『種々御振舞御書』

『種々御振舞御書』(一〇五七頁)
「仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給ふ瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つゞきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこへよかし」
はじめに
 
本日は龍の口の御法難会を奉修いたし、皆様と共に御報恩の誠を捧げさせていただきました。
龍の口の御法難は、文永八年太歳辛未九月十二日に起こった事件です。
この九月十二日は当然旧暦でありまして、これを文永八年・西暦一二七一年のグレゴリオ暦では、「矢嶋ひでお」氏の『新暦・旧暦対照表―鎌倉期の旧暦日を現行新暦日に対照する表―』によると、十月二十四日夜半から二十五日早朝にかけての出来事となります。
それで、以前の末寺のお会式は、十月二十五日からおおよそ一週間をかけて、教区の寺院を順繰りに回って奉修していたのです。
と、言うのも、大聖人の御一生において、非滅現滅・非生現生・三世常住のお姿をお示しになった時は二度あるからです。一度目はこの龍の口の御法難、二度目は弘安五年十月十三日の御入滅の日でございます。
ご存知のように、弘安五年の十月十三日はグレゴリオ暦に換算すると、十一月二十一日に当たるところから、総本山においてはこの前日・二十日に御逮夜法要、二十一日に御大会法要の御正当会が奉修されているのであります。
非滅現滅・非生現生とは
ちなみに、龍の口の非滅現滅・非生現生とは、私たちが知っている死とは、呼吸が止まり、心臓の鼓動が停止し、瞳孔が開き、回りからの刺激にピクリとも反応しなくなり、その状態から後戻りできなくなったことを指します。その一般の死ではないのですが――なのでこれを「非滅」といいます――大聖人御自身が、
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたる」(開目抄五六三頁)
と、今までの日蓮は頸を刎ねられて死んだ――これを「現滅」といいます――と仰って、お釈迦様のお使いの、上行菩薩の再誕・生まれ変わりとしての今までの日蓮は頸をはねられて亡くなったと、述べられているからです。
魂魄とは?
次の「此は魂魄佐土の国にいたる」とは、三省堂の「新漢和中辞典(長澤規矩也編)」(九十三頁)によると、
「人間は、生きているときは、魂と魄とが結合し、死ねば分離する」
と言うことで、
「死ねば精神を主宰(中心となって全体をまとめること)する魂と、肉体を主宰する魄とがバラバラになる」(同頁取意)
わけですから、この二つが一つになって再生・更新・蘇生するために「子の方角」・北方に向かって行ったことを表わされているのです。
地図を見てみると分かりますが、「龍の口」から真っ直ぐ北の佐渡に向かわれていますね。
お墓を北に建て水をかける理由
北方が死者の再生を願う方角であることは、これは私たちも昔からの言い伝えで当たり前のようにやっています。それが、お墓は基本的に北側に建てるのが良いとされ、そのお墓参りの時には墓石の上から水を掛けます。これが、死者が早く生まれ変わるようにと祈るおまじないなのです。
なぜなら北方は、子という戌亥の極陰の状態から一陽の萌す、すなわち一陽来復の場所だからです。
しかも、北方は木火土金水の五行の中には「水」に該当するのです。(『五行御書』八〇三頁…この御書は大石寺に御真筆があります)
まさに、日本海に浮かぶ佐渡ヶ島に再生の為にお渡りになったと言うことは、その当時の人々の知識どおりに事が進んでいるのです。
子・北方の意味とは
このことを吉野裕子氏は『十二支』(人文書院刊)に、
「子は解字すれば『了』(おわり)と 『一』(はじめ)、つまり子とは終わりと始めを一つに束ねる所である。ものの終わりであって始めの所、換言すれば、ものの『終始』の所とは、中枢であり中心である。万象を輪廻・循環の相で捉える中国哲学において、ものの終始の時と所を象徴する『子』は、まさにその輪廻の中枢・中央として意識されていた」(二十四頁)
「『子』は太極と同時に新旧交代を意味する所、新旧・陰陽を一つにする所、とりわけ一陽の萌すめでたい方位でもある」(二十八頁)
また、『祭りの原理』(慶友社刊)には、
「水は先にも言ったように人の誕生の媒介をなす羊水になぞらえられた水……胎児が母体の羊水の中に包まれて浮游する状態は無重力の宇宙に浮かぶ天体にも比せられる。その水につつまれた生まれ出る前の生命体の相、それこそ新しく出ることの前提、新生への必須条件である。そうして包まれていた水にのって生命は現われ出てくる。この水の力を古代人は見逃さなかった。水が一切の誕生・脱皮の媒体となるという認識は、水壕を廻らす陵墓の構造にも、唖の息子の為に池を作る話にもうかがえるのではなかろうか」(※御影堂の東側にも、小さな滝の、水のほとばしり出る造型が設置されています。表紙の写真参照)
この北方佐渡の国にて一つと成った魂魄は、久遠元初の自受用報身如来となって蘇生されたのです。
この誕生は、私たちが母から生まれ出る出産とは違いますので「非生」、しかし下種の御本尊・御本仏の御誕生なるが故に「現生」、と申しあげるのです。
つまり、非滅現滅・非生現生の久遠元初の即座開悟の再現ですので、御本仏の三世常住をお示しになられたものとして、心よりのお祝いを申しあげるのです。
龍ノ口の御法難の顛末
さて、前置きが随分と長くなってしまいましたが、龍の口の御法難の事件の顛末をお話ししましょう。
この時も、日蓮大聖人お一人を捕らえようとするには、余りに常軌を逸した、無法極まりないものでした。
その当時の人たちの記憶に鮮烈な印象として残っている、建長三年十二月に起きた、九条堂の住僧・了行が鎌倉幕府転覆を企て捕らえられた事件では、検非違使の佐々木氏信や引付衆の武藤景頼が逮捕に向かい、弘長元年六月に起きた大夫律師、いわゆる、三浦義村の子である僧・良賢が世を乱そうとした時には、侍所司平左衛門尉盛時及び諏訪盛重入道が手兵を率いて召し捕りに向かいましたが、その謀反の者を誅する――罰するための逮捕劇の規模を、遙かに凌ぐものでした。
この時の指揮を執ったのが平左衛門尉頼綱です。彼が大将として数百人の兵士たちに胴丸着せて烏帽子かけして――烏帽子が脱げないように頂上からあごの下まで紐で結ぶこと――、目を怒らせ声を荒げながら襲撃してきたのです。
彼らのこれまでの一連の動きを俯瞰すれば、太政入道・平清盛が天皇に成り代わって執政しながら、彼の横暴のせいで国が崩壊の危機に瀕したのにも似て、正にただ事ではありません。
彼らがこうして暴徒となって襲う姿を見て、大聖人は次の様に感想を漏らされました。
臭き頭を法華経の為に…
「日ごろ月頃思い願っていたことはこの事である。なんと幸せなことであろうか、法華経のために身を捨てる(命を御供養する)事が出来ようとは……。
この臭い頭を、法華経を弘めたとの理由で刎ねられるならば、その果報は、あたかも砂を金に換え、道端に転がっている普通の石と宝石とを取り替えるのと同じである。こんな嬉しいことがあるだろうか」
と。
 この兵士らが大聖人の草庵に乱入し、何もかも辺り構わず蹴散らした時、大聖人は思わずそこに残っていた一つの巻物を、懐にお隠しになりました。
 
少輔房の打擲
それを目ざとく見つけた平左衛門尉の一の郎従(従者の中で最も地位の高い者)の少輔房という者が走り寄ってきて、その経巻を取り出すやいなや、その経巻で大聖人の顔をバシッバシッバシッと、三度も打ちつけました。
打つ杖も法華経第五の巻
その時大聖人はあることに気づかれて、その経巻を奪い返すやじっとご覧になり、一粒の涙を流されたのです。それを見た頼綱は、やっと後悔しはじめたものと早合点し、「女々しいぞ、日蓮。お前が自ら招いた哀れな末路ではないか」と嘲笑したのです。それに対し大聖人は、「そうではない。これは感極って流した涙・感涙なのだ」と応ぜられるのです。この事については、後に次の様に述懐されています。
「杖の難には、すでに少輔房につらをうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり。されば少輔房に、日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には、法華経の故とはをもへども、いまだ凡夫なればうたてかりける間、つえをもうばひ、力あるならば、踏みをりすつべきことぞかし。然れども杖は法華経の五の巻にてまします」(上野殿御返事一三六〇頁)
真実の法華経の行者には、必ず種々の迫害法難が降りかかってくる。その中に「及び刀杖を加える者あらん」とあるが、この杖の難にはかつて少輔房によって顔を打たれたけれど、それも法華経第五の巻物をもって打たれた。打つ杖も第五の巻物ならば、打たれるであろうという文字が記されているのも第五の巻――この中にそのことが予告されている勧持品が含まれている――この一致は人智をはるかに超えた、誠に不思議な未来を記された書というほかはない。
それゆえ、少輔房に、日蓮数十人もの人のいる中で打たれた時は、法華経を弘めたが故の、必然のこととは頭では理解できていても、いまだ凡夫であるから「満座の中で顔を人にぶたれるなど、これほどの恥ずかしめはない」という思いにかられて、それでその杖をも奪い、力があるならば、踏みつけあるいは破り捨て去ってしまいたいとの感情が一瞬頭をよぎったが、それを思い止まらせたのが、その杖の正体が、『打たれるであろう』と、この杖の難を予告した『勧持品』が載せられている『法華経第五の巻』であったからである。
この不思議、これ以上の喜びがこの世にあるだろうか、「正に、二千年前の金文字たる法華経に載せられたる某、と知ることが出来たのだから。それはこの日蓮の修行が正しいことを明らかにする証でもある」。
しかし彼らはこれまでの大聖人の主張をわざと無視し否定するかのように、経巻を部屋中にまき散らし、あるいは身に纏ってふざけてみせる者、あるいは足で踏みつける者、板敷きや畳など足の踏み場も無いほどに、経文を乱暴にちらかして暴虐の限りを尽くしました。
平左衛門が只今日本の柱を倒す
その時大聖人は大音声を放って、「あら面白や、平左衛門尉が物に狂う様を見よ。愚かにも、今日本国の柱を倒そうとするぞ」
と。お諫めになりました。これが余りに威風堂々としていたので、これを聞いた者らに動揺が走ったのです。
通常なら、普段はどんなに立派なことを言い強がっていても、それは身近に危険が差し迫っていないから、あるいは危険を受けない安全な場所に身を置いているから命も惜しまないようなことを人々に向かって平気で言いふらしますが、それが現実のものとなると、皆ちぢこまって、ガタガタブルブル震えだすものなのです。
大聖人こそは御勘気――幕府の要人の逆鱗に触れ、咎めを受けること――を被っているのだから、人は大なり小なり臆病風に吹かれるものだが、そうでは無いとすれば、これは自分たちの方が間違ったことをしでかしてしまっているのでは無いか、とでも思ったのです。それで、兵士共は皆青ざめてしまいました。
そこで大聖人は、真言宗や禅宗・念仏宗がなぜ悪法で、人を不幸におとしめてしまうのか。なぜ幸せになれないのか。
はたまた、この騒動の直接の原因が、幕府の威信をかけた良観の雨乞いであったにもかかわらず一滴の雨をも降らすことが出来ずに、彼が聖人でも生き仏でも無い、ただの誑惑の人であることが露見するのを恐れて、雨乞いの勝負相手である日蓮の口封じのために幕府の要人と良観とが結託して起こした事件であることを、有り体のままに平左衛門尉に言い聞かせたところ、それをあざけるようにどっと笑い立て、あるいは怒号を浴びせかけるなどしたことは、余りに煩雑になるので、これ以上書くことは控えられました。
極楽寺良観との雨乞い対決
かいつまんでお話ししてみれば、この文永八年は五月頃から全国的に干ばつに見舞われ、人々は苦しみに喘ぎ、有効な手立てを打つことが出来ない幕府に対して怨嗟の声が上がっていたのです。そこで幕府は極楽寺良観に雨乞いの祈祷を命じたのです。
これを伝え聞かれた大聖人は、この機会に、教えの正邪を世に知らしめようとされたのです。なぜなら、その祈りによって雨が降ったか降らなかったかは、小学生でもわかるからです。そこで良観房に次の様な約定を示されました。
「七日の内にふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門捨てゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし。雨降らぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし(中略)又降らずば一向に法華経になるべし」(頼基陳状・一一三一頁)
これを見た良観房は、涙を流して喜んだと言います。勝てば、あの日蓮を打ち負かしたという事で、名声が一挙に上がると思ったのです。
それに思い上がりもはなはだしく、日本国民に皆戒律を持たせて、国中から殺生や酒飲みを無くそうとしているのに、日蓮に邪魔されて果たせないでいた。これでやっと宿願が果たせる、と思ったというのです。
この雨乞いは『請雨経』という経典に書かれた内容に基づいて行われるのですが、青色に染められた幔幕を四方に張り、そこに列席する僧侶の袈裟衣一式も皆青色染めのものを、ついでに坊主の頭もツンツルテンに剃った青色にして、正面に龍の絵が描かれた曼荼羅に向かい、この請雨経を唱えるのです。
このような舞台装置の上に、集められるだけの坊主を集めて祈祷が行われたのですが、どういうわけか、一週間の期日を迎えても、一滴の雨も降りません。そこで良観はさらに一週間の祈祷の延長を大聖人に申し出るのです。
和泉式部能因法師の三十一文字
ところが一週間延長しても雨が降るどころか、その祈祷を無駄だとあざ笑うかのように逆風が吹きます。大聖人はその間、たやすい雨も降らせずして、どうして成仏・往生が叶えましょう。世間でも一丈の堀を越えぬ者が、どうして十丈二十丈の堀を越えられようか、というではありませんか。
多情な女性として知られる和泉式部は、八斎戒の中で禁じている和歌を詠んで雨を降らせたという……それが、「ことはりや 日の本なれば てりもせめ ふらずばいかに 天が下とは」(御書文段四四六頁)の三十一文字ではないか。
同じように、あなたと正反対の破戒の身たる能因法師も、「天の川 なわ代水に 堰下せ 天下ります 神ならば神」(同文段集四四六頁)の、わずかな句を詠んで雨を降らせたという。
このことから考えてみれば、よほどあなたの裏の顔は放逸・どす黒いに違いありません。
などと、三度にわたって彼を諫められたのです。
その一週間延長の祈祷も空しく、日照りは止むことはありませんでした。彼の祈祷が無駄だったことは、誰の目にも明らかです。
大聖人は人々の苦しみを救うべく、日興上人を伴って田鍋ヶ池に行かれ、三具足を整え、方便品・寿量品・題目をお唱えあそばされたところ、大地を潤すべく雨が降り始めたのです。
――この時使われた三具足が、四月六日・七日の総本山お虫払い法会の時、猊下様の高座の前にしつらえられます――
これにより、良観が悔しさのあまり、辺りを憚らず泣いたこと、また幕府の要人に日蓮大聖人のあること無いこと、様々に讒言したことは誰でも知っている事実なので、この諫めについても、頼綱が貝のように口を閉ざしてしまったことなど、冗長に過ぎるとお考えになって、これ以上の子細は、一々お書き留めにはなりませんでした。
八幡大菩薩への諫暁
囚われの身となった大聖人は、一時、国司・武蔵守殿(北条宣時)の元へ預かりとなり、夜半に及んで頸を切る為に鎌倉を出発して若宮小路に出た時、前後左右を逃げないように兵士が取り囲んだ状態でしたが、あえて「おのおの、騒ぎ立てるではない。逃げようというのじゃ無いから安心しなさい。ただ、八幡大菩薩に最後に一言申しあげることがあるだけだ」とて、馬からおりて大音声を放たれたのです。
「いかに、ここにおわしますという八幡大菩薩は誠の神か。もし、そうならば、和気清麻呂が天皇の血筋を守る為に穢れ麻呂と汚名を着せられ、いざ頸を切られようとした時には、一丈の長さの月となってこれを守護したように、あるいは伝教大師が法華経を講じた時には、紫の袈裟を御供養する為に現実に身を現わされたではないか。
今日蓮は日本国の一切衆生が無間地獄に堕ちてしまうのを救うべく、この南無妙法蓮華経の教えを広めているのである。身に一分の過ちの無い法華経の行者である日蓮を守護しないのならば、日本の八幡大菩薩こそ、法華経会上の誓いを破る神であると、真っ先に釈尊に報告せねばならない。これは『耳が痛い』と思われたなら、早くやるべき事を果たすべきです」
と諫められて、後は何事も無かったかのようにふたたび馬に乗られました。
四条金吾殿へ急を告げる
しばらく行くと視界が開け、由比の浜に出ました。やがて御霊社の前に来た時、また兵どもに告げられました。「しばしお待ちください。急ぎこの事を知らせなければならない人がいるのです」と、中務三郎左衛門尉と申す者(四条金吾)のもとへ、熊王という童子を使いとしてやられました。 
すると、急を聞きつけて兄弟四人が裸足で駆けつけてきました。でも、どの顔も「恐れていたものが、とうとうやって来た」という不安と悲しみに満ちていました。
大聖人様はそんな彼らをご覧になって、「なんて顔をしているのです。この数年が間というもの、私が願ってきたことはこのことである。この娑婆世界に、過去にキジとなって生まれてきた時は鷹の餌食として捕まり、ネズミとなって生まれた時は猫に食らわれたこともあったでしょう。あるいは、妻や子供、それに、仇の為に身を失ったことなどは、大地の砂粒より多かったに違いありませんが、法華経の為にこの身を失ったことは一度もない。それゆえ、これまで日蓮は貧しく、父母に対して孝養をすべきにも先立つものが無く、また国の恩を報じようとしてもその力も持ち合わせてなかったから出来なかった。
今度我が頸を法華経に奉って、その莫大な功徳をまず父母に向かわしめ、その余った分は弟子や信徒に配ってあげよう、と常の説法で言ってきたのはこの事である」
このお言葉を拝し、兄弟四人は顔を上げて、せめて龍の口までは御守護させていただこうと、轡にとりついて歩き始めました。
おばあさんと、ぼた餅の御供養
と、その時、人混みをかき分けるようにして、一人のおばあさんが大聖人の御馬前に進み出てきたのです。手には鍋ぶたを捧げ、そこには急ごしらえのぼた餅が載せられています。もちろん形は不揃いです。
すると不思議にも馬はピタッと止まって、てこでも動きません。おばさんはこれ幸いと思ったのか大聖人に語りかけます。「上人さまッ、今生のお別れでございます。どうかこのおばばの作ったぼた餅、最後の御供養と思ってお受け取り下さいませ」すると、大聖人は、「おばあさん有り難う。確かにあなたの真心の御供養、お受けいたしましたよ。でもね、今は見ての通り、日蓮は馬上の囚われの身、ハイそうですかと、頂戴するわけには参りません。でも、一つ約束しましょう。私は必ず龍口から戻って参ります。その時には、その真心のぼた餅、一緒に食べましょうね」と声を投げかけられました。
おばあさんは、「龍の口に行って、いまだかつて生きて返ってきたものはいない。上人はおばばのことを気遣って、あのような優しい言葉を掛けてくだすったんだろう」と、オイオイと辺りも憚らず泣いたという。
西大宣寺の御宝前にも、皆さんにあとで差し上げる為に、家内が用意したぼた餅がお供えしてあります。どうかいただいてお帰りください。
するとまた馬が動き出しました。まるで何もかも分かっているかのように。
龍の口の頸の座
しばらく歩みを進めた頃、「ここら辺であろう」と、なんとなく見当をつけていたところ急に慌ただしくなって、取り囲んでいる者らに更に緊張の度合いが高まってきました。
すると、四条金吾殿が「只今なり」と言ってむせび泣きました。大聖人は「不覚の殿ばらかな、これほどの悦びをわらへかし、いかにやくそくをばたがえらるゝぞ」と、正気を失わないように励まされるのです。
しかし事が差し迫っている状況の中で四条金吾殿は、「自分も追い腹掻き切って霊山浄土までお供申しあげる」と、決死の覚悟を示すのです。それが、
「さてもさても去ぬる十二日の難のとき、貴辺たつのくちまでつれさせ給ひ、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ、不思議とも申すばかりなし」(四条金吾殿御返事・四七八頁)
の御文なのです。しかし、運命の時間は否応なくやって参ります。首切り役人は依智三郎左衛門尉直重、刀は名剣蛇胴丸、その刀をかざした直重はこうやって大聖人に囁きかけたというのです。
「おう、日蓮よう。もういい加減意地を張るのは止めたらどうだ。俺だって坊主殺して、七代祟られたくなんかないやい。たかが宗教だろう。チョチョット題目止めて、南無阿弥陀仏と称えるだけじゃないか」
と、すると大聖人は、
「たかが宗教?じゃありません。天変地夭に飢饉疫癘など前代未聞の災い不幸が、邪宗謗法が国を席巻しているが故に今日本に起きているのです。法華経に背く者が多ければ、諸天善神や聖人が所を去って還らざる故に、そのもぬけの殻となった神社や祠に魔や鬼神が移り住み、国土は守護の善神に見離されたためにあらゆる災害が起こり、人の命は歪み荒み、正に地獄・餓鬼・畜生・修羅さながらの相ではありませんか。日蓮は人々の成仏の直道たる妙法を広めるべく、仏の勅宣を賜わってここに生まれ来たった者。これを断じて止めるわけには参りません」
と、後は音吐朗々とお題目を唱え続けられました。
それを聞いた依智三郎左衛門は「エイッ、もはやこれまで」と刀を振り下ろしました。するとどうでしょう。突然江ノ島、辰巳の方角から毬のような光り物が回りを圧倒しつつ、戌亥の方角へ向かって飛んでいったではありませんか。
それによって太刀取りは目がくらみ・倒れ伏し、あたりは煌々たる月光をすぐ頭上から浴びたように照らされ、そのほかのつわものどもは怖じ恐れ、あるいはすっかり興ざめした状態になり、ある者は三百メートルもすっ飛んで逃げ去った者、あるいは馬上でうずくまって動けないでいる者、また馬から下りて神妙な顔つきでかしこまっている者など、先ほどまでの威勢はどこへやら、おもちゃ箱をひっくり返したような有様でした。
それに、余ほど恐ろしかったのでしょう、大聖人が「早く戻ってきて日蓮をどうにかしなければ、幕府の威厳も失って大衆に醜態をさらすことになるでしょう。近く打ち寄れや打ち寄れや」と、何度呼ばわっても、まともに返事すら返ってこない状態でした。
まさに、御本仏の絶対的な威力の前に、魔王らがひれ伏した姿だったのです。
この「頸を刎ねられる」とは経文の「及加刀杖(および刀杖を加うる者あらん)」に相当し、「魂魄佐渡に到りて」とは、「数々見擯出(しばしば擯出せられん)」の経文に符合します。ゆえに日蓮大聖人は「我不愛身命、但惜無上道(われ身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ)」の法華経の行者であることは、誰も疑いを差し挟む余地はありません。
附文・元意の法門
でもこのとらえ方は、まだ浅薄な、文字の表面をたどって解釈したものに過ぎません。「四悉檀の法門」から言えば、「世界・為人・対治悉檀」に当たるもので、これを「附文の法門」といいます。
それに対して、血脈相伝の上から一層の深義を拝する「元意の法門」というのがあるのです。四悉檀で言えば「第一義悉檀」に該当します。
日寛上人はこの元意の上から龍の口の御法難の意義を述べられるに当たり、次の様に先ず誡められるのです。
「これ第一の秘事なりと雖も、略して之を示さん。汝伏して之を信ずべし」 と。而して、
「まさに知るべし、この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われたもう明文なり(『開目抄文段・文段集一六七頁』)
と、この時こそ内証真身の成道を遂げられ、久遠元初の自受用身すなわち末法下種の御本尊として顕われ出られた瞬間だったのです。
大聖人の御修行は種家の本因妙 
しかしこれは、闇雲に法華経を広めて、色んな迫害に遭っている最中、偶然にこの時を迎えられたのではありません。このことを日寛上人は、
「問う、釈尊は久遠五百塵点劫の当初何なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。
答う、是れ種家の本因妙の修行に由るなり。前文に云わく『聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果俱時に感得し給ふ』等云々。
文に『聖人』とは、即ち名字即の釈尊なり。故に位妙に当たるなり。後を以て之を呼ぶ故に『聖人』と云うなり。
この名字凡夫の釈尊、一念三千の妙法蓮華を以て本尊と為す。故に『此の法を師と為す』と云う。即ち是れ境妙なり。
『修行』等とは、修行に始終あり。始めは是れ信心、終わりは是れ唱題なり。信心は是れ智妙なり。唱題は是れ行妙なり。故に『修行』の両字は智・行の二妙に当たるなり。
此の境・智・行・位を合して本因妙と為す。
此の本因妙の修行に依って、即座に本果に至る故に『妙因妙果俱時に感得す』と云うなり。即ち今の文に『妙法当体の蓮華を証得して』と云うは是れなり。
今本因・本果とは、即ち是れ種家の本因・本果なるのみ。
釈尊既に爾なり、蓮祖も亦爾なり云々」(『当体義抄文段』・文段集六三四頁)
と「種家の本因妙の修行」によって久遠元初の自受用報身如来となられた、と述べられています。
つまり、種家の本因妙の修行に依らなければ、久遠元初の自受用報身如来となる事は出来ない、ということなのです。
本因妙の修行ってどういう事?
その種家の本因妙の修行とはどういうものかと言えば、「境妙・智妙・行妙・位妙の四妙」を合わせて本因妙と言います。
日蓮大聖人が久遠元初の本因妙の教主釈尊と同じく、名字即の凡夫であることは「位妙」に当たります。
名字即とは「一切法は、皆仏法妙法蓮華経と知る位」で、この世に存在するすべてが妙法蓮華経という仏の姿、一仏の境界と悟る位のことです。
「この名字凡夫の釈尊――実は日蓮大聖人――、一念三千の妙法蓮華を本尊と為す。ゆえに『此の法を師と為す』と云う。即ち是れ境妙なり」とは、大聖人の全身が地水火風空の五大即妙法蓮華経の五字、またお心も因果俱時(蓮華)不思議の一法(妙法)で妙法蓮華経の五字であることを、真俗二諦の内には「真諦」と言います。
この真諦に、法界全体を表わす「十界三千の諸法」が具わっているのです。この三千の諸法のことを「俗諦」と言います。
この真諦と俗諦が一体のものと御存知ない時を「理即の凡夫」と言い、これが一体のものであると知る時を「名字即」と申しあげるのです。
下種の六重本迹の法門
「種家の本因妙の構造」を明らかにする「下種の六重本迹の法門」によりますと、第一重の本迹は、「真諦が理本、俗諦が事迹」となり、第二重の本迹は、第一重の本迹、つまり真諦・俗諦を束ねたものが理本(もう一回同じ名が出てきましたが、別のものです)、これが名字即の釈尊(大聖人ですよ)が修行中の境妙本尊と為されたものですから、「理本と境妙」の文字を合わせて「理境」と申しあげるのです。
そう、あの総本山の鬼門のすぐ近くにある、あの坊の名前と同じです。
この理境坊の対角線上にあるのが「了性坊」という、元は「了因仏性」という智慧を表わす坊なのです。これが総本山の辰巳の方角に配置され、その対角に戌亥の方に理境坊という境妙・本尊の名前の坊が作られているのです。大聖人様の龍口に現われた光り物の通った道筋と同じ配置ですよね。
智慧のことを能照の智、つまり照らす側の智慧、境妙のことを所照の境、つまり照らされる側の境、というのです。ということは、この境と智とが冥合する仏の大威力・エネルギーが、気象現象(球電現象)とまでになって現われたもの、だったのではないでしょうか。
本因妙に戻りましょう。「聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば……」の修行の二字は、修行に始終があり、始まりは当然信心です。これあって修行があります。修行とは自行化他に亘る題目です。信心とは以信代慧(信を以て慧に代える)の智慧に代わるもの、現実的には智慧以上の力を発揮するものです。
ゆえに、修行は智妙と行妙の二を兼ね備えているもの、と言えます。
この境智行位の四妙を具えた本因妙の修行によって即座開悟を遂げられ、久遠元初の自受用報身如来・下種の本尊と出現されたのです。
その実際の修行の様子は、日蓮は不軽の跡を紹継す」(『聖人知三世事』)とあるように、貴賤上下を選ばないあの折伏行だったのです。
この大慈悲は勿論のこと、本因妙の本地の御自行と、名字凡身の位とが、久遠元初の名字即の釈尊と全く等しきがゆえに、日蓮大聖人を御本仏と拝したてまつるのです。これを「行位全同」といいます。
なぜ御本尊が必要なのか
このように大聖人は本因妙の修行によって下種の本尊と現われ出られましたが、いかんせん、末代の我らは肉眼しか持ち合わせていませんので、この一念三千即自受用身の相貌が見えません。そこで大聖人はこれを一幅に図顕して、我ら末代幼稚にお授け下されたのです。
それが、『観心本尊抄文段』(文段集二〇三頁)の、
「応に知るべし、この久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種の本尊と顕われ給ふと雖も、雖近不見にして自受用身即一念三千を識らず、故に本尊に迷うなり。本尊に迷う故に亦我が色心に迷う、故に生死を離れず。故に仏は大慈悲を起こし、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」
の御文なのです。これが御本尊御図顕の目的なのです。これ無くして私たちの成仏・幸せはないのです。
この寿量品文底の仏を示す為に、『見宝塔品』の宝塔涌現の相からずっと経文をなぞって、そしてついに、「熱原の法難」と「他国侵逼の難」「自界叛逆の難」預言的中をまって、出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊様」を御図顕あそばされるのです。
これが、戒壇の御本尊以外に、他の百数十幅の本尊が存する理由なのです。
我々法華講員は、この根本を見失わないように、御法主上人猊下様の御指南に信伏随従して、一生成仏と広宣流布の為、頑張って参りましょう。

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