『法蓮抄』

『法蓮抄』(御書八一四頁)

「此等の経文は又未来の事なれば、我等凡夫は信ずべしともおぼえず。されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じ難し。また修行しても何の詮かあるべき。是を以て之を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は、信ずる人もありやせん」
 この『法蓮抄』は、大聖人様が建治元年四月、御年五十四歳の時、曾谷二郎兵衛尉教信、後に入道して法蓮日礼と法号をたまわり、通常曾谷入道と呼ばれていた方にお与えになられたお手紙でございます。御書の題号は、この法号にちなんだものです。
 先ほど拝読した御文の少し前の方を読んでみますと、提婆達多が釈尊に対し、前代未聞の「三業相応の大悪」を犯したことが掲げられています。
まず、仏の大檀那であった頻婆舎羅王が、日々五百の車両に仏やそのお弟子に捧げるための御供養を満載して運ぶのを嫉妬して、太子の阿闍世をそそのかして親を殺害させ、まんまと仏への供養を絶ち、自らは怪力に物を言わせて、釈尊一行が通るのを見計らい、山のような岩を崖の上より落として釈尊を殺そうとしたのは、身の悪業です。
 次に、「仏は聖者を装ってはいるが、実は誑惑の者、いわゆる世をいつわり、人をたぶらかす者である」、と罵詈し続けたのは、口の悪業です。
 三番目に、心の底の底より「宿世の仇」と、燃えさかる炎のような怨みを懐き続けていたのは、意の悪業です。
 それゆえ、さしもの厚き大地も、悪逆の提婆達多をそのまま載せ続けることができなくなり、ついに大地は裂けて、提婆達多は生きたままその裂け目より地獄へ堕ちていったのです。
 この提婆達多が地獄に堕ちる時に裂けて出来た穴が、あの有名な玄奘三蔵、いわゆる三蔵法師がこの地を訪れた時にはまだ残っていた、ということが、その道中記の『西遊記』に書かれているのです。
 このように考えただけでも空恐ろしい提婆達多の罪でありますが、もしそれを一中劫という長きにわたって続けたとしたらどうでしょう。それはもう、私たちの想像をはるかに超えたものであることは、誰でもおわかりいただけることだと思います。
※一中劫とは、仏教の宇宙のとらえ方で、地球の誕生期を成劫、その地上に生命が繁茂する安定期を住劫、やがて人間が年をとり病気になっていくように、地球そのものが破壊へと向かう時期を壊劫、そして元の微小惑星の状態に砕け散った姿を空劫といい、この成住壊空の一サイクルを一大劫と称し、その一つひとつの期間を一中劫といいます。
 その、釈尊に対して提婆達多が一生涯犯した罪を、なんと一中劫もの間くり返したことに匹敵する罪になる者たちがいると、経文には書かれているのです。
 それは……、末法の法華経の行者を、取り立てて心に「宿世の怨」だなどと思っているわけでもなく、顔に憎々しげな表情を顕わにもせず、ただほんの冗談で、たわむれに悪口を言っただけの罪というものが、先の提婆達多ほどの罪を一中劫犯したに等しい、と経文には説かれているのです。
 いわんや、大聖人様が生きておわしました時の邪宗謗法の人らのように、まさにお釈迦様当時の提婆達多がごとく、身口意の三業打ち揃う形で大悪心を抱き、多年が間法華経の行者を罵り、そしり辱め、嫉妬し、こぶしや棒で殴り、讒言によって死にいたらしめようとし、あるいは水中に沈めておぼれ殺そうと謀った者らの罪は、想像を絶するものであるのは当然なのです。
 本当にそういうことがあるのか、改めて末代の法華経の行者を憎み迫害をなす人の罪が書かれた御文を調べてみると、『法華経第二』には正に、「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至その人命終して阿鼻獄に入らん」とあるのです。
 阿鼻獄とは聞き慣れない言葉ですが、これは私たちが居るこの大地の下五百由旬(※由旬とは古代インドの距離の単位で、帝王の軍隊の一日の行程をいい、六町を一里〈約六六五メートル〉とし、一由旬は十六里とも三十里とも、また四十里とも言われています。つまり、一由旬が十六里であれば十一キロメートル、三十里であれば二十キロメートル、四十里の時は二十七キロメートルとなり、五百由旬はそれぞれその五百倍となります)をずっと過ぎゆきますと、あの閻魔様の住居の閻魔王宮があり、その閻魔王宮より下千五百由旬の間に、八大地獄を含む百三十六ヶ所の地獄があり、その中の百二十八の地獄は比較的軽い罪の者が堕ちる地獄であり、その奥の八大地獄は重罪の者が堕ちる地獄です。
 その八大地獄の中でも手前の七大地獄は、あの悪口・両舌・妄語・綺語、殺生・偸盗・邪淫、貪欲・瞋恚・愚癡という十悪を犯した者の住所であり、第八番目・最後の無間地獄は阿鼻地獄とも言って、五逆と不孝と誹謗の者が堕ちる所とされているのです。
 つまり、今法華経の末代の行者である日蓮大聖人様を、戯論――たわむれ、ふざけ調子、ほんのいたずら気分であるにせよ罵り誹謗・そしるものは、ここに堕ちなければならないというのです。
 ふつうは、お釈迦様のような方をののしり、そしる方が罪が深いと思うわけですが、仏の御金言は全く逆で、末法の法華経の行者を一言ででも軽んじることが、いかに罪が重いか誡められているのです。
 この反対のほめる・讃歎することもそうで、
 「教主釈尊を一時二時ならず、一日二日な らず、一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔 にあて、頭を低れて他事を捨て、頭の火を 消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ 飢ゑて食を思ふがごとく、間無く供養し  奉る功徳よりも、戯論に一言継母の継子 をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法 華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三 業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供 養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説 き給ひて候」(八一三頁)
(お釈迦様を二時間四時間ではない、一日二日でもない、一劫という長き間、両手を合わせ、両目を仏の御顔に当て深々と頭を垂れ、他の一切を捨てて、あたかも頭の毛についた火を必死で消そうとするように、あるいはのどが渇いて水を求めるように、飢えている時食べ物を求めるような気持ちで、ずーっと休み無く供養したてまつる功徳よりも、たわむれにほんの一言、継母が継子を白々しくもお愛想でしょうがなく発するほめ言葉のように、たとえその気持ちが真心からなされたものでなくても、この末代の法華経の行者をほめたたえ供養する功徳は、立派な心ざしで釈尊を一劫という長きにわたって供養する功徳に、百千万億倍勝れていると、経文には書かれているのです)
 この経文を見て、彼の中国の妙楽大師は「福過十号」と記し置かれました。十号とは仏の具えたもう徳を讃えて付けられた十個の仏の異名ですが、その十号を供養するよりも、末代の法華経の行者を供養する功徳は勝れるということを、改めて証言されているのです。
 この二つの法門は、仏自らが説かれたことは明らかなのに、にわかには受け入れがたいところです。どうして、仏を供養するよりも凡夫を供養する方が勝れるのでしょうか。また、仏をそしるより、法華経の行者をそしる方が罪が重いのでしょうか。
 しかし、これを「そんなことがあるはずがない、仏様が嘘をつかれたのだ」と言おうものなら、お釈迦様の御金言を疑い、多宝仏の証明を軽しめ、十方分身の諸仏の舌相梵天もこけおどしと、破り捨てることになります。
 もしそのようなことをしようものなら、この身のまま阿鼻地獄に堕ちることになるでしょう。岩山に上って荒馬を失踪させるようなもので、心肝穏やかでいられるはずがありません。また、これを信ずることができれば、「妙覚の仏」・真実の仏にもなることができるでしょう。はてさて、どのようにして法華経に信心をとったらいいのでしょう。進退窮まるとは、まさにこのことであります。
 もし、信無くしてこの経を行じようとするのは、手が無い状態で宝の山に入り、足が無いのに千里の道を行こうとするのと等しく、そこら中に宝が無数に散らばっていても、何一つ宝を得ることはできず、また、一歩も足を踏み出すことが出来ないことと同じなのです。
 「但し、近き現証を引いて遠き信を取るべし」
 私たち凡夫の思慮をはるかに超えた経文の内容を信ずる手だてとして、先に言い置かれたことが現実となって現れたことをもって、それでもって、私たちの常識を越えた教えの内容に対して、いくらかでも信を持つことができます。
たとえば、こうです。
 仏が法華経を説き終えられた時、すでに八十になられていました。そこで釈尊は「これで自分はもう思い残すことはない。自分はこの年の二月十五日に涅槃にいるであろう」と宣言されるのです。本当にそうなるのか、誰もが疑いを持ちましたが、果たしてその言葉どおり、ついに二月十五日にお亡くなりになるのです。かねての言葉が現実のものとなり、それが、「仏の言葉はかくも偽りなく真実である」と、人々は信を取るようになったのです。
 また、「仏が亡くなってから百年後、愛育大王という王が出現して、世界の三分の一を領する国の王となり、八万四千もの塔を建て、釈尊のお骨・舎利を供養するであろう」とも、未来記を残されましたが、当然、百年後のことなんか、誰も分かるものかと疑ってかかっていましたが、本当に経文に残されたように大王が出現されたので、人々はまた信心をとることができるようになりました。
 又、別の御遺言では、仏の滅後四百年に迦弐色迦王という王が誕生して、五百人の高僧を集め『婆沙論』を造るであろうと預言されていたが、これもその言葉どおりだったので、「仏の記し置かれたものは皆真実で、虚妄にはあらず」と、よくよく信ぜられるようになっていったのです。
 先に掲げた、法華経の行者への誹謗と讃歎による罰と功徳が、本当は妄語・ウソであったなら、この法華経一経そのものが妄語ということになってしまいます。
 さらには法華経の本門寿量品には、仏は過去をさかのぼること五百塵点劫以前よりの仏なりとの、驚天動地の教が明かされています。私たちは迷いの凡夫です。生まれてからこの方のことすら、なお覚えていることはほとんどありません。たかだか四・五十年、あるいは七・八十年のことでさえそうなのに、私どもにかならずあるという前世のことや、はたまた五百塵点劫という久遠の昔のことなど、どうして信ずることができましょうか。
この目で確かめようがないことは、私たちにはなかなか信ずることは困難なことです。
 さらに法華経には、舎利弗尊者に対して、「あなたは、無量無辺不可思議劫の未来世に華光如来という名の仏になるだろう」と告げられ、迦葉尊者には「未来世に光明如来という仏になるだろう」と記別をさずけられ、成仏の約束・太鼓判をお押しになりましたが、これらの経文は、これまた気の遠くなるような未来のことが書かれているのですから、私たち凡夫が容易に信じられるであろうとは、はなはだ考えにくいことです。
 されば、わずか昔のことも忘れ、はるか久遠の過去のことなど想像すらできない、しかも未来記についても、その時になってみなければ信じられない凡夫は、つまりはこの法華経を心の底から信じられる能力を持ち合わせていないということになります。
 仏のお言葉をお言葉として、ストレートに信じられるならまだしも、自分の知識や想像を超えたものに対しては、たやすく信を持つことが出来ない人は、結局法華経を修行しても、信の伴わない修行だから、手無しで宝山に入り、足無しで千里の道を行こうとすることと同じで、本物の結果を得ることができないから、やるだけ無駄、ということになりかねません。
 これらのことをもって、どうしたら人は法華経を信ずることができるようになるか、考えを巡らしたところ、凡夫は過去も未来も知らないのであるから、現在に、眼前の証拠を持っている人が法華経を説けば、もしや信ずる人も現れるであろうことは想像に難くありません。
 それについて、過去の遺竜・烏竜の故事をあげられます。しかし現実に眼前の証拠ある人とは、これは日蓮大聖人様しかありません。それが以下の御文です。
 「問うて云はく、抑も正嘉の大地震・文永 の大彗星を見て、自他の叛逆我が朝に法華 経を失ふ故としらせ給ふゆえ如何。答えて 云はく乃至立正安国論を造りて最明寺入道 殿に奉る。彼の状に云はく、この大瑞は 他国より此の国をほろぼすべき先兆なり。 禅宗・念仏宗等が法華経を失ふ故なり。彼 の法師原が頸をきりて鎌倉ゆゐの浜にすて ずば国当に亡ぶべし。その後文永の大彗星 の時は又手ににぎりて之を知る。」(八二二頁)
 (正嘉元年の大地震、あるいは文永の大彗星を見て、国内の同士討ちと外国によって日本国が攻められるという国難が惹起せるのも、ひとえに日本国に法華経を失うゆえを知らせんが為であるとは、どういう意味であるのか。答えて言うには、この正嘉の大地震という瑞相は、日本国始まって以来の、外国の軍隊が襲ってきて、国が滅びるという先触れである。これは中国もかつて経験したことであるが、禅宗・念仏宗等が法華経を失わしめたことが原因である。彼の念仏・禅宗の法師等の頸を切り、由比の浜に打ち捨てなければ、国がまさに滅びるであろうと、もうしあげた。その後、文永の大彗星の出現を見て、いよいよ確信を持つに至った。)
 さらには、
 「去ぬる文永八年九月十二日の御勘気の時、 重ねて申して云はく、予は日本国の棟梁な り。我を失ふは国を失ふなるべしと。今は 用ひまじけれども、後のためにとて申しに き」
 (去る文永八年の九月十二日、龍ノ口の御難の時にも重ねてもうしあげた。日蓮は日本国を支えるいわば棟梁である。ゆえにこれを失い、これを倒せば、かならず国を失う原因ともなろう。今は日蓮の申すことを用いざれども、後のために申し上げた)
 さらに、
 「又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の 時、蒙古国は何此かよせ候べきと問ふに、 答へて云はく、経文は月日をささず、但し 天眼のいかり頻りなり。今年をばすぐべか らずと申したりき」
(また、去年の四月八日に平左衛門尉と対面した時も、平左衛門尉より直々に、蒙古国の軍隊は、いつ頃日本国に攻め入ってこようか、と問われたので、経文には何時いつと月日を特定はされていないが、日蓮が思う所、天眼のいかりは限度まで達しているようです。ですから、遅くとも、今年を過ぎると言うことはありますまい、と申し上げた)
と。まさに、先に言い置くことの、後にそのことが現実のこととなって顕れるから、人はそれを信じよう、信ぜずにはおられない状況という物ができてくるのです。
 御文のとおり、正に「現実の眼前の証拠」ではありませんか。ゆえに、私たちが先ず大聖人の御金言を信じたてまつり、またこの確信を人にも話していかなければならないと思います。
 そして今度は、私たちが功徳の実証という、現実の眼前の証拠をもって、広布への御奉公へと一層努力精進して参ろうではありませんか。
以上

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