『一生成仏抄』

『一生成仏抄』(四十六頁)

「譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」
 この『一生成仏抄』は、極めて重要な御法門の一つである、「一心法界の旨」を説き明かされた御書だといわれています。
 とうぜん、「なにそれ?」と、おもわず口にされた方もおられると思いますが、この御書の最初の方を読んでみますと、
「所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく。故に此の経を諸仏の智慧と云ふなり。」
とありまして、その意味は、「要するに、大事大切な一心法界の旨を説き顕す経であるから、仏はこの経を、凡夫の思慮をはるかに超え、言葉にも尽くせないという意味の形容詞である妙の一字のついた、いわゆる〝妙法〟と名づけられ、又それゆえにこそ、この法華経を『諸仏智慧』……諸仏の智慧と言われているのです」ということになろうかと思います。
 それでは、その「一心法界の旨」とはどういう事なのでしょう。それは、
 「一心法界の旨とは十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、此の一念の心法界に遍満するを指して万法と云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし」(一生成仏抄・四十六頁)と、あります。
 ここに書かれている「十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、塵も残らず」というのは、この地球上の、私たちを含めた「すべてのもの」の表現で、仏法では宇宙法界とも、十界三千の諸法とも、あるいは森羅万法などともいいます。
 それが私共のわずかな心のなかに納まっている……。またこの心が遍く法界に充ち満ちているのを指して森羅万法ともいい、これを悟られた仏様がその状態を表現されたのが「一心法界」という言葉なのです。
 もちろん、私たちの心というものは移ろいやすく定め無きものであり、自在に十界の命を顕すことはできません。ただ、御本仏は久遠元初の時の修行を末法の今日、日本国で再現あそばされた事によって法界に自在を得ておられるので、もしその御境界を御本尊様として我々のためにお示しくだされれば、私たちはこれを信じてお題目を唱えることで、この仏様のお命に近づいていくことができるようになるのです。
 今もうしあげたことについて、かつて日顕上人猊下様が、青年部を前にして御指南くだされたことがありますので、その御文をご披露いたしましょう。
 「さて皆さん、御本尊の中央、南無妙法蓮華経の直下に日蓮在御判と示し給うのは、大聖人様の一身一念が法界に遍く充満する妙法蓮華経の境界、いわゆる久遠元初の自受用身即末法下種の御本仏日蓮大聖人の、究竟の悟りのお姿であります。
 すなわち、法界を自身と開く大聖人即宇宙法界、法界即大聖人の境地を示された御本尊として、我々日蓮正宗の僧俗は無二の信心をもって拝し奉るべきであります。
 要するに、仏道の根本的な悟りとは何か。それは一心即法界と開く悟りであります。そこには、他に肩を並べる何物も無い大人格が存するのであります。ゆえに妙楽大師は、
  『成道の時此の本理に称ひて、一身一念法界に遍し』(御書一○六頁)
と喝破しております。また大聖人様は、
  『所詮、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく』(四五頁)
と仰せられ、さらに『御義口伝』に寿量品自我偈の文について、
  『法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身とは一念三千なり』(一七七二頁)
と、御本仏究竟の悟りを御指南であります。」
と、御本尊様には何が顕されているのか、その意味を端的にお示しくだされ、しかして、私たちがこの御本尊様に対し勤行をし、題目を唱えることの意義とは如何なるものかを、先の文に次いで懇切に御教示になられているのです。
 それを、少し長文ですけれど、煩を厭わず引用してみましょう。
 「これから申し述べることこそ、皆さんの信心生活にとって大切なことと信ずるのであります。
 我々のような凡眼凡智ではなかなか信じがたいことですが、人々の一人ひとりの命、その一念に本来、法界に遍満する自由自在な妙法の性を具えております。
 ただし、多くの人は無始以来、無明という煩悩に覆われて、この悟りを全く知らず、低い境界にさ迷っているのであります。
 ゆえに、無二に御本尊を信じ奉り、一身一念即宇宙法界と開かれた大聖人様の御法魂に対し奉り真剣に題目を唱え、我が一身一念もまた、御本尊と境智冥合の大利益を蒙り、法界に遍満する広大な心なり、と信ずることが即身成仏の直道であります。乃至、このように正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なるゆえに自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広くて豊かで、自然に喜びの心が溢れてきます。
 境界が一転すれば、あらゆる人や物に対する見方が変わるのです。恐ろしかった人が急に幼く見えたり、今まで気づかなかった人の値打ちを新しく感ずる等、対人関係においても自ずから人々の姿を、ゆとりをもって正しく見るようになる。また、不平不満や暗い苦悩の生活が、いつとはなしに喜びと希望に変わっていく。そこから又、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。
 しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません。かくて、すべての人に妙法の功徳を語りつつ、共に幸せになっていく仏法の上の修行こそ、広宣流布の要諦であります」(平成十二年四月二十三日・全国青年部大会の砌)
それでも、このような懇切な御指南を聴聞しても、人は御本尊様を持ちつつも、自分の心に法界の三千の諸法が具わっているなど飛んでもない、そんな増上慢ではない……、などと言います。
 そうかとおもえば、「御本尊はおれの心の中にあるんだから、文字で顕された御本尊を取り立てて拝む必要など無い」と、謂己均仏(おのれは仏に等しいと謂う)などの慢心に陥るものがいます。
 まことにまことに、猊下様の御指南に基づいて、信心の血脈をもって御書を拝する事がいかに大切であるかということを、今更ながら痛感いたします。
 先ほどの猊下様の御指南にもとづいて、『一生成仏抄』のそれ以降の御文を拝しますと、―――せっかく御本尊様を受持し南無妙法蓮華経と唱えていても、一切法は己心の外にあるという思いから脱却できずにいるとしたら、これは最早妙法とは申せません。それは、麁法という、いわゆる不完全な教えである、ということになってしまいます。
 それが麁法ならば、これは法華経ではない。法華経の教えでなければ方便の教えであり、権門という仮の、人々の一時の気休めのために説かれた教えとなります。方便・権経という垂迹・仮の教えであるならば、これは成仏の直道ではなくなり、成仏の直道でなければ、これから多生曠劫という、気の遠くなる期間をいくども生まれ変わって修行をして、その未来の果てに成仏するというのですから、一生の内に成仏するということは、決して叶わないことになってしまいます。
 それですから、妙法と唱え蓮華と読まん時は、私たちの一念を指して仏は「妙法蓮華経」とお名付けになったのである、と深く信心を起こすべきなのです。
 それと、すべて釈尊一代五十年の八万四千の聖教も、つまりは私たちの心を説かんとされたものであり、三世十方の諸仏や菩薩も、我等が心の外にあるとは、ゆめゆめ思ってはならないとのことです。
 そういうことですから、折角仏法を習っても、心性という真実の私たちの心の姿というものをよくよく観ずる、観ることがなければ、全く生死という苦しみの連鎖から逃れることはできないのです。それが、私たちが御本尊を信じ、題目を唱えることなのです。
 もし、私たちの心の外に道を求めて、膨大な修行と善根を積み重ねようとするものは、譬えて言えば、貧しさに困窮している人が、どんなに一生懸命昼夜を問わず隣の家の財産を数えても、半銭も得分が無い、自分の得るものが無いようなものなのです。
 ですから、天台大師が解釈された書の中にも、「もし、心性を観ぜざれば重罪滅せず」とあって、もし心がいかなるものか観るということが、仏法の修行の根幹であることに視点を置かなければ、たとえ真剣で純粋な志による長年の修行であったとしても、ことごとく無量の苦行……、つまり、すべては徒労に終わる、と判釈されているのです。
 ゆえに、このような人を、仏法を学んでいながら、外道となるとはずかしめられたのです。それが『摩訶止観』の、「仏教を学すといえども、かえって外見に同ず」と、釈された文なのです。
 こういうわけですから、仏の名前である南無妙法蓮華経(境智冥合の真身・久遠元初の自受用身という仏様のお名前です)を唱え、その題目正行の意義を助け顕すために、おにぎりに塩をまぶし、おそばをつゆに浸して食べるように、法華経の要品たる方便品と寿量品を読むことも、御本尊様に具わる無作三身の徳を讃歎するためにシキミの三つ葉を切る、いわゆる散華も、御本尊様に良い香りを御供養するために香を焚くことも、皆我が一念より発した信心の所作振る舞いであるから、また我が一念に納まりゆく功徳善根なりと、信心を取るべきなのです。これらの道理によって、『淨名経』の中には、諸仏が苦の輪廻より解脱されたということもつまりは、この迷いの凡夫といわれる衆生の心のはたらきによるのだから、衆生即菩提……、衆生という九界のそのままで菩提・さとりを得た成仏の仏界となることを顕し、また生死という苦しみがそのまま涅槃(悟り)へと開かれていくことを明かしているのです。
 これもすべては「法華の当体たる三大秘法の御本尊様の、自在神力の顕すところの功能」なのです。
「又、衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によるとみえたり」
とは、このなかに「衆生」とは私たちのこと、「心けがれる」とはどういうことかといえば、大聖人様は『新池御書』(一四五八頁)に、
 「心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり」
 法華経を信ぜず、あまつさえ誹謗悪口をなす謗法の人たちのことです。この人たちが国土にあふれれば、その国にはあらゆる災いが起こり、地獄や餓鬼、それに畜生や修羅さながらの世界になってしまうのです。
 その反対に「心清ければ土も清し」とは、三大秘法の御本尊を信ずる人が国に満ちれば、常寂光土のように、荘厳にみちて、災いが無い国土となっていくのです。しかし、浄土というも穢れたる世界の穢土も、決して別に存在するわけではありません。ただ、そこに住まう人たちが御本尊を信ずるか否か、つまり「我等が心の善悪」で、穢土となったり、浄土と変じたりするのです。しかも、もともとは「常在霊山の床の上は寂光にあらざるは無し」で、寿量品という仏の極説によれば寂光浄土なのです。その次の、
 「衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」
とは、衆生といい仏というのも、別個のものではないのです。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏というのです。『当体義抄』(六九四頁)にあるように、「妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり」と、御法主上人に信伏随従して、三大秘法総在の御本尊様に南無妙法蓮華経と唱え奉るものは、妙法蓮華経の当体であると信解する時を「仏」と名づけ、これに迷っている時を衆生・九界の凡夫と称するのです。ゆえに『総勘文抄』(一四一五頁)にも、
 「心の不思議を以て経論の詮要とするなり。この心を悟り知るを名づけて如来と云ふ」と御指南されているのです。
 さぁこの後が、今日拝読した箇所です。
「譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡となるべし」
 この箇所は、ただ単に、御本尊様にお題目を唱えるのは心を磨くことだ、ということではないのです。鏡のはたらきを例えて、一心法界の旨をお示しになっているのです。
 すると、そんな解釈は聞いたことがない、と言われる方がいます。
 でも、日寛上人は『序品談義』(歴代法主全書第四巻七十五頁)という書の中で明らかに御指南されているのです。
 先ずその中では、妙楽大師の『釈籖』の文を引かれています。それは、
 「もし、鏡未だ像を現ぜざるは塵の遮る所に由る。塵を去るは人の磨くによる。像は磨者に関わらず。譬えを以て法を観る大旨、知んぬべし」
と。これを日寛上人は、
「この意は、私たちの本来の心というものは、もともと鏡の明浄・明らかで清いものが、この宇宙法界の十界三千の万像を少しも漏らさず具足・具えて写し出すように、私たちの心も十界を具えて妙法蓮華経の当体なのですが、しかし妙法蓮華経の仏身と顕れないのはどうしてなのでしょうか。
 それは、見思・塵沙・無明という三惑の塵に、私たちの心の、もとは明淨であるべき所が覆われているからなのです。すでに覆われているゆえに、十界三千の妙法蓮華経の像を現せないのだと言うことを、「鏡、いまだ像を現ぜざるは、塵の遮る所に由る」と、解釈なされているのです。
 このように、三惑という煩悩の塵に覆われて、なかなか――ずいぶん真っ黒に曇っている所の鏡(闇鏡)であっても、信心の砥の粉を掛けて修行の力を出し、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と磨く時には、只今まで真っ黒の鏡だったものが急に曇りの塵を払って明らかになって、十界妙法蓮華経の像を浮かべることは、ひとえに人の磨く修行によるぞと言うことを、「塵の去るは、人の磨くによる」と、注釈なされているのです。
 さて、このように、磨けば心に像を現ずるは、今初めて、新たに十界三千の森羅万法という像を浮かべるのかと疑問を持たれたとしたら、これはそうではありません。
 本より鏡には像を浮かべる用き・性質をきっと備えているので、磨きさえすればそのまま形を浮かべるのです。どんなに磨いても、石や瓦には形を浮かべることはできません。
 まったくそのように、私たちは皆妙法蓮華経の当体・仏身なのですが、ただ煩悩の塵に覆われてしまっているから、迷いの凡夫なのです。もし、この塵を本門の題目・唱題の修行によって払い除けば、本来本有・本来具えている妙法の仏身を顕すのであり、今初めて顕すのではない、ということを「像は磨者にかかわらず。譬えを以て法を観る大旨、知んぬべし」と釈されているのです。
 御本尊様は御本仏日蓮大聖人のお心という明鏡に、法界三千の諸法が具わっていて妙法蓮華の当体であることが図顕されています。実は、私たちも同じ鏡を持っていますが、いかんせん、煩悩の塵が覆い尽くしているのです。
 速やかに信心の心を出して題目を唱え、目の前の御本尊のように、否、御本尊様の相貌たる十界三千の諸法を我が己心の鏡に写して、妙法蓮華経の当体としての用きを存分に発揮し、すべてを変毒為薬して、かけがえのない人生を妙法流布に共々に生きてまいろうではありませんか。 以上
日寛上人『法華取要抄文段』に、
 「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり」

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