闇鏡と明鏡

御本尊の相貌(かたち)こそは
御本仏の一心法界の御境地であると共に
我等衆生本有の妙理なのだ

『一生成仏抄』(御書四六頁)
「衆生の心けがるれば土もけがれ、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。如様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」

はじめに

この『一生成仏抄』は建長七年と申しますから、宗旨建立から二年後に著わされた御書、ということになります。
この書の冒頭には、人が色々な悲しみや苦しみの連鎖を断ち切って幸せになろうと思ったなら、「衆生本有の妙理」――人が本来持っている妙理・不変で且つ尊厳な法の理を、正しい方法によって知ることが、唯一つの方途であることを、先ずお示しになっています。

苦の連鎖を断ち切る本有の妙理とは

それでは、私たちが誰もが本来持っているという、その「衆生本有の妙理」とはそもそも何物かと尋ねれば、それこそが「妙法蓮華経」であると仰っているのです。
ですから、仏様のお言葉どおり、法華経以外のものを、虚妄(うそ)方便なりとキッパリ捨てて、ひたすら御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱えれば、お題目のことがまだよく分からなくても、自然と「衆生本有の妙理」を知ることになるのです、とお諭しなのです。

法華経は経王

法華経は、仏さま御自身が、まぎれもなくこの経が諸経の中で第一であることを証言され、又そこに導き出される法理とともに、真実にして正しき、まさに「経王」とも称されるべきものですから、その文字によって顕わされるのは実相であり、実相とは即妙法であります。
なぜ妙法と名づけられたのか

それではなぜ、「妙法」などと言う、際だって立派な名が付けられているのかと問われれば、それは『一心法界の旨を説き顕わされているから』に外なりません。
この「一心法界の旨」が説かれているから、法華経を「諸仏の智慧」とは言うのです。

一心法界の旨を説くこそ法華経

それではその「一心法界の旨」とはどのようなことでしょうか。
これは、仏の透徹した目でもって観る時、この法界の森羅万法、いわゆる下は地獄界から餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界など、この世界の陸海空に住する生きとし生けるものすべてを表す十界の衆生。
この十界の衆生がまた十界の生命を互いに具え――例えば、地獄にも仏界の命が存し、逆に仏界にも地獄の命が存するとは法華経独尊の説法です。
いわんや、他の生命が互いにその命を融通・具え合っていることは、推して知るべしで、合わせて百界になります。
これら「諸法」というこの十界の衆生がそれぞれ十如実相であるとは、相(姿形)・性(固有の性質)・体(身体)・力(十界各々の作すべき能力)・作(身口意三業を動かし、善悪の所作を為す事)・因(直接的な原因)・縁(果を生じさせる、因を助成する条件・事情)・果(因に対する結果)・報(業因の結果として受ける苦楽。これを悪報・善報という)さらには、「初めの相を本とし、後の報を末として、この本末その体きわまって中道実相妙法蓮華経の仏と開くのを、本末究竟して等しい」と言います。
なぜなら、人類が最初に作りだした抗生物質のペニシリンは、みかんの青カビより発見されました。ということは、あの食べられない青カビの中にも薬となり、人類に貢献する力が秘められていたという事です。
最近では、樒の実は元は猛毒と言われていましたが、その実より抽出されたシキミ酸が、インフルエンザの特効薬タミフル錠の主成分であることは、周知のことです。
あるいは、ススキなどの植物の葉をバッタが食べる。そのバッタをカマキリが食べる。そのカマキリを小鳥が食べる。小鳥を鷹が食べる……などというのも、壮絶な生存競争のようにも見られますが、私たちは他の生物の命を食することで生きられるのであって、これを仏が八万四千の相好でもって現われ、他を生かし育んでいる姿とも見て取れ、仏の慈悲応現・多様な生命表現ともいうべきものですから、これを無作の応身如来と称されたのです。
その証文は『総在一念抄』(御書一一五頁)に、
「八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身を法華経に説いて云はく『如是相如是性如是体』云々」
とあるとおりです。
こうして、百界にそれぞれ十如の生命活動が存しますから、都合千如是となります。
この千如是にそれぞれ五陰世間という精神作用の違い、国土世間という居住空間の違い、衆生世間というそれぞれ識別される、生命という形……という「三世間」を具えて「三千世間とも三千の諸法」とも言います。
この数量でもって、地球上のすべてのものを包含し尽くすことを表すのです。この範疇に分類されるのです。
この十界三千と総称されたものの中の、依正という言葉で括られる中で依報とはその生命の居住空間――たとえば、地獄の衆生は「赤鉄によって住す」と言って、真っ赤に溶けたマグマの様な所を住み家としています。
餓鬼は閻浮提という、今私たちが住んでいるこの大地の下五百由旬――由旬とは昔のインドで使われていた単位で、王の軍隊が一日に進む距離で、約十キロメートルから約十五キロメートルと言われています――を住み家としています。
閑話休題。だから、お盆のお施餓鬼の時は、ハスの葉にお粥のような食べ物をのせて、大地の上にお供えするのですね。
畜生界はご存知のように、水・陸・空を住み家としています。
修羅は海の畔・海底を住み家とし、人は大地によって住し、天界は宮殿に住し、声聞縁覚の二乗界は方便土に住し、菩薩は実報土に住し、仏は寂光土に住するなど、住んでいる所が同じではないので国土世間――世間とは差別・相違のこと――と仏法では呼ぶ事になっています。
そして、そこに住む生命体のことを正報、その国土世間を依報といいます。
さらには「色心」、あらゆる生命体の身体と精神のことです。
あるいは非情草木という、感情が無い石や草や木、それに、仏法用語では虚空・刹土と呼ばれる空と大地、これらの一切合切を含めて、砂粒ほども残らずわずか一瞬の心(一念)に収めて・つづめて・収斂して、またこの一念のこころが十法界にあまねく満たされて、顕われ出たもので無いものは無い、この状況を指して「万法」とは言うのです。この理を覚り知るのを「一心法界」とも表現されるのです。
さりとて、これが、自受用身という御本仏によって、法界を我が身、我が身をすなわち法界と開かれ証誠・真実であると証明されたものでなければ意味がありません。
この御本尊の相貌は、大聖人が本因妙の御修行に依って証得された、一心法界の全容です。
その上で、これが只仏の御一身の上のみならず、私たち一人一人の上にあることを、信をもって慧に代え、知ることが肝要なのです。ゆえにこの次に、
「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云ふとも、若し己心の外に法ありと思はゞ全く妙法にあらず、麁法は今経にあらず、今経にあらざれば方便なり、権門なり」(御書四六頁)
とも、あるいは、
「故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は、我が一念を指して、妙法蓮華経と名づくるぞと、深く信心を発こすべきなり」
とも、さらに、
「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきがごとし」
などと縷々戒められ、さらには、本来一つのものが二つのものと捉えられている例をお上げになるのです。その一つが、
「又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」
で、この中に「心けがれたる人」とは『新池御書』(御書一四五八頁)に、
「心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり」
とあって法華経に背く謗法の者らのことです。この謗法の者らがその国土に溢れる時は、未曾有の災害が襲い、まさに地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界さながらの巷となるのです。
その反対の「心清き人等」とは、御本尊を仏の御金言のように信ずる人々のことで、この人達が国土にあふれる時『如説修行抄』(御書六七一頁)の様に、
「天下万民諸乗一仏乗と成りて 妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず云々」
と、その時は国土も澄んで平和な楽土、つまり寂光浄土が出現するのです。このように、国土は一つでも、人々の心いかんによって、穢土ともなれば浄土ともなる……というか、元々寂光浄土なのです。
これと同じように、迷いの渦中にあるものという意味の「衆生」と言うのも、「仏」と申しあげるのも、元々は一つのものなのです。
ただ「十界三千の諸法を具えた妙法蓮華の仏とは我等の事なり」、と悟る時は仏であり、これに迷っている時は衆生・凡夫と言うのです。
これを例えられたのが「闇鏡 と 明鏡」です。

闇鏡とは何か?

「闇鏡」とは昔使われていた、銅を主成分(九十五%)に錫を一から二%、それに亜鉛を四から三%含んだ銅合金製の鏡で、青銅製の、現在流通している十円玉と、ほぼ同じ材質で作られた物です。
この御文の中で説かれている磨きの効果を検証してみたい方は、その十円玉をリンゴ酢に三分間ぐらい漬け、それを仏壇の真鍮磨きの時などに使う「ピカール」を、使わなくなった布などにつけて磨きます。
仕上げに「鏡面ポリッシャーサンダー」を使うと、見違える程の輝きになります。
大聖人様の時代の研磨には、「カタバミ」や「ザクロの実」などの植物が使われました。
これらに含まれるシュウ酸などによって、曇りの原因となる汚れが取り除かれ、輝きを蘇らせることができたのです。
私たちが博物館等でみる銅鏡はドス黒い緑色をして、とてもではないが、鏡としての用を果たせないように見えますが、作られた当初の反射面は、白銀色もしくは黄金色の金属光沢を放っていたそうです。(ウィキペディアを参照)
ですから、今仮に表面を緑青に覆われて真っ黒な鏡でも、これをカタバミやザクロで磨けば、白銀色や黄金色に美しく輝き、玉すなわち、古代中国の時代より珍重されてきた、白玉(真珠)やヒスイと見まちがえるほどになるのが良き例でしょう。

無明とは何だろう?

私たちの現在の「一念無明の迷心」――無明は「明らかなること無しと読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり」(御書一四一五頁)と『三世諸仏總勘文抄』にもありますように、無明とは明らかではない、暗いということで、つまり、私たちが「自分の心が中道不思議の妙体・妙法蓮華経の正体であることに無知であること」に名づけられたものなのです。
自分の尊厳さに気づいていないのです。だから、十悪業などを自然に犯してしまうのです。これが、あらゆる不善の原因となっていますから、「根本煩悩」とも名づけられているのです。
この状態の心と言うのは、緑青という錆に覆われたドス黒い闇鏡のようなものです。それでも、元々は鏡ですから、ちゃんと磨きさえすれば、白玉(真珠)やヒスイに喩えられる、まさに法性真如・仏の覚りや真理の様に輝き出すのです。
大事なのは、この譬えが何を言わんとされているかです。その意は、
私たちの本来の心と言うものは、その全体が鏡の明らかで清らかなものであれば、この十界三千の万像を少しも漏らすこと無く浮かべるように、私たちの心に十法界を具えて、妙法蓮華経という仏そのものとしての力や用きで、人生を存分に思うがままに振る舞えるはずなのに、それがそうでないのはどういう訳でしょう。
それは、私たちの心と言う鏡が、見思・塵沙・無明という三惑の塵・煩悩のサビに覆われているからなのです。
しかし、どんなに真っ黒く覆っているサビや塵などといっても、カタバミやザクロで何度もなんども磨けば、元の状態を取り戻すことが出来るように、信心の磨き粉を振りかけて、修行の力を出して南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えれば、やがて明浄な鏡の状態に戻すことが出来、そこには十界三千の諸法を具えて、妙法蓮華経の本来の仏としての力や用きを発揮出来るようになるのです。
ですから、日夜朝暮にまた怠らず磨かなければ、油断をするとサビの発生を招くことになりかねません。どのようにして磨くべきなのか。それは御本尊様を御安置申しあげ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱える時、大聖人の御一念という明浄な鏡に映し出された「一心法界」の姿が、我が心という鏡に、あざやかに映し出されることとなるのです。
※このことは、日寛上人の『序品談義』(日蓮正宗歴代法主全集四巻七五~七六頁)に詳細に書かれています。
そのことを具体的に表わそうとしたのが、数珠を指にかけて胸の上に置き、御本尊様に南無妙法蓮華経と唱える姿です。
御本尊様を妙法の曼荼羅とも言いますが、曼荼羅とはインドの言葉で、中国に仏教が渡った時、「輪円具足」とも「功徳聚」とも訳されました。
数珠の丸い珠はこの輪円具足を、壺型の珠、つまり功徳を収むる壺は功徳聚を表わし、共にこの数珠に御本尊のすべての意義が込められていることを示しています。
だから、御本尊様を信じて不断に題目を唱えている人は、我が心が明鏡となって、目の前の御本尊様、つまり日蓮大聖人さまの、一心法界の旨を証誠された命を映し出していることを表現していることになるのです。
こんなすばらしい唱題です。決していい加減であってはならない。又ゆるがせにできない、大事な姿勢であることを、認識して参りたいと思います。    
以上

TOP