「四箇の格言」

 日蓮大聖人といえば、「四箇の格言」です。
的確に短い言葉でもって様々な宗教の間違いを、経文の上から、あるいは道理に照らして、また現実の証拠をもって知らしめ、私たちを不幸のどん底に突き落とす邪宗教から人々を救おうとなされたのが、この四箇の格言なのです。
 ここに改めて挙げてみますと、「念仏無間。禅天魔。真言亡国。律国賊。天台過時無得道、堕地獄の根源」であることは、すでにご存知のことです。
 しかもこの格言は、念仏も禅も真言も律宗も、すべてが無間地獄の業であり、天魔の所為であり、亡国の悪法であり、国賊である、との指摘に当てはまるのです。
 今日はこのことについてお話ししましょう。

◇なぜ、念仏は無間地獄の業か

 まず「念仏無間」とは、彼の宗においては、南無阿弥陀仏と称えることが極楽往生の因であると主張していますが、これが還って無間地獄へ堕ちる業因となりますから、「念仏無間」と、迷妄を打ち破られたのです。
 それではなぜそうなのかと言うと、私たち娑婆世界に住む者にとって主師親の三徳を具えたもう教主釈尊に背いて、この娑婆世界より西方十万億土といって、十万億の国土を次々と過ぎ去った西の彼方にあるという、いわゆる私たちの娑婆世界にすれば他方の世界の、まったく私たちに縁もゆかりもない、つまり無縁の教主を担ぎ出して崇むゆえに、「その人命終して阿鼻獄に入る」ことになるのです。
 主(衆生を守護する力・はたらきをお持ちあそばす方)であり、師(衆生を導き教化してくださる方)であり、親(父母のように、衆生を慈愛してくださる方)であるという、いわゆる三徳を具えたもう仏を差し置いて、主でもなければ師でもない、まして親の義もない方を敬うことは、私たちにとって、主であり師であり親である三徳具備の教主釈尊に対して、はなはだしい不知恩の行為を為すことになるからなのです。
 このなかに、仏様が私たちにとって親の徳をお持ちあそばすとは、親とは子供より先にこの世にうまれ、幼き子を深い愛情でもって慈しみ、そして社会を生きていくために必要な、自らが得た種々の経験・知識を授け育ててくださるように、仏様は全ての者がまだ迷いの中にある時、一人先んじて悟りを得られ、人々のために惜しげもなくその教えを授け、手を差しのべてくださるので、親となり子となる義があるのです。
 それに、天台大師は『法華文句』に、私たちは等しく仏性という仏の命を本来有していますが、この人々に等しく仏性が存することを、父が平等に子に接することに譬えて、『理性の子』と、私たちのことを名づけているのです。
 このような道理から、南無阿弥陀仏と称えれば、その都度教主釈尊への不知恩の罪を犯すこととなり、結果、無間地獄に堕ちることになるのです。
 また、未顕真実の浄土三部経を信ずるが故に、そうなるのです。
 阿弥陀経などの浄土三部経を説かれたのは釈尊です。阿弥陀仏ではありません。勘違いしてはいけません。
 この釈尊が、法華経という出世の本懐たる法華経を説かれるにあたって、法華経以前に説いた浄土三部経は、大乗教の初門として、菩薩の慈悲を、譬えを用いて教えるために説いたが、これをもって自分がこの世に出現した一大事の因縁と受け止めてはならない。すべては、法華経に人々を導き入れんがために説いた方便であるから、いよいよ真実の法華経を説く段になったのであるから、これを何のわだかまりも無く捨ててしまいなさい、と宣告されたのです。
ところが、この法王の宣旨に背いて、あえてこの方便の教えを取り、とくとくと行じているところから、「終に無上菩提を成ずることを得ず」、あえなく無間地獄へ堕ち果ててしまうことになるのです。
その証拠があるのです。
 念仏は、日本の法然や親鸞が初めて始めたと思い込んでいる人がいるようですが、そうではありません。これは、当時世界の先進国であった中国の、善導和尚という、後世念仏の僧や門徒の人たちが、「仏の滅後に於いては祖師先徳多しと雖も、大唐揚州の善導和尚にまさる人なし、唐土第一の高祖なり」(念仏無間地獄抄・御書四十頁)と、大層持ち上げて言う、この者によって始められたものなのです。
 この人は、一日に阿弥陀経を六十巻、念仏を十万遍欠かした事がなかったといいます。しかも、命が穢れるとして一生の間女性を見ることを忌み嫌い、はたまた不眠三十年といって念仏の修行のために、なんと三十年も夜眠ることがなかったというのです。
 ところが、何がそうさせたのか、善導自筆の『類聚伝』によると、自分の寺の柳の枝に紐をぶら下げて首つり自殺をしたのです。
 その時の臨終の言葉がこうです。「この身厭うべし。諸苦に責められしばらくも休息なし。」――あぁ、我が身ながら、こんなもの嫌で嫌でしょうがない。できることなら、早く捨ててしまいたい。愛着も、未練もあったもんじゃない。いろんな苦しみが次々と出てきて、いっときも休まることがない。――と。そして、ひもを首にかけて西に向かって願って言うのには、「仏の威神もって我を取り、観音・勢至来たって又我を扶けたまへ」――阿弥陀仏よ、あなたの絶大な力をもって私をそちらの浄土へといざない導き下さい。脇士の観音菩薩に勢至菩薩よ、また我を助けたまえ。――
 このように、このけがれた世界を離れ、浅ましい我が身を捨てて阿弥陀の浄土に往生することを乞い願う心があまりに強いために、この世での生を早く終わらせるために、ついに自らの命を絶つ行為に走ったのです。
 だから、この人を嚆矢として、念仏のお坊さんや門徒の人たちには、自殺をする人が多いのです。日本の年間三万二千人という自殺者の数が、関係者の努力にも関わらず一向に減らないのも、この念仏の信仰が影響しているのは間違いありません。

◇なぜ、念仏は亡国の悪法か
 また、この念仏信仰は亡国の因ともなるのです。なぜなら、この娑婆世界に有縁の仏を捨てて、安養浄土という他方の国土の、私たちに縁もゆかりもない、いわゆる無縁の阿弥陀仏を信ずるからなのです。それは例えば、自分の国の王を捨てて他国の王を尊敬するようなものだからです。そうなれば当然その国は滅びるでしょう。
 この、念仏が亡国の因たることは、大聖人様は『撰時抄』(八五九頁)に、
 「法然が念仏宗のはやりて一国を失はんとする」
とあり、また『法門申さるべき様の事』(四三四頁)にも、
「例せば、震旦高麗等は、天竺についでは仏国なるべし。 彼の国、禅・念仏宗によりて蒙古国に亡ぼされぬ。日本国は彼の二箇の国の弟子なり。二国の亡ぼされんに、豈此の国安穏なるべしや」
(例えば、中国・朝鮮は、インドに次いで仏教を受け入れた国です。ところがこの中国や朝鮮は、その国で禅宗や念仏宗が隆盛を極めた時、蒙古に亡ぼされるという憂き目にあいました。日本は、彼の国の仏教をお手本として、仏法を受容してきた経緯があります。言うなれば、日本は仏教の上からは中国・朝鮮という二つの国の弟子という立場です。その二つの国が、禅宗と念仏宗の興隆とともに、滅び去ったという事実があるのに、どうして念仏が日本国を覆い尽くしている現状で、結果、亡国とならないことがありましょうか)
と、仰っているのです。
 また、『上野殿御返事』(七四六頁)には、
 「念仏宗と申すは亡国の悪法なり。このいくさには大体人々の自害をし候はんずるなり。善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば、自害の心出来し候ぞ」
(この度の蒙古とのいくさには、多くの兵士が闘いの中で鉄砲や砲弾、あるいは刀などで殺されるより、ほとんどが自殺で亡くなっているのです。この世界に住むことより西方極楽浄土へと往生することが唯一の願いと思っている人らが、どうしてこの国を真剣に守ろうとするでしょうか。早く早く彼の浄土へ生まれ変わりたいと思う余りに、まだ寿命が残っていても、死期を早めてでも往生を願う――これもすべては善導という愚かな法師が広め始めて、しかも自害して果てたがゆえに、念仏をよくよくすれば、自殺願望が自然と起こってくるのです)
と、念仏は亡国の悪法なることを示されているのです。
 さらに『立正安国論』(二四二頁)には、慈覚大師の『入唐巡礼記』を引かれて、唐の武宗皇帝が最初章敬寺の鏡霜法師をして、多くの寺に念仏の教えを弘めさせましたが、たちまちに回鶻国(ウイグル)の軍隊が唐の国境を侵し、さらには河北の節度使(軍隊を指揮する官)が乱を起こし、後には大蕃国(チベット)も命に背くようになり、回鶻国はふたたび国土を奪うなど、戦乱の様相は彼の秦の始皇帝や楚の項羽の時代に同じく、戦乱や天災によって都市や村は大火事に見舞われ、焼け野原となるなどして荒廃してしまったことから、武宗皇帝は「これは仏教を原因として起こったものだ」と考え、今度は仏教を破壊するにいたりました。これを「会昌の廃仏」といいます。そして、ついには自国を亡ぼすに至ったことを記されているのです。ゆえに、念仏は亡国の悪法なのです。

◇なぜ、念仏は天魔の所為か

このことについては、『唱法華題目抄』(二二七~二二八頁)にこう御指南されています。念仏の者らは、大聖人様が折伏を開始される以前は「念仏以外の行では成仏往生することはできない。ゆえに、善導和尚は、法華経を信じても、千人に一人も成仏できない、と申され、選択集には、念仏以外の行をなげうちなさい。行ずる者は群賊です、と書かれているから間違いがない」などと、放言していたが、その四五年の後には、「選択集のように人に念仏をすすめる者は、謗法の罪によって必ず無間地獄に堕ちる、と経文には書かれている」と強く主張する日蓮の出現によって、初めは「念仏申す者は、無間地獄に堕ちるなどと言う、悪人外道あり」などと口を極めてののしっていたが、「念仏者らは無間地獄に堕ちるだろう」という言葉を耳にして智慧がついたか、改めて『選択集』を読み直してみて、本当にこれは謗法の書だと分かったのかもしれない。それからは「法華経を信じても千人に一人も成仏する者なし」との、千中無一という悪義は口にしなくなり、他の行でも浄土に往生することができる、ということを言うようになった。
 しかし、心の中ではあくまで本の「千中無一」の邪義を持ち続けている。在家の愚かな人たちは、そういう念仏の僧らが、法華経誹謗の心をひた隠しにしていることを知らないで、諸行往生の言葉にばかされて、「念仏者は法華経を誹謗しないのに、私たちが法華経を誹謗しているから無間地獄行きだ、と言うのは、法華経を信仰している人たちの私たちへの甚だしい勘違い・冒涜である」とでも思っているのでしょう。むしろ、「ほかの行は千人行じても、一人として成仏する者とてない」、と言う者より、謗法の心は強くなってしまっている。自分たちは法華経に背いていることはないと思わしめて、しかも念仏ばかりを又弘めようとたぶらかしているのです。
 これはひとえに、「天魔のはかりごと」なのです。
 ゆえに『戒体即身成仏義』(九頁)には、「浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗教にもはづれ大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民、一切衆生の其の教を信ずるは三途の主なり」と書かれているのです。

◇念仏者らは国賊なること

 念仏宗の者は、国を誑惑・たぶらかし、人をまどわし、娑婆世界に居住しながら安楽・安養浄土の法を勧める。これ国民を誑惑・たぶらかすことですから、ゆえに「国賊」と言わざるを得ないのです。
 その次の「禅天魔」ということについてお話しします。これは、禅宗は仏法を破壊しようとする天魔、つまり第六天の魔王の所為・しわざである、ということです。
 これについて大聖人様は『行敏訴状御会通』(四七四頁)に、
 「又云はく『禅宗は天魔波旬の説』云々。此又日蓮が私の言に非ず。彼の宗の人々の云はく『教外別伝』云々。仏の遺言に云はく『我が経の外に正法ありといはば、天魔の説なり』云々。教外別伝の言、豈此の科を脱れんや」
(禅天魔といっても、これも日蓮の勝手な言葉ではありません。彼の宗の人たちが、禅は教外別伝(釈尊の残された経文には真実は説かれていず、ただ迦葉尊者に釈尊が拈華微笑したとき、釈尊の心から迦葉尊者へと以心伝心された)と言っているが、これが正しく仏の御遺言の「我が経の外に正法があるということを言う人がいれば、これ天魔の説である」と言われていることに合致しているから「禅天魔」というのです。教外別伝の言葉がどうして、その科を逃れることができましょう)

◇禅は無間地獄の業なること

禅が無間地獄の因とは、法華経には仏の真実の教えは説かれてないと、誹謗するからです。法華経には「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば、乃至その人命終して阿鼻獄に入らん」(譬喩品一七五頁)とあります。この阿鼻地獄とは無間地獄の別名です。禅宗の方では、法華経には仏の真実は明かされてないと否定し謗るのですから、当然禅宗の教えは無間地獄への業因となるのです。日蓮大聖人は『顕謗法抄』(二八五頁)に、禅宗の謗法をあげて、
 「禅宗には二の流あり。一流は一切経、一切の深義は禅宗なり。一流は如来一代の聖教は皆言説、如来の口輪の方便なり。禅宗は如来の意密、言説に及ばず、教外の別伝なり」
(禅宗に二つの流れがあって、一つの方は、釈迦の説法として一切経があるにせよ、その深義はただ禅宗にあるとする説と、釈尊一代の聖教はみな人間の使っている言葉として説かれたもので、方便である。禅宗は如来の心であって、言葉や文字ではおよばない、衆生に対して残された教えの外に別に伝えられたものであるとする説、このいずれも法華経を否定しているのは明白です)
と破折され、『妙法比丘尼御返事』(一二六一頁)には、
 「禅宗と申す宗は、『真実の正法は教外別伝なり。法華経等の経々は教内なり。譬へば月をさす指、渡りの後の船、彼岸に到りてなにかせん。月を見ては指は用事ならず』等云々。
 彼の人々、謗法ともをもはず習ひ伝へるまゝに存じの外に申すなり。然れども此の言は釈迦仏をあなづり、法華経を失ひ奉る因縁となりて、この国の人々皆一同に五逆罪にすぎたる大罪を犯しながら而も罪ともしらず」
と、教外別伝という悪口の「教」の一字の中に、法華経が含まれていることを明らかにされ、法華経は月をさす指で、月である禅が分かれば、指の法華経は用は無い。同様に、渡りの後の船と同じように、禅という岸に到れば、船の法華経は逆にお荷物、という具合に、釈迦仏をあなどり、人々より法華経の信心を失わせ、日本一同に五逆罪にすぎたる大罪を犯させしめているのです。五逆罪にすぎたる大罪とは謗法ですから、その国は亡国となるのです。
また『撰時抄』(八五九頁)にも、
 「禅宗は日本国に充満して、既に亡国とならんとするなり」
と、示されているのです。

◇禅宗は国賊なることは

 日寛上人は『如説修行抄筆記』(文段集・六○六頁)に『法門申さるべき様の事』を引かれて、
 「禅宗のやつばらには天魔乗り移りて乃至又国賊なり」(四三四頁)と。
 禅宗ははるかに天台真言を超えたる極理である、などと言って、国や社会を乱し仇をなすゆえに国賊である、と破折されているのです。

◇真言は亡国の悪法とは

 『撰時抄』(八六一頁)には、
 「法華経に真言すぐれたりと申す人は、今生には国をほろぼし家を失ひ、後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候。今現証あるべし。乃至承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候ひしが、調伏せられ給ひし権の大夫殿はかたせ給ひ、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡の島々へ調伏しやりまいらせたまひぬ」
と、承久の乱(一二二一年)の時、朝廷側は真言宗の十五檀の秘法をもって鎌倉幕府の北条義時の調伏と戦勝を祈ったが、調伏された義時は勝利を収め、真言で祈った朝廷はわずか二ヶ月でやぶれ、後鳥羽・土御門・順徳上皇は、それぞれ隠岐・土佐・佐渡に流され、院の親王から重臣にいたるまで処罰された。
この現実の証拠をもって、真言は亡国の悪法であることは明白なのです。ゆえに同じ『撰時抄』(八六四頁)に、
 「亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師」
とあるのです。

◇真言は無間地獄なることは

 『下山御消息』(一一五七頁)に、
 「又真言宗の元祖善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等は親父を兼ねたる教主釈尊法王を立て下して大日他仏をあがめし故に、善無畏三蔵は閻魔王のせめにあづかるのみならず、又無間地獄に堕ちぬ」
善無畏三蔵が現身に閻魔王の責めを受ける現証が表れ、無間地獄に堕ちた例証をもって、真言は無間地獄の邪法なることは明らかです。

◇真言は天魔の所為なることは

 弘法は、弟子真済の自記なる孔雀経の疏に「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門にわかに開いて金色の毘盧遮那となる」と書いているが、『涅槃経』の五に、
 「若し、天・魔・梵、破壊せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳す」
とあり、又同じくその六には、
 「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して乃至後是の魔波旬ようやく当に我がこの正法を沮壊すべし。乃至化して阿羅漢の身、及び仏の色身と作り、魔王此の有漏の形を持って無漏の身と作り我が正法を壊らん」
とありますが、弘法は正しく天魔が化して仏身を現し、華厳経・大日経に対して法華経は戯論と正法を破壊するがゆえに、
 「仏説ならば弘法は天魔にあらずや」(報恩抄・一○二八頁)
ということになるのです。ゆえに、『真言見聞』には、
 「二乗は無量無辺劫の間、千二百余尊の印契・真言を行ずとも、法華経に値はずんば成仏すべからず。印は手の用、真言は口の用なり。其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏すべきや。一代に超過し、三説に秀でたる二乗の事をば物とせず。事による時は印・真言を尊む者、劣謂勝見の外道なり」
と、御指南なのです。
 要するに、法華経に背けば無間地獄なのです。『譬喩品』の「若し人信ぜずして毀謗せば乃至阿鼻獄に入らん」の経文の指し示すところは、明白です。
 また、この経を信じないということは、第六天の魔王のしわざなのです。ですから経文には「悪鬼入其身」と『勧持品』(三七七頁)にはあって、悪鬼が身に入ると人の思考は乱れ、ことごとく軽慢の心を起こし、法華経やその行者を迫害・誹謗したりするようになるのです。
 このことを『兄弟抄』(九八○頁)には、
 「法華経を信ずる人をばいかにもして悪へ堕とさんとをもうに、叶はざればやうやくすかさんがために○華厳経へをとし、又般若経へをとし、乃至大日経へ堕としつ、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等これなり。又禅宗へ堕としつ、達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は、善導・法然是なり。此は第六天の魔王が智者の身に入って善人をたぼらかすなり。法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」 
と示されています。
 また経文には「正法治国 邪法乱国」とありますが、このなかに正法とは法華経のことで、邪法とは念仏・禅・真言・律宗などのことです。それですから、邪宗謗法を信ずれば亡国となるは、経文に明らかなのです。
 あるいは、「法華経もそれ以前の経も勝劣など無いよ」と勧めたり、あるいは「一念三千が説かれていることは同じだが、口に真言陀羅尼を唱えるのと手に印契を結ぶことが勝れている」(理同事勝)、あるいは「我等が機には叶わない」などと教えて国民を誑惑するのは、これ国賊なのです。
 このように、ありとあらゆる災いの原因は邪宗謗法にあるのです。法然の八百年遠忌、親鸞の七百五十年遠忌と大騒ぎしている時、古今未曾有の大地震・大津波、そして原子力発電所の事故、そして真言宗の総本山金剛峰寺のある紀伊半島を襲った大洪水等々、何か我等に語りかけているものを感じませんか。そこで日寛上人は我等に訴えられています。
 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向かい、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずるなり。是れ則ち身口意三業に法華経を信ずる人なり。」(如説修行抄筆記・六○八頁)と。

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