「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うなかれ」

魔とは、どういうものでしょう?
 魔という字は、麻という字の下に鬼という字を書きますが、実は、中国には元々こういう字はありませんでした。
 魔という言葉の語源はインドから来ていて、孔子や孟子の教えの中にも、魔という字はありません。実は、仏法が中国に伝わった時に、この字は出来たのです。
 それではどういう風に、この字が出来たのかといいますと、インドの方では元々「マーラ」と言っていたのを、中国で漢字に音訳する時、音の似ている、「麻」という字と、物をズラーと並べるという意味の「羅列する」という言葉がありますね、あの「羅」の文字とを合わせて「麻羅」と、マーラの発音を漢字で表しました。
 ですから、この文字それ自体には何の意味も無いのですが、後に、「鬼みたいに人の命を奪い、大事な人の心をゆがめるなど、大変恐ろしいものだ」ということで、その麻の字の下に鬼の字をくっつけて、『魔』の字ができたのです。
文化勲章をお受けになった白川静先生の『常用字解』にも、「梵語(古代インドのサンスクリット語)maraの音訳語である魔羅(仏教で、悟りの妨げとなるもの)の略。人に災いを与え、悪の道に誘い込む悪魔の鬼を言う」とあります。
 元々の「マーラ」という言葉を直接日本語訳すると、「障り」という意味になります。
 つまり、人間が善行をなそうとするとき障りをなすもの、あるいは「仏教で、悟りの妨げとなるもの」(常用字解)、これが『魔』であります。
 今日は、その十魔についてお話しいたします。
その第一は「陰魔」です。
 陰とは仏教用語の五陰(色受想行識)のことで、体と心の作用・はたらきのことをいいます。ここでいう体とは、五官のことを指しています。五官とは、目や耳、鼻に舌、そして体全体の皮膚のことです。これらを、感覚器官といいます。この感覚器官を通じて、私たちは身の周りのさまざまな情報を取り入れ、心が過去の記憶と照らし合わせて判断し、そして私たちは行動をいたします。また、これら経験したものは「識」という記憶の中にしまい込まれるのです。
 陰魔とは、この、人の心や身の作用が元来完全なものではありませんから、それが妨げをなして自分の悟りというものが開けないで一生を空しく過ごしてしまうことがあります。
 それで、心身の働きが完全でないことが障りをなす様を魔に見立て、陰魔と称したのです。記憶があやふやなのは、一つの経験がひとかたまりで記憶されるのではなく、バラバラに分けられて、それぞれの脳の部位に蓄積されるからなのだそうです。
 私たちは、目で何かを見ます。見ているからちゃんと物事を認識しているかというと、そうともいえないことが随分あります。いわゆる見まちがいです。思いこみや、心がうつろだと、ちゃんと見るべきものも見えないのです。
 あるいはこの耳で聞いているから、しっかり聞いているかといえばちゃんと聞き取れてないことがあり、この聞き違いによって人間関係に様々な誤解が生じたりすることは、日常誰もが経験していることです。
 文章を読んでも、読み手に力がなくて、著者の意図するところが十分に理解されないことがあります。仏様はお一人であるにも関わらず、そのお一人の仏様が残された経文によって、実に様々な宗派ができてしまったことも、ここに原因があります。
 大聖人様は、同じ法華経の文字であるけれども、人によって随分違った見方が生じている、とお述べになった御書があります。
 ここで法華経と申されているのは、お釈迦様の説かれた経文の法華経という意味ももちろんありますが、この場合、末法の法華経である、三大秘法の御本尊様のことを指されています。
 それでは、御本尊の文字を人々はどのように捉えているか、ということですが、まだ御本尊を信じて無い人には、唯の黒い文字にしか見えません。
 私たちにとって、命のように大事な御本尊様も、信心していない人には、細かい漢字が一杯書かれている、単なる掛け軸にしか見えないのです。
 それでは、御本尊を大切にしよう、拝んでみよう、等と思わないのは当然ですね。また、御不敬しても何とも思わないのは当たり前です。
 ところが、同じ御本尊様の文字ですけれど、二乗の人々には虚空に見える、というのです。二乗とはお釈迦様のお弟子の、声聞と縁覚の人々のことです。
 声聞とは読んで字の如く、最初は仏のみ声を聞いて修行をするお弟子方の総称でしたが、後に、人里をはなれ、おのれのみの修行と悟りに汲々とする、化他を忘れたエリート修行者を指すようになりました。
 縁覚とは、師によらず縁によって悟る人たちで、飛花落葉というように、万朶と咲いた桜も一陣の風に遭ってあっという間に散り、秋の紅葉がハラハラと落ちるなどの自然界の移り行く現象によって、「世はすべて無常である」という真理を悟る人を言います。この方々は、どうしても一人こもりがちになり、人との関わりを避けようとする傾向がみられます。
 虚空とは大空です。これは字が略されていて、正しくは虚空会のことで、お釈迦様が宝塔の中にあって、いわゆる空中で説法された、法華経虚空会の儀式のことです。
 二乗の方々は、法華経をお釈迦様が説かれたその会座に連なり、その説法の一部始終をご覧になられていましたから、宝塔を表す南無妙法蓮華経、その中に並びすわられた釈迦多宝の二仏、さらに地涌の棟梁たる上行菩薩等の四菩薩、あるいは十方分身の諸仏などの名前を見て、これは、法華経虚空会の儀式を文字で表現されたものだと、思われたのです。
 ところが、この法華経の虚空会の儀式に列座された二乗の方ではないのに、この御本尊を見て、これは法華経の虚空会の儀式を文字で表されたものである、と思いこんでいる方がおられます。
 それは、日蓮正宗を除く、他のすべての日蓮門下の人々です。ですから、彼らは私たちのように御本尊様を見ても、御本尊として敬うことをいたしません。せいぜい、拝みたい人は自分の好みで拝んだら良い、というのが関の山です。実に不思議なことですね。
 三番目に、菩薩の人々はこの御本尊を拝して、無量の法門が表現されている、と見ているのです。
 菩薩様ですから、相当修行も積み、境涯もずいぶん高い方であるはずなんですが、どういうわけかこの程度にしか見えません。
 そして、最後四番目の仏機純熟せる人は、御本尊様の文字を拝して、一つ一つの文字を仏様とご覧になっている、というのです。
 仏機純熟せる人とはどういう方でしょう。これは、信仰によって、仏様と等しい目を持つことが出来た人のことです。
 これは、正しい善知識、つまり血脈御所持の御法主上人猊下様、そして、この御法主上人の御指南を忠実に守ってこれをそのまま一般御信徒に伝える僧侶、この教導によって題目を唱えている我が法華講員こそが、仏機純熟せる人、その人であります。
 その人々が、御本尊の一つ一つの文字が金色の仏に見えるとは、妙法五字の光明に照らされて、十界の衆生が本有の尊形となっている姿を見ているのです。
 また、この宇宙法界を、久遠元初の自受用報身如来という一仏の境界と見ると同時に、その法界の一つ一つの個性は、皆無作三身という仏身と見ることができることを、無作三身は尊極の当体なるが故に、御本尊様の一々の文字を皆金色の釈尊と見る…、と表現されているのであります。
 このお命こそ、末法の法華経の行者・日蓮大聖人の御一身に顕現しているのですから、この御本尊様は、末法の法華経の行者、日蓮大聖人の御当体と拝したてまつることが、正しい御本尊様の見方なのです。
 このように信じて題目を唱えてこそ、すばらしい結果が現れるのです。
ゆえに日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及びに木画と謂うなかれ」(御書文段二一四頁)
とおっしゃっているのです。
 この御本尊に対する正しい認識ができない前三者は、心と体の作用が不完全な為に、仏様のお心のように御本尊を見ることが出来ず、それが正しい信行を妨げていることになります。つまり、魔となっているのです。
 この魔を克服するためには、日蓮正宗の僧俗という善知識の教導を素直に受け、題目行を真剣におこなうしかないのであります。
 また、私たちの体や心は誰でも不完全ですから、大事な信仰の組織やあるいは社会の中で、見まちがい聞き違いから、お互いに大変な誤解を生じたりすることがあり、それが怨嫉につながったりいたします。
 これも、自分のみならず、大事な広宣流布の組織を破壊することにつながりかねませんから、いつも自分の言動に注意し、「忍を以て戒体とする」の言葉を忘れず、振る舞うことが大切です。
 第二に煩悩魔
 煩悩とは、まず貪ですが、これは、自分の思想、つまり物の見方、あるいは言葉を可とする、すばらしいなどとほめちぎる者を、寵愛・むさぼるように愛することをいいます。
 次に瞋とは、先とは逆に、自分の物の見方、あるいは発言・主張について、これを非、つまりまちがっているとか、おかしいとか、賛同できないとか、異を唱えるものを怒ることをいいます。
 その次の癡とは、自分の思想の理が非であることを知らないことを言います。間違っていることを知らないで、あくまでこれに固執するから、又たちが悪いのです。
 四番目の慢とは、明らかにおかしいから異が唱えられているのに、あくまで自分のこの思い付きがすばらしいもので、画期的で、正しいものと信じているので、自分のこの発想を自分は理解し、他人は旧習にかじりついて理解することができないと慢心を起こすことをいいます。
 五番目は疑ですが、結局、根本のものから離れ、おのれの一時の思い付きを至上とするから、疑いを持ち、ものごとの筋道が定まらなくなって真理が得られなくなることをいいます。
 大聖人様が、「賢聖は罵詈して試みるなるべし」と仰せの御文は、このことだったのです。
 人は誰しも、おべんちゃらを言う者、もてはやす者、ちやほやする者には目が無いもので、逆に異を唱えるものには感情むき出しで怒り狂います。
 これらが、人生や信仰の上における目を狂わせてしまうことを、煩悩魔というのです。
 第三番目は、「業魔」です。
 業とは、過去に体(身)におこなった事、口に言った事、心(意)に思った事の全体を指すことで、これが原因となって、未来に様々な状況を招き寄せることを、業と言います。
 つまり、自分の今まで為した仕業が、自分で自分の妨げをするわけですから、これを業魔と言ったのです。
 たとえば、過去にむやみな殺生をすれば、今世には短命、あるいは多病となります。あるいは、盗みをしたものは、貧乏で、お金が少したまったと思ったらすぐ出ていってしまい、結局お金のことで振り回され、自在ではなくなります。
 過去に、よこしまな性をしたものは、妻が貞淑でないばかりか、出来が悪く、自分の心を良く理解し、自分の思うように動いてくれる部下、あるいは家族を得る事ができません。
 過去に嘘をついた者は、多くの人から謗られ、又人からよくだまされます。
 過去に綺語というお世辞ばかり言って、人の顔色ばかりうかがっていたものは、言うことを人が信用して受け入れてくれず、語る言葉も明瞭でなくなります。いわゆる言語明瞭・意味不明という奴です。
 過去に悪口を常としていた者は、色々な面で支えてくれていた人たちが次々と我が元を離れ、それに対して、どうしようもない悪い噂の連中が集まってくるようになります。
 過去に、あっちにはこう言い、こっちにはああ言うなど、両舌・二枚舌を使って、双方に良い顔をする性格の人は、いつも悪い評判が流れ、言葉に言った、言わなかったと争訟が多くなります。
 過去に貪欲という欲張りで生きてきた者は、今世では、心に足りることを知らず、多欲でどうしようもなく、一人不幸を嘆くようになります。
 過去に、傍若無人に自分の感情をふりかざし、怒ることを慎まなかった者は、人から欠点や間違いの是正を求められることが多く、そのことが心から離れず、思いわずらうようになります。
 最後に、過去に理非曲直に対していい加減であった愚痴の者は、生まれながら、どうしようもなく心がひねくれている、と言います。
 このように、本当は自分の今まで為した仕業が自分で自分の妨げをするわけですが、いかんせん、過去に自分が犯した罪によって今日の境遇があることを知らないから、様々な苦しみになるのです。
 そして、過去の十悪業も、すべては正法に背いたいわゆる謗法の罪から起こっているわけですから、これを懺悔するために妙法の唱題に励み、罪障を消滅するために、過去の罪を犯したのと同じ身口意三業によって邪義謗法を責めてゆけば、宿業の転換も叶うわけであります。それこそ、折伏弘教です。
 第四の魔は「心魔」です。
 利己心のことです。自分を中心にして物事を考える心持ちを言います。人間は遮二無二自他の別を立て、自分の都合の良いように物事を考えています。その自己を中心とする心持ちが、色々な障りを為していきますから、「信は公物なり」との日有上人のお言葉を常に心に置いて行動していくことが大切です。
 第五番目は「死魔」です。
 死ということに対する誤った考えが魔になるのです。
 仏様の悟りから言えば、肉体が滅びても、心は死ぬ者ではありません。人間の心は永遠の存在です。
 ところが、そのことを少しも考えないものだから、死んでしまえば、すべてが終わりであるかのように思う。それで、本当の修行ができない。
 人は老年になると、もう先が短い。今さら何か習い始めたってしょうがない、と思うようになります。つまり、死によって人間のすべてが終わる、ということで、向上心のようなものまで損なわれてしまうのです。
 これは、お年寄りばかりじゃありません。若い人たちも、どうせいつかは死んで何もかも無くなるんだったら、そんなに真面目ぶったってしょうがないと思うんですね。
 この、死んだら何もかもが無くなると思うのを、断無の見と言うのですが、このような考えを持つ若い人達は、刹那的快楽を求めたり、自爆自棄になって、たとえ重大な犯罪を犯しても罪の意識さえ無い…、そのような人生を過ごしかねなくなってまいります。
 この、死後は何も無い、という考えは、昔は、社会の底辺で苦しんでいる人達、虐げられている人達が、この鉄の鎖から早く解放されたいという願いから陥りやすい考え、と捉えられていました。
 ちなみに、この世で絶対的な権力と、莫大な富を得たものは、この状況が永遠に持続することを望みますから、死後の世界も、生前の世界が同じようにあるものと空想する傾向にあります。
 それで、壮麗な秦の始皇帝のような墓や、永遠の星座の配列に見立てたエジプトのピラミッド群などが、地上に作られたというのです。
 仏法では、死後は何も無い、という断見、死後も同じ世界があるという常見を、共に片寄った考え・辺見と下し、私たちの生命は、縁によってこの宇宙法界の物質を寄せ集めてこの世に生を受け、寿命と共に又この法界に溶けこむ、いわゆる集合離散を繰り返していると説くのです。
 ですから、人が必ずしも人となって生まれてくるわけではなく、草や木、あるいは犬や猫などの動物となってくる可能性もあるわけで、これを、「草にも木にもなる仏なり」(草木成仏口決522頁)と仰せになっているのです。
 もちろん、その果報は、過去の如是因と如是縁、つまり因縁によるのですが…。
 そういう意味においても、我々は三世の生命観の上に立って、人間として生まれてくることができたことを喜び、「一日生きておわせば功徳積もるべし」(可延定業御書七六一頁)との金言を胸に、今日も、これからだ、これからだと、「月々日々につよりたまえ、少しもたゆむ心あらば、魔たよりをうべし」(聖人御難事一三九七頁)の言葉どおり、精進してまいりたいものです。
 第六は「天魔」です。
 天魔は天子魔の略語です。天子魔とは三障四魔の一つで、第六天の魔王のしわざによるものをいいます。この魔は、奪功徳者(功徳を奪うもの)、障碍(前に立ちふさがって邪魔をするもの)、能奪命(よく命を奪うもの)と訳し、人や畜生、あるいは自然現象等々のあらゆる事物に姿を変え、仏道修行のさまたげをします。
 大聖人は、「日蓮は用心厳しさが故に、魔たよりを得ず」と仰せになっています。すべてに、「良からんは不思議、悪からんは一定」(聖人御難事一三九七頁)と腹に決め、常に題目を唱え、一切を乗り切っていきましょう。
 第七は「善根魔」です。
 善根というのは、世のため人のためにいくらかでも力を尽くすことで、その力を尽くすことで、その力を尽くしたという事を自ら誇る心持ちが起きます。必ず起きます。誰もが自分を見て欲しいのです。認めて欲しいのです。
 それが自分の修行の災いをする。うまくおほめにあずからなかったりすると、そのことで、逆に怨嫉につながったりします。
 ですから、これは自分の修行であると自分に言い聞かせ、善根は相手に為した時にこの修行はこの時点で全部完了したと、はっきり認識することです。
 そして反対に、「このような修行をさせていただいてありがとうございました」と、心の中で相手に感謝してください。
 第八番目は「三昧魔」です。
 三昧とは、心が乱れないことです。心が乱れないということは、長い間の修行の結果ですが、この状態でうっかりすると、陥る落とし穴があります。
 つまり、「おれは悟った。もう大丈夫だ」と思って、まだそこら辺を徘徊している世間の迷った人間を見下す命がわずかでも生じたとしたら、これはもうとんでもないことです。もうそれで、これまでの信心は水の泡・おしまいです。
 ですから、悟ったという、その悟りがかえってさわりになる。
 これも世間には多いことで、少しばかり仏教の本をかじってナ二ガシカノ知識を得たりすると、世間の人に対して「どうも彼らは俗物で相手にならない」などと言い出すようになるのです。
 その俗物だといわれる人の方がヨホド世の中の役に立っていることは、随分あります。
 とにかく、自分は悟ったというのが危ないのです。
 第九番目は「善知識魔」です。
 善知識というのは先生のことですが、人の師として崇められるようになった時が危ない、というのです。
 皆から「先生」とか「御尊師」と言われると、自分も先生の様な気になってきます。実は何もわかりはしないのに、先生と言われると分かった様な気になってしまうのです。
 そうして、いばる気持ちが心の奥まで染み込んで、自分本位の片寄った人格になってしまい、自分の修養することを忘れるようになります。
 又、自分でできないことでも、口で言っているとできた様な気になってきてしまいます。
 よく分からないまま、朝読んだことをその晩しゃべっても、そんなことは十年前から知っていたという顔をすれば済んでしまう。
 だから、人の師となったために、人を欺き、自分を欺くと言うことを始終していることになるのです。
 これは恐ろしいことで、どんどん人間が下落していきます。人が人として決して、してはいけないこと。それは人を欺くことです。さらに、自分も欺いてはいけない。そうしていれば、どんどん、自分が自分というものから遠のいていって、何にも心を動かせない、感動できない自分になってしまいます。
 このように、人に教えることをしながら、自分が堕落していくことになる…、これを「善知識魔」というのであります。
 私たちは、ただ本未有善という、過去に謗法の罪によって、本来三悪道にある身が、たまたまこの仏法流布の娑婆世界に生まれ出ることができた、過去に、仏法の功徳善根を全く持ち合わせていない、ただ南無妙法蓮華経と唱えていくしか救われる道はない、全くの荒凡夫であることを、始終忘れないようにしたい。
 第十番目は「菩提法智魔」です。
 菩提法智というのは、深く悟った智慧という事で、仏様に近い智慧のことであります。
 その仏様に近い智慧を具えたというところで用心しないと、「もう一歩で大丈夫」というので行き止まりになります。
 これでは決して、大丈夫なんかじゃありません。
 仏様と同じ所に行かない間は決して大丈夫ではないが、もう大丈夫と言う所でつい自分の修行がつまずいてしまうのです。これが「菩提法智魔」です。
 以上、長々と申し上げましたが、これも皆様が、現在の信心を一生つらぬいていただきたいがためでございます。人に申し上げることで、自分自身へのいましめともなるものですから、こうしてお話しをさせていただいた次第です。
共々に魔に負けないようがんばってまいりましょう。    

以上

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