『三大秘法稟承事』

『三大秘法稟承事』 (新編一五九四~一五九五)
 
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。」

はじめに
この『三大秘法稟承事(通称・三大秘法抄)』は、弘安五(一二八二)年四月八日、大聖人様が御年六十一歳の時、身延の地より、下総国葛飾郡八幡莊(現在の千葉県市川市周辺)中山に住んでおられた大田金吾殿を宛名とし、門家一同を対告衆として留め置かれた書です。
それは、この御書の後ろの部分に、
「今日蓮が時に感じ、此の法門、広宣流布するなり。予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間、貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見有るべからず、口外も詮無し」(新編一五九五)
と、あるからです。
ところが、同じ日蓮大聖人の門下でありながら、この書が長い間秘伝書扱いされていたからでしょうか、口を揃えたように日蓮正宗の法門に異を唱える他宗他門の人たちは、この御書が日蓮正宗の教義を全肯定する、完全な形で裏打ちする内容であることから、これを認めてしまったら自分達のこれまでのすべての主張がもろくも崩れ去ってしまい、存立基盤そのものを失ってしまうとでも思ったのか― 実際、そうなのですが― 頑なに「偽書である」として、決して認めようとしなかったのです。
しかし、これが大聖人の書かれたものであるということは、終始一貫して変わらぬ日蓮正宗の論証、あるいは近年、東大の研究グループが行ったコンピューターの解析でも、ほぼ間違いないことが改めて立証されたのです。
さて、今日はこの三大秘法抄の一節、先ほど拝読した御文についてお話しします。

題目に二意あり
この拝読した部分の趣旨を知るために、ほんの少し前の文章にさかのぼる必要があります。それが…、
「題目とは二意あり。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行ばかりにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり」
すなわち、題目と一口に言っても二つの意味があり、それはお釈迦様が亡くなった直後の千年間の正法時代、さらに次の千年間の像法時代とを一括りにしたものと、それ以降の末法とに大きく分けることが出来る、とされています。
まず正法時代には、天親菩薩や竜樹菩薩という方達が南無妙法蓮華経とお唱えになるにはなられましたが、どういう訳か自分だけ密かに唱えられるのみで、人にも勧められる、ということはなさいませんでした。
次の像法時代には、南岳大師や天台大師という方々が南無妙法蓮華経とお唱えになったものの、やはり自身のみの行に終わり、広く他のために説かれることはありませんでした。
これを「理行の題目」といいます。
引き続いて、今日拝読した部分に繋がるのですが、正法・像法時代に彼の人々によって唱えられた題目に対して、お釈迦様がおくなりになって二千年という月日が過ぎた、つまり末法に入って、今日蓮大聖人が唱えられている題目は、正法・像法という前代とは全く異なり、自行という自身の修行としては元より、他の人に向かっても、「これを唱えよ」と、広く勧められたのはご存知の通りです。
ゆえに、今日蓮大聖人がお唱えになった題目は、「前代とは異なり、自行化他に亘っての南無妙法蓮華経である」という事になります。

他宗他門の題目と同じ?
しかし、ここで疑問が無いでもありません。というのも、前代の題目も大聖人の題目も、自分で唱える、いわゆる自行としての題目と言う点では、果たして同じものなのだろうか?ということです。
つまりは、自行は同じだが化他が違う、だけなのでしょうか?
もしかしたら、日蓮宗で唱える題目は、日蓮正宗のものと、どれも同じなのでしょうか?
なぜなら、彼らにしたって、自分でも唱え、人にも教えているわけですから…。
それとも、折伏を正しく実践している日蓮正宗だけが、化他を行っていると言えるから、日蓮正宗の題目のみを自行化他に亘ると言える…、のでしょうか?
法門に与奪・一往再往の判釈あり
そのような表面的な捉え方では、この御書が『三大秘法抄』と名が付いていることが、まったく意味をなしません。無駄なことをされたことになります。
私たちが唱えている題目の修行とは何だろうか、と改めて問い直してみますと、それはこの「三大秘法」という事になります。
三大秘法こそは仏法の極致です。ゆえに日蓮大聖人さまは、同じ『三大秘法抄』(新編一五九五)に、
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」
と説かれ、日寛上人はこの文を受けて『文底秘沈抄』(六巻抄四一)に、
「仏は法華経を以て本懐と為すなり。世人は但本懐たることを知って、未だ本懐たる所以を知らず。
然らば本懐たる所以、応に之を聞くことを得べけんや。謂わく文底に三大秘法を秘沈する故なり」
と御指南されている通りです。
その三大秘法とは、一に「本門の本尊」とは、つまり、久遠元初の名字即の釈尊と行位全同と言って、修行と位が全く同じところから、末法即久遠の御本仏と拝したてまつる日蓮大聖人様が「人の本尊」、この御本仏が証得・悟られた事の一念三千という「法の本尊」、この二つが一体となった、いわゆる「人法一箇の御本尊」のことです。
その根源が、我が総本山大石寺の奉安堂に御安置申しあげる「本門戒壇の大御本尊様」です。
そしてこの御本尊を信じ奉って口に南無妙法蓮華経と唱えることを「本門の題目」と言います。これを「信行具足の題目」と言います。
そして、この本尊を安置し私たちが日夜修行するところが、懺悔滅罪の道場たる「本門の戒壇」と言い、その中にも、大聖人出世の本懐たる、弘安二年十月十二日に御図顕された「本門戒壇の大御本尊を御安置」申しあげるところを「事の戒壇」―私たちの総本山大石寺のことです―と申し、この御本尊様の御内証を時の血脈付法の御法主上人猊下様が御書写くだされた御本尊を御安置する、寺院あるいはそれぞれのご家庭を「義の戒壇」といいます。
私たちの自行とはすなわち、この「三大秘法」を言うのです。

題目ばかりでなくなぜお経を?
しかし、私たちの勤行はこのお題目ばかりでなく、法華経の経文も読みますが、その理由は、この三大秘法は、お釈迦様の五十年間の説法の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底に秘し沈めて説かれている根本の妙因・仏道修行であることを表すために、第一に方便品、次に寿量品、第三番目に題目を唱えるのです。
また、根本正行の題目の意義をより鮮明にするために、助行として方便品・寿量品を読むのですが、それについて日寛上人は『当流行事抄』(六巻抄一六一)に、次の様におっしゃっています。
「助行とは、方便寿量の両品を読誦し、正行甚深の功徳を助顕す。譬えば灰汁の清水を助け、塩酢の米麺の味を助くるが如し」
この中に「灰汁の清水を助け」とは、日寛上人御在世当時巷間に伝えられていた、大阪の鴻池が濁り酒を、静置法より早く〝澄み酒〟にする方法を見つけ大もうけしましたが、それが木灰を水に溶かした灰汁を入れる方法で、大いに江戸町民を喜ばせたことが伝説の様に語られていたことから、この話を用いられたのです。
※しかし、これは鴻池という造り酒屋の秘中の秘(企業秘密)であったことから一般にはこの様に伝えられたもので、教区のある方から聞いた情報によると、本当は活性炭を用いた画期的な方法だったようです。(閑話休題)
「塩酢の米麺」の中の塩と米とは、握り飯に塩をまぶして食べるのは、誰しもが好むことで、良く知れ渡っている身近な例を引かれました。
おにぎりが題目で、お塩が方便品・寿量品を読誦することです。
酢と麺は、長く宮中で行われていた、天皇が来客をもてなされたお料理のシメに出された「ソーメンをお酢で食べる料理 ・酢ソーメン」が、お公家から江戸庶民へと広まり当時大流行していたことから、お酢がソーメンの味を引き立てることを、助行と正行の関係に例えられたのです。

三大秘法は本因妙の修行
この三大秘法、大聖人様御自身のお振舞の時には、久遠元初の御本仏が修行された「本地の御自行」そのものなので、これを「本因妙」と言います。このことを判りやすく日寛上人は『当体義抄文段』(文段集六三四)
にお示しですので、次にこれを引用します。
「問う、釈尊は久遠五百塵点劫の当初、何なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。
答う、是れ種家の本因妙の修行に由るなり。前文に云わく『聖人此の法を師となして修行覚道したまへば、妙因妙果俱時に感得し給ふ』等云々。文に『聖人』とは、即ち是れ名字即の釈尊なり。故に《位妙》に当たるなり。後を以て之を呼ぶ故に『聖人』と云うなり。
此の名字凡夫の釈尊、一念三千の妙法蓮華を以て本尊と為す。故に『此の法を師と為す』と云う。即ち是れ《境妙》なり。
『修行』等とは、修行に始終有り。始めは是れ信心、終わりは是れ唱題なり。信心は是れ《智妙》なり。唱題は《行妙》なり。故に『修行』の両字は《智・行の二妙》に当たるなり。
此の境・智・行・位を合して《本因妙》と為す。此の本因妙の修行に依って、即座に本果(無作三身・当体蓮華仏・久遠元初の自受用身・久遠名字の報身※筆者注)に至る故に『妙因妙果俱時に感得す』と云うなり。即ち今の文に『妙法当体の蓮華を証得して』と云うは是れなり。
今本因・本果とは、即ち是れ種家の本因本果なるのみ。
釈尊既に爾なり、蓮祖も亦爾なり云々」
と、日蓮大聖人が「種家の本果」たる無作の三身・久遠元初の自受用身の仏果を成就して、「下種の本尊」として顕われ出られたのも、境智行位の四妙を具えた種家の本因妙という本因の修行に依るのです。
大聖人にとって、無作の三身・久遠元初の自受用報身如来の仏果を成就あそばされたのは、文永八年九月十二日の竜口の御法難ですから、それまでは種家の本因の修行、つまり本因妙のお振舞だったことが改めて分かるのであります。
妙解と妙行という話し 
この修行について日寛上人は、『序品談義』の中で「妙解と妙行」との二つに分けることができる、とされています。(歴代法主全集四巻七三)
その「妙解」とは何かと言えば、「一切万法が本来我が色心の全体ぞ」と解了するを、これを「妙解」と言う、と。そして「妙行」とは、先の様に「我が色心の全体、すなわち妙法蓮華経ぞ」と合点し信じ奉る上に、正しく修行を企て、終に「我が色心妙法蓮華経ぞ」と悟り顕わす様に修行するを、「妙行」と名づけられたのです。
大聖人様が修行にあたって、その最初の時点に有るべき、この妙解、あるいは境妙たる本尊を感得あそばされたのは、いつ、どのような状況だったのでしょう。
それこそが、あの『御本尊七箇之相承』(平成校定日蓮大聖人御書第三巻二〇九五)の中の、「明星直見の本尊の事」の記事ではなかったでしょうか。つまり、
「明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代凡夫幼稚の為に何物を以て本尊と為すべしと虚空蔵菩薩に御祈請ありし時、古僧示して言く、汝等が身を以て本尊と為す可し。明星ヶ池を見給へとの給ふ。即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影今の大曼荼羅なり」
御文章自体はいわゆる「言総意別」で、私たち一般のことのように書かれてはいますが、真実の法華経の行者である大聖人御自身の修行を始められるに際しての、対境・本尊の感得の瞬間であることは勿論なのです。
そして、この時点では未だ境智冥合を果たされていませんから、中央は南無の二字と一体となっていない、妙法蓮華経の五字のままでしょう。そしてその周りには、十界三千の諸法が宛然として具わる姿で浮かび上がったのです(宛然とは、ありのまま・整然としている様)。
これより、『本因妙抄』に示された、「釈尊久遠名字即の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移すなり」の文、あるいは『血脈抄』の「今の修行は久遠名字の振る舞いに介爾ばかりも相違なし」(『当流行事抄』〈六巻抄一八〇〉)
の修行が、開始されるのです。
この辺のことを日寛上人は『撰時抄文段』(文段集三四一)に、次の様に御指南になっています。
「本因妙の文に云わく『我本行菩薩道、所成寿命』云々」…すべての経文の中に、本物の仏に成る修行である本因妙のことが説かれているのは、法華経寿量品の、このわずか十文字なのです。この中に…、
「我とは釈迦如来なり。本とは五百塵点劫の当初、凡夫の御時なり。行とは即ち本時の行妙なり。菩薩は是れ因人、復位妙を顕わすなり。慧命は即ち本時の智妙なり。智には必ず境あり。即ち是れ境妙なり。六重本迹の第二の理本、之を思いあわすべし…。」
この御指南の中の「六重本迹の第二の理本」というのが、大聖人様の御修行・本地の御自行の時の境妙本尊なのですが、なかなか今語られることはありません。わずかに、御隠尊日顯上人による『百六箇抄』の御講義の時、「下種六重本迹」の段で、その名目を伺いました。これこそあの、大聖人の御一念・心が因果俱時不思議の一法であるところから妙法蓮華で、これが理本、これに十界三千の諸法というのが事迹、この二つが一体となったものが「六重本迹の第二の理本」なのです。

己心の妙法蓮華を本尊と崇めとはどの様に礼拝?
ここで疑問です。大聖人様は、この境妙・本尊をどのように礼拝されたのでしょうか?合掌した手を自分に向けて、南無妙法蓮華経と唱えられたのでしょうか?
その答えは『御義口伝』(新編一七八一)にあります。それを引きます。
「第二十 我本行菩薩道の文 礼拝住所の事 御義口伝に云はく、我とは本因妙の時を指すなり。本行菩薩道の文は不軽菩薩なり。これを、礼拝の住所と指すなり」
今までも見てきたとおり、「我……」とは本因妙の時を指しています。「本、菩薩の道を行じた」とは、不軽菩薩と全く同じく、貴賤上下・老若男女・百姓万民・だれかれと分け隔て無く礼拝した様を言うのです。
なぜなら、大聖人の目に映るあらゆるものが、大聖人の心という妙法蓮華経の五字に集約されたものだったからです。すべてのものは心が認識し、同時にその人の心が投影されたものと、現代の普通一般にも言うことですから、今の人にとっても、あまり突拍子も無い話しでは無い筈です。というより、現代の科学が仏法を証明していると言えましょう。
これを境妙本尊として、彼らの仏性を礼拝し、邪宗謗法を捨てて、妙法を受持せよ。さすれば、必ず成仏すべしと、あらゆる苦難をものともせず、折伏を行ぜられたのが、久遠の御本仏と同じ、根本の妙行だったのです。
そしてついに、あらゆる事象が「妙法蓮華経という一仏の境界」、すなわち、「一念三千即自受用身」という仏果を成就あそばされたのです。
中には私のこの話を聞き、あるいは目にし、稚拙だ、わかりにくいとお感じになる方が多いと思います。それはそうです。私ももどかしく思ってはいるものの、皆様と同じ末法の荒凡夫ですから、御先師の御指南を頼りに文字をなぞってお話しするしか、手立てが無いのです。でもなんとか、この深義の一端でも感じ取って欲しい、そういう命から駄文を綴っているのです。

獅子王の子は獅子王に、仏子は仏に
大聖人は御自身が行ぜられた本因妙の御修行を、「三大秘法」という形で御建立、お仕立て直しくだされ、私たちに「受持信行すべし」とお教えになりました。日寛上人は、『撰時抄愚記』(文段集三四一)に、
「四妙は即ち是れ三大秘法なり」とお示しになり、さらには『神力品談義』(歴代法主全集四巻四〇六)にも、
「各々我等が朝夕唱え奉る妙法蓮華経(御本尊様)は境なり。信心は智なり。題目を唱えるは行なり。此の当位即妙(法蓮華経)は位妙なり。是れ則ち四妙具足の本因妙の行者とは、各々我等なり。獅子王の子は獅子王と成り、佛の子は佛と成る。豈、本因妙の行者、無作三身の佛とならざらんや。弥信心を励まし、唱題修行が専一なり」(※専一とは他を顧みないで、ある物事だけに力を注ぐこと。)
と御指南になっているのです。
この様に、日蓮大聖人様の御修行の時には本地の自行たる、四妙具足の本因妙と言い、これを私たちの修行として教えられる場合には三大秘法の修行となるのです。

本宗では自行化他を本因下種と
しかもこれは一つのものですから、私たちの修行は三大秘法ともいい、本因妙とも言うのです。
今申しあげた様に、日蓮大聖人の場合、自行にも化他にも亘る南無妙法蓮華経の修行と言えるのです。
化他のもう一つの意味は、三大秘法、すなわち御本尊を受持してこの御本尊に向かって題目を唱えせしめる、御本尊流通ということです。
これが私たちの持っている仏性を開拓し、生き生きと躍動させていくことになるのです。
御本尊を相手に受持せしめてこそ、本当の喜びを味合わせることができるのです。境涯も大きく変革させることが出来るのです。日蓮大聖人は『経王殿御返事』(新編六八五)に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
と、大聖人の御化導の肝心は、御本尊流通にあることを明示されています。
文底の深秘・広宣流布の根源とは
また、寿量文底の深秘の大法とは何か、という問いには、『撰時抄愚記』に、
「即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記に云わく『本門の本尊の妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめん』(新編六七六)等云々。故に此の本尊は広布の根源なり」(文段集二九○)
と、総本山秘蔵の本門戒壇の大御本尊こそが、全世界の民衆救済のために広宣流布すべき根源の大法であることは明瞭なのです。これを離れては広宣流布もなければ、民衆の安寧もありません。
また御本尊こそが下種の法体であることを『撰時抄』(新編八四四)に、
「法華経を弘むる者は日本国一切衆生の父母なり。されば日蓮は当帝の父母なり。念仏者・禅宗・真言師等が師範なり、又主君なり」
とあるのを受けて、
「『法華経を弘む』とは(文・義・意の中には)意の法華経、即ち本門の本尊の妙法蓮華経五字なり。是れ即ち成仏の種子なり。此の種子の妙法蓮華経の五字を弘めて、日本国の一切衆生の心田に下すが故に『父母』というなり」(撰時抄愚記二九○)
邪宗謗法に染まってしまって、それがゆえにあらゆる不幸を招き、苦悩に喘ぐ人々を折伏し、御本尊を信仰して題目を唱えていきましょうと勧めるのは、すなわち相手の仏性を目覚めさせゆく、下種という事になるからなのです。
この方は、如意宝珠の珠から欲しい物を次々と取り出す様に、かならず生活を改善し、御本尊の功徳に浴する事が出来る様になるのです。
このように、竜樹・天親も、像法時代の南岳・天台・妙楽・そして伝教大師すらも、自行にも化他にも行じておられぬ、我が日蓮正宗の三大秘法の大仏法、心新たに自行化他の信行勤行唱題・折伏に邁進していこうではありませんか。

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