大聖人の教えは、女性の成仏を可能にした、世界でただ一つの信仰です。と申しましても、皆様はたいして驚きもいたしません。
今は、女性の立場が男性と同等に見られて当然という、結構な時代ですから、女性も成仏できますよと言っても当たり前、至極当然のような気がします。
逆に、「この信心では成仏できません」などと言おうものなら、非難の集中砲火を浴びて、袋叩きにでも遭いそうです。
しかも、いつも聞いている人は、聞き慣れているせいか、そのご法門について「あ、またその話か」と、いつの間にか鈍感になっていて、その重要性を忘れてしまいがちです。
結果、その人は、せっかく法華経の法門を聴聞しても、方便権教の利益しかいただけない、ということになってしまうのです。
法華経の法門は、一つ一つ爾前のお経と比較して、くらべて、しかしてその意義を明らかにしてこそ、その尊さがわかるのです。よろこびも一段と大きくなるのです。
それを、単なるほかの宗教の批判、あるいはうぬぼれや手前味噌と受け止めては、なりません。
女性の成仏が初めて明かされた法華経の説法は、本当に天と地がひっくりかえるほどの驚きをもって迎えられました。
なぜなら、そのようなことは、かつてどのような経典にも、つゆほども説かれていなかったからです。
それどころか、これは過去に女性にだまされた経験があるか、あるいはまったく女性にもてなかった恨めしさからか、とにかく女性からひどい仕打ちにあった男性が、名前をお釈迦様にかこつけて、女性に対する恨みつらみをおもいっきりぶちまけたのではないか、と思われる様な文章が、あちこちに、経文の随所に書き散らされているのです。
本当に、目を覆いたくなるような、耳をふさぎたくなる様な表現で書かれているのです。
それに比べて、法華経における、以前におこなった説法を全く気にもとめないかのような、これまでとは百八十度転換した、女性に対するきめこまやかな、しかも温かな説法は、とても同じ仏様の口から語られたものだとは、にわかには信じられないものなのです。
まず、お釈迦様の最初の説法・華厳経ではどうだったでしょう。
このお経には「女性は地獄の使いなり。能く仏の種子を断ず。外面はやさしい菩薩に似て、内心は嫉妬によってかき乱された心が、その表情に表れたとされるあの夜叉面のごとし」と書かれています。
奈良の大仏さん、ご存じでしょう?あれがこの華厳経の仏様なんですが、あのように広く大きな境界をお持ちの仏様のはずなのに、そのお経にはこんなことが書いてあったのです。
それから、『銀色女経』には、「世の諸仏の眼は大地に堕落すとも、法界の諸々の女人は永く成仏の期なし」と・・・・・・。
仏様のお体は、金剛不壊(こんごうふえ)、ダイヤモンドのように永遠に朽ちないご境涯です。それも、不妄語(ふもうご)、つまり、嘘をつかないという戒を永くお持ちになったことで成就できた果報です。
しかし、その身がとつぜんくされて、その眼が大地にポトーンと堕ちるとも、このようなことは万が一にも起こりえないのですが、それでも、女性に成仏の機会がおとずれることはない、とまで断言するのです。
あるいは、「女性に五障三従あり」などということが言われています。
三従とは、幼くしては父母の言うことに従い、女さかりの時は好きな男の言うことに従い、老いては子供らの言うことに従うなど、常に自分の意思を押し殺して一生を過ごしてしまう、ということです。
信仰というものは、時には信念にもとづいて行動しなければならないことがあります。ゆえに、まわりの人の言うことに同調されやすい女性は信心をつらぬき通せるものではない。ゆえに、成仏の機会は無い、とされてきたのです。
仏教で説く五障とは、(一)梵天王(二)帝釈(三)魔王(四)転輪聖王(五)仏、この五つにはなれない、ということです。
これも、法華経以前の、女性に対する片寄った考え方であって、法華経では、これをただちに否定する実際の証拠をお示しになっていかれるのです。
また、法華経以前の教えでは、全世界の男性の煩悩・罪障を一ヵ所に集めたとして、これと、女性一人の煩悩・罪障が同じであるとか、女性は川に例えられる。川は、どこの川といわず、蛇行、へびのようにまがりくねって流れているが、それはなぜかと言えば、水は本来重力の法則で高い所から低いところへ向かって流れていくものであるが、固いところにぶつかるともうそれ以上まっすぐにすすめないので、柔らかいところをめざして方向を変えていく。そのようなことがくり返されて、川は蛇行するのである。
これは、女性が、愛するものや、立場が上の者に対して、自分の主張を回避して、相手に迎合し、へつらう生命の傾向性があることをのべているのです。
また、女性の心は風にたとえられます。たしかに枝や葉っぱをゆらして、風はそこに有るってことは誰でもわかるんですが、誰も風をつかまえたことは無い。
あるいは、女性の心は川の流れの上にえがく絵にたとえられます。
今しがた描いた絵も、次の瞬間にはもう跡形もありません。さきほどこう言ったはずなのに、しばらくすると全く正反対のことを言っていて、本人は気づかないのか、それともご本人自身忘れたのか、あっけらかんとされていることがあります。これは特に、創価学会の婦人部にその傾向が強いようです。
あるいは、海や川にいる漁師は魚をとることに巧みです。山にいる猟師は、鳥やけものをつかまえることにたくみです。一切の女性は、人をねたみ、そねむことにたくみである。
あぁ、もう止めましょう。最初に言ったでしょう?目や耳をおおいたくなる、とても耐え難い女性蔑視の言葉がつらねてある、と。このように、女性が信心修行に向かない理由が列挙されてきたのです。
それが、法華経以外の教えの真実の姿なのです。
ですから、天台大師も「他経はただ男に記して女に記せず」と、はっきり申されているのです。
ゆえに、法華経における女性の成仏の説法は重要なんです。尊いのです。前代未聞なのです。しかもそれが、お釈迦様の滅後、末法五濁悪世での妙法広宣流布の功徳を述べられる中で説かれていることがさらに肝心なんです。
そして、その成仏は、ただ困難な女性の成仏だけじゃない。さらに八才という年端も行かない娘さんが、しかも下半身がへびという姿なのです。ですからこれを「畜・女・少」というのです。
畜は畜生、女は女人、少は世の中での経験も知識もとぼしい少年少女ということです。
幼いということ、それに女性ということ、これはわかりますが、と同時に畜生、下半身がへびというのがわかりにくいと思います。
これは、日本人の縄文時代一万年ものあいだ支配してきた考え方、いわゆる私たちの祖霊の姿はへびだというのです。
つまり、私たちが死んであの世に行くと、その姿はへびにもどるのです。そのへびが人間の肉をまとって出てきているのが現在の姿、これが死んであの世に行くと、その時、この人間の肉を脱ぎ捨て、つまり脱皮してへびの姿にもどって、あの世に帰るのです。
沖縄では、実際にその肉をはぎとる作業を今でもおこなっている地方があるそうですが、私たちも実は同じようなことをしているのです。
お棺の中にご遺体をおさめるとき、衣装を逆に着せるでしょう?あれは、そういったへびの脱皮をもどいて、へびは必ず頭の方から剥けるから上下左右を逆にするんだそうです。
そういえば、幽霊の足のほうがすーっと、蛇の尾のようになっていませんか?
そしてこれは、何も日本ばかりではありません。エジプトからインド、中国も朝鮮半島の人々も、そのような信仰が確かに存在しているのです。それは、少し古代の人が描いた人面蛇身の絵などをみれば、了解できることがらです。
これには長い歴史があります。ですから、表面上は姿を隠しているように見えても、そういう一面が我々の精神構造の中にあるということです。
ちなみに、天皇の祖先も、この提婆品の竜女の姉ということではありませんか。これは『御義口伝』(一五七九頁)に、
「人王の始めは神武天皇なり。神武天皇は地神五代の第五鵜萱葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御子なり。この鵜萱葺不合尊は豊玉姫(とよたまひめ)の子なり。この豊玉姫は、沙竭羅竜王(しゃかつらりゅうおう)の女(むすめ)なり。八歳の竜女の姉なり。然る間祖先は法華経の行者なり」
とあるとおりです。
ゆえに、私たちにも過去のへび信仰のなごりが遺伝子に染みついていて、時々精神が不安定になったときなど、へびつきの状態になったりすることがあるのです。
そういう、さまざまな困難をかかえた境界も、妙法の御本尊によって成仏がかなえられていくのです。そういう象徴です。
あるいは、この八歳の竜女の成仏は、これは貪瞋癡という、三つの毒に侵された人々の成仏も明かしているのです。
貪(むさぼ)りの命は、志意和雅(しいわけ)の命へ。つまり、品格です。おのれさえ良ければという命から、逆に人が見ていようがいまいが、大聖人の冥の照覧を信じて、裏表のない行動をとられるようになります。
本当に大聖人の弟子檀越としてのほこりを忘れず、常に、自分は多くの人によって生かされていることを自覚、感謝して生きることができるようになるのです。そして、自分がそうであるならば、といって、人にも、なんらかの形で貢献していきたいと、常に心の中で思い、また実際の行動にうつしてまいります。
次は瞋(いか)りですけれども、これは緊急の課題です。ほんのわずかのことで怒り狂い、そのはげしい感情のままに人を傷つけあるいは死にいたらしめることがいかに多いことか。そういう、一時的な感情に身をまかせ、あらゆるものを破壊する衝動にかりたてられることを指します。
これは邪宗謗法によって、大切な自尊の感情が失われた結果であります。あるいは、死後のまちがった生命観が、人の心を狂わせ、その行動を引き起こしているのです。
「他を思いやる心は自尊の感情に根ざす」
つまり、私どもが一切の真如を具えた御本尊と同じ命を有する尊極の当体であること。これは誰かから与えられたものでなく、自分の勝手な思い込みでもなく、本来宛然として存在するものなのです。
そしてこのことは、唯一、信の一字をもって、三大秘法総在の御本尊に向かいたてまつり南無妙法蓮華経と唱える中に、自然と体得できるものなのです。また、これしか出来ないのです。
その人の命の中には、当然「慈悲仁譲(じひにんじょう)」、つまり、人の苦しみを取り除き、本当の、目先のものではない、また、わずかな縁にも振り回されない、くずれない幸福境界を成就していただきたい、という情愛とへりくだる命、そのような美徳が表れてくるのです。
三番目は愚癡ですが、これが智慧利根へと転じていくのです。
くちが濁るとぐちになるそうです。その同じ口で題目を唱えると、一切がこの功徳によって切り開かれていくのですから、そのような人の口からはすべての愚癡が消えていくのです。我が一念が変われば、すべてが変わっていく。すべてはおのれの一念にあるのです。
他に責任を転嫁するのはたやすい。しかし、本当の原因は自分の所にあって、決して人の所為(せい)ではないはずである。それは自分が一番よく知っている。
そういう、今までの生き方から脱却して、どんな時にも御本尊をかき抱いて、題目を唱え、目をそらさず、そして向かっていきましょう。
最初は小さい変化かもしれないけれど、かならず大きなものに成長してまいります。そして、我が命が大いに躍動していくようになるのです。これを智慧利根というのです。
この竜女は、自讃歎仏の偈に「我大乗の教えを闡(ひら)いて、苦の衆生を度脱せん」との誓いを立てております。苦の衆生とは別して女人を指すとは、御義口伝の言葉であります。
妙法を受持信行せられた皆さんも、この竜女のように誓願を立て、苦の衆生を救わんためにどうぞ立ち上がられますように。