「火の如き行者は多く、水の如き行者はまれなり」

 今月の拝読御書は『上野殿御返事』(一二〇六頁)です。一緒に、声に出して読んでみましょう。
 「そもそも今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人あり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(題目三唱)
 この御書をたまわった上野殿とは、私どもの総本山大石寺が日興上人によって創建される時、当時、大石が原と呼ばれていたあの広大な土地を、真心をもってことごとくご供養された、南条時光殿のことてす。
 この南条時光殿が、今日もきょうとて、至極当たり前のように、深いこころざしのご供養を大聖人のおわします身延山にお届けになられたのですが、この品々に添えられたお手紙の中に、現在身内に起こっているご病気等について細かに状況をしるしてご指導を仰がれました。そのことに対しての大聖人の御返事が、この御書なのです。
 ちなみに、お手紙の冒頭にしるされたご供養の品々について見てみますと、まず、いものかしらとは里芋のこと、串柿とは干し柿のことで、昔は渋柿の皮をむいた後、串をさして干していたのです。焼米とは新米を籾のまま炒り、搗いて殻を取り去ったもので、保存のためや携帯食として用いられ、水や熱湯をかけてふやかして食しました。それから栗、そして、たかんなとは竹の子のことで、それにお酢が酢筒とともに御供養されています。
 大聖人はこれらの一つ一つを上げられて、確かにこの御供養の品々、如法有難く頂戴いたしましたと、丁重にお礼を述べられています。
 現在の大石寺周辺を、大聖人様が生きておわした当時は富士郡上野郷と呼んでいました。南条時光殿は、この上野郷の地頭だったのです。
 しかし、時光殿が地頭だからといって、財産が無尽蔵にあって、それで自在に御供養ができたのではありません。
 南条殿は、大聖人への信仰ゆえに理不尽にも幕府から弾圧を受けて大変な窮乏を強いられていましたから、九男四女もの子供をかかえ、しかも一族郎党を食べさせていかなければならない状況下で、わずかな出費もさし控えなくてはならなかったであろうことは、想像に難くありません。
 そういう中でも、大聖人のご生活を思いやられ、喜んで信心のこころざしをお届けになられたのです。
 大聖人は別の御書で、このようなことを仰せになっています。
 「法華経の行者に二人あり。聖人は皮をはいで文字をうつす。凡夫はたゞ一つ着て候かたびらなどを法華経の行者に供養すれば、川をはぐうちに仏をさめさせ給ふなり」(桟敷女房御返事・一一二五頁)、と。
 この中の大聖人とは「楽法梵士」のことで、この梵士は長い間大変苦労して仏法を捜し求めておられましたが、なかなか出会うことができませんでした。このような時、この修行を邪魔してやろうとする魔がバラモンの姿に化けて出て、「あなたのからだの皮膚をはいで紙とし、あなたの骨をくだいて筆とし、あなたの血をもって墨として書き留めるならば、あなたの求めている仏法をお教えいたしましょう」と告げるのです。
 そこで楽法梵士は、「もしそれで仏法が聞けるなら、そのようなことはたやすいこと」と、言われた通りにするのですが、その瞬間、こつぜんとバラモンの姿は消えてしまうのです。
 「ようやく、仏法にめぐりあうことができたと喜んでいたのに、何ということだ。これは、私をだめにしようとするタバカリだったのか」と、血の涙を流して嘆き悲しんでいると、下方より仏がご出現になり、あなたこそ真実の求道者であると称賛され、夢にまで見た仏法をお説きくださるのです。
 このように、過去の楽法梵士のような、後に聖人といわれるような方は、我が皮膚をはいで紙とし、骨を取り出して砕いて筆とされ、さらには、わが身の血液を墨に代えて仏法を求められましたが、これと皆さんが今日、わずかな信徒数で、それも出口の見えない、長い平成大不況下で、幾度もいくども菩提寺に参詣され、御供養をささげられていることが、この聖人が身の皮をはいで仏法を求められたことと、なんら変わりないことであると、たたえられているのであります。
 これは、少しもおべんちゃらではありません。
 このことは『白米一俵御書』という御書にも、「これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう、凡夫のためには理くやう、止観の第七の観心の檀波羅蜜と申す法門なり」(一五四五頁)と説かれ、往時の聖人の功徳と少しも変わらないものである、とされているのです。
 ゆえに、実際に命に代えて仏法を求められた聖人たちの供養を事供養と称し、道理の上で、この方々の供養に匹敵する末代凡夫の供養を理供養と称する、と示されているのです。
 ただし、当時は顕益であるのに対し、末法は冥益といって、ちょっと見には功徳があるのか無いのか見わけがつきませんから、早とちりの人は、表面だけを見て、失望して仏法を退転してしまうこともあるかもしれませんが、本当の大功徳は、後にかならず大福運、あるいは境涯の変革となって表れてまいりますから、この確信をもって生涯を変わらぬ心で進んでいくことが大切なのです。
 そして、この寺院にご奉公させていただいている私も、そして家内も、このことを決して忘れないよう、皆様の御供養を大事に御本尊様へお取り次ぎをさせていただいている次第でございます。
 少し横道にそれてしまいましたが、また、この南条殿の御供養のお心ざしがいかに尊いか、次にたとえをお引きになるのです。
 むかし、月氏にーー、月氏とはインドのことです。インド亜大陸が半月に似ていることから、月氏、すなわち月の国と呼ばれていたのだそうです。
 昔この月氏国に、阿育(あしょか・あそか・あいく)大王という王様がおられました。この方は、一閻浮提、すなわち、私たちの住んでいる世界のことですが、これの四分の一をたなごころににぎり、いわゆる、自分の心の思うにまかせられるようにするということで、ここを統治されていました。  
 今でいえば、アショーカ王とは、インド・マウリア王朝の第三代の王で、インドを統一した最初の大王と言われています。
 この方は後に仏法に帰依し、六万人の僧侶に日々供養をささげ、八万四千もの、仏の教えをきざんだ石塔をたてて仏法興隆のためにつくし、そうして国を繁栄させていかれましたが、最初は大変な悪王であったといいます。
 まず、即位に際しては九十九人の異母兄弟を殺し、即位後九年後にカリンガ地方を征服した時(BC二五九)には、十万人を殺害し、十五万の人を捕虜としたといいます。その時、山も大地も、川といわず海といわず、あらゆる所が死体でおおわれ、誰しもがその血のにおいにむせび、吐き気を催さずにはおれないほどであったといいます。
 この状態を見るにおよんで狂気からようやく目覚め、仏法を信ずるに到るのです。そして、それよりは、仏教の精神に基づいて慈悲深い王として善政を敷くようになったのです。
 ですから、よく国も栄え、国民もよく豊かさを享受できるようになりました。それで、「竜王をしたがえて雨を心にまかせ、鬼神をめしつかひ給ひき」と評されるようになったのです。
 この大王は、どうしてこのような境涯を成就することができたのかと、この人の過去世を尋ねてみると、仏様がこの世にましました時に、徳勝童子と無勝童子という少年がいたというのです。
 このお二人が、偶然近くをお通りになられた仏様に対して、自然に敬いたてまつる心がわいて、それで、何も差し上げるものはないけれど、せめて真似ごとでもいうことで(そういう意識も最初から無かったかもしれません)、今まで遊んでいた土で餅の形をこしらえて、それで、本当にふざけでもなんでも無く、ひざを屈して、砂のもちをささげもって、真心を仏様に御供養申し上げたのです。
 これが、阿育王の前世の姿なのです。
 これが功徳で、その後百年の内に、こうやって大王と生まれ、全インドを統一して、大王、大王と、国民から慕われる人となっていくことができたのです。
 このようなお話をすると、そんなことがあるのだろうか。にわかには信じられない、と思いがちですが、本当にそのようなことがあるのです。たとえば、向敏子さんという郷土史家の著された『金沢法難を尋ねて』を読んでみると、金沢のメインストリートの立派なビルディングの多くが、あの江戸時代に法難にお遭いになりながら、信仰をつらぬきとおされていった方々の末裔がオーナーをされていることが分かった、という報告をされているのです。
 そして、この法難をお受けになった方々のお墓は当時隅に追いやられ、歴史の中に埋もれ、長く日の目を見ることは無かったのですが、向さんはこの倒れた墓石を立て直し、御子孫をご案内もうしあげた所、感銘のあまり大粒の涙を流されたとのことなのです。
 さらに、蔵の中などに大切に秘蔵されていた御本尊を発見されるに及んで、喜んで、自分も法華講にお入りになる方が次々と現れているというのです。
 ですから、自分の浅い考えで物事を簡単にとらえるのではなく、よくよく仏法の因果の理法に思いを寄せていくことが大切かと思います。
さて、さきほどの続きですけど、たしかに仏様は偉大かもしれませんが、法華経、つまり、末代の法華経とは三大秘法のこの御本尊様のことですが、これに対したてまつれば、蛍のほのかな明かりと太陽や月の光との勝劣、あるいは天と地、どちらが高いか比べるようなもので、その差は一目瞭然です。
 その仏に供養して、このような功徳があるのです。いわんや、末法の法華経たる御本尊様に対して御供養された方は、さらに大いなる功徳があることは、誰でも分かることではありませんか。
 徳勝童子と無勝童子が捧げたのは、実際のお餅ではなく、土で作ったものでした。それでも、このような、私たちの想像を絶するような尊い果報となりました。いわんや、あなたの実際に、あなたがお届けくだすった種々の食べ物をや、です。
 お釈迦様の時は、さほど食が乏しい時代ではありませんでした。今は、国中がこぞって飢えている時です。
 大聖人様ももちろん困窮されている状況なら、皆様も大変つらい生活を強いられている状況で、それでも、信心の心やみがたく、この御供養をお届けくだされたのです。
 これらのことをもって思いますに、お釈迦様、あるいは多宝仏も、さらには法華守護の十羅刹女も、どうしてあなた方をお護りにならないことがありましょうか。どうか、今の御病気等は安心してください。
 これからは、先ほど拝読した箇所です。
 それにしても、今法華経を信じられる方々の中に、火のごとく信じられる方もおられれば、あるいは水のように信じられる方等もおられます。
 火のごとく信ずる人とは、仏法のお話や体験談をお聞きした時は、物が燃えて、炎が立ち上がるように信ずる気持ちが胸中に沸き立ちますけど、しばらく時間がたつと、いつのまにか信心の炎が小さくなり、やがて消え失せてしまいます。
 これは、やる気を起こした当初は大信心のように見られますが、その信心の灯が残念ながら消えやすい人のことを例えておいでなのです。
 その反対に、水のごとく信ずる人とは、水は夜昼に関係なく、後戻りや止どまることなく流れ続けます。これは、しっかり御本尊を自分の心に焼きつけて、少々、自分の意思にそぐわないことがあったり、自分の善意や努力があたかも無視されるようなことがあったりしても、これこそ、十羅刹女などが自分の信心を試されているんだと、我が心をいさめ、さらに命を引き締めて精進をかさねていく……。
 そのように信ずる人を「水のごとき行者」と申し上げるのです。
 私たちはいろいろな悩みを抱え、機会あらば力ある宗教を信じて幸せになっていきたいと、心の底では誰でも考えています。
 そうして、さまざまな体験をまじえたすばらしい仏法の話に心おどらせ入信を決意したものの、宗教に無理解の人々の冷ややかな視線などに、急に決意や喜びの心がしぼんでしまいがちになります。
 だから、大聖人様が『御講聞書』に、「火の如き行者は多く、水の如き行者はまれなり」(一八五六頁)となげいておいでなのです。
 しかし、この南条時光殿は、自分たちが順風満帆の恵まれている時はもちろん、何をやってもうまくいかず、さらに、この状況がどんどん悪くなっているように思える時も、決して大聖人や御本尊、それに僧侶や同信の人たちに悪態をつくようなことはなされず、いつも変わらぬお姿で、大聖人への御供養をお続けになられたのです。
 ですから、「これはいかなる時も、つねはたいせずとわせ給へば、水のごとく信ぜさせ給へるか。たうとしたうとし」と、感嘆の言葉を発せられているのです。
 そして、御病気のことについてのご質問に対しては、「このような、立派な、仏様のお心にかなうあなたにして、おうちの方に医者でも手をこまねる御病気の方がおありになるとは。
 しかし、よもや鬼神のしわざではありますまい。
 きっと、十羅刹女が、皆様方の信心をいよいよ高めるため、あなたたちに、この仏法が本物であることの実証を地域の人に示していただくために、あなたたちなら必ず乗り越えて行ける病をお付けになっているに相違ありません。
 また、あなたたちが、本物の法華経の行者であるかどうか、あるいは叶いがたい成仏を、いよいよ現世に果たすべき人が本当に御出現されているのかどうかを十羅刹女が試されているのでしょう。だから、いさんで、このことにぶつかってください。みんなで心を合わせ、題目を唱えていってください。
 このように申し上げることも、もし、これが本当の鬼神が病を法華経の行者につけているとしたら、おろかにも、まぎれもない日蓮の信者である南条殿を苦しませて、その報いで、わざわざ自分から頭をブチ砕いて、苦しんで果てようとするものが果たしているでしょうか。
 というのも、法華の信者を悩ます者は、こうべ割れて阿梨樹のごとくならん、という経文があるからです。どうか、釈尊あるいは、法華経にどうしてそらごとがあろうかといよいよ確信していただきたい」と。
 文面は南条殿に宛てられたお手紙でも、これは、私共にくだされた激励の書であると受け留めて共々に頑張って参りましょう。

                            以上 

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