『実践行動の年』

「実践行動の年」明けましておめでとうございます
 今年の年間実践テーマ 
①勤行唱題で広布へ前進 
②折伏実践で御命題達成 
③全講員で支部総登山
を、共々に頑張ってまいりましょう。
『御義口伝』(一七三七ページ)
 「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。此の信の字は、元品の無明を切る所の利剣なり。その故は、信は無疑曰信とて、疑惑を断破する利剣なり」
 一念三千ということを勘違いして、自分たちの信心修行には何も関係ないなどと思い込んでいる人がいるようです。ところが、一念三千というのは、日蓮大聖人さまをお手本とする私たちの題目の修行や、この修行によって開かれた御本仏の御境界である御本尊様も、あるいは御本尊を信じて題目を唱える者が遂に到達する境界をも表す言葉なのです。
 そのことを証明する御文は数多くありますが、たとえば、『草木成仏口決』(御書・五二三頁)には、
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」
とあります。
また『開目抄』(御書五二六頁)にも、
「一念三千の法門は、但法華経本門寿量品の文の底に秘し沈めたり」
とある通りです。
 この御文は、「三重秘伝の文証」だとされています。そして、私たちが勤行や唱題の時に、先ず方便品、その次に寿量品、そして題目を唱えるのは、この御文の化儀・つまり具体化なのです。
 それはどういう事かと言うと、この御文の中に「但」という字がありますが、この文字は一つですけれど、この文章の中の三つの言葉に掛かっているのです。
 その一は、「一念三千は但法華経」と読んで、一念三千という仏法の極理は、お釈迦様の御一代・五十年間の説法の中には、但法華経に説かれていることを言われているのです。
 私共がまず『方便品』を読んでいるのは、このことを表すためです。
 次に、但の字は「本門寿量品」に掛かって、法華経の中でも但本門寿量品に明かされていることを言われているのです。このことを表すために、方便品の次に『寿量品』を読むのです。
 三番目には『但』の字は「文の底」に掛かって、真実の一念三千が文底・久遠元初の時の、本因妙の教主釈尊の御修行にこそあることを示されています。それで、寿量品の次に題目を唱える訳ですが、このことにより、私たちが唱える題目は、寿量品の文の底、つまり仏法の元始の時の名字即の釈尊(本因妙の教主釈尊も、名字即の釈尊も、凡夫僧という仏の真実のお姿でおでましになって化導をされた、末法今日で言えば日蓮大聖人)が唱えられた「事行の一念三千の題目」であることを表しているのです。
ご存知のように、「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(開目抄・御書五二六頁)といって、十界に十界が各々具わっていることを言うことから始まります。そして、このことを了承できれば、この十界互具は『撰時抄』にあるように、詮じつめれば「一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず」(御書・八三四頁)ることにより、あとは自然と百界千如・一念三千という義を成ずることになるのです。
 それが、我々のお題目とどういう関係があるのかとお思いでしょうが、これは総本山大石寺で発行されている『平成校定日蓮大聖人御書』という三巻に分かれているもう一つの御書があるのですが、その三巻に載せられている『御本尊七箇之相承』という所に書かれているのです。(二○九三頁)
今、ここに読んでみます。
「二、真実の十界互具は如何。師の曰く、唱へ被れ給ふ処の七字は仏界なり。唱へ奉る我等衆生は九界なり。これ則ち四教の因果を打ち破って、真の十界の因果を説き顕す。この時の我等は無作三身にして、寂光土に住する実仏なり。出世の応仏は垂迹施権の権仏なり。秘す可し、秘す可し。」
と。つまり、私たちが今唱え奉っている御本尊様は仏界、唱えている私たちは九界。
これまでは何とか分かりますね。
事はこれだけじゃありません。私たちが御本仏日蓮大聖人の御金言を信じて南無妙法蓮華経と唱える時、御本尊様のお命と私たちの心がかならず一体となって参ります。
 御本尊様のお命の中に私たちの命が、私たちの命の中に御本尊さまという仏界のお命が具わり、それこそ「九界即仏界、仏界即九界」となって、いわゆる十界互具互融して百界千如・一念三千という、ただちに、この身このままで即身成仏が叶うのです。
 ですから、私たちのこの当体を指して「無作三身」という実仏と称し、その所は「寂光土」となるのです。
 でも、この御本尊という境と私たちの信心という智が、合致冥合・一体となるためには、かならず信の一字が無くてはなりません。
 それで冒頭に掲げた御書に、「一念三千も信の一字より起こり」とお示しになっているのです。
 次の「三世諸仏の成道も、信の一字より起こるなり」とは、どういうことでしょう。
 過去・現在・そして未来という、いわゆる三世の仏様は、どのようにして仏様におなりになることができたのでしょうか。
 これは『三世諸仏総勘文教相廃立』の文を代表して挙げましょう。
 「所詮己心と仏心と一なりと観ずれば速やかに仏になるなり。故に弘決に又云はく『一切の諸仏、己心は仏心に異ならずと観たまふに由るが故に仏に成ることを得』已上。此を観心と云ふ」(一四二○頁)
 一切の仏様が仏になられた観心とは、法華経を修行するわが心を指して、これすなわち、仏の心たる妙法蓮華経と異なるものではない、一体のものであると、よくよく信心領納・信解できた時に、ただちに成仏ができたと言われているのです。
 ゆえに、「三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり」と仰っているのです。
 その次の「この信の字は、元品の無明を切る所の利剣なり」とは、どういうことでしょう。「元品の無明」という聞き慣れない言葉が出てきましたね。
 「元品の無明」とは、「中道の理に闇いこと」を言うのです。中道って難しそうですね。でも、このことは『一生成仏抄』という御書に説かれています。少し長くなりますけど、大事な所なので、煩をいとわず挙げてみましょう。
 「抑妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばす語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなはち起こる所の一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。また無しと云はんとすれば様々に心起こる。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず。有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に遍して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。この妙なる心を名づけて法とも云ふなり。この法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり」(御書・四七頁)
と。 
 この御文の意味は、こうです。そもそも妙とはどういう事か。それは、ただ私共のわずかな心、つまり一念の心の不思議なるところを妙とは言うのです。それでは、不思議とはどういうことか。それは心も及ばない……つまり、私共の想像を絶するようなもの。あるいは言葉というものは非常に便利なもので、どんなことでも表現できますが、その言語の道絶えて……言葉でも表現出来ない、言い尽くせないほど凄いもの、尊いもの、という意味です。
 このことを知るのに、私たちが常日頃感じている心というものがどういうものであるか尋ね見ようとすれば、「有り」という言葉をもって表現しようとする時は、それでは色はどうか、ということになります。あるいは形はどうか。しかし、心を青や赤、あるいは黄色・白、さらには黒いなどとは言えません。
 またその形を、丸だとか三角だとか四角だとか、さらには長いものとか短いとか、あるいは太いとか細いというもので捉えることはできない。
 それでは、形や色では分別できないとしても、「有る」という以上、私たちの体のどこかの部位にあるはずだと、頭のてっぺんから足のつま先まで細かく切り刻んで調べてみても、心のありかを見つけることはできません。
 それで、結論としては「有るという概念・考えで言うことはできない」ということで、有に非ず、つまり心は空ということになるわけです。
 しかし、無いといったところで、心はこうしている間にも、始終湧いてきます。しかも、地獄も餓鬼も畜生も、あるいは仏様さえ心に思い描きます。だから、「無というとらえ方は間違っている」ということで、無に非ず、つまり心は仮ということになるわけです。
 でも、今までのことを振り返ってみると、先には有に非ず、つまり空であるといったのに、今度は無にあらず、つまり有ると意味の仮と結論付けます。
 これは当然矛盾しているわけです。
 それでは一体、心の真実はどうなのか、という時、心は有に非ず、また無に非ず、しかも有であり、また無である……。これを「中道一実の妙体」というのです。日寛上人のお言葉によると、妙体とは語略といって、言葉が省略されていて、本来の言葉に直すと、「中道一実の妙法蓮華経の正体」ということになるのです。
 ですから、先ほどの御文に続いて大聖人様は、
「中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。この妙なる心を名づけて法とも云ふなり。この法門の不思議をあらはすに、譬へを事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知りぬれば、亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。」(御書・四十七頁)
これが、方便品の十如是を三回くり返して読む意味なのです。今のは如是性のことでしたから、如是相という私たちの姿形も、如是体という私たちの身体も、ともに「中道一実の妙法蓮華経の正体」ということが明らかになる訳です。
 しかし、人は、この仏様の説法や、実際に修行されて証得された全容を、御本尊と顕して私どもにお示し下されても、なお、私共がその妙法蓮華の当体であるはずはないと恐れ、あるいはおのれを卑下し、拒絶するのです。
これこそが「中道の理に闇い」、いわゆる元品の無明という奴です。
『三世諸仏総勘文教相廃立』(御書・一四一五頁)に、
 「心の不思議を以て経論の詮要と為るなり。この心を悟り知るを名づけて如来と云ふ。これを悟り知って後は、十界はわが身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。之を知らざる時を名づけて無明と為す。無明は明らかなること無し、と読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり」
 あるいは同御書(一四一九頁)に、
 「五行とは地水火風空なり。五大種とも五蘊とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時ともいふ。只一物にて経々の異説なり。内典外典の名目の異名なり。今経に之を開して、一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是則ち妙法蓮華経の五字なり。この五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり、本覚の如来なり。これを十如是と云ふ」
 このように、私たちが妙法蓮華の当体であることに迷っていることを無明というのだ、と申されているのです。
 信の字、つまり、この御本尊様を信じたてまつる力が、この元品の無明をバッサリと断ち切るところのするどい、鋭利なつるぎなのです。
 それゆえ、「この信の字は、元品の無明を切るところの利剣なり」と仰せなのです。
 どうして、そんなに信というものがすごい力を持っているのだろうか、という疑問には、「その故は、信は無疑曰信とて、疑惑を断破する利剣なり」と、どんなに学問をしても、あるいは仏法を聴聞しても、仏の御金言を信じて題目を御本尊に唱えないかぎり、この疑惑を断破、すなわち断ち切っていくことはできない。ひたぶるな信心をもって題目を御本尊さまに唱えゆくとき、たちまち疑惑の雲が晴れ、わが身妙法の当体なりと信解して、無作三身の不思議な境界をかならずや修得できるのであります。
 今年も、信心の志強く、自身の宿業転換と広宣流布の御奉公のため、ともどもに頑張ってまいりましょう。

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