新年の儀

皆様、新年明けましてお目出度うございます。本年「折伏育成の年」を共々に、御本尊様根本に御法主上人猊下様の御指南に随い奉り、はつらつと「広宣流布と一生成仏の道」を頑張って歩んで参りましょう。
さて、本年は、かねてより建設が進められていた総本山大石寺の五重塔が修復成って、一月十六日に、「修復完成法要」が挙行されることになりました。
重ね重ね、誠におめでとうございます。
大石寺の五重塔が建立されるきっかけとなったのは、総本山第二十六世日寛上人と、徳川幕府第六代将軍・徳川家宣公の御正室である天英院殿により、建立が発願されたことにあります。
これを受けて、第二十五世日宥上人、それに先ほどの日寛上人、さらに第二十七世の日養上人の御三方が、建立の基金として計百五十両を残されました。
この金額は現在に換算すると、およそ四千八百三十万円の高額になるそうです。
しかし、実際にかかったお金は、総額四千二百十三両一分、現在の約十三億五千万円には、まだまだほど遠い額でしたが、後の人々はよくその志を継いで、真心を尽くして御供養を捧げられました。
特筆すべきは、備中松山(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝澄公より二千両もの大金が寄せられ、その他多くの方の御供養と、この大業を必ず成さんという意思を強く持ち続けられた五代の御法主上人猊下様、さらに日因上人の不退転の決意によって、寛延二(一七四九)年六月十二日完成されたものなのです。
まさに、五重塔は、当時日蓮正宗の信仰に生きられた方々の、信心の結晶とも言うべきものなのです。
この二百六十七年前の僧俗の志を我等も受け継いで、これに修理を加え、後世に伝えるお手伝いをさせていただける福運を、心から喜び合いたいものです。
さて、詳しい五重塔の意義については、大白法や妙教に載っていたものを参考にして頂くとして、今日は、その五重の宝塔が金・銀・瑠璃・瑪瑙・硨磲・真珠・玫瑰の七宝で荘厳されているのは、私たちの身が、信心の七聖財で飾られていることの象徴、ということですので、そのことについてお話しします。
七聖財とは、聞・信・戒・定・進・捨・慙の七つの法財です。
一番目の聞とは、よく正法を聞くことです。「聞く」と言う言葉を辞書で調べると、『三省堂新漢和中辞典(中澤規矩也編)』には、
〔聞〕先方の声が耳に入る、きこえる意「― 見」
〔聴〕こちらからきこうとして、すすんできく意「― 衆」
と出てきます。
つまり、聞とは「声、耳に入る」で、きこうという意識もないのに、勝手に声が耳に飛び込んでくること、漠然ときいていることを言い、聴くとは、「耳、声を待つ」で、こちらからきこうと、すすんできく意味、となります。
これが現在の「聴・聞」の意味となります。
ところが、仏法ではこれが反対なのです。それは日寛上人の『神力品談義』(日蓮正宗歴代法主全集第四巻四◯一頁)に、天台大師の『法華玄義』を先ず引用されています。即ち、
「立名(名を立つ)とは、聖の名を建つるを原ぬれば、蓋し深を開き以て始を進め、視聴をして倶に見聞することを得、途を尋ねて遠くに趣き、而して極に至らしめんが為なり。故に名を以て法に名づけ、衆生に施設す」
と。
この中に『聖』とあるのは「本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人のことである」として、さらに次の様に説かれています。
「(日蓮大聖人が、三世十方を貫く至極の深理に、妙法蓮華経と名を建立あそばされたのは)、『視聴をして倶に見聞することを得て』とは、泛爾の目視耳聴なり。大学に云はく、『心ここに在らざれば視て見えず、聴いて聞こえず』云々、この例なり。しかれば、是くの如く泛爾(=汎爾・一般的な)の視聴を挙ぐる所以は、初心始行の人を顕す故なり。
『見聞』とはすなわち当処信受の義にして是れ信なり」
と述べられている通り、視聴とは漠然と〈きいたり〉〈みたり〉している状態で、見聞の方が、こちらの方から真剣な気持ちで、いわゆる信の志でもって、「一言も聞き漏らすまいぞ」という様子を言っているのです。
この私達の娑婆世界は、〈耳根得道の国〉と称して、耳という感覚器官を最大限に活かして、よく仏法を聞いて発心を重ね、修行を積んで成仏をする国なのです。
しかし、大聖人が『秋元御書』(新編一四四七頁)にご指摘の様に、
「器に四つの失あり。一つには覆と申してうつぶけるなり。又はくつがえす、又は蓋をおほふなり(中略)器は我等が身心を表はす。我等が心は器の如し。口も器、耳も器なり。法華経と申すは、仏の智慧の法水を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆い、或は口に唱へじと吐き出だしぬ。譬へば器を覆するが如し」
この意味は、心や口と同じように耳も器なのです。その器に蓋をしたり、うつ伏せたり、あるいは一度口にしたものを吐き出す行為が「覆」という、器の四つの失の一つなのです。どうして仏の智慧の水が器に入るでしょうか。
つまり、仏法を聞く機会を厭い、あるいは聞きたくないと両手で両耳をふさぐ姿、あるいは聞いたとしても、こんなの信じないよと、吐き出し拒絶することの過ちを戒められているのです。
このように、抵抗なく素直に仏法を聴聞しようとする人は、極めてまれなのです。 
ですから仏様は、仏法を進んで聞く人と、あえてその機会を避けようとする人との、功徳と罪の相をお示しになるのです。
まず、説法の機会から遠ざかろうとする人は「失意罪」を得ることになるとの仰せです。『寿量品演説抄』(歴代法主全集四巻一三九頁)には、
「失意罪を得るとは、その報い不如意を受く。ゆえに報いをもって罪に名づけて失意と云う。これらの文の意は、四十里の中に説法あるに、往いて聞かずんば、意に願うこと、一切叶わざるなり」
すなわち、仏法聴聞の機会を失すれば、すべて思いどおりにならない、願うことが全部叶わなくなる…、その報いをもって罪に名を付けるに「失意罪」と言うのです。
次に喜んで仏法を聞こうとする人の果報は、
「因縁経に云はく、法を聞くが為に一歩すれば、万億生死の罪を滅す」
と。さぁ、今日は御講参詣の日だ。御報恩の誠を捧げ、僧侶の法話を聴聞しようと、一歩家を踏み出した途端、過去世から知らずしらずのうちに積み重ねてきた罪障を、一つ一つ消し去ることが出来るというのです。
さすれば、歩みを運んで聞くと聞かざるとでは、罪福の相に雲泥の差が生じること明白ではありませんか。「聞」が我が生命を荘厳する、そのゆえんです。
次の「信」とは、日蓮大聖人出世の御本懐たる、本門戒壇の大御本尊を絶対と信ずることです。
また、血脈付法の御法主上人猊下様の御指南を、その御心を常に拝していくことです。なぜなら、
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意新編九二頁)
だからです。信の大事を述べられた御書は、枚挙に暇がありません。
『念仏無間地獄抄』(新編三八頁)には、
「信は道の源功徳の母と云へり」
とも、『御義口伝』(新編一七三七頁)には、
「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。
此の信の一字は元品の無明を切る利剣なり。その故は、信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり。
解とは智慧の異名なり。信は価の如く解は宝の如し。三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり。智慧とは南無妙法蓮華経なり。
信は智慧の因にして名字即なり。信の外に解無く、解の外に信無し。信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」
等々と述べられている通りです。
三番目の戒とは「防非止悪の義」といって、非道を防ぎ、悪を止むることです。つまり間違ったこと、過ちを犯さないという事です。
代表が五戒です。一が不殺生戒(むやみな殺生を禁ず)、二が不偸盗戒(盗みをしない)、三が不妄語戒(嘘をつかない)、四が不邪淫戒(不倫をしない)、五が不飲酒戒(度を過ぎた飲酒を禁ず)等です。
このようなことは、人として当然のことですから、「三帰五戒は人に生ず」(十法界明因果抄・新編二〇九頁)と御教示なのです。
しかし『法句経』に説く七仏通誡の偈に、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(諸の悪は作すこと莫れ。衆の善は行じ奉れ。自ら其の意を浄くせよ。これ諸仏の教えなり)」
の文も、白居易の言葉通り、三歳の子供でも知っています。それに答えるに、八十のおじいさんでもできないよ、という道林という禅僧の言葉もまたその通りであり、だからどうしたらそれができる様になり、人が人らしく生きることが出来るかが大切なのです。
「教主釈尊の出世の本懐とは人の振る舞ひ」(崇峻天皇御書・新編一一七四頁)
ですから、この方法を説くのを、仏の出世の本懐とするのです。
これこそ、日蓮大聖人の三大秘法の信心です。御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱えゆくときに、我身が妙法の当体と開き、我が心、本来の仏なりと信心領納すれば、牛や馬の様に他から、「ああしろ、こうしろ」と言われなくても、自ずと過ちは自制し、善行は進んで行われる様になるのです。
これこそが、受持即持戒と言われるものです。御本尊の受持信行によって無明煩悩の闇は晴れ、我身が中道実相の妙法の正体と顕われるのですから、自然と十悪業も犯さなくなり、流転から還滅の道をたどることが出来る様になるからです。
第四番目の「定」とは、御本尊様という一境にしっかりと心を定め、今までの邪宗・謗法への念慮を絶し、真剣に題目を唱えゆくことです。すると、御本尊という大聖人の御心・仏心と、私達の心、いわゆる己心とが二つながら一つ、つまり御本尊を信ずる我が心は御本尊と異ならずという大境涯を顕現でき、三世の仏がそうであられた様に、私達もかならず仏の境地を開いて、すべてを受け入れられるようになるのです。
これまでの自身を卑しむ妄想・ひが思いが雲散霧消して、パッと消えて、こうして生きていることが楽しくてたのしくてたまらない、そういう命へとなっていくのです。
第五番目の「進」とは、自行化他の信心修行に精進することです。
精進とは「勇猛精進」といって、この中に「勇猛」とは信心のことです。日寛上人は『依義判文抄』(六巻抄八九頁)に、
「釈に曰く『敢んで為すを勇と曰い、智を竭すを猛と曰う』云々。故に勇み敢んで信力を励み竭すを勇猛と名づくるなり」
喜びの気持ちにあふれ、勇んで行うのが勇で、自分の心を尽くして行うのが猛なのです。
さらに、「精進」とは、唱題の行のことです。日寛上人は先の御文に続いて、(六巻抄八九頁)
「故に釈に曰く『雑無きの故に精、間無きの故に進』云々。宗祖の云はく『専ら題目を持って余文を雑えず』(※四信五品抄新編一一一三頁)」
と、もっぱら題目を、出来るだけ時間を作っては唱えることです。大聖人は『御義口伝』(新編一八〇二頁)に、
「涌出品 昼夜に常に精進すること 仏道を求むるが為たること、もとよりなり   此の文は一念に億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々に起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」
私どもが、この瞬時の命に、億劫にも及ぶほどの骨折りを惜しまず、念をこめて信行を励むことが出来れば、仏がお示しの、「我等本来無作の三身なり」との、いわゆる万法を無作の三身と見る如実知見が開覚されるのです。
その時のために、題目の修行を懈怠なく、また精進行と位置づけて、行わせていただくのです。
『聖人御難事』(新編一三九七頁)
「月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」
『寂日房御書』(新編一三九四頁)
「昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしうとめになる事候ぞ。信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし」
第六番目の「捨」とは、謗法や誤った考え方に執着する心を捨て、正法のために身命を惜しまないことです。(妙教No.285 ・70頁)
また、捨ということに関して重要な示唆を与えるのは、法華経『提婆達多品』の須頭檀王の振る舞いです。須頭檀王は名前の通り、国王です。ところが、この方が仕えた師は阿私仙人という、ちょっと見は乞食坊主です。どこかの有名大学を出ているわけでも無い、ベストセラーの本を書いているわけでも無い、誰か有名人が師事しているわけでも無い、国師として仰がれているわけでも無い、家柄が立派なわけでも無い、というより生まれ種姓は、どこの馬の骨かもしれない、ただ法華経の極理に精通している、というだけです。通常なら、国王がなぜ、王位を捨ててまで、彼の弟子として修行に励まなければならないのか。
国王が身に纏っているものは、すべて師に優っているのに…。
確かに、世の中で働いている人の能力・技術・経験は、それは確かに僧侶に勝っているでしょう。でも、命を育もうという時、大聖人の仏法を学ぼうというときには、それとこれと比較して、どうもこんな人から学んでも、何も役に立たんのでは無いか、などと思ったら、それこそ人生を空しく過ごしてしまうことになるのです。
あの、「芸能界で最も成功したグループ」と絶賛されていたSMAPでさえ、六道輪廻のまっただ中にあるではありませんか。
過去の実績・評価・あるいは肩書き、これは大切なこれまで生きてきたおのれの証ですが、これがために逆に手枷足枷となって、悩み苦しみすら誰にも相談できず、一人煩悶している人は意外と多いのです。否、この人の悩みこそ大きいと言わざるを得ません。
大聖人様は『松野殿御返事』に、
「何に賤しき者なりとも、少し我より勝れて智慧ある人には、この経のいはれを問ひ尋ね給ふべし。然るに悪世の衆生は、我慢偏執・名聞名利に著して、彼が弟子と成るべきか、彼に物を習はゞ人にや賤しく思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候」(新編一○四七頁)
そのような心を捨てて、正法を学ぶべきなのです。それがやがて、我が身を荘厳することになるのです。
第七番目の「慙」とは、謙虚な心で、常に自らの慢心(おごりたかぶり)や懈怠(なまけ)を恥じて反省することです。
大聖人様は、『持妙法華問答抄』(新編二九八頁)に、
「豈冥の照覧はずかしからざらんや」
と。誰が見ていようといまいと、誰が評価してくれようがくれまいと、そんなことは関係ない。
ただひたすら、御本尊様・大聖人様・日興上人以来御歴代の御正師、御法主日如上人猊下様のおめがねに叶った信行に徹しているかを、振り返るのみです。
これを「慙」と言うのです。
『阿仏房御書』(新編七九二頁)
「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」
の御文を日如上人猊下様は、
「この文は『法華経』すなわち三大秘法の随一、本門の本尊を受持する以外には、我が身を宝塔とする道はないという意味であります。(中略)妙法蓮華経という素晴らしい仏性を持っていても、正しい縁に値わなければ、宝塔が宝塔としての、妙法蓮華経が妙法蓮華経としての用きをしないのだから、なんとしても縁をさせるということが大事であります」(信行要文二一九○)
と御指南されています。
人を入信に導くことがどんなに素晴らしいことか。さあ、また元気いっぱい、広布の大道に踏み出しましょう。        
以上

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