「御授戒の時、御住職様は同じような言葉を3回くりかえされていますが、 何ておっしゃっているんですか? それから、時々御授戒の格好によく似た御祈念をされていますが、何のお願いですか? 頼めば、どんなことでも御祈念していただけますか?」

「本当にすばらしい質問をしてくださって、ありがとうございます。


御授戒とは?
御授戒とは、日蓮正宗への入信にあたり、これまでの、形ばかり名ばかりの、人を幸せにするどころか逆に不幸にする、去年の暦のように、ご用済みで役に立たない信仰をスッパリ捨てて、日蓮正宗が伝えてきた日蓮大聖人の正しい教えを信仰することをお誓いする儀式です。

発誓
信仰することを、御本尊さまに声に出してお誓いすることを「発誓」と言います。

授戒文
御授戒の時の、住職が三回くりかえす同じような言葉とは、「授戒文」と言って、次の様な内容です。
一番目は「今身より仏身に至るまで、爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」と言います。
少しかみ砕いて言えば、
「今身より仏身に至るまで」とは、「これから一生を通じて」ということです。
「爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて」とは……、
先ず「爾前迹門」とは、爾前経と法華経の前半十四品の、迹門の教えのことです。

爾前経とは
爾前経とは法華経以前に説かれた、四十二年間の経典の総称です。
これらは、仏様御自身が「正直捨方便(正直=うそ偽り無く、きれいさっぱり、これら方便の教えを捨てよ)」と仰っている様に、
華厳経――修学旅行で行く奈良の大仏の東大寺は、この経典にもとづいて作られた宗教です。
阿含経――オーム真理教は、この経典をよりどころとしたものです。
阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経――念仏はこの経典からできました。
大日経・金剛頂経・蘇悉地経――日本では弘法大師で有名な、真言宗の三部経です。
般若経――よく写経などで、女性週刊誌にも紹介されることが多い般若心経は、この一部です。
これらを爾前経と言います。法華経以前の経、と言う意味ですね。この四十二年間の教えを一まとめにして、『無量義経』という法華経の開経――横綱の土俵入りの時の、露払いの力士のような役目の経典のことで、法華経の直前に説かれました――に、この四十二年間のお経文の中には、真実は説いていない。すべては方便に過ぎないと、みずから否定されるのです。

虚妄方便の説かれた理由
それではなぜ真実ではない、方便・虚妄(うそ)の教えを説かれたのかというと、みんなの心がバラバラで一つではなかったからです。
そのために、まずみんなが望んでいる、頭にあることに解答を示して、徐々に真実の教えを聞きたいと思わせる様に、導いてこられたのです。
たとえば、生きている時は散々苦労したのだから、せめて死んだ後ぐらいは病気も無い、死の恐怖も無い、子育てで苦労することも無い、親から叱られることも無い、隣近所や会社で気をつかうことも無い、学校や塾にも行かなくても良い、働かなくてもお金の心配も無い、料理をしなくっても、あれを食べたいと思うだけで料理が目の前に出てくる。暑くもなければ寒くも無い、いつもキレイな花が一杯咲いていて、香しい花のにおいに包まれて、天からは美しい音楽が聞こえてくる……。そんな所に生まれ変わりたい。そうなればきっと幸せにちがいない、という切実な望みを持っていたとします。
でも、そんな所はどこを探してもありません。ですから仏様が正直に、「そんな所はどこにも無いんだよ」と仰れば、身も蓋も無いわけです。「この人は悟りを開いて偉い人かも知れないが、私たち社会の底辺でもがき苦しんでいる者の心を少しも知らない、理解しようともしない。なんて薄情な人だ」と思うでしょう。その結果、皆の心が仏様から離れていってしまいます。
それで、まずこの人達の望みに従って、自分の本心はしばらく隠して、「遠いとおい所に別の仏様がおられて、そこにはあなたが望んでいる様な浄土、清らかなしかも安穏な世界があるのですよ」と、方便で説かれたのです。

浄土は今私達が住んでる所だけ
でも、本当の仏様の世界・浄土は、今私たちが居るところにしか無いので、先の方便の教えを後では打ち消されて、「私たちの今住んでいる世界こそ、真実の寂光浄土なんだよ。ただ人々が間違った信仰をして心が汚れてしまっているから、それで地獄や餓鬼や修羅の巷の様になっているだけなんだよ」と、法華経の『如来寿量品第十六』で説き明かされるのです。

迹門とは?
それでは、次の「迹門」とは何かといいますと、「迹とは水の上に映った月の影とか、雪や砂の上に残った足跡」と言う意味があります。
たとえば、私たちは仏様というものは、薬師如来だとか、燃燈仏とか、大日如来とか、阿弥陀如来だとか、尸棄仏とか、毘婆尸仏とか、たくさんおられるものと思っています。実は、そのたくさんおられるということこそ、影である証拠です。
この場合の「影」というのは、夜空の月が、あちこちの水の上に、その姿を映したもののことです。

垂迹って?
これを垂迹と言います。迹(影)を垂れる、迹(影)を落とす、月影などと言うでしょう?
本物のお月様は一個しかありません。でも、月影というものはたくさんあります。たとえば、「信州姥捨て山の田毎の月」は、日本の三大観月の名所として知られているけど、ここでは水をたたえた段々畑ごとに、お月様がその影を映されているのを見ることができます。
たった一個の本物の月とは、寿量品の仏様のことです。この仏様が、世情といって、人々の心持ちや国柄、あるいは時に応じて、色んな姿を現わして、久遠の昔、最初に蒔いた妙法蓮華経という仏の種を、法華経の信仰を止めていった人たちにも、なんとか芽を吹かせ、ぐんぐん成長させ、見事な花を咲かせ、実を実らせようとされてきたのが、その他の多くの仏様が説かれるようになった謂われなのです。できるだけ、人の気に沿うようなお姿を表わされてきたのです。

或説己身或説他身って?
日蓮大聖人が『日眼女釈迦仏造立事』(御書一三五一頁)に、
「法華経の寿量品に云はく『或は己身を説き或は他身を説く』等と云々。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏…その本地は教主釈尊なり。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮ぶる影なり」
と、仰っているとおりですね。

始成正覚の仏って何?
この寿量品の御説法以前は、お釈迦様御自身も、「皆も知っての通り、今の釈迦牟尼仏はインドのカピラエ城に生まれ、三十歳の時に伽耶城からさほど遠くない所にある菩提樹の下で初めて悟りを開いて、それからたかだか四十数年しか経っていない仏」、と説かれていたので、お釈迦様も、単なるその他大勢の仏様のなかのお一人、それも成り立てホヤホヤの仏、ということでしかありませんでした。
これを仏教では、始成正覚の仏というのです。
これら、他の仏様や始成正覚の仏様を、つまりは、天空の月が地上の多くの水に姿を宿したお姿ですから、垂迹(影を水におとした)の仏・迹仏といって、その立場でお説きになった法華経以前の法門を権経方便といい、法華経序品第一から安楽行品第十四品までを、特に迹門と言うのです。
寿量品の仏様にもお二人あり
しかし、この寿量品の表面に説かれる(これを文上といいます)、一般に久遠実成の釈尊と言われる仏様も、ズーッと昔の、久遠に仏に成られたと言っても、やはりインドのお釈迦様と同じように、人が仏を賤しむことのないように、先ず王宮に誕生し、後に出家して菩提樹の下で悟りを開き、最初華厳経を説き、次に阿含経を説き、次に大乗の方等経を説き、般若経を説きおわるのに四十二年間をかけ、この時もやはりこれらをまとめて方便なりと打ち消して、その後真実の法華経を説いて、みんなを成仏の境界に導かれたのです。
ですから、この仏様も、御本仏とは違って、我が身を飾り繕って、不思議な、私たち人間とは随分とかけ離れた格好をされていたのです。

御本仏は飾りを捨てた凡夫僧の姿
エッ、と思われるかも知れませんが、本当は、これが仏様のありのまま・本来のお姿ではないのです。本当の仏様は飾らず、繕わず、私たちと全く変わらない元のままの、凡夫僧と言って、そうずばり、日蓮大聖人さまのようなお方を言うのです。
くりかえしますが、あとの仏様は、この御本仏という空の一月が、地上の水にその姿を映した影なのです。これを垂迹の仏様・迹仏と言うのです。また、人々の心持ちや想像に沿った形で、その姿を現わされたので、これを権仏とも言うのです。

権とは?
「権」とは、竿ばかりのあの錘のことです。このおもりは、皿に載せた売り物のさかなの重量を計る時、竿の上を右に左に動かして、釣り合ったところで、これは何グラムだから○百円、と使いますよね?
そんな、人が心に抱いてるイメージ通りに身を飾った方便垂迹の身で説かれた教え・法門なので、これを「権教」と言うのです。

邪法邪師の邪義とは?
このような方便の教えを、「末法という『時』や、人々が、機が熟して成仏の寸前にある人かどうか、あるいは全く善根の持ち合わせの無い、仏様の種を今初めて受けるべき者たちであるかどうか」などと言うことも全く弁えず、あるいは知らず、勝手に仏様のお考えをねじ曲げたものを広め、しかも、みんなが幸せになれる大聖人さまの仏法をそしり、これをおおい隠そうとするところに、これらすべてが邪法となり、その師は邪師となり、その教えは邪義となりますから、これを先ず「捨てて」と申し渡すのです。
邪とは「間違った」、と言う意味です。

正法正師の正義とは?
その上で、「法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」とは、私たちの日蓮正宗にのみ、一点の濁りも無く正しく伝えられている御本仏日蓮大聖人の教えを正法とし、それを完全な状態でお引き継ぎあそばされている、大石寺の代々の御法主上人猊下様を仏法の正師と仰ぎ、その正師である猊下様の血脈相伝に基づく、正しい大聖人の仏法の意義づけを正義として、これを受け持ち、信じ行ずるや否や?と導師が問い尋ねるのです。
それに対して、導師と本人と紹介者および列席者が一同に、「持ち奉るべし」と唱和し、お題目三唱をいたします。
この時、「持ちたてまつるべし」の意味が三者三様で異なります。
住職・導師が言う意味は「命令」で「持ちなさい」となり、本人が言う時の意味は「持って参ります」という誓いを立てる「発誓」となり、列席者が言う意味は、「持っていきなさい」という「勧他・受戒者にすすめる」の意味となります。
二番目もやはり、「今身より仏身に至るまで」にはじまり、「爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」と、尋ねられます。

謗法とは……
日蓮正宗の信心以外のものは、仏様の御意志にすべて背いているので、これを謗法といいます。「謗法とは乖背の義」と言って、仏様の御意思にあえて背くことです。
日蓮大聖人こそは、寿量品の文底(経文の意味をズッとたどっていくと顕われる本当の意義)に明かされている無作の三身、久遠元初の自受用報身如来という寿量品の仏様です。大聖人様は『開目抄』に、
「……華厳宗・真言宗は、釈尊を下して盧舎那・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主をすてたり。禅宗は、下賤の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下す。
此皆、本尊に迷へり。例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり乃至寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり」(御書五五四頁)
と、あります。

諸宗は皆本尊に迷っている 
この御文の意は、華厳宗や真言宗は、盧舎那仏や大日如来を本尊としていますが、これは我が父が天子、すなわち天皇陛下であるとも知らないで、どこの馬の骨かも知れぬ、つまり、この二人の仏は、誰が父親で誰が母親であるか今以て判っていないわけですから、「天子たる父を下して、種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり」と述べられているのです。どうして、利益功徳を受けることができるでしょうか。
念仏宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を本尊とするわけですから、この娑婆世界に縁のある仏様を捨てて、全く縁もゆかりもない仏を立てる所に、不知恩の咎をこうむることになるのです。
さらには、中国の善導という念仏のカリスマ的指導者がこの教えを広める時、法華経を千中無一、千人修行しても一人として成仏出来るものはいないと主張しましたが、これは法華経に書かれている、「若有聞法者。無一不成仏。(若し法華経を聞くことあらん者は、一人として成仏せざるは無し)」の、仏の御金言を真っ向から否定したことになりますから、「もし人信ぜずして此の経(法華経)を毀謗(そしること)せば、この人命終して阿鼻獄(無間地獄)に入らん」(方便品第二)との仏の御金言に符合し、称名念仏が極楽往生どころか、地獄の業因(ふるまい・原因)となるのは当然なのです。
禅宗は、もともと下劣の者が、わずかな徳を鼻に掛けてかえって両親を見下げるに似ています。と言うのも、禅宗は「教外別伝、不立文字」と言って、経文は単なる月を示す指であり、月こそ禅である。経文に囚われることこそ、過ちである。
そして、その禅の奥義は釈迦から迦葉へと、「拈華微笑」という、棺桶の中から身を起された釈迦が、花を拈り微笑された瞬間に伝えられた、と主張していますが、これ自体が言葉で教えを証明することであり、自己矛盾に陥っています。

経文の文字は仏の命
「文字は法身の気命」と言われ、経文の一字一句は仏の命です。これを否定するのですから、当然、仏を下げ経文を賤しむこととなります。
だから、禅宗は「天魔の所為」だと、言われるのです。
これら一連のことを見てお分かりの様に、彼らは皆本尊に迷ってしまっています。
たとえば、三皇(諸説ありますが、伏羲・神農・黄帝)以前は、人といえども母は判っていても父を知らない、鳥や獣同然だったのとよく似ています。
寿量品の仏を知らない諸宗の者らは、この畜生に同じ、不知恩の者なのです。
この様に、寿量品の仏様以外、仏様も本当の仏様ではありません。ということは、そのお経文のなかで言われている、その仏になる為にやってこられた修行というのも、本当の、仏になるための修行では無い、ということは明らかとなるのです。
ですから、このようなものを全部「謗法」と、払い除くのです。
そして、本門の本尊と戒壇と題目という三大秘法……。
これこそが、久遠の御本仏が末法今の時に移して御修行された本地の御自行(※本物の、仏になるための修行なので、本因妙と言います)を、私たちの背丈にあわせてしつらえ直し下された、唯一つの仏になる修行なので、これを信じ持つことの発誓を促されているのです。

本門の本尊とは?
本門の本尊とは、大聖人さまが、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」『経王殿御返事』(六八五頁)
と、仰せになった、私たちが毎日拝んでいる御本尊様の御事です。
この御本尊さまの根本中心は、私たちの総本山大石寺の、奉安堂に御安置されている、弘安二年十月十二日に御図顕になった、「本門戒壇の大御本尊様」です。
この御本尊さまを、日蓮大聖人様がこの世にお生まれあそばされたところの究極の目的、つまり、「出世の御本懐」と、申しあげます。

本門の題目とは? 
本門の題目とは、この御本尊さまを心から信じて、口に南無妙法蓮華経と唱えることです。

本門の戒壇とは? 
本門の戒壇とは、御本尊さまを御安置し、私たちの無始以来の謗法罪障消滅をご祈念し、また大聖人様の弟子信徒として、決して仏様のお顔に泥を塗る様な間違いをしないことをお誓いする、その道場のことです。
この問いかけに対して、一番目と同じように「持ちたてまつるべし」と言い、お題目を三唱します。
三番目は、「今身より仏身に至るまで、爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」と、問われています。

不妄語戒とは?
妄語とは、嘘をつく、という事です。ですから、不妄語とは嘘をつかない、その戒・誡めを守ることの発誓を、促されているのです。
なぜ、そのようなお誓いをたてるのか。それは、一番目二番目にお誓いした事柄を、偽りなく継続していくことを、改めて御本尊様にお誓いする為に行うのです。
このようにして、十五分ほどで、御授戒は終了となります。
あまり詳しく述べると、すごいプレッシャーに感じる人もいるかも知れませんが、それほど素晴らしい厳粛な儀式を通じて、大聖人様の仏法に入らせていただいたのだと、受け止めて下されば良いのです。
そうすれば喜びも一入で、この瞬間にも心は躍動し、仏界という尊い仏の生命もその姿に顕われる、と言われているのです。

その他にどんな御祈念が?
それと、この御授戒の様に、頭に御本尊様をお載せし、御祈念することがあるのは、たとえば高校や大学の受験の時、それとか病気快復の御祈念、あるいは厄年に当たっている方、赤ちゃんがお腹にいるお母さんのご祈念、それにお誕生日のお祝いなどなどです。
みんな祈りが叶って、ますます信心を深め、仏法興隆のために貢献されていかれるよう、御祈念をいたします。
ただし、僧侶は拝み屋や祈祷師ではありませんので、まずみんながちゃんと朝晩の勤行をすることが基本です。その上で、こういった寺院に御祈念をお願いすることにこと寄せて、御本尊様に御供養を捧げたいという御信徒のお心持ちを、大聖人様や御本尊さまにお取り次ぎ申しあげているのです。

広宣流布のために御祈念を
これが、御授戒のほかにも色々な御祈念をさせていただいている理由です。この祈りが「広宣流布の為に」とつながっている時でないと、なかなか思う様な結果は表れてこないのです。これを、
「広宣流布のこころざし無くんば利生これあるまじき由」
と、言うのです。
はい、今日はこれでおしまい。お分かり頂けましたか?またのご質問、待ってまーす。