宣されます。それにより、私たちはまことの我を開いていくことができるのです。だから、「まことの我を開くこそ、妙法受けし恵みなれ」とあるのです。
 このことについて御隠尊日顕上人は、「妙法とは我ということであります。私たちの自己をそのまま、我即妙法と開く、この妙法というところに、自分自身の命が十界互具して、自由自在な境界として存することができるのであります」と、仰せになっています。
 私たちの命は妙法、すなわち我が前の御本尊のごとき姿に他ならない。となれば、宇宙法界広しといえども、妙法を信受する私たちの心を離れて存するものは、何もありません。
 と言うことは、私たちの前に展開する世界は、私たちの心の表れ、いわゆる投影であって、私たちの心如何によって、地獄にも、寂光浄土にもなる世界であることを知ることができるのであります。
 私たちはいさんでこの娑婆世界に、広宣流布のため、私たち一人ひとりの成仏のため、この仏法の証明のために生まれて来た事を片時も忘れてはなりません。
このように、妙法とは我徳波羅蜜ということであり、私たちが人生に自在の境地を成就できることをお示しなのです。
 四番の「三宝無礙の益ひろく 濁れる水も澄みわたり」とは……、三宝とは、私たちにとっては仏の宝・日蓮大聖人様、法の宝・御本尊様、僧の宝・日興上人をはじめとする御歴代の猊下様、ということになります。
 この三宝の御利益は、一切のものにおいて障り・滞りとなるものがなく、それはあたかも鳥たちが自由に空を飛び回るごとくであります。
ゆえに、さしもの謗法の人という、いわば濁った水も、この三宝の化導・教導の利益によって清らかに澄み渡るようになり、そこには鮮やかに月の姿が映しだされるようになるのであります。
 これは、『四信五品抄』(一一一四頁)の「濁水、心無けれど、月を得て自ら清めり」の御文をもとに仰せになったものと思われます。古来より、水は月のしずく、月によってもたらされたものと信じられていました。そして、その水の精として、月光の結晶としての蓮華が、清らかな花を咲かせるのです。
 これは、私どもいかに謗法の罪にまみれていようとも、下種三宝を深く信じ奉ることにより、妙法の当体蓮華仏という、清浄なる仏身を成就するできることをお示しなのです。
 ゆえに、この曲の四番は淨波羅蜜、すなわち蓮華をお示しになっているのです。
 五番は、「北斗の光 冴えぬれば 風常恒の響き充つ」ということですが、北斗の光とは「北極星」をお示しになられていると拝します。
 北極星は、夜空を仰ぐと、すべての星々がこの星を中心に回っていることに気づかされます。北極星は太極ともいい、陰陽・境智の統合体であり、御本仏の別のお名前である本極法身と通ずるものがあります。
この光、「冴えぬれば」とは、際だってあざやかに光る、本来の光を示すこととなれば、ということですから、つまり、大聖人の仏法が法王の位にふさわしい立場に位置づけられる。
 名体宗用教という五重玄の体玄義のように、「体とは禮に訓ず。君臣節におもむく。その親を親とし、その子を子とするが如く」と、いわゆる広宣流布の時に至り、「是の法、法位に住する」ことともなれば、「世間の相が常住となる」意義が現実のものとなるのです。
すなわち、世間もおだやかに、すべての民衆も幸せを享受できるようになるのです。
 これが『如説修行抄』(六七一頁)の「天下万民、諸乗一仏乗となって妙法一人繁盛せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へたてまつらば、吹く風枝を鳴らさず、雨土塊をくだかず、世は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死のことわり顕れん時を各々ご覧ぜよ。現世安穏の証文、疑ひあるべからざるものなり」
の御文なのです。
 この御書を念頭に置かれて「北斗の光さえぬれば 風常恒の響き充つ」と、詠われたのです。しかし、東京都青梅ご出身の、総本山第三十九世日純上人が仰せになったように、『立正安国論』に清濁二通りの読み方ありとして、広宣流布以前は謗法によって国が濁っているから「りっしょうあんごぐろん」と国の字を濁音で読み、広宣流布が成就した暁には国が澄んで清らかになるから、その時こそ「りっしょうあんこくろん」と清音で読むようになる、と仰せになっているように、今日本乃至世界は、正法に背いているがゆえに、有為転変きわまりない様相で、人々もまさに地獄・餓鬼・畜生の三悪道さながらの生活をしいられています。
 これこそ、「うつろい変わる世の姿」ではないでしょうか。ここに、「大悪おこれば大善来たる」(大悪大善御書・七九六頁)または「大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うち乱すならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ」(減劫御書・九二六頁)の御金言どおり、かならず法華講員と僧侶による、広宣流布の前進は開始されるのであります。
 「今ぞ久遠の道明けん」とは、この中に久遠とあるのは、五百塵点劫の当初、通常久遠元初と呼んでいる仏法の元始の時のことですが、世の中が権実雑乱、正邪不明で乱れにみだれ、世の人々を救う教えが全く無い時のことです。
この時一人の聖人が御出現になって、さまざまなご苦労の末に、ついに我が己心に因果倶時、不思議の一法を見いだされ、これを妙法蓮華経と名を付けられ、すべての人々の即身成仏の道を踏み分けられたのであります。
 この久遠の時とは、単に遙かかなたの昔の時のことではありません。実は末法の始め、日蓮大聖人が御誕生になった鎌倉時代のことであります。
これを日寛上人は『当流行事抄』に、「信者当に知るべし。末法今時は全く是れ久遠元初なり。運末法に居すといえども宗は久遠に立つ。久遠は今に在り、今は則ち久遠なり。しかれば久遠元初に於いて更に余法無く、ただ本地難思の境智の五字のみあり。仏、この妙法をもって一切衆生に下種す」(大石寺版六巻抄・一九九頁)と仰せになっているのです。
 この下種の大法である南無妙法蓮華経を折伏・広宣流布していけば、この我々の娑婆世界が即常恒不変の常寂光土へと、ただちに変ずるのです。
 そこでは、私たちの命も、過去も未来もない、ただ偶然にここに生じたという宇宙の孤児ではなく、三世不改の永遠の命を保つもの、との意識をもった、盤石な、すばらしい人生観をもって生きることが出来るようになるのであります。
 ゆえにこの五番は、南無妙法蓮華経の文字の経の一字について、常波羅蜜という、三世常住の仏と衆生とについてお述べになられた箇所、と言えるのであります。
 いよいよ最後六番ですが、「いざ諸人よ立正の 光明高く仰ぎ見よ」とは、すべての人々よ、さあ大聖人が掲げられた全民衆救済のための、立正安国の大光明、大松明を仰ぎ見るが良い。
 この先には、幾多のいばらの道が待ち受けているかもしれない。
 しかし、私たちはその行く手が厳しければきびしいほど、いよいよ心を一つにして、破邪顕正の旗を振りかざして、尊き使命を胸に、誇りも高く前進しゆくであろう。
 なぜなら、それこそが我ら地涌の菩薩の眷属が、あの霊山虚空会で誓って、こうやって生まれてきた唯一の目的であるからです。
過去・現在・未来にあって、もっとも誇らしげな我らの歩むべき道、それは、地涌六万恒河沙等による広宣流布の大道であります。          

以上