闘諍の時と云々。 此の時一閻浮提第一の御本尊、此の国に立つべし

『如来の滅後五五百歳に始む観心の本尊抄』(御書六六一~六六二頁)
「天台の云はく『雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛んなるを見て池の深きを知る』等云々。妙楽の云はく『智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る』等云々。天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか。
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」
この御書は、文永十年(一二七三)四月二十五日、日蓮大聖人が御年五十二歳の時、佐渡流刑の最中、一谷で著わされ、下総国東葛飾郡八幡莊若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍に与えられた書です。
富木常忍は、千葉氏に仕えていた鎌倉武士で、本領(もとからの領地。代々伝えられた領地。開発以来代々領有している私領)は因幡国(鳥取県)富城郡にありました。最初は常忍と称しておられましたが、後に入道して常忍と名乗られました。
この方は、大聖人様の御幼少の頃より、そのすぐれた人格や才能を見抜かれて、遊学のための資金を提供されるなど、物心両面にわたって援助をされてきた方であることが知られています。
これは余談ですけど、弘安二年十一月二十五日にご夫婦に宛てた、同日の御書にも、
「不断法華経。来年三月の料の分、銭三貫文・米二斗送り給び候ひ了んぬ。」(富城入道殿御返事一四二八頁)
そして、『富城殿女房尼御前御書』(一四二九頁)には、
「はるかにみまいらせ候はねば、をぼつかなく候。たうじとてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候ひし時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをんをもくをもひまいらせ候」
と書かれているのです。
さて、日寛上人はこの「観心本尊抄」を、「開目抄」が大聖人御自らを主師親三徳具備の仏、すなわち「人本尊を開顕せられた書」であるのに対して、末代の私達が受持信行すべき、事の一念三千の本尊を明示せられた「法本尊開顕の書」である、と言われています。
また、「当体義抄文段」の中で、『開目抄』は「教の重」、『観心本尊抄』では、「受持即観心」という意義を明らかにされているので「行の重」、さらには『当体義抄』には、御本尊を受持信行する者が必ず「無作の三身という真実の仏果」を証得することが説かれているので「証の重」であると、教・行・証に配してお示しになっています。
また、「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という題号については、時・応・機・法の四義が備わっている、と御教示です。
つまり「如来の滅後五五百歳」とは、釈尊が入滅されてから五百年ごとに、
最初は「解脱堅固」―仏法により、煩悩を断ち、生死輪廻という苦の連鎖から脱却する者が多い時代。
二番目は「禅定堅固」―俗世の喧噪から離れるなどして欲望の雑念を払い、瞑想によって煩悩を断ち、真理を思惟する境地に入る者が多い時代。
以上を「正法時代」と言います。
三番目は「読誦多聞堅固」―経文を読誦し、あるいは説法を聴聞することで功徳を積み、この修行で救われていく者が多い時代。
四番目は「多造塔寺堅固」―仏舎利を供養するために塔を造立する者、あるいは人々の修行の道場たる寺院を寄進し、又この事業に荷担することで善根を積み、救われる者が多い時代。
以上の千年を像法時代といいます。
このように仏法は時とともに遷り変わり、五番目の五百年は、「闘諍堅固・白法隠没」とは、仏法の中に仏の遺言を無視した形で諍論(争い)が起こり、経典に方便の教えと真実の教えがあることも知らず(権実雑乱)、いずれが正しくどれが間違っているのか分からなくなってしまい(正邪不明)、ついに仏法はその力を失って消滅してしまう、そのような暗黒の時代がやって来る、というのが、仏御自身が『大集経巻五十五』などに未来を予見して残された、いわゆる仏が記し置かれた、未来記なのです。
しかし、その第五番目の五百年(五五百歳)は、これまでの釈尊の仏法が力を失うが、その時は同時に、次の『法華経薬王菩薩本事品第二十三』にあるように、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、 閻浮提に広宣流布して断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等に、その便りを得せしむること無けん」(大石寺版新編法華経五三九頁)
という風に、南無妙法蓮華経のいわゆる三大秘法の仏法「広宣流布」の時なのです。
この大偉業をなされる方が、ただお一人その資格を有される、「上行菩薩」その人であられるのです。
つまり、「如来の滅後五五百歳」とは、妙法弘通のための付嘱を受けられた上行菩薩が出世・世にお出ましあそばされる「時」を指し示されているのです。
次の「始む」とは、上行菩薩が初めて弘められるという意味です。しかし、これに対して他宗他門ではなぜか異論百出です。これは思うに、血脈相承をお受けになられた代々の御法主上人ならでは、この重要な語句の会通・解釈は出てこないのです。
というのも、日寛上人は「如来滅後五百歳始観心本尊抄」という題号は、『法華経神力品』の「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。この人、仏道において、決定して疑いあること無けん」の経文が、「所依の本文」であるとご指摘になられました。
すなわち、この経文を典拠として命名された御書の題号なるがゆえに、「上行菩薩が伝え弘められるところの本尊を受持すべし」との、かねての如来の勧奨に当たるので、「応」の意義になるとの御指南なのです。
「応とは応じる」で、「仏が、衆生の祈りや、心の奥底での求めに応える形のもの」のことを言います。
つまり、「今、まさにその時」が来て、下種の大法を被るべき衆生の出現と相まって、唯一人その資格を有される上行菩薩が「機法相対」して法を説き出されるので、「始む」の語を「応」とするのです。
ただ、「応」の字と「始」の字が異なっているのは、「応」の字は釈尊の勧奨(勧め、推奨・奨励)に約し、「始む」は上行菩薩再誕の人(日蓮大聖人様)の所作に約するからで、その意味は全く同じなのです。
次の「観心」の意義は「末法今時の私等衆生の観心(修行)である」(御書文段一九八頁)ということが大切です。観心本尊抄には、
「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」(六六〇頁)
あるいは、
「妙法五字の袋の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(六六二頁)
とありますが、この中に「服せしむ」「懸けせしむ」というのが観心で、「末代幼稚」の文字が、末法今時の、本に善根を持ち合わせていない、初信初行の我ら衆生のことであるのは間違いありません。
このように、この御書の中で説かれる観心は、能化(仏)と所化(私たち衆生)の両者のものではなく、但所化・教えをこうむる私達のための観心修行を明かされているのです。(文段一九八頁)
それではその相貌(姿形・格好・心構え)とはどのようなものかと言えば、『観心本尊抄文段上一九八頁』には、
「問う、観心の二字、我ら衆生の観心に約すること文理分明なり。正しく我ら衆生の観心の相貌如何。答う、末法我ら衆生の観心は、通途の観心の行相に同じからず。謂わく、但本門の本尊を受持し、信心無二の南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。故に血脈抄に云わく『文底とは久遠実成の 名字の妙法を余行に渡さず、直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経なり』(御書一六八四)又云わく『理即但妄の凡夫の為の観心は、不渡余行の南無妙法蓮華経なり』(御書一六八〇)
と、このように、御本尊に対し、ただ「信心いちずに南無妙法蓮華経と口唱するをもって観心とする」のです。つまり、信行具足の本門の題目です。
これで、どのような効果・功徳が現われるのかといいますと、私達が本来持っている、つまり「衆生本有の妙理」をおのずと信解させて頂けるわけですから、これまでの煩悩・宿業、そして苦の連鎖を断ち切り、幸せな境涯を開きゆくことが出来るのです。
ゆえに『当体義抄』には、
「但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は煩悩・業・苦の三道即法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、その人所住の処は常寂光土なり。能居所居・身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華仏とは、日蓮が弟子檀那等の事なり」(六九四頁)
とおっしゃっているのです。
さらに、本尊とは、私達が信行の上に受持すべき妙法の御当体で、無二の志にてこれを信じ、口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る、私達が今眼前に拝するところの大曼荼羅であることは勿論です。
されば、御本尊を御安置し、私達が一心に御本尊を信じ奉れば、にわかには信じがたいことですが、御本尊の全体のお姿がそのまま我等が心となって表れる、との御指南なのです。(文段二〇五頁)
これを、仏界即九界、仏界という尊極のお姿・御本尊のお命が私達の心と一体のものになる、これを本因妙と言うとの御教示です。
そうして、私達が一途に御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えたてまつれば、我が身の全体が眼前の御本尊の姿へと顕われると仰せなのです。
言い方を換えれば、私達迷いの凡夫の当体がそのまま仏界という御本尊の姿へと顕われるのですから、これを九界即仏界の本果妙というのであると、日寛上人は御指南です。
天台大師の言われた「我が己心を観じて十法界を見る」という、いわゆる観心の意義は、大聖人の仏法からは、「我が己心を観ず――自分の真実の心の姿を正しく観る」とは、すなわち御本尊を信ずる、という事がこれに当たります。御本尊を信じ奉るということが、あのお姿が私達の心性、真実の心の姿だと知ることになるからです。
また、「十法界を見る」とは、すなわち、御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることです。これによって、私達の全身が目の前の御本尊の姿として顕われるからです。
このことを日寛上人は『観心本尊抄文段』(二一四頁)に、
「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂わく、但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なるが故なり」
と、御教示になっているのです。
この「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」の題号の深義については、
①「正像未弘の三大秘法抄」
②「本門弘通の事の一念三千抄」
③「末法下種の本因妙抄」
④「末法事行の題目抄」
⑤「於我滅度後・応受持斯経・是人於仏道・決定無有疑抄」等とも称すべき、重要な多くの意義を含んでいますが、是非日寛上人の『御書文段集』の二〇四頁下段から、二〇六頁上段まで読まれることをお勧めします。
さて、本日拝読御書の箇所ですが、
ここには「一閻浮提第一の御本尊建立の時」とは何時なのか、その条件が明かされています。
一閻浮提第一の御本尊とは、弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊様の御事です。
というのも、大聖人がこの観心本尊抄をお認めになった文永十年以前にも、大聖人はすでに現存しているだけでも、文永八年十月九日の相模依智本間邸において顕わされたものを始めとして、数幅のものが残っているからです。
今月、この箇所の御文が、全国統一の御講法話用として採用されたのは、「創価学会が、弘安二年十月十二日御図顕の戒壇の御本尊様を出世の本懐とする、日蓮大聖人の法義を否定しているのを破折するため」であろうと、拝し奉ります。
そうでなければ、時に叶った法話にはなり得ません。創価学会は平成三十年十月十七付けの『創価新報』掲載の『聖人御難事』の講義の中で、
「熱原の法難において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持し、不惜身命の信心を示した民衆が出現したことにより、末法万年の民衆救済の道は完成し、『民衆仏法』の確立が証明されたのである。ゆえに、大聖人は御自身の出世の本懐を遂げられたと仰せである」
と述べています。
ここには大曼荼羅の文字は無く、大曼荼羅の必要性は無いがごとくであり、否、今は創価学会にあっては、「有っては困る存在」なのである。
だから、熱原三烈士の振る舞いだけを述べて、「不惜身命の信心を示した民衆が出現したことにより、末法万年の民衆救済の道は完成し、民衆仏法の確立が証明された」などと、我ながら巧みに表現できたと思ったのか自画自賛して、だから、「大聖人は出世の本懐を遂げられたと仰せなのだ」と、よくもまあヌケヌケと臆面も無く言えたものとは、正にこの事である。
大聖人が熱原の事件を出世の本懐成就の機縁にされたのは、開目抄の御文に由来します。それは、
「貧人とは法財の無きなり。女人とは一分の慈ある者なり。客舎とは穢土なり。一子とは法華経の信心・了因の子なり。舎主駆逐とは流罪せらる。其産未久とはいまだ信じて久しからず。悪風とは流罪の勅宣なり。蚊虻等とは有諸無智人・悪口罵詈等なり。母子共没とは終に法華経の信心をやぶらずして頭を刎ねらるゝなり。梵天とは仏界に生まるゝをいうなり。(中略)詮ずるところは子を念ふ慈念より外の事なし。念を一境にする、定に似たり。専ら子を思ふ、又慈悲にもにたり。かるがゆへに、他事なけれども天に生まるゝか。(中略)不求解脱・解脱自至等と云々。
我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざることをなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし。(中略)我が法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返ってみちびけかし」(五七三~五七四頁)
この炎のような烈々たる呼び掛けに呼応して現われたのが、神四郎等の熱原の百姓衆ではないでしょうか。よく読んでみると、すべてがピッタリ全く同じです。
この方々が、身命を賭して題目を唱えきっていかれたのが、寿量品にて弥勒菩薩が大衆を代表して、仏法の極説・寿量品の説法を「唯願説之。我等当信受仏語。(ただ願わくば、之を説き給へ。我らまさに仏語を信受すべし)。唯願説之。唯願説之」と三度請い願ったと同じように、末法即久遠の御本仏日蓮大聖人に、一閻浮提第一の御本尊を建立なさしめたまえ、我ら之を信受し奉るべしと願い出られたお姿だったのです。
ですから、本門戒壇大御本尊の「日蓮の御文字の真下」には、「本門戒壇也 願主彌四郎国重等 法華講衆敬白」という金文字が、記されているのです。
しかし、これだけではこの御本尊の御建立を致すことは出来ません。それを行うには、日蓮大聖人がまぎれもない御本仏である証明が無ければ、確固たる証拠が無ければ出来ないのです。
それが、観心本尊抄(六六一頁)の、
「『人を原ぬれば則ち五濁の生・闘諍の時なり。経に云はく、猶多怨嫉・況滅度後と。此の言良に以有るなり』と。此の釈に『闘諍の時』と云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。
此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の御本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」
の御文なのです。
この御文の中に、一閻浮提第一の御本尊建立は、自界叛逆・西海侵逼の二難が現実のものとなって、日蓮大聖人が名実ともに、地涌の菩薩の棟梁・上行菩薩であることが内外に鮮明となり、その上で建立される、との御宣言なのです。
この二難こそは、『立正安国論』(二四八頁)の中で、
「薬師経の七難の内、五難忽ちに起こり二難猶残れり。所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり。(中略)先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん」
などと、薬師経などの経文という証拠によって、謗法に依って未来に起こる災いを予言(※仏法では未来記という)されたものなのです。
これが現実に、日本国始まって以来、未曽有の国難たる文永の役・弘安の役という蒙古襲来と、北条時輔の乱という同士討・内乱となって現れたのです。
大聖人様は『蒙古使御書』に、
「夫れ大事の法門と申すは別に候はず、時に当たりて我が為国の為大事なる事を、少しも勘へたがへざるが智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘へ未来をしり三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなかるべし」(九〇九頁)
と御教示になり、『撰時抄』にも、
「外典に云はく、未萌を知るを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみょうあり。一には……。」
と仰せの通りであります。
これら『開目抄』の御文に呼応しての「熱原の法難」の惹起、そして『観心本尊抄』に宣明(宣言して明らかにすること)された「闘諍の時」の現実化、この内外の因縁、この二つが相まって、あるいは一つひとつが共通に指し示す所、ついに弘安二年十月十二日、本門戒壇の大御本尊さまが世に御出現になるのです。
次の「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、花の盛んなるを見て池の深きを知る」とは、正嘉の大地震や文永の大彗星という前代未聞の出来事が、規模が大きければ大きかった分、すべて地涌上行という釈尊をも凌ぐ大菩薩、つまり久遠元初の御本仏が世に出現し、全世界の民衆をも救済されることを表わす先兆・瑞相であるということなのです。
また、「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」とは、智人は目の前の現象に込められた真実の意義を見極め、これを世に明らかにされるということ、「蛇はみずから蛇であることを知っている」とは、すなわち大聖人がみずから上行菩薩の再誕・久遠元初の自受用報身如来という本仏であることを、御自覚あそばされていることの意味に他なりません。
御本仏は誰かから勧められて、あるいはおだてられて、あるいは信者が少々出来て、それで慢心で、あるいは天狗になって、神だとか、仏だとか名乗られるのではありません。
必ず、法華経寿量品の文底に説かれている本因妙の御修行によって、ただちに即座開悟あそばされ、御本仏としての御化導をなされたのです。
たとえば『寂日房御書』にも、
「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん」(一三九三頁)
と、ある通りなのです。
そうして、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」
とは、一念三千とは私達が十界の命を具えた、妙法蓮華経という仏の正体だと知る、ということです。
このことを教えるために、妙法蓮華経の御本尊のなかに一念三千の如意宝珠を包み込み、常に私達が忘れる事がないように、首に懸けてくだされたのです。
なんだか、修利槃特が仏の御慈悲によって、その名を忘れないように、名札を首からぶら提げて下さったのを、彷彿とさせるようなお話しです。
この御文意を『観心本尊抄文段』に、
「この久遠元初の自受用身(御本仏のことです)、(日蓮と名乗って)末法に出現し、(本因妙という根源の修行によって境智冥合し、ついに)下種の本尊と顕われたもうといえども、雖近而不見(近しと雖も而も見えず)にして自受用身即一念三千を識らず。ゆえに本尊に迷うなり。
この本尊に迷うゆえに、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷うゆえに生死を離れず。
ゆえに仏(日蓮大聖人様です)は大慈悲を起こし、我が証得するところの全体を一幅(の本尊)に図顕して、末代幼稚に授けたまえり(お授けくだされたのです)」(文段集二〇三頁)
よくよく御本尊様に信を出し奉り、題目を心の及ぶほどに唱え、そして広宣流布という御本仏の御化導の一翼を担わせていただけるように、共に折伏に励んで参りましょう。

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