「龍の口の御法難」

 仏様の御一生は、八つに区分されると言い、これを八相作仏といいます。
通常は、「和光同塵は結縁の初め、八相成道は以てその終はりを論ず」(釈迦一代五時継図一六四六頁)とあるように、仏様が脱益といって、これまでずーっと仏の教えを受けて修行を積んで来た人々が、いよいよ仏になるための仕上げをされるお役目の仏様に用いる用語ですが、意義は大聖人様にも通じます。
これを「蓮祖義立八相の事」と、日寛上人は題して述べられているのです。
それによりますと、まず一番目は「下天」といって、お釈迦様の五五百歳の末法に、五事を観じて出現されることをいいます。
五事とは①に、法華経が広まる因縁を持った、インド・中国・日本という三国、いわゆる三国を姓に持つ、三国太夫を父としようとすること。
②は、白蓮華が泥沼から生じても清らかな華を咲かせるように、清らかという清と、すべての源という意味の原、この二つの文字を合わせた清原という姓の、幼名梅菊女を、母にすること。
③は、種姓を観ずるとは、ご自分は、人々に南無妙法蓮華経という仏の種を蒔く役目であるから、釈尊が王宮に誕生されたのに対して、当時一番身分の低いといわれた、漁師の子、センダラの子として生まれようとお考えになること。
④は、機をかんずるといって、釈尊が化導される人々は、過去にすでに功徳善根を積んでいたことに対して、自分は下種の仏という立場から、過去の功徳善根をもちあわせていない本未有善という人々や、五逆(父を殺し・母を殺し・阿羅漢を殺し・仏の身より血を出だし・和合僧団を破壊するなどの重罪を犯した人)や、謗法(正法たる法華経に背く大罪)という、他の仏様が手をこまねき、皆匙を投げられた極悪深重の人々が化導・救済の対象であるが、まさにその人々が充満していることを見届けることです。
⑤は国を観ずるといって、釈尊が月氏国に誕生されて、月のほのかな光に託して法華経の利益がわずか八年しかないことを、しかも増上慢や五逆・謗法の者を治されなかったことを暗示されたのに対し、自分は太陽の昇り出ずる国・日本国に生まれ、末法万年を照らしゆく下種本仏の内証を示されようとしたことです。
八相作仏の第二は「託胎」で、お母様がある夜、比叡山の頂に腰を据え、琵琶湖の水で手を洗い、はるか東の彼方、富士山より昇り出ずるこうこうたる太陽を抱かれる夢を見て、大聖人のご懐妊に気づかれること。
第三「出胎」は、貞応元年二月十六日、一切衆生の受ける苦しみは、ことごとく日蓮一人の苦しみであるとの意味を込めて、「苦我」と産声をあげて誕生されたこと。
第四「出家」は、十二歳で清澄寺に学文のために上がり、十六歳で出家して蓮長と名乗られたこと。
第五「降魔」とは、松葉が谷法難、伊豆配流、小松原法難、龍ノ口とそれに引き続いた佐渡配流等々、多くの法難にあわれたが、ことごとく克服し打ち破られたことです。
第六「成道」とは、文永八年九月十二日、御年五十歳の時、凡夫のまま久遠元初の即座開悟という成道の相を現じられたことをいいます。
第七「転法輪」とは、佐渡以降『開目抄』『観心本尊抄』『当体義抄』等々、および三大秘法を明らかにして、末代我等の成仏の直道をしめされたことです。
第八「入涅槃」とは、弘安五年十月十三日の午前八時頃、池上の右衛門太夫宗仲の館において御入滅されたことです。その時即時に大地が振動し、回りの桜の木は時ならぬ花を咲かせたことをいいます。
このなかに、今日の龍ノ口の御法難とは、第五の降魔と第六の成道の二つを拝することです。
龍ノ口の御法難が起こった直接の原因は、極楽寺良観との雨乞いの対決です。
文永八年(一二七一年)の五月の頃から全国的に旱魃が続き、人々が大変に困窮していました。農業が国の本といわれた時代ですから、雨が長く降らないというのは致命的でした。幕府も民心の動揺をおさえ、その救済と幕府の威信保持をはかるため、当時人々から生き仏と崇められていた良観に、雨乞いの修法を命じたのです。もちろん、莫大な資金が与えられました。
それに対して良観は、「六月十八日より七日間、雨乞いの祈祷をして、天下万民を救わん」と多くの人の前で宣言したのです。
このことを伝え聞かれた大聖人は、「雨乞いをして雨を降らせることができたかどうか、などということは小さいことではあるが、このついでに、日蓮の仏法がいかに祈りを可能にしていくか、これを万人に知らしめよう。それを信ずる・信じないは、人々の見識に委ねるまでである」とされ、良観の弟子の周防房と入沢入道の二人を呼んで、次のように伝えられたのです。
「七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門捨てて良観上人の弟子となりて二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし(中略)又雨ふらずば一向に法華経になるべし」(頼基陳状・一一三一頁)
つまり、あなたが公言されたとおり、七日の内に祈祷をして見事雨を降らすことができたなら、日蓮が常日頃申している念仏無間という法門を潔く捨てて、良観上人の弟子となり、その教えの二百五十戒を持って念仏をも称えましょう。しかし、雨が一滴も降らなければ、良観房が戒律を持っていかにも聖僧であるがごとく振る舞っているのは、民衆の尊敬を一身に受けたいがために演じているだけで、人々をたぶらかし、欺く姿に他ならないのは、火を見るよりも明らかである。その時は自らの非をあっさり認めて、深い懺悔のもと、日蓮の法華経を信じなさい……、というものでした。
その申し入れを聞いて、なんと良観は涙を流して悦んだというのです。それは国中の人々に八斎戒(殺生・盗み・みだらな行為・うそ・飲酒・身を飾り歌や舞を鑑賞すること・高く広く、しかも豪勢に飾った場所に寝ること・正午を過ぎて食事をすること、などを禁じた戒律)を持たしめて、人々が殺生や、飲酒をすることを止めさせたいと念願してきたが、今まで日蓮によって邪魔されて成し遂げられずにいた。これでやっと宿願が達成できる。それに、あの日蓮が自分の弟子になれば、私の名前は否応なしに国中に知れ渡るだろう、などと想像するだけでも嬉しさが沸々とわき出してきて、それで悦び泣かずにはいられなかったのです。
それからの張り切りようは、お判り頂けるでしょう?良観は弟子百二十有余人、必死の祈祷が始まりました。そのためでしょう、頭からは煙が立ちのぼり、声も天にも届けとばかりに張り上げ、めいめい、おのおの、あるいは念仏を称える者、或いは請雨経を読む者、中には法華経を読む者もいれば、あるいはお得意の八斎戒を説くなどして、ともかくあらゆる力を総動員して、祈祷がおこなわれました。
ところが、四五日たっても雨の降る気配が全く感じられず、慌てふためいて、さらに多宝寺の僧ら数百人をよびあつめて、持てる力を出し切って祈ったのにもかかわらず、露ばかり、つまり一滴も雨が降らなかったのです。
その間、日蓮大聖人は良観房のもとへ、三度使いを遣わされました。そして、「和泉式部などという幾度も違う男の元へ嫁ぎ、またさまざまな男から寵愛を受けたという天下周知の淫女ですら、たかが「ことわりや 日の本なれば 照りもせめ ふらずばいかに 天が下かは」(報恩抄文段)との三十一文字を読んで雨を降らし、破戒の僧と知られた能因法師ですら、「天の川 苗代水を 堰くだせ 天くだります 神ならば神」という句を詠んで雨を降らせたと言うではないか。
それなのに、戒律を持つこと人後に落ちないと自他共に認めるあなたが、どうして雨粒一つ降らせられないのか。これをもって思い知りなさい。一丈の堀を越えられない者が、十丈・二十丈の堀を越えられないように、簡単な雨すら降らすことすら出来ない者に、さらに困難な成仏を、叶えさせることは出来ないということを。
しかれば、今よりは日蓮を怨むなどの日ごろの邪見をひるがえして、後生を恐ろしいと少しでもお考えならば、かねて約束したとおり、急いで日蓮の所へお見えなさい。雨降らす方と仏になる道をお教えしましょう」
との仰せを、使いの者が祈祷の七日目の申の刻と言いますから午後四時ごろ、ありのままに伝えた所、今度は良観をはじめ弟子も信者も、皆悔し泣きをして涙を流しました。
そして、恥をしのんで大聖人に頼みこんだ祈祷の一週間延長も、途中で大風が吹き荒れ、とうとう断念せざるを得なくなったのです。
良観が祈ってしかも験が表れなかったのは厳然としていますが、旱魃は一層厳しい状況になっていました。大聖人はこの事態から人々を救うべく、日興上人にお供をさせ田鍋ケ池におもむかれ、方便品・寿量品、そして題目を唱えられたところ、あれほど晴れ渡っていた空がにわかに雨雲に覆われ、瞬く間に雨が降り始めて大地を潤していったのです。
この時大聖人様が使われたという三具足、いわゆる花立て・ろうそく立て・それに香炉は、今も大石寺に伝承され、四月の御虫払い法要で猊下様の御高座の前にかざられますので、参詣された方はご覧になることが出来ます。
このような結果をみて、世間に動揺が起こらないわけがありません。
そして、良観の祈祷の失敗は、律宗のみならず、良観に加担した鎌倉の諸大寺全体の恥辱でもありました。大聖人から三類の強敵の一人・僣聖増上慢――生き仏をきどって雑草さえ生き物であるから刈り取ってはならないと説法していながら、法華経という正法を弘める僧の頸を切るべきであると幕府に訴えるは、はなはだしい自語相違であり、天魔の取り憑きたる者であると破折された上、祈雨の修法でも完敗した良観は、大聖人との約束を反故にしたばかりか、かえって憎悪の念をつのらせ、諸大寺と謀議をこらし、行敏という僧に論争を仕掛けさせたり、その企みが露見すると、彼ら僧侶ももちろんながら、有力な権力者の女房などを使って幕府を動かし、評定所での形ばかりの詮議をおこないましたが、
「御尋ねあるまでもなし、但須臾に頸をめせ、弟子等をば又頸を切り或いは遠国につかはし、或いは籠に入れよと尼御前たちいからせ給ひしかば、そのままに行なはれたり」(報恩抄・一○三○頁)
とあるように、流罪・死罪はすでに避けられないものとなっていったのです。
そして、その事件は起こりました。
文永八年(一二七一年)九月十二日、執権の家司(政所・問注所・侍所の職員で、執事のもとで執筆や雑務に当たった寄人のこと)であり、侍所の所司(次官)でもあった、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの平左衛門尉頼綱が、数百人の武装した兵士たちとともに、松葉ケ谷の草庵を襲撃したのです。その有様は、たった一人の大聖人を捕らえようとするには余りにもものものしく、異常なものでした。
しかし、この光景を見ながら大聖人は、
「日ごろ月ごろをもひまうけたりつる事はこれなり。さいはひなるかな。法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべをはなたれば、沙を金にかへ、石に珠をあきなへるがごとし」
と思われたのです。「まうく」とは「待ち受ける」「待ち望む」の意ですから、日ごろ月頃……、数日来、数ヶ月このかた、待ち望んでいたこととはこの事である。なんと幸せなことだろう、法華経のために我が身を捨てる・御供養することが出来ようとは。それはすなわち、さほどたいして良くない頭を法華経のゆえに刎ねられるなら、砂を砂金に換え、そこら辺にころがっている石で宝石を買うようなものだから、こんな結構なことがどこにあろうか、という意味になります。
兵士たちは草庵の中で乱暴狼藉のかぎりをつくし、法華経の巻物を広げて床に投げ、それをどろ足で踏みにじったり、あるいは幼い子供がトイレットペーパーを長く引き伸ばして体に巻き付けてふざけるように経巻をもてあそび、部屋の中で経巻が散らばってない所は無く、眼をおおうばかりの悲惨な状態になっている時、但一本だけお経机に残っていた経巻を大聖人がおもわず手にとって懐にお入れになったのを、目ざとく見つけた頼綱の一の郎従・筆頭の従者である少輔房が、その経巻を大聖人のふところより取り出して、なんと大聖人の額を三度にわたってうち叩いたのです。
すると間髪をいれず、その経巻を奪い返された大聖人はしげしげとご覧になり、一筋の涙を流されました。
それを見た頼綱は「女々しいぞ、日蓮。今頃になって己の愚かさが身に染みてきたか」といかにも勝ち誇ったように、しかもあざけるように言い放ちました。
すると大聖人は「そうではない。この第五の巻物には勧持品が含まれていて、末法の法華経の行者は『及加刀杖』と、必ず刀で斬りかかられ、杖でぶたれるだろうと書いてあるのだ。今日蓮は法華経の行者として、杖で打たれるべしと書かれた経巻を杖として打たれている。つまり、打たれるであろうと仏が預言された経文も第五の巻物ならば、打つ杖も第五の巻物。経文と現実の合致、これに過ぎたる不思議は無し。それで、感涙を流したのである」
「杖の難には、すでにせうぼうにつらをうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり」(上野殿御返事・一三六○頁)
そのようなお声も無視するかのように、兵士たちはよってたかって大聖人をとり囲み、縄をお体に掛けました。そこで大聖人は、大高声でもって平頼綱を諌暁されるのです。
「あらをもしろや。平左衛門尉がものにくるうを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」(種々御振舞御書・一○五八頁)
(おう、これはなんと面白いことをするものよ。平左衛門尉という兵馬の権を握り、国の命運を左右するほどの影響力をもつ者が物に狂う様を見よ。殿方、但今ですぞ。彼が日本国の柱をなぎ倒そうとする瞬間は……)
日蓮大聖人がこのように大音声をもって叫ばれたのは、「日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり。日蓮捨て去る時、七難必ず起こるべし」(佐渡御書)という意味であり、これがあまりの確信あふれるお言葉であった為に、一瞬あたりは水を打ったような静けさになりました。
それは、どんな者でも罪を問われ捕らえられようとする時は、たいていうろたえてしまうものです。それが、そうではなく本人がこのように堂々としているのは、自分らの方が大変なあやまちを犯しているのでは……と、色を失ってしまったのです。
このタイミングで大聖人は、この十日ならびに十二日の間、真言宗・禅宗あるいは念仏宗の過によって、良観が幕府のバックアップによる莫大な費用で大仕掛けの雨乞いの祈祷をしたが、一滴も雨を降らせずじまいだったこと。それで危機感を持った良観が諸宗の僧らと結託して幕府の要人やその女房らを動かし、遂に日蓮を襲うようになったことなど、一つ一つ明確な論拠とともに訴え
られたので、彼らは貝の様に口を閉じるしかありませんでした。
このように現在の午後五時頃草庵が襲撃され、散々な捕り物がおこなわれたあと大聖人は身を縄でうたれ、松葉ケ谷から重罪人のごとく鎌倉市中を引き回された上、酉の刻と言いますから午後七時ごろ評定所へ連行され、ふたたび平左衛門尉と相対し、佐渡流罪を言い渡されたのです。
しかし、評定所での判決は、表向きは佐渡流罪でしたが、大聖人を憎む平左衛門尉や武蔵守宣時ら幕府の要人、そして良観ら諸宗の僧侶や権門の女房の奸策とはたらきかけによって、内々には頸を切るべしという判断が下されていたのです。
評定所を出られた後は、武蔵野守宣時の邸へしばらく預かりの身となり、やがて夜半になって、武具を帯びた武蔵野守の家来数名に前後左右を固められ、龍ノ口へ向かい馬に乗せられて屋敷を出発しました。
一行が若宮大路に出て鶴岡八幡宮にさしかかった時、馬の動きを止められましたが、何事かと四方を固めていた兵士らにサッと緊張感が走ったのを見て、「各々さわがせ給ふな、別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり」(みんな騒ぐではない。なにもしやしない。ただ最後にここの八幡大菩薩に申すことがあるだけです)と仰せになるや、馬よりスルスルと下りられて、
「ここにおわす八幡大菩薩は本当の神か。今日蓮はかねてご存知のとおり日本第一の法華経の行者であり、その上、身には一分の過ちもなく、日本国の一切衆生が法華経を誹謗することによって地獄に堕ちるのを、見るに忍びないで、なんとか助け出したいがために申し上げている法門なのです。このまま日蓮が今夜頸を切られて、霊山浄土へも参るようなことにでもなれば、まず開口一番に天照大神・八幡大菩薩こそ、法華経虚空会の儀式の時、わざわざ教主釈尊へ末法の法華経の行者を守護させていただきますと、起請を捧げておりながら、実際は口先ばかりで誓いを果たさぬ神であると、申し上げようと思う。これは名折れであるとお思いなら、急いで法華経の行者を誓いのままに守護を垂れたもうべし」
と厳しく諫められました。これには警護の兵士たちも皆舌を巻いたと言います。
この言葉を言い終えられて、ふたたび馬上の人となられた大聖人と、兵士たちはまた歩みを進め始められました。そうしてしばらく経って「御霊神社」の前にさしかかった時、ふたたび馬を止められて、「今度は何事か知らん」と、いぶかしかる兵士たちに、「しばし、殿ばら。これに告ぐべき人有り」と、四条金吾へ向けてこの事態を知らせるべきと、熊王という童子を使いとして差し向けられたのです。
すると、その知らせを聞いた四条金吾の兄弟四人が、取る物も取りあえず必死に裸足でかけつけて、涙を振り絞りながら、馬の口に取り付けられた轡にすがってお供をもうしあげたのです。そして彼らに、大聖人は語りかけられました。
「今夜頸切られへまかるなり。この数年が間願ひつることこれなり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、ねずみとなりし時は猫にくらはれき。或いは妻に、子に、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて、その功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり」
と。そうして、いよいよ金吾らはしっかり馬の口にとりついて、腰越龍ノ口へ向け歩みを進めました。
とその時でした。怒号が行き交い、騒然とした群衆をかき分けるようにして、一人の老婆が大聖人の御馬前に進み出たのです。その捧げだした手には鍋ぶたと、その上にはぼた餅が載せられています。
すると涙を溜めたおばあさんが、大聖人様に向かって語りかけました。
「日蓮大聖人様、今生のお別れでございます。おばばのつたないぼた餅でございますけれど、最後の御供養として、どうかお受け取りくださいますように」
と深々と頭を下げられました。すると大聖人様は、
「有難う、おばあさん。よく危険をかえりみず、御供養をもって来て下さいましたね。そのおばあさんの真心の御供養、日蓮確かにお受けしましたよ。でも、ご覧のとおり、後ろ手に縛られた身です。はい、そうですかと、そのぼた餅を食べるわけにはまいりません。でも、約束しましょう。龍ノ口から帰ったら、一緒にいだたきましょうね。」
と、温かな言葉をお返しになりました。それで、今でもこの龍ノ口の御法難の時には、ぼた餅を御宝前にお供えして、そしてみんなで召し上がるのです。
ふたたび歩み始めた大聖人さまご一行ですが、やがて回りが急にあわただしくなってまいりました。大聖人様が、たぶん龍ノ口はここら辺であろうとお考えになっていた所、案に違わず、ここがまさにその地であったらしく、四条金吾が「只今なり、ここが大聖人様とお別れの場所でございます」と、目を真っ赤にして、男泣きに泣いたのです。
それに対して大聖人は「不覚の殿ばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかに約束をばたがへらるるぞ」――、なんと愚かなお人なんだ。これほどの悦びをどうして笑って迎えようとしないのです。どうして兼ねてのお約束を違えようとなさるのですか」と仰いました。すると四条金吾は、「もし、大聖人様に万が一のことがあれば、この頼基、このままではおりません。必ず追い腹掻き切って、お供もうしあげます」
と、決死の覚悟を示したのです。それが、『四条金吾殿御返事』(一五○一頁)の、
「何事よりも文永八年の御勘気の時、すでに相模の国龍ノ口にて頸切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩赤足にて泣き悲しみ給ひ、事実にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき」
の御文なのです。
そして、いよいよその時刻はやってまいりました。首切り役人の名前は「依智三郎左衞門尉直重」、刀の銘は名剣「蛇胴丸」。首切り役人は刀を大聖人様のお顔の前に差し出して、このようにつぶやいたという。「おう、日蓮よう。もう強情張るのは止めにしたらどうだい。俺だって役目とはいえ、坊主の頸なんか切りたかぁねぇやい。それより、嘘も方便と言うじゃないか。そんなに大げさに考えずに、ちょこっとその南無妙法蓮華経とやらを止めて、南無阿弥陀仏と称えさえすれば済むことじゃないか。」
 すると、大聖人は「私は単なる思い付きでしているのではありません。国を救うのも、人々の本当の幸せの成仏も、この南無妙法蓮華経しかないから、唱え進めているのです。皆を地獄から救う、唯一の道なのです。私が止めたら、人々の成仏の道が閉ざされてしまう。決して止めるわけにはいかないのです」と、後はもう南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と題目を唱えられました。
 もはやこれまでと思ったのでしょう。依智三郎左衞門尉直重が大聖人の頸めがけて振り下ろした瞬間、そのことは起こりました。「江ノ島のかたより月のごとくひかりたる物、まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」(種々御振舞御書・一○六○頁)と、毬のように丸い光り物が、江ノ島の方に出現し、辰巳の方より戌亥、東南の方角から北西の方角へ光り渡ったのです。
これにより、太刀取りは突然の出来事に目がくらみ倒れ伏し、回りを固めていた兵士たちは皆恐怖におののき、あまりにおどろいて一町、これは一丁とも書いて、おおよそ百九メートルに相当しますが、それを驚異的な速さで逃げ去った者らがいたのです。よほど怖かったのでしょう。
さらに見渡せば、あるいは馬の上でかしこまって動けずにいるものやら、あるいは馬の上でうずくまっているものもいます。そういう、目も当てられぬ状況を見かねて、日蓮大聖人が、「今までの勢いはどうした。こんな重大犯罪者をほったらかして、どうするのです。早く、取り逃がしてしまわないように、近くうち寄りなさい、うち寄りなさい。」と声高々と呼ばわれたのですが、誰も寄ろうとしません。そこで大聖人様はさらに「しばらくすれば、夜も明けよう。そうしたならば、これだけの人がよってたかって、一人の僧侶を殺そうとして殺せなかったでは、幕府の威信にも関わるではないか。見苦しいお姿を世間の皆さんにお見せしてもいいのですか」とお勧めになったにも関わらず、相変わらず返事も無い状態なのです。
このようにして、龍ノ口の御法難は、大聖人の頸を切ることもできず、うやむやの内に幕を降ろすことになりました。しかし、大聖人様はこれを機に、お釈迦様のお使いの立場を払い除かれて、本当の御境界、久遠元初の自受用報身如来という、御本仏の境地をお示しになりました。これを「発迹顕本」といいます。
私たちは、大聖人様の不自惜身命のお振る舞いを決して忘れることなく、いよいよ自行化他の信行に邁進してまいりたいものです。
以上

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