「無明とは? 無明は明らかなること無しと読む我が心の有り様を明らかに覚らざるを言う」

『秋元御書』        (一四四八頁)
 「この覆・漏・汙・雑の四つの失を離れて候器をば完器と申してまたき器なり。塹・つヽみ漏らざれば水失せる事なし。信心のこヽろ全ければ平等大慧の智水乾く事なし。今此の筒の御器は固く厚く候上、漆浄く候へば、法華経の御信力の堅固なる事を顕はし給ふか。」
 この『秋元御書』は、日蓮大聖人様が五十九歳の御時、弘安三年(西暦一二八〇年)一月十七日、身延から下総の印旛郡、今では千葉県の印旛郡といいますが、そこの白井荘という所に住んでおられた、秋元太郎兵衛尉という方に与えられたお手紙でございます。
 ちなみに、この秋元太郎という方は、あの松葉ケ谷の法難の後、大聖人様がしばらく千葉の中山・富木常忍の元へ身を寄せておいでの時に、縁あってご信徒になられた方である、と伝えられています。
 この秋元太郎殿が弘安三年の一月に、身延におられる大聖人様の元へ、筒御器といって筒状の器物を三十個、さかづきを六十個、ご供養されたのです。
 それに対して、大聖人はこの品々を一つひとつ名をあげられて「たしかに頂戴いたしました」と丁重な礼を申され、引き続き、「御器と申すはうつはものと読み候」と、本日のご供養の品にちなみ、懇切なご指導をされたのがこの御手紙なのです。
 これは余談になりますが、今のお言葉からもおわかりのように、昔はうるし塗のうつわは、御器と呼んでいたのですね。
 私たちのおうちの台所をはいずりまわっている、逃げ足の速い黒光りのする昆虫、そう、あのごきぶりは、実はこの御器をかぶったかのような、という形容の言葉から名づけられたものなのです。つまり、御器被り、これがやがて、かぶりの「か」の字が取れて「ごきぶり」と言うようになったのだそうです。
 あっ、これは法門とはまったく関係ありません。忘れてください。
 さて、この御供養のお礼を述べられて、いよいよご指導をされます。
 大地がくぼんでいる所には、雨が降ると水がたまります。
 やがてその雨もやんで、むら雲も去って、どんよりしていた空が晴れ渡ると、月も澄んで、煌々と地上を照らし出すようになります。
 先ほどまで濁っていた水も、この月が姿をやどすことによって澄んできます。「月は水の精」(論衡『王充撰』)ですからね。
 これは何かの歌にも「月のしずくのやどるころ」とあったように、昔の人は、水は月によってもたらされるもの、と考えていたのです。これは、月が輝いている夜はよく晴れている証拠ですから、このような日は、一日の温度差が大きく、特に朝方は放射冷却現象などによって空気中の水分が凝縮されてよく露が降りるので、これを見た古代の人たちが、「水は月がもたらしたもの」と考えるようになったのです。
 それと、統計学的にも、満月の前後は雨になる確率が高いのだそうです。昔の人は、満月の前後は雨が多いということを、長年の経験から知っていたのです。
 月が夜空に現れて、その丸い姿を水の上に映せば、今までたとえその水が濁っていても、たちまち清らかに澄んでまいります。
 また、雨が降れば、大地はしっかりとその水を受けとめてうるおい、草や木はすくすくと成長して鮮やかな青さを増し、やがて花を咲かせ、果実を実らせます。
 「器は大地のくぼきが如し」−−このたび、秋元殿から頂戴した器は、この自然界のくぼみと同じ象であるといえます。あるいは、人が自然界のこの形をまねて器物を作ったのかもしれません。
 手元の器と大地のくぼみとが、小さいものと大きいものとの違いこそあれ、互いによく似たものだとすると、器に水をそそぎいれた状態は、先ほどの、池に水をたたえているのと同様のことと言えます。
 そこでの、「月をおおっていた雨雲が去って、煌々とかがやき始めた月がその姿を水面に写すと、さしもの濁った水もやがて澄んでいく」、という例えは、もしも私たちが御本尊を心から信じれば、御本尊様が私たちの心にお入りになられ、私たちの煩悩も浄化されていくという、その時の功徳を表されているのです。
 ただし、「器に四つの失あり」といって、器は重宝なものではありますが、その使い方や器の状態に次の四つのことがあれば、ちゃんとした用を果たさなくなります。
 その一つが覆ということです。
 これはどういうことかと言えば、「うつぶけるなり。またはくつがえす、または蓋をおおふなり」ということです。
 器はまともなのに、これをうつ伏せ状態にしたり、たとえ上向きにしていても水をそそぎいれた途端ひっくり返したり、あるいは器の上を、ふたや手などでおおってしまうことを言ったもので、これではいくら器の上から水をそそいでも、その中に水がたまることはありません。
 その二は漏です。これは漏れるということです。せっかく水を入れてもこれが漏れるということは、器にヒビが入っているか、あるいは穴があいていたり、欠けている、などが原因として考えられます。
 その三は汙です。これは器自体が汚れている、ということです。器が汚れていては、水も汚くなって飲めなくなってしまいます。
 その四は雑です。これはまじるということです。
 うつわや水が清潔でも、これに鼻くそ一つ、あるいはハエやゴキブリ一匹でも飛び込んだら、誰が食べたり飲んだりできますか?誰もできません。
 器は、私たちのこの心と体を表しているのです。
 つまり、私たちの心は器なのです。口も器、耳も器です。
 今でも、目、耳、鼻、舌、皮膚、そして心を、受容器官、自分の回りからの刺激を受けいれる働きをする器官(岩波国語辞典)、と呼ばれています。
 ちなみに、「口も器」とは、白川静氏の『常用字解』に依りますと、昔の口の字は  (サイ)、こんな字を書きまして、神聖なものへの祈りの文、つまり祝詞を容れる器の事だったのだそうです。
 つまり、口は食べたり飲んだり、体を維持する栄養素を受け入れる窓口であるばかりでなく、言葉を発する事自体が、本来、神仏への祝詞を載せるうつわとして、口がその道具に見立てられていたのですね。
 もちろん、私たちにとっての神仏とは三大秘法の御本尊様であり、祝詞とは南無妙法蓮華経の題目であることは、いわずもがなです。
 さらに、喜ぶという字があるでしょう?この字は、『寿量品の自我偈』にもございますが、「諸天撃天鼓(諸天、天の鼓を撃って)」という鼓、太鼓のことですね、この字の右側の文字を取ってみます、するとこんな字( )が残ります。わかりやすくすれば、こんな( )字です。この下に口を加えた字が、「喜ぶ」という字なのです。
 ですから、太鼓をドコドンドンドンとたたきながら、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えること、これが「喜び」という字のもともとの意味なんですね。
 ですから、大聖人様も「我が心、本来の仏なりと知るを歓喜と名づく。いわゆる南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せになっているのです。
 私たちの心が、本来、眼前の御本尊のごとき妙法の当体、仏なんだと信解できたとき、これが本当の喜びなんですね。
 それで、このことを具体的に、あるいは確実にわが身に悟り顕わすことができるのが御本尊様への唱題ですから、「いわゆる南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せになったのです。
 このように、心も口も耳も、うつわなのです。
 そして、そこにそそがれる水は法華経を例えておいでなのです。その法華経も、末法では南無妙法蓮華経です。この南無妙法蓮華経という「仏様の智慧の法水」を、せっかく仏様が私たちの心という器にそそぎこもうとされているのに、あるいは無関心だったり、あるいは耳にしたくないと、両手を耳に当てて聞くのを拒んだり、またあるいは、口に入れた途端吐き出すように「こんなの唱えてどうするんだ」と馬鹿にしたりします。
 これらのことが、まさに器を覆する。すなわち、水を注ぎこもうにも、器をうつぶせにしたり、あるいは器の表面を手やふたでおおったり、あるいはせっかく水が入っても、すぐひっくり返してしまうことなのです。
 それから、これまでどうにか信じてやってきたのに、そんな宗教やってもしょうがないよとか、自分たちの所はもっと面倒見がいいよ、などと調子のいい人の言葉にたぶらかされて、やがて信ずる心が薄くなってしまったり、果ては信心を止めてしまったり、あるいは信じている日があると思えば、「寺院参詣の、信心の歩みが止まって、もう一月もたつ」などということがあります。そういう、信心にムラがある状態を、水が器から漏れていると形容されているのです。
 そして、御本尊を信じているように見えても、内心は、人に立派と思われたい、あるいは宗教を利用して、大勢の人を自分の思うがままに支配してみたいという、名誉欲や支配欲のかたまりの人は、これはいわば確信犯であり、器のよごれている人ですから、どんなに題目を唱え、すばらしい話をし、人々を導いても、一向に信心の成果は、その人には現れません。
 それから、御本尊を信じていても、時々南無阿弥陀仏と唱えてみたり、あるいは南無大師遍照金剛などとやってみたりする。時には拝み屋の所へ行って占ってもらったり、祈とうをしてもらったり、日本の良き伝統や夏の風物詩を味わうためだといって、神社参詣・祭りに参加したりする……。
 これは、きなたい話ですけど、仏様の目から見ればご飯に糞や砂をまぜたりするのと同じなのです。
 法華経には「ただ大乗経典を受持することを楽って、余経の一偈をも受けざれ」とあって、法華経以外の経文のわずか一偈、六文字八文字すらも口にしてはいけないと、仏様が厳しくお諌めになっているのです。
 ちなみにこの中の「大乗経典」とは、南無妙法蓮華経のことですから、ただ南無妙法蓮華経と唱えることをもっぱらにすべきであって、ほかの仏の名号などを唱えることは仏のお心に反することであって、まさにご飯に糞や砂をまぜるようなものなのです。
 ですからこれは、私どもの度量がせまいとか、嫉妬とかいう問題ではないのです。
 一般世間の仏教を学んでいる人は、法華経の信仰をしていても、他の経文に説かれている修行をやっても決して悪いことじゃないんじゃないかと言います。
 「日蓮もさこそ思ひ候へども、経文はしからず」
 かくいう日蓮も、最初のころはみんなと同じように、ちっとも構わないはずだと思っていましたが、経文にはそれは間違いであると、はっきり述べられているのです。
 私たちは、法華経がそんなにすぐれた、仏様の最高のお悟りだというんなら、その内容は、他の経文についてもきっと寛容だろうと、勝手に思い込むくせがあるのです。逆に、成仏の教えだから、最高の教えだからこそ厳格なのです。この法、法位に住してこそ、世間の相も安穏になる意味があるのです。
 あるいは知ったかぶりの仏教学者は、ほかの経文も全部法華経から出たものだから、いわば法華経の一部分であり、法華経の信仰をやりながら、ほかの経文に説かれている修行をしたって、一向に構わないのである、という人が多いのです。
 でもそれは、その人のただの憶測であって、経文にはそのようなことは断じて書いていないのです。
 これから、極めて大事な御法門に入ります。
 たとえば、ある国のお后が、大王の子を妊娠していたにもかかわらず、大臣にせよ、親衛隊の兵士にせよ、あるいは召し使いであるにせよ、いずれかの男と不倫の関係におちいったとします。
 本来、「帝尊の果報は供仏の宿因に酬ゆ」とあるように、この福徳で王は絶大な天の加護と氏神の守護をうけることができるのです。これによって、国の安泰が守られているのです。
 ところが、后が民の男とふしだらな関係におちいることで、王の種と民の種とが入れ混じることになり、そのためにこの国の福運が尽きて、国が破れる本となっていくのです。
 後に生まれた子も、いくら王妃の腹から生まれたとは言っても、このような因縁があれば、これは王でもなければ民でもない。いわば人であって人にあらざる者になってしまうのです。これを人非人というのです。
 「法華経の大事と申すは是なり。種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり」
 法華経に説かれている大事というのはこの事なのです。種熟脱の法門こそ、法華経の肝心なのです。
 まず、種熟脱ということから説明します。
 種とは下種益といって、仏様が仏の種を人々の心にお下しになることで、人々にとっては仏法に縁した最初のことを言います。
 熟とは調熟といって、仏様の下された種と私たちの仏性という卵子が出くわしたいわゆる受精卵が、次々と細胞分裂をくり返して、やがて心臓ができて動き始め、脳が目が耳が口が鼻が手や足がと、胎児がお母さんのお腹のなかで成長していく段階のことをいいます。
 三番目の脱とは解脱のことで、仏の種が成長を遂げ終わって、ついに仏の境地を得ることです。と、聞けば、私たちには途方もないことのように思えますが、私たちは御本尊様に南無妙法蓮華経とだけ唱えさえすれば、自然と仏様である証拠の三十二相八十種好の相好を身に備えて、仏様も申されている「如我等無異(にょーがーとうむーい・我がごとく等しくして異なること無し)」の経文通り、お釈迦様ほどの仏にやすやすとなることができるのです。
 このことを大聖人は『新池御書』(一四六〇頁)に、
 「譬へば鳥の卵は始めは水なり。其の水の中より誰かなすともなけれども、嘴よ目よと厳り出で来て虚空にかけるが如し。我等も無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経の唱への母にあたヽめられまいらせて、三十二相の嘴出でて八十種好の鎧毛生ひそろひて実相真如の虚空にかけるべし」
 私たちの成仏を鳥に例えてみれば、最初たまごの時は水のようなドロッとしたものですが、これは誰が手をかけたものでもありませんが、そのドロッとしたものから、あの嘴やら目やら足やら羽根ができてきて、やがて殻をつきやぶって、大空をとびまわるようなものなのです。
 私たちも、今はまだ無明煩悩の卵のようにふわふわしていてしっかりしないものですが、南無妙法蓮華経と唱題を続ければ、これが、親鳥が卵を温めるのと同じことで、私たちの心の中ではちゃーんと仏様のお命が育ってきているのです。
 人間のお母さんたちも、愛する人の子供をみごもったことを直感した時、言うにいわれぬ喜びに胸がつつまれるといいますが、私たちも、自分の心の奥底の仏性がめざめて動き出した時には、今まで経験したことのないような、心からの喜びに身が包まれるのです。
 このことを『松野殿女房御返事』(一四九五頁)に、
 「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給ふ。始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸<出来し候べし」
と申されているのです。
 南無妙法蓮華経と心に口に唱えれば、この心を子宮とし、仏様が胎児となりお宿りになるのです。
 お母さんたちもそうだと思いますが、妊娠の当初は気づかないもので、私たちもまさか仏様がお宿りになったなどとは予想だにしていません。ところが、月も重なり日が過ぎ行くにしたがって、初めはそうかもしれないなと、少し疑ってみるほどのものが、やがて、これはもう間違いない、と確信を抱くに至ります。
 情愛深く思慮分別のあるお母さんは、この子が男の子か女の子か直感でわかる、とまで言うじゃないですか。この信心もやはり同じで、だんだん月がかさなってまいりますと、心の仏様が夢に拝見できるほどにまでなり、「悦ばしき心漸<出来し候べし」−−心がワクワクして、うれしくて、体中がよろこび一杯になるのです。皆さんも経験あるでしょう?
 でも、この妊娠はおなかが大きくなるわけではありません。また、ある日、仏様の子供をポコンと実際に出産するわけでもありません。私たち自分自身の姿の中にそっくりそのまま、あるいは一挙手一投足の中に、この仏の命が発現・顕われるようになるのです。
 すなわち、真実の仏とは三大秘法の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える、私たちのこの身を言ったものなのです。もちろん言総意別といって、言葉はおしなべて全体を仏といっていますが、いわんやこれを悟られて、みんなにこれを説かれている日蓮大聖人は御本仏であられるのは当然ですが、だからと言って、私たちが仏であるということはおこがましい、ということにはならないのです。
 仏様は、私たちの宿業だらけのこの身体が、無作三身という仏様だと言われているのです。
 これを『御講聞書』(一八二六頁)の中に、
 「父母果縛の肉身の外に別に三十二相・八十種好の相好之無し」
と、申されているのです。
 このことは、よくよく考えてみると、とてもではないが、にわかには信じられないことです。それでも、これに類する御書は枚挙に暇がありません。『三世諸仏総勘文抄』(一四一五頁)には、
 「法華経に云はく『如是相(一切衆生の相好、本覚の応身如来)、如是性(一切衆生の心性、本覚の報身如来)、如是体(一切衆生の身体、本覚の法身如来)』
 「之を知らざる時を名づけて無明と為す。無明は明らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。之を悟り知る時を名づけて法性と云ふ」
 すなわち、私どもこそが妙法蓮華経の正体であることに対する不明・無知であるのを無明というのです。
 これが、五逆・十悪の行業を引き起こすのです。これ、過去の二因ですね。これによって現在の五果の、識(過去の行業によって現在の母体に託する心の事)、名色(心身が体内で発育し、六根を形成するまでの五陰の事)・六入(六根を具足して胎内から出生しようとする事)・触(幼児の時は苦楽の分別が無く、物にふれて感ずるのみである事)・受(やがて成長して苦楽を識別して感受する事)があり、はたまた現在の三因である愛(事物や異性に愛欲を感じる事)・取(成人して事物に貪欲・むさぼって飽きたらないようになる事)・有(愛・取などの現在の因によって未来世の果を定める事)によって、未来の二果である生・老死が招き寄せられていくのです。
 これを「三世両重の因果」と言い、このように十二の因縁が、つらなった鎖のように連続して六道の、いわゆる苦しみの世界から苦しみの世界へと流転していくことを「六道輪廻」というのです。あの有名な「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」という文は、このことを申されているのです。
 私たちが本当の幸せをつかんで、二度と不幸の道を歩きたくなければ、私たちは早く早く御本尊様への信心によって、我等一人ひとりが御本尊様のような妙法蓮華の当体となることを信解させていただけるように励んでいかなければなりません。私たちの尊厳を見つめ直すべきなのです。
 私たちは、このことに迷うがゆえに、自らの命をむなしくしたり、あるいは、あらゆる犯罪に手を染めてしまうようになるのです。これを止める秘術は、妙法の信仰以外、断じてありません。
 大聖人はさらに「所詮、己心と仏心と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり。故に弘決に又云はく『一切の諸仏、己心は仏心に異ならずと観たまふに由るが故に仏となることを得』已上。此を観心と云ふ。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を礙るべき悪業もあるまじ、生死に留まるべき妄念もあるまじ」(三世諸仏総勘文抄・一四二〇頁)と御指南あそばされているのです。
 これが、私たちの下種・熟益・脱益の三益なのです。
 これが法華経の肝心なのですね。そしてこれは、私たちだけではなく、「三世十方の仏も必ず妙法蓮華経の五字を種として仏となられた」(秋元御書・一四四八頁)のです。
 南無阿弥陀仏は、決して仏の種ではありません。これは一時的にお釈迦様が自利利他の大乗の精神を弟子に教えるために説かれた方便の教えです。奪って言えば、浄土への現実逃避の教えでしかありません。
 真言も、ただ加持祈祷で、困った時の神頼みのように、自身の変革は思いもよらず、現実の欲求をみたそうとするもので仏の種ではありません。
 奪って言えば、天台大師の一念三千の法理を盗み取った偸盗宗です。かつて二度ほど国を滅ぼした実証済みの亡国宗でもあります。
 それでは、人間として常識ある振る舞いをしていれば幸せになるとの妄想の基である五戒は仏の種かというと、これも残念ながら、規制されて行うようなものは、まだ本当の仏の種とはなりえません。
 ただ私どもの南無妙法蓮華経のみが、私たち一人ひとりの生命の奥底にひそむ仏性を根底から目覚めさせてゆく、下種の大法なのです。
 ですから、『上野殿御返事』(一二一九頁)には、
 「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。此にものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし。わざわひのみなもとなり」
と仰せになり、さらには、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。但南無妙法蓮華経なるべし」(『上野殿御返事(一二一九頁)』)
あるいは『日妙聖人御書』(六〇五頁)には、
 「経に云はく『如我等無異』等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。譬ば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍ふべき。牛王の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王等とならず。今法華経の行者は『其中衆生、悉是吾子』と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず」
 私たちは父母の和合して生まれたものです。ですから、子供の全体は両方の親が合わさって出来たものです。これには、誰も異論を差しはさむものはありません。このように、牛王の子は牛王であり、師子王の子は師子王であり、人間の王や天人の王となることはありえません。
 牛の雄とライオンの雌が結婚して子を生むというような、異なった種同士が結婚して子を生むなどということは、自然界では起こりえない仕組み・摂理になっているのは皆さんご承知の通りです。これと同じです。
 一切衆生の仏性は妙法蓮華経といいます。ほかの何物でもありません。当然、人間もその中の一員です。そしてこれは、法華経寿量文底の三大秘法の御本尊の南無妙法蓮華経しか、これをつき動かしていく、はたらかせていく、つまり人間でいうところの精子の役割をするものは存在しないのです。我々の仏性は卵子なのです。
 だから、「これに余事をまじえば由々しきひが事」なのです。赤ん坊に乳よりほかの物を与えますか。せっかくの良薬に毒を一緒に飲むなどとは考えられないように、私たちはただ南無妙法蓮華経を口にすべきなのです。(上野殿御返事・御書一二一九頁)
 このような仏様の御遺戒に背いて、この御本尊様とほかの信仰を、利口ぶって「人が信ずるものをどうのこうのいうのが、視野がせまい」などと同等同列にみなしたりするのを「雑」というのです。
 これが謗法なのです。ここに、一切の不幸の原因たる煩悩や宿業や苦しみが起こってくるのです。だから、自分自身のそういう命を退治するためにも、あるいは何も知らず不幸の井戸の中に落ちようとしている人を救うために折伏があるのです。
 この覆(ふく・うつぶせるなり、おおうなり、くつがえすなり)・漏(ろ・もるるなり)・汙(う・けがれたるなり)・雑(ぞう・まじるなり)の四つの間違った状況を反省し、改善されたものを完全な器、完器と言うのです。
 日照りの時の用心のため池も、土手などが、わずかなひび割れも、蟻の一穴もあいていなければ水が漏れて干上がると言う事はありません。私たちの心も日ごろから覆漏汗雑の四失を点検しておれば、平等大慧という平等に注がれる仏の智慧の水は、満々と我等が心を潤すことになるのです。

                          以 上

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