「宗旨建立三月説」の意義

創価学会が、またしきりに「宗旨建立三月説」を誹謗しております。
 しかも、日顕上人がもし御遷化されたら、三月二十八日の宗門における法要は無くなるであろう、などと言っています。
 この創価学会の誹謗について、あまり反論が聞かれないのはなぜでしようか。反論するに値しないから、無視されているのでしょうか。
 このような誹謗が行われるということは、見方を変えれば、仏様の御計らいなのです。なぜなら、このことによって、今まで見過ごされ、論議されてこなかったことが、改めて世に明らかになるからです。
 彼らの主張の中に、「三月説がいかに突拍子もない説であるかは、他の日蓮門下に三月説が皆無であることからも明らかである」というものがあります。
 実は、宗旨建立の三月説が他の日蓮門下に皆無なのは、大聖人の教えが本因妙の宗旨である事を知らないからなのです。
 彼らは、大聖人の唱えられた題目とは、一部八巻二十八品、六万九千三百八十四の文字からなる法華経という釈尊が説かれた経典の、その題名の妙法蓮華経に、帰命します、帰依しますという意味の、南無の二字をただくっつけただけのものと思っているのです。
 つまり、釈尊が説かれたそのままの法華経では、私たちにはあまりに長すぎて、毎日読むのには困難なので、日蓮上人は私たちが誰でも修行できるようにと、これを題目の五字・七字に縮めて下さったんだと、思い込んでいるのです。
 ですから、宗旨を建立された日が二回あったなどといっても、なんのことやら、ちんぷんかんぷん。法華経を諸経の中で第一と悟られ、これを七文字の南無妙法蓮華経にして私たちにお与えくだされた日蓮上人が、なぜ二回も宗旨建立をする必要があるのか、首をかしげ、いぶかしがるだけなのです。
 あるいは、正信会の広田頼道という者のように、「宗旨とは、『宗旨の三箇』と言って三大秘法のことだから、まだ戒壇の意義はもとより、本尊すら顕されていない段階で、どうして宗旨が建立されたといえるのか。建長五年に宗旨建立があったと主張する日蓮正宗の僧俗よ、この疑問に答えよ」などと、建長五年の宗旨建立そのものに、疑難を構える始末です。
 これもやはり、大聖人の龍ノ口御法難以前の法華経身読の曲解、浅識、つまり本因妙の修行であることを知らないところから起きる間違いなのです。
 それからもう一つ、釈尊が化導を始められるに当たって、人々の機根がどれほどのものか試すために、先ず、出世の本懐たる法華経の内容に程近い華厳経を説かれましたが、人々は如聾如唖、つまり、目や耳、それに口に障害のある人のごとく、茫然自失の態であったので、釈尊はその華厳経を早々と引っ込められて、仏様を待つまでもなく、人間の日常の経験から、人々がそれとなく抱くようになった考え、つまりあらゆる苦しみは物事に対する囚われから起きるから、人々が救われるのには、執着から脱却することだという内容の阿含経を説いて、「あぁ、これなら判る」と、まず仏法に関心をもたせることが先決とし、その後徐々に深い教理へと誘い入れようとされましたが、この華厳経を説いて人々の機根を試され、次に一旦これを引っ込めて、いわゆる本心を隠して、阿含経という浅い内容の教えを説いて誘い入れようとされた化導の方式が、末法の仏にも用いられた。
 つまり、先に本意の題目を唱えられたが、まだ人々が受け入れる状態で無いと知って、一旦これを引っ込められて、それで法華経・如是我聞の上の妙法蓮華経の題名に、南無の二字を加えられただけの題目を先ず勧められた。それで立宗宣言が都合二回あった、などというのも間違った解釈です。
 大聖人の御化導に、釈尊のこのような方便は、端から存在しません。
 ところで、突然お尋ねしますが、大聖人が成道を遂げられたのは、何時のことでしょう。
 そうですね、龍ノ口の御法難の時ですね。
 日寛上人は『法華取要抄文段』に、
 「文永八年九月十二日子丑の刻、龍口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり。詳細は開目抄愚記の如し」(文段集・五四二頁)
と仰せになっています。
 その『開目抄文段』(一六七頁)には、「九月十二日、子丑の時に頸はねられぬ文。この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れ給ふ明文なり」
と、はっきりお示しになっている通りです。
 日蓮大聖人が龍ノ口で成道を遂げられたことは、他の日蓮宗ならいざ知らず、正信会の広田頼道も、創価学会もこのことを否定することはないでしょう。
 問題はこの次です。
 それでは、この成道のために、大聖人はいかなる修行をされたのでしょうか?
 これも日寛上人の御指南によりますと『当体義抄文段』(文段集・六三四頁)には、
 「答う、これ種家の本因妙によるなり」
と、本因妙の修行によって成道を遂げられたと明らかに御指南されています。
 日寛上人の文段ばかりが多出しているようにお思いでしょうが、これは、創価学会が日寛上人の模造本尊を学会版の本尊として使用していることから、彼らはともかく日寛上人を尊敬し、歴代上人として認めていることは明らかなので、「その日寛上人は、このように仰せである」ということを述べて、それで三月二十八日にもう一つの宗旨建立があったことを、証明しようとしているのです。
 まさか、その日寛上人の御指南まで否定することはないでしょうから…。
 でも、この御文をお見せして、このように日寛上人がはっきりと、「大聖人は本因妙の修行によって、成道を遂げられた」と述べられていると言っても、それでも人はなかなか信じようとしないのです。
 これがまず不思議で、本当に難信難解なのです。この中に一体何人の人が了解されたでしょうか。
 それでは、その本因妙の修行とは、具体的にはどういうことを指すのかというと、これまた全く判らない、話が進まない、というのが現状なのです。不思議ですね。
 私たちの勤行の経本にも、「一天四海本因妙広宣流布御祈念のために」とか、「南無本因妙の教主・日蓮大聖人」という御観念文があるにもかかわらず、この文言があるのは知っていても、その本因妙とはどのような修行を指すのか、まったく解らないで過ごしているのです。これは一大事です。
 この本因妙の御修行こそ、『百六箇抄』に日蓮大聖人が、
 「久遠の釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」(御書一六九四頁)とか、
「日蓮が修行は久遠を移せり」(同)とか、
 「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞いに介爾ばかりも違はざるなり」(一六九五頁)とか、
「久遠の釈尊の修行と、今日蓮が修行とは介爾ばかりも違はざる勝劣なり」(一六九六頁)と仰せになっている、本地の御自行なのです。
 この本因妙の修行が分からなければ、御本尊の本当の意味も、大聖人がなぜ御本仏なのか、なぜこの曼荼羅が大聖人の一身の当体なのか、納得いくことはできないのです。
 日蓮宗の人々が、御本尊を見ても、「十界勧請」だとか、単なる「虚空会の儀式を文字で表現されたもの」だとか、「仏像配置の設計図」だとか、今に至っても一念三千即自受用身という、日蓮大聖人の御内証・下種の御本尊であることが理解できないのは、ひとえにこのことに起因しているのです。
 このことを論じてこそ、大聖人が御本仏であることが証明できるのです。
 そこで、ここは煩をいとわず、本因妙のことについて述べてみることに致しましょう。
 本因妙とはどういうものかと言いますと、『撰時抄愚記』(三四一頁)には、
 「本因妙の文に云はく、『我本行菩薩道、所成寿命』云々。我とは釈迦如来なり。本とは五百塵点劫の当初、凡夫の御時なり。行とは本時の行妙なり。菩薩とは因人、又位妙を表すなり。慧命は本時の智妙なり。智には必ず境あり。すなわち境妙なり。六重本迹の第二の理本、これを思い合わすべし」
と御指南されています。
 本因妙のことが明かされているのは、釈尊一代五十年の説法の中には、ただ法華経、法華経の中でも本門寿量品の「我本行菩薩道所成寿命」の、わずか十文字しかありません。
 本因妙は、境妙・智妙・行妙・位妙の、四つの妙を合わせて、一つの本因妙といいます。
 この経文のなかの「本」とは五百塵点劫の当初ということで、久遠元初のことです。
 「我」とは釈迦如来の事、とされていますが、釈迦如来といっても阿含経の身の丈一丈六尺、寿命八十の老比丘の姿の仏、すなわち劣応身の釈迦如来から始まって、勝応身、他受用身、応即法身、そして応仏昇進の自受用身と種々ありますが、この場合の久遠元初の釈迦如来といえば、先ほどの『当体義抄文段』にもありましたが、名字凡身の本因妙の教主釈尊たる日蓮大聖人様のことなのです。
 ゆえに『報恩抄文段』(四六七頁)には、「釈尊五百塵点劫の当初、凡夫の御時、無教の時、即ち内に薫じて自ら悟り、一迷先達して以て余迷に教えられし教主釈尊とは、即ちこれ、本門寿量文底の久遠元初の自受用身、名字凡夫の当体たる本因妙の教主釈尊なり」
と仰せになっているのです。
ところで、本因妙の四つの妙が説かれているというこの経文には、「菩薩の時」という「位妙」、「菩薩道を行じた」という「行妙」そして「寿命」という「智妙」の三つしかありません。
 ところが、この天台大師の御文を補って解釈した妙楽大師は、「一句の下は本因の四義に結す」と、確かに四妙が明かされていて、これを本因妙という、と述べられているのです。
 これは、「能照の智」と言って、対象を照らす智慧があるといえば、当然そこには「所照の境」という、照らされる境があるのであり、これはいわずもがな、ということで、結局四つの妙・四妙が明かされていることになるのです。
 また、文字としては秘して明かされてないというところに、末法出現の日蓮大聖人という御本仏によって、初めて明らかにされるという、ひそやかな意義を含んでいるのです。それでは、その境妙とは何ぞやというに、日寛上人は先ほど挙げた『撰時抄愚記』に、「下種六重本迹の第二の理本、これを思い合わすべし」
と御指南されています。
 つまり、「下種六重本迹の第二・理教本迹の理本こそ、大聖人が修行された本因妙の境妙御本尊なり」と、お示しになっているのです。
 ところが、この六重本迹というのが、普段なかなか耳にしない御法門なのです。
 その日寛上人がおおせになった六重本迹とは何かと言いますと、これは『百六箇抄』という大聖人から日興上人への相伝書に載せられている、大変重要な御法門であり、これこそ、本因妙の構造・仕組みを知ることができる法門なのです。
 六重本迹とは、第一に理事本迹、第二に理教本迹、第三に教行本迹、第四に体用本迹、第五に実権本迹、第六に已今本迹を言います。
 この中に、第一の理事、第二の理教、第三の教行本迹の三つを本因妙、第四の体用、第五の実権を本果妙、第六の已今本迹はお経について述べられたものです。
 その第一の理事本迹とは、日蓮大聖人がまだ凡夫であられた時、すでにその己心に理事の二法を具えておいでです。その己心に具えておいでの理を本とし、やはりその己心に具えておいでの事を迹とします。
 これを理事本迹と言うのです。
 この心に具えておいでの本迹にまだお気づきでない間を「理即」と申し上げます。
 ついで、第二の理教本迹とは、その大聖人のお心に具えたもうところの理事の二法を束ねて理本と名づけ、その理を教えに説き顕すのを教迹と言います。
 第三の教行本迹とは、先の理教本迹を束ねて教本とし、その教えによって修行あそばされるのを行迹といいます。
 以上が本因妙ということになります。
これを図にしてみますと、
理本─
  理本
事迹─     教本
  教迹 行迹
 ということになります。
 この中に、理事本迹というのは、次の理教本迹の中の理本という、本因妙の境妙、いわゆる御本仏の御修行の時の本尊の内容を示すものですが、この前提に、天台大師は『法華玄義』の中に「十如・因縁・四諦・二諦・三諦・一諦・無諦」という七つの境を挙げ、一つ一つ丁寧な解説を加えた上で、この中で最も優れ、又他の一切をも包摂しているのは二諦の境である、と結論づけています。
 しかし、その二諦の境についても、蔵・通・別・円の四種類の二諦、別接通・円接通・円接別の三種類の二諦があり、合わせてこの七種類の二諦についても、それぞれ随情・随智・随情智の三つの意義があり、合計、七種類二十一個の二諦のそれぞれが存在します。しかし、これらの意義を全部踏まえ、その頂点に立つものが真諦俗諦という、いわゆる真俗の二諦なのです。
 それゆえ、妙楽大師は『釈籖』という天台大師の玄義を注釈した書の中で、「理事というは、只これ真俗」と釈しているのです。
 これらの詳細をお知りになりたい方は、宗務院教学部発行の『富士学報』の第八号に、当時富士学林長であられた阿部信雄御尊師(現御隠尊日顕上人)の、「玄義境妙略見」という論文が載っていますから、参照してください。
それでは、日蓮大聖人が本因妙の御修行をされた時の境妙本尊たる真俗の二諦とは、どういうものでしょう。
 真諦とは、日蓮大聖人の己心が妙法蓮華経であることです。これを理本といいます。
 俗諦とは、この地球上の十界三千の諸法、いわゆる私たちのこの目で見たり聞いたりしているもの、すべての人間を含めた事象のことで、これを一切法ともいいます。これを事迹というのです。
 まだこの世の中に教えが存在しない時、いわゆる「無教の時」に、一人の聖人が御出現になり、様々なご苦労をされた結果、まさにこの二つが、我が一念に存することを見いだされる瞬間というものが訪れるのです。
 それが『当体義抄』の、「至理は名無し。聖人、理を感じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法これ有り。これを名づけて妙法蓮華となす。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減なし」の御文なのです。
 このなかで「聖人」と、誰か大聖人以外の人であるかのような記述をされていますが、それこそ、大聖人の御謙譲のお言葉なのです。 まだ、世の中が久遠元初のように、教えも無く、人々が深い迷いの中にある時、大聖人様が法界の姿をご覧になって、三世十方を貫く大真理を見いだされるのです。それは因果が同時の不思議の一法なんですね。
 因果が同時といえば、花が開いた途端、その中にすでに果実が見える蓮華と全く同じです。
 一法というのは、一念の心法といって、大聖人のある一瞬の心を指してそのように言うのですが、これが誠に不思議。不思議とは「言語道断・心行所滅」と申しまして、言語の道絶えて、言説すべからず。言葉をどんなに巧みに使っても言い切れない。表現することが出来ない。
 あるいは心の働きの滅するところにして、思念することができない。自分の知識や経験、あるいは想像の及ばないようなものですから、私たち凡夫の浅ましい心では簡単に判断しかねるほど尊いもの、という意味で、一言では「妙の一字」に置き換えることができるのです。
 それで、「大聖人の一念の心」が「因果倶時(蓮華)」の「不思議の一法(妙法)」であるところから、「妙法蓮華」と名づけられたのです。これが真諦の理本です。
 しかも、この大聖人の一念の心法という妙法蓮華に「十界三千の諸法を具足して欠減なし」とある十界三千の諸法とは、この地球上の、私たちの見聞しうる限りのすべての事柄です。これを大聖人様は『一生成仏抄』に、「ただ所詮一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく、故にこの経を諸仏の智慧とは云うなり。一心法界の旨とは、十界三千の依正・色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、塵も残らず一念の心に収めて、この一念の心、法界に遍満するを指して万法とは云うなり」(四六頁)と仰せになっているのです。
 これが先ほどの、第一理事本迹の中の、俗諦の事迹です。そして、これらが大聖人の心法妙法蓮華経に具わっているというのは、真諦・俗諦、この理事の本迹が二つながらにして一つに束ねられていることを表します。
 それが「六重本迹」の中には、第二の理教本迹の理本と云われるものです。
 そうです、先ほどの日寛上人が『撰時抄愚記』の中で「六重本迹の中の第二の理本、これを思い合わすべし」と指摘された、あの「理本」です。
これについては、中国の、あの像法時代の法華経の行者である天台大師も『玄義の七』に、「もし理教に約して本迹となすとは、理を指して本となし、本初の境妙を摂得す」と大聖人のことを証明するためにのべられているのです。
 それですから、大聖人はその次の『当体義抄』の御文に、
 「聖人、この法を師となして修行覚道したまえば、妙因妙果倶時に感得したもう」
と宣べられているのです。
 大聖人が龍ノ口で成道あそばされるまで御修行された本因妙の境妙・御本尊がここに示されているのです。
 しかも、これが単なる遙か昔・久遠元初の時の伝説であったならば、それこそ本尊も成仏も机上の空論となってしまいます。
ですから、この本尊・境妙の感得は、本因妙の修行の始めに存する、始められるにあたってその最初になければならないのは当然なのです。
 それが『御本尊七箇之相承』の中の「明星直見の本尊の事」なのです。
 「一、明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代の凡夫幼稚のために何物をもって本尊とすべきと虚空蔵菩薩に御祈祷ありし時、古僧示して云はく、汝が身をもって本尊とすべし。明星の池を見たまえとのたまえば、即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影、今の大曼荼羅なり」(日蓮正宗聖典三七九頁)
 この明星ヶ池に映し出された御本尊のおすがたは、大聖人の一念に十界三千の諸法が具わっている相貌・お姿を顕したものです。これこそ、大聖人様が本因妙の修行を始められるに当たって、その境妙本尊を感得あそばされた瞬間ではありませんか。まさに、大白法出現の時であります。日寛上人は『序品談義』のなかで、 
「重ねて申し談ず可し。先ず久遠五百塵点劫已前復倍上数の当初、理即名字の釈尊の一念の心性が法性妙法蓮華経の五字なれば即真諦、その一念の心性即十界三千森羅万法なるは即俗諦、かくの如き十法界を釈尊の色心につづめ、己心中に帰せしめて、その己心中一念心の一法を點ずるに二諦宛然と備はれり。二諦宛然なりと雖も、森羅三千の俗諦はとりもなおさず即妙法蓮華経の法性真諦、この妙法法性真諦即森羅の俗諦。非俗非真而俗而真にして、言語道断心行所滅、不思議不可得の重を指して、理教の中の理本と名づく。即ち、本初の境妙法蓮華経と釈なされてござる」(日蓮正宗歴代法主全書第四巻六十七頁)
と表現されているのです。
 この『序品談義』は、日寛上人が大聖人の本因妙の御修行について、詳しく論じられた極めて重要な書であります。
 十法界は広大無辺なわけですけれど、これを日蓮大聖人の心に縮めて、凝縮して、収斂して収めきたって、大聖人のお心と二つながら一つ、一つであるけれど二つ、という境地を六重本迹の第二の理教本迹の理本、これを本因妙の境妙本尊とするのです。
 この理本すなわち境妙なるがゆえに、この二つを合わせて「理境」という言葉が生まれました。
 そうそう、あの総本山の「理境坊」の名の由来です。不思議にも、あの総本山の参道を跨いで対角線上に「了性坊」という、了因仏性という「智慧を表す名前の坊」があります。しかもこれが、あの龍ノ口の御法難の時、辰巳の方角から戌亥の方角に、毬の如く光りたる物が、輝き渡ったという、その御書の文の通り、辰巳の方角に了性坊、戌亥の方角に理境坊が有るのです。
 了性坊とは「能照の智」といって、本尊対境を照らす智慧を、理境坊は「所照の境」といって、智慧によって照らされる本尊・対境を表します。
 この境智が合致・冥合したがゆえに、辰巳の方から光りたるものが戌亥の方角に光渡ったのです。
 『種々御振舞御書』(御書一○六○頁)
 「江ノ島のかたより月のごとくひかりたる物、毬のようにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」
 この辰巳という方角は、当時の人々は陰の気が尽きた全て陽の乾為天を、戌亥の方角は陽の気の尽きた極陰の坤為地を表すことは、学識ある人は皆知っておりました。
 そういう文化が背景にあったということを、まず私たちが理解していなければなりません。
 そうすると、陽が陰に合する。陰陽が和合する。これを仏法の方では境智冥合というのです。
 それにしても、御本仏の本因妙の修行について、法界と境智冥合されるにあたり、まさに辰巳という、照らす側の智慧の方角から戌亥という、照らされる側の境妙本尊の方へと光り物が出現するとは、まさに「法界を我と開かれる御本仏のご威光を示す現象」でなくして、なんでありましょうか。
 『御講聞書』(一八四四頁)には、
 「今、末法に入りて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る。日蓮世間に出世すといえども、三十二歳までこの題目を唱え出ださざるは仏法不現前なり」
と仰せらて、『当体義抄』の中の、久遠元初の、まだ教えが存在しない時、名字即の釈尊が己心を妙法蓮華経であるを見いだし、そこに十界三千の諸法を具しているという、本尊を感得し、南無妙法蓮華経と唱えられた仏法出現の時とは、大聖人が、建長五年、三十二歳の時のことを指すことは、間違い有りません。
 この仏法を私たちが日常使っている言葉をもって、教えとして説かれたのが、四月二十八日です。
 なぜなら、「教とは、聖人下にこうむらしむる言教」だからです。
 境妙御本尊を感得あそばされた瞬間、これに向かって南無妙法蓮華経と唱えいだされたのは至極当然のことなのです。
 ここに、本因妙の境妙・智妙・行妙・そして一切法を皆仏法と開かれた位妙が具わったわけですから、宗旨が建立されたと言えるのです。
 これが私たち凡夫の上には、三大秘法の、本門の本尊と戒壇と題目になるのです。 
 観心の本尊抄の観心も、宗祖大聖人の観心の本尊ではなく、私たち凡夫の観心の本尊である、と日寛上人が御指南されているのも、この辺の事情を物語っています。
 しかし、これは日寛上人のお言葉をお借りするとこの段階の大聖人の境地は妙解ですから、実際に修行しその上において修得されたものではないので、大衆の前でこの法門を申し始められ、妙行という本因妙の修行がいよいよ実際に始まるのです。
 その本因妙の修行の実際とは、大聖人が不軽菩薩の行体よろしく、老若男女、貴賤上下を選ばす折伏を行ぜられたことです。
 このことは『御義口伝』(御書一七八一頁)に、 「第二十 我本行菩薩の文礼拝住処の事
 御義口伝に云はく、我とは本因妙の時を指すな り。本行菩薩道の文は不軽菩薩なり。これを礼 拝の住処と指すなり」
 つまり、大聖人が人々に折伏を行じられたのは、不軽菩薩の跡をお継ぎになる姿で、しかも同時に、己心の十界の衆生に向かって礼拝・仏性を目覚めさせゆく行為なのです。
 現代でも、私たちが見ているのも、眼球を通じて脳が見ているわけですから、私たちが見ている人々というのは、私たちの己心に収っている十界の衆生ということになるわけです。
 すべて、六重本迹という御法門の化儀なのです。だから、三月二十八日というのは己心に十界三千の諸法を具えられた境妙本尊を感得して、南無妙法蓮華経と唱えられた理教本迹の中には理本の日、四月二十八日は、その法門を衆生に向かって説きいだした教迹の日、ということで、二回宗旨建立、立宗の日があるということでございます。
 このように、他宗他門で分からないのは当然、日蓮正宗のみが、七百年間、この三月説四月説を伝えてきたのであります。
 いよいよ、正系門家の誇りも高く、広宣流布の大道を歩んでまいりましょう。
 以上、私の挨拶といたします。

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