『日妙聖人御書』(新編御書六○五頁)
「我等具縛の凡夫忽ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく『如我等無異』等云々。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。譬へば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍ふべき。牛王の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王とならず。今法華経の行者は『其中衆生、悉是吾子』と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難かるべからず」
皆様、新年明けましておめでとうございます。『団結前進の年』の本年も、異体同心の絆も固く、去年までの折伏弘教の勢いをそのままに、共々に頑張って、そして福徳ある一年にしてまいりましょう。
さて、本日拝読の御書は『日妙聖人御書』と申しまして、大聖人様が文永九年五月二十五日、御年五十一歳の時に、佐渡の一谷という所から鎌倉の日妙聖人にお与えになったお手紙でございます。
この日妙聖人は、このお手紙の最後を見ると、夫と離別してすでに久しく、幼い女の子を女手一つで育てておられたようです。お父さんはご存命だったようですが、お年を召されていたか、子供を預けようにも心許ない状態でしたので、その子を引き連れて、大聖人様にお会いするために佐渡に渡っていかれたのです。
その辺のことを、日妙聖人のお心を汲んで、このようにおっしゃっています――鎌倉より北国佐渡の国まで、一千余里にも及んでいる。その間には山々が連なり、後に松尾芭蕉が『奥の細道』に、「荒海や 佐渡に横たう 天の川」と詠じたように、荒海が佐渡の前に横たわって、鎌倉から佐渡へ旅立とうとする人の心を、距離もさることながら、はるか遠い世界のように隔てています。しかも、その山は峨々・けわしくそびえ立ち、海は濤々・大波が畳みかけるように襲いかかり、風雨も晴れていたかと思うとにわかにかき曇り、風を伴って二人を冷たい雨が濡らしたことでしょう。
当時のことですから、旅の者から金品を奪おうとして山賊あるいは海賊が手ぐすね引いて待ちかまえています。その途中、日が暮れては人家を探し求めて、やっとの思いで宿を貸してくれる所を見つけては泊まり、宿を見つけては泊まりして来られたのでしょう。社会が騒然としていますから、民の心といえば、人を見たら虎のように襲いかかろうとするし、あるいは犬のようにけたたましく非難の声を浴びせかけます。
きっと、その身に地獄・餓鬼・畜生などの三悪道の苦しみを経て来られたのでしょう。さらにさらに、今の世はまさに乱世、去年より国には謀反の者が充満し、今年二月十一日には戦があったばかりで、それから幾日も経ってない今は五月の末、いまだ世間は安穏な状態を取り戻したとは到底言えません。
そういう中、よくぞこの地までやって来られました。あなたのご苦労、また信心の志に思いをやれば、この筆をもってしても書き尽くすことはできません。どういう風にあなたのことを称えたらよいのやら、私の心がこれ以上弁えることができないので、一応ここで筆を止めます、とこのように述べられています。
現在の私たちは、離婚をした若いご婦人が、幼子を引き連れてまで、遠い佐渡の大聖人様の元へお会いに行かれたというのは、尋常のことではない。きっと、日蓮大聖人様という男性への、女の情念のなせるワザではなかったのか、と勘ぐってしまいます。
しかし、法華経の行者という真実の師は、遠近親疎といって、遠い関係、近い関係、あるいは親しい関係、疎い関係とも分け隔てなく、平等に接せられるのです。
また一般の人達は好悪美醜と言って、お気に入りの相手、どうも肌に合わない嫌いな人、美しい人、醜い方などによって、お会いする態度がずいぶん違うようですが、それでは師となる謂われは何もありません。そういう私心を断ち切った者であってこそ、初めて法華経の師とはなれるのです。
大聖人様からご覧になれば、皆哀れな末法の荒凡夫です。謗法の害毒充満の者ですから、妙法でしか救われない人々です。故に、師も檀信徒も共に、そのような感情に惑わされることはないのです。ただただ、求道の旅路なのです。
この御手紙の最初の方から少し読んでみますと、あの有名な楽法梵志や転輪王などの故事が書かれています。今日はその中の一つ、雪山童子のことを少し覗いてみましょう。
むかしむかし、雪山童子という人がいました。この人は雪山という山に住んでいたので、こう呼ばれていました。雪山童子はこの山で修行をして学問に打ち込んだお陰で、外道という仏法以外の宗教にはよく通じていましたが、まだ深遠な仏法を耳にしたことはありませんでした。
そういった時、どこからともなく大鬼神が現れて、「諸行無常 是生滅法」という教えを説いたのです。これは、「人を含めあらゆるものが、いつまでも永遠に変わること無くそこにそうして在り続けるというものは無く、これ、すべては生じては無くなってしまうものである」という意味になります。
この教えは、四つずつの漢字でできています。つまり、今で言うところの定型詩になっているわけです。そして基本的には、この四つずつの漢字が四つ集まって、一偈といってひとかたまりになるのが普通なのです。ですから、八字ばかりで、後の部分が欠けていることになります。
そこで、雪山童子は前半分の八字の教えを耳にしただけでも、悦び極まりない状態だったのですが、でもそれは如意宝珠の半分を得たような気持ち、あるいは折角花が咲いたのに果実が実らないのに似て、きわめて中途半端な、煮えきれない気持ちが心を蔽ってきたのです。どうしても残り半分の教えを聞きたい。いや、聞かずにおられようか。それで是非残りの八文字の教えをお聞かせ願いたい、と鬼神に懇願したのでした。
大鬼神といえば、恐ろしく大きくて、角が生えていて、口が耳元まで裂けていて、髪の毛は皆逆立って、まともならギラギラ光る目の玉に真っ赤な色の顔を見るだけで体がすくんで震えて、一目散にそこを立ち去りたい気持ちになるところです。
しかし、その鬼神は姿形がどうであれ、素晴らしい教えを説く方である。私たちはともすれば、見かけによってその人の言葉を聞いたり無視したりするものですが――これを取相の凡夫というそうです――、雪山童子は見た目より、内なる智慧を重んじたのです。
すると鬼神は、「私はこの数日というもの食べ物を口にしておらず、腹が減って腹が減って、頭が朦朧として自分でさえ何を考えているのか分からない程である。だから、後の八文字の教えは説くことができない」というのです。
食事が出来ずに正念を失っているというのなら、その食事さえ差し上げれば教えを説いてくれるかもしれない。そう思った童子は、「あなたは何を召し上がるのですか?」と尋ねました。すると鬼神は「私は人の温かな血肉、いわゆる生きた人間の、血のしたたる肉しか食べないのだ。自分は飛ぶことさえ自由で、あっという間に四天下・太陽の照らす所ならどこへでも自在に行き来出来るのだが、なかなか生きた人間を食らうことはできない。なぜなら、人を天が守り給うゆえに、失無ければ殺害することはむずかしいのだ」と答えたのです。
そこで童子は、「それならば我が身をあなた様に御供養として捧げ、後の八文字の教えをお聞きしたいと存じます」と願い出ました。すると鬼神は、「お前は知恵者じゃのう。私を上手く騙そうというのか」といいました。それに対して童子が答えて言うには、「もし瓦石を金や銀に換えてくれる機会があったとしたら、誰がこれを行わない人がありましょうか。私はこのまま空しくこの山で死を迎えれば、梟や虎あるいはオオカミなどに食らわれて、わずか一分の功徳さえも得ることが出来ないでしょう。もし、この身を捧げて後の八文字の教えをお聞きすることが出来れば、それは糞をご飯に代えるようなものです」と。
この懸命な童子の申し出に対し鬼神は、「我いまだ信ぜず。人はわずかな御供養すら出し惜しむのに、どうして命を仏法聴聞のために捧げる者などいようか」と、さらにその決意のほどを確かめようとします。
それに対して童子は、「証人がございます。過去の仏様も皆証人にお立ち下さるでしょう。それのみならず、大梵天王も帝釈天王も、日・月・四天等も、この場に証人としてお立ち下さるに相違有りません」
それを聞いて鬼神は、「そこまで言うのならば、後半の偈を説こうではないか」と、ついに重い腰を上げて言ってくれたのです。童子は早速身につけているたった一つの鹿の皮を脱いでこれを座に敷き、うずくまって合掌して、「どうぞこの座に着き給え」とお願いしました。
大鬼神は請われるままに座について、「生滅滅已 寂滅為楽」と残りの教えを説きました。童子はこの教えの意味を習い学んで、あるいは木の幹に、あるいはそこら中の石などにこれを書き付けると、崖の上より鬼神の口に我が身を投げ入れられたというのです。
この童子こそ、今の釈尊であり、鬼神は実は帝釈の化けた姿だったのです。
このほかにも、法華経にはかつて薬王菩薩という方が、法華経に灯明を御供養するために、あえて我が身を灯心として火を灯して、七万二千歳というもの長きにわたって明かりを供養し続けたことが描かれています。
後世に、鳩摩羅什という方が、現在私たちが使っている法華経を翻訳されたのですが、それが余りに素晴らしい出来映えだったので、自分たちも薬王菩薩のように身を焚いて明かりを法華経に御供養したいという方が後を絶たず、幾度も政府が焼身自殺の禁止令を発した、というほどだったそうです。あるいは不軽菩薩という方は、長い間、二十四字のゆえに、数え切れない多くの人から罵倒され、杖やこん棒などで打たれ、あるいは瓦石などを投げつけられなどして迫害されました。その二十四字というのは、「我深く汝等を敬う、あえて軽慢せず。所以は何かん。汝等皆菩薩道を行じて、当に作仏することを得べし」というものです。この不軽菩薩というのも、今の教主釈尊のかつてのお姿なのです。
あるいは『提婆達多品』には、昔須頭檀王という王がおられたが、彼の王は妙法蓮華経の五字を悟るために、千歳が間阿私仙人に身を床とするなどして、一切のものをかなぐり捨てて修行されたといいます。その時大臣やお后は、「もういい加減、酔狂なことはお止めください。一時の気まぐれにもほどがあります。もうお飽きになられたでしょう?こんなあてどない修行など、根を詰めたって何の価値があるものですか」と、必死に止めるように進言するのですが、須頭檀王は「情存妙法故 身心無懈倦」と静かに答えられたといいます。
つまり、こころに妙法を存するが故に、心身共に、懈怠・怠けや倦む・飽きる心など微塵も生じない。いつその、我を妙法と開く瞬間が訪れるか、今かあるいは明日か、その心地よい緊張感に包まれて、須頭檀王はこの師に仕える修行をされていったのです。
ところで、法華経は八巻からなっていることは衆知のことです。この八巻を読めば十六巻を読んだことになります。なぜなら、釈尊が説き、これに多宝如来が真実なりと証明を加えられたお経であるからです。その十六巻は無量無辺・数え切れない巻物と言えましょう。なぜなら、大空を覆い尽くした十方分身の諸仏の証明があるからです。
法華経の一文字は二文字とも言えます。釈迦多宝が並座して説かれたお経の文字だからです。また、一字は無量の字と言えます。先ほども申しました、十方分身の諸仏が証明された経文だからです。
これは何を言わんとされているのかといえば、譬えるに、如意宝珠は、例え一つの珠であったとしても、自由に宝を降らすところから、二つの珠、あるいは無量無辺の珠といっても少しもおかしな事ではない。法華経の文字は、元々は一つの文字は一つの宝、それが無量の文字とされるのも、無量の宝を降らす如意宝珠と同じだからです。
法華経の妙の一字には二つの舌があられます。いわゆる釈迦多宝の御舌のことです。このお二人の仏の御舌というのが、八葉の蓮華であります。この重なった蓮華の花弁の上に宝珠があって、それが妙の一字なのです。
この妙の一字はあたかも如意宝珠のように、昔釈迦如来が檀波羅蜜の修行をされた時に、飢えた母虎に身を施された功徳、あるいは鳩の命に引き替えに我が身を鷹に与えられた功徳、あるいは尸羅波羅蜜といって、須陀摩王としてそらごとをせず持戒波羅蜜の修行を成就した功徳、忍辱仙人として歌梨王に身を切り刻まれても能く耐え忍んでいかれた忍辱波羅蜜の功徳、能施太子となってハマグリの貝殻で大海の水を半ばくみ出した精進波羅蜜、尚闍梨仙人として鳥が巣立つまで禅定を止めなかった禅定波羅蜜の修行などの、六波羅蜜の修行の功徳をすべて妙の一字に納め籠められて、末代悪世の私たちに、一善を修めなくとも、万行万善諸波羅蜜の一切を漏れなく満たす功徳をお与えになられたのです。
その証拠が「今此の三界は皆是れ我が有なり。その中の衆生は、ことごとく我が子なり」の経文です。
私たちのような、宿業に、あるいは煩悩に、そして生死という苦にがんじがらめの迷いの凡夫が、ただちに教主釈尊と功徳が等しい、という経文の意味なのです。
なぜかならば、先ほどらい長々と申し上げてきた功徳を、すべて譲り受けるからなのです。ですから、法華経『方便品』には、「如我等無異――我が如く等しくして、異なること無からしめん」(法華経一一一頁)と書かれているのです。御本尊様を信ずる人は、教主釈尊と全く等しい、いう仏様の御金言なのです。
目を白黒されて余りのことに面食らっている方に、譬えをあげてもっと理解が進むようにいたしましょう。それは、こうです。両親が睦み合って、子供をお産みになりますでしょう。この子供の身は全体、父母の身です。両親の血肉を分けた身です。誰が、この事に異を唱えるでしょうか。
「牛王の子は牛王なり。いまだ師子王とならず」――牛はインドでは聖獣、聖なる動物です。その白くて筋骨隆々とした牛の王の子は、今は例え小さくとも、必ず近い将来牛王となります。決して師子王、百獣の王と称されるライオンになることはありません。
そしてその「師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王とならず」――ライオンの子供もしかりで、今は小さいコロコロとしたぬいぐるみのようであっても、必ず師子王となります。決して人間の王にも、天王――大梵天王などの諸天になることはありません。
これは自明の理です。
今見てきたように、法華経の行者・御本尊様を信ずる人は、「其の中の衆生は、ことごとく我が子なり」とあるように、教主釈尊の御子・仏子なのです。どうして教主釈尊のような、法王となることに難しいことがあるでしょうか。
ただし、世間一般でも、親不孝の者はその両親の跡を譲られない、といことがございます。例としては、中国古代の理想とされる、堯王には丹朱という太子があり、舜王には商均という王子がいましたが、二人共に不孝の者でしたので、父王に王子の地位を剥奪されて、ただの民となってしまいました。
それに反して、重華や禹という人は、共に民の子でありましたが、孝養の志が深かったので、堯舜の二王はこの二人を召して位を譲られたのです。まさに、「民の身、たちまちに玉体とならせ給ふ」の文、そのものだったのです。
この、民の身であったのが現にその身が王となるのと、迷いの凡夫であったのが忽ちに仏となるのと、全く同じことなのです。一念三千というのは、法界の森羅万法すべてが、我等が一念に具わって妙法の当体なり、と悟るのが仏であって、これに迷うのを凡夫という。これを教えるのが法華経なのです。ですから、この一念三千を肝心というのです。
しかるに、どのようにしたらこの功徳を得ることができるのでしょうか。楽法梵志や雪山童子のように皮を剥いで紙としたり、あるいは仏法聴聞のために鬼神に身をささげるべきなのでしょうか。
これについて天台大師のお弟子の章安大師は「取捨選択の宜しきを得て、一辺に囚われてはならない」と述べられています。
つまり、正法を修めて仏になる修行は、時によるべきなのです。日本に紙がないというならば、身の皮を剥いで紙として教えを書きとどめなければならないでしょう。あるいは日本に法華経もなく、その文底に秘沈された三大秘法をお教え下さる御本仏日蓮大聖人様も御出現になっていなくて、鬼神のみがそれを知っているというのならば、その鬼神に身を捧げるということも必要でしょう。また、日本に油がないなら、薬王菩薩のように我が身を灯心として明かりを御供養することも立派な修行でしょう。
しかし、日本には厚い紙も充分にあるのに、どうしてわざわざ身の皮を剥ぐ必要があるでしょうか。
ところが、玄奘三蔵はインドへ法を求めての旅を十七年も続け、十万里を踏破したという。伝教大師も唐にあること二年、東シナ海の波涛三千里を渡って行かれました。しかし、これらは男子であり、いにしえのことであり、賢人・聖人と称される方のなされたことであります。いまだかつて聞いたことがありません。女性がただ仏法を求めて千里の道を踏み分けて行った、などということを。
経典にある八歳の竜女の成仏も、摩訶波闍波提比丘尼という釈尊の乳母が成仏の太鼓判たる記別に預かることができたのも、日蓮は詳しくは知らないが、聞き及んでいるところによると、皆権化のしわざ・仏菩薩が後世に信仰のお手本を示されたものである、というではありませんか。また、煌々たる仏のおわしました時代のことです。
大聖人様は『乙御前母御書』(六八九頁)にも、
「天台大師の御弟子に章安と申せし人は、万里をわけて法華経を聞かせ給ひき、伝教大師は三千里をすぎて止観をならい、玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給へり。道のとをきに心ざしのあらわるゝにや。かれは皆男子なり。権化のしわざなり。今御身は女人なり。ごんじちはしりがたし。いかなる宿善にてやをはすらん」
と仰っています。
この御文でよく間違って解釈されているのは、「ごんじちはしりがたし」の中の「ごんじち」です。これは「権実」のことですが、決して「女性だから権実相対の法門も知らない」、という意味ではありません。それを知らなかったら、どうして念仏を捨てて、大聖人様の御本尊様を信ずることができるんです?
この権実とは、権者と実者のことなのです。権者とは権化ともいって、仏や菩薩が人々を救い導くため、仮に人の姿になってこの世に現れたもので、「ごんざ」とも言います。実は実者のことで、権化ではない、実体のままの神仏を指しています。日妙聖人がそのいずれであるか知ることは、私には到底できない、と。もしかしたら、実者とは、権化でない、生身の、ただ一人の人間、という意味で使われているのかもしれません。
普通の、ただの生身の人間の、しかも仏法に無知と散々ののしられてきた女性が、「仏法にかしこく」「実語の女人」であることに驚嘆せられ、「日本第一の法華経の行者の女人なり」として、不軽菩薩の義になぞらえて「日妙聖人」の名前を贈られたのではないでしょうか。
切られれば血が出る、食べなければすぐ飢える生身の人間が、あらゆる困難を乗り越えて実際行っているこの信心の功徳というものが、決して彼ら権者に劣る者ではない、いや勝るものである、ということをお伝えしたい。そういう大聖人様のお心がにじみ出ているお手紙と拝せられます。
私どもは今、御法主日如上人猊下様の陣頭指揮のもと、唯一正法を掲げる日蓮正宗の教えを全世界に広宣流布するその信行をさせていただいています。
しっかり勤行をし、寺院に共々に集い、異体同心の絆をいよいよ固め、邪宗謗法の害毒を世の中より一掃するため、今一重の信心に立ってがんばってまいりましょう。
以上