化儀即化法

化儀即化法
日蓮正宗の信仰について総本山第九世日有上人は、
「当宗は第一化儀なり」(有師物語聴聞抄佳跡上・富士宗学要集一巻一九八頁)
と仰せられました。この意味について第三十一世日因上人は、
「第一化儀とは当宗化儀即仏法 なるが故に」(同頁)
と、補釈されました。
ここから、日蓮正宗の信心について「化儀即化法だよ」とか、「化儀即法体だよ」、などと言われているのです。
この意味をさらにわかるようにお話ししますと、化儀とは、
私たちが最初この信仰を始める時に受けた「御授戒」も、
日々の五座・三座の勤行の形も、
それも、もっぱらお題目を唱えるのではなく、一番目に方便品・次に寿量品とまずお経文を読み・最後に唱題が来るという唱え方の順番、
私たちが御本尊を御安置してお題目を唱える修行に名づけられた「三大秘法」、
お数珠を指に掛け、合わせた手を胸の上に置く合掌の形、
念仏は無間の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊、という、邪義邪宗をその要点を突いて誰もが一撃できる「四箇の格言」、
御本尊御安置の南面北座、
おしきみを左に飾り、右にロウソクを灯し、真ん中に香を焚く香炉を置く三具足、
勤行の最後にしきみの三つ葉を切る所作も、
枕経・通夜・葬式・火葬場での読経・唱題、法事、
題目の染筆、位牌・塔婆等々、
すべては、大聖人の教えの具現化なのです。つまり、
大聖人様の教えやお考えといった目に見えないものを、目に見える形にすること。
甚深の御法門を己の智慧によって理解することが出来無くても、戒壇の大御本尊様への信心と御法主上人猊下様への信伏随従の志さえあれば、少しもその意義を損なうことなく、実際に私たちの修行として、この身に移す事が出来る手立て・方法のこと。
あるいは、
大聖人様の修行を私たち凡夫も実行・再現・追体験出来るように、我々初心の行者の背丈に合わせて仕立て直してくだされたもの、表現されたもの等をすべて含めて「化儀」というのです。
ですから、日亨上人の『化儀抄註解』には、
「曼荼羅書写本尊授与の事は、宗門第一尊厳の化儀なり」(富士学林教科書研究教学書第二十九巻一三二頁※後は研教と呼ぶ)
とあるように、御法主上人猊下が御本尊を書写されることも、これを私どもに授与される事も、皆化儀なのです。
このように、化儀とは教えや法門が具体化されたものですから、これを忠実に実践することで、自然とその意に当たって、結果に繋がっていけるのです。
なぜ、そのような信仰の姿が形作られているのかと言えば、私たちが、
「未断惑の機(※見思・塵沙・無明という煩悩を、爪先程も断ちきってもいない迷いの状態にある人々)にして、六即の中には名字初心に建立する処の宗なる故」(研教化儀抄註解七頁)
あるいは、(同十二頁)に、
「当宗何事も智慧を面に成し候へば、宗旨破れ候なり。その故は、愚者の上の、名字の初心の信計りを専(※せん…もっとも重要な事。第一)として、宗旨として候なり」
また、同十三頁には、
「我等凡夫名字初心にして余念の事も無く南無妙法蓮華経と受け持つ処の受持の一行即一念三千の妙法蓮華経なり。即身成仏なり」
などなど、類文が非常に多いので、これ以上は煩雑になるので、一応止めておきます。
これらのことを実に上手く説明されている文章が「東中国布教区編の『信心の原点』」にありますから、ぜひ紹介しておきましょう。
「当家《日蓮正宗の事》の化儀は、化儀即化法とか、化儀即法体とよくいわれます。つまり我々の、日々の振る舞いの所が妙法の具現(あらわれ)であり、信の一念で為すところは、そのままが成仏の姿ということです。
第九世日有上人は、当家の化儀を大成されましたが、その『化儀抄』に『法華宗は能所(※師弟)共に一文不通の愚人の上に建立』、 
また『六即の中には名字初心に建立する宗』と説かれました。
いわゆる大聖人様の仏法が、末法の文字も読めない《一文不通》の衆生、妙法の名前を聞いて〝有り難い〟と感じただけの、《名字即》の衆生を対象に説かれた教えであるという事です。
つまり末法の我々は、おしなべて自分の智慧で仏法を理解することは出来ないために、身の振る舞い・実践の中に妙法を示していくことが大切なのです。これが、所作・振る舞いがやかましく言われる所以です。
ですから、御本尊のお給仕から勤行の姿勢・題目の唱え方・仏事回向・同信の方々との接し方、そして寺院参詣に至るまで、自分自身の信心の表れと心得なくてはなりません。
すなわち化儀は、単なる形式ではなく、大聖人様の御法門がそのまま、私たちの振る舞いの中に現われていると思って、大事に考えていかなくてはならないのです」
私たちが平成三十年十二月に暗誦御書とした『聖愚問答抄』(四○八頁)には、
「如来一代の教法を擣簁和合して妙法一粒の良薬に丸せり。
豈知るも知らざるも服せん者煩悩の病ひ癒えざるべしや。
病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども、服すれば必ず癒ゆ」
とありますが、釈尊一代五十年の説法を、あたかも薬草の色香美味を皆悉く具足したものになぞらえて、これを集め求めて擣簁和合――薬研などで擣き粉々にして、これを簁いにかけて余計なものを取り除いて良いものだけを残し、これでもって妙法蓮華経という一粒の良薬を丸めてこしらえられた。
どうしてこの意味を知るものも知らない者も、これを飲んだものが煩悩の病が治らないことがあるだろうか。
病人はその薬がどの様な成分がどれくらいの割合で調合されているかなどと知らなくっても、あるいは自分を苦しめているその病気がなんであるのかを弁えることが出来なくても、ともかく、それを飲みさえすれば必ず病気は治る道理です。
しかも仏は、毒気が深く入って、本心を失える、つまり法華経への信心を捨て邪宗謗法に堕ち入ったものの、苦しみのあまり大地にてのたうち回っている末代の私たちのために、
「是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差(是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝、取って服す可し。差えじと憂うること勿れ)(寿量品)
と言い置かれましたが、ここに厳然と、日蓮大聖人によって私たちに広められる『三大秘法』が明らかです。
すなわち、「是の好き良薬」とは南無妙法蓮華経の「本門の本尊」です。「今留めて此に在く」とは御本尊御安置の、懺悔滅罪の道場たる「本門の戒壇」です。「汝取って服すべし」とは「信行具足の本門の題目」です。
大聖人様は『観心の本尊抄』に、
「『是好良薬』とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経なり」(六五八頁)
是好良薬とは寿量品に明かされた御本尊のことです。この御本尊の属性(※そのものに備わっている固有の性質・特徴)として「名体宗用教の五重玄」というのがあるのです。
これを釈尊は「四句の要法」という四つの句に結んで上行菩薩、本当は久遠元初の自受用身という御本仏・日蓮大聖人に前仏から次の仏へと譲り渡す形をとられ、この人が本来所持されていることを証明し、決してこの方の思いつきではないことを証言されるのです。
その一、「如来の一切の所有の法」とは「一切皆仏法なり」と言って、これは「全てが皆、妙法蓮華経という名前である」ことを表わしているのです。これを「妙名」と言います。
その二、「如来の一切の自在の神力」とは、「通達無礙の意味」で、具体的には「八自在を具え」られています。これを自由自在のはたらき「妙用」と言います。
その三、「如来の一切の秘要の蔵」とは「一切処、すなわちすべての所に広く行き渡っていて、皆これ実相であること」です。これを妙体と言います。
その四、「如来の一切の甚深の事」とは「因果はこれ深事」と言って、因果の因とは、いわゆる仏がまだ因位、つまり菩薩であった時の六度万行、万行万善・諸波羅蜜一切の功徳のことです。果とは果位・果の位、すなわち仏の位に備わる万徳・よろずの徳のことで、これを束ねて「因行果徳の二法」と言います。これが深事で、これを「妙宗」と言うのです。
「皆此の経に於いて宣示顕説す」とは、法華経とは要するにこの四つに集約されるのであり、この四つは唯南無妙法蓮華経の五字七字に包摂されるのですから、その枢柄(※肝要・意)とも言うべき南無妙法蓮華経、つまり御本尊を上行菩薩へと授与されたのです。
しかも、釈尊はこの後念押しをされて、偈の最後に「我が滅度の後に於いて、応に斯経を受持すべし。是の人仏道に於いて、決定して疑い有ること無けん」(新編妙法蓮華経並開結五一七頁)と、上行菩薩の再誕・久遠元初の自受用報身如来、末法出現の御本仏日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を受持信行して行きなさい。この人、煩悩・業・苦の三道を転じて成仏することは、断じて疑いがないことである、と太鼓判を押されているのです。
さらにこの文を受けて「日有上人」は、
「神力結要の付嘱とは、受持の一 行なり。この位を申せば、名字初心なる故に、釈迦の因行(の姿、すなわち末法の法華経の行者・日蓮大聖人)を本尊とすべき時分なり。これすなわち、本門の修行なり」(研教第二十九巻化儀抄註解八~九頁)
と御指南されているのです。
私たちは、病気の人が薬の成分も知らず、病がなんであるのかも弁えられなくても、良医(御本仏)が一代の教法を擣簁和合して作ってくださった妙法一粒の良薬、すなわち御本尊様を至心に念じお題目を唱えさえすれば、かならず、微動だにしない幸福境界を得ていくのは疑いが無いことであります。
新年早々長い話しになりましたが、確固たる信念をもってこの一年を歩んでいっていただきたいと思います。

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