「人は悪人に親近すれば悪人となり、善知識に親近すれば必ず仏となる」

 『三三蔵祈雨事』(御書八七三ページ)
 「されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わが智慧なににかせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識大切なり」 (題目三唱)
 ただ今拝読いたしました御書は、『三三蔵祈雨事』といいますが、この御書の始めの部分に、善知識ということが書かれているのであります。
 善知識とは、正直・有徳の友人のことでありまして、仏であれ、菩薩であれ、あるいは人界・天界を問わず、人を仏道に導き入れてくださる方をいうのです。
 経典では、いたる所でこの善知識に出会うことが極めて大事であることを強調しています。なぜなら、善知識に近づいて親しくなり感化を受けることによって、信心が強くなり、智慧も豊かになってくるからであります。これとは逆の、信心の心を狂わせ、悪い命ばかりを起こさせる者は、悪知識といいます。
 さて、それではなぜそれほどに善知識が大切なのか、具体的な譬えから説明を加えておられます。
 その第一が、あなたが植木市で苗木を買ってきて、これをわが家の庭に植えたとします。
 これは、私たちが経験上から知っていることですが、今植えたばかりの苗木は、まだ地中に根を張っていないのでグラグラしています。
 しかし、この植えたばかりの苗木でも、しっかりした添え木があれば、今たとえ大風が吹いてもビクともいたしません。
 それに対して、もともとそこに長く生えていた木でも、根を深くまた広く大地に張っていないものは、大風にあえばたちまちに倒れてしまいます。
 これと同じことが人にも言えるのです。その方の足が少しばかりご不自由でも、手を添えてあげる方がしっかりしておれば、ちょっとやそっとの事でころんでしまわれるようなことはありません。
 逆に、少々足腰に自信があるような人でも、一人なら、けわしい道ではうっかりつまずいて倒れてしまうことだってあります。
 また、この世の中で、舎利弗・迦葉尊者という、特に優れたお二人を除いたその外の人たちは、もし仏様がこの世にお出ましにならなかったなら、残らず、地獄・餓鬼・畜生という悲惨な境遇に落ちなければならないところでした。しかし、はからずも仏様の御化導に出会い、絶大なお力添えをいただくことができたので、人々は次々と仏になることができたのです。
 これは、お釈迦様の時代の人たちだけのことではありません。当然、現代に生きる私たちにも、そのまま当てはまることなのです。
 私たちは気づいていませんが、人間の考えることや行っていることは、大抵、地獄や餓鬼・畜生に生まれ変わる原因となるものばかりなのです。
 そもそも、地獄や餓鬼、それに畜生などを、自分たち人間には関係ない、空想の世界のことだと考えているから、何のことだと思ってしまうのです。
 私たちが、頭にカッときて、後は野となれ山となれと、前後の見境なく暴力をふるう様が、実は地獄なのです。これを「いかるは地獄」というのです。
 次に、「むさぼるは餓鬼」といって、結局自分の利益だけが頭にあり、人を押し分け、あるいは引きずり下ろし、あるいは蹴落としてでも自分があらゆるものを一人占めしようとする、良い思いをしようとする、利己的な心を餓鬼と言うのです。
 さらには、そのような激情に支配された心には、道理など吹っ飛んでしまいます。このように、その場の感情に支配され、理性を見失った姿を、「おろかは畜生」というのです。
 これらのことを踏まえて日蓮大聖人様は『女人成仏抄』という御書の中に、「しかるに法性真如の都を迷い出でて妄想顛倒の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ善根は少なく悪業は多し。されば経文には、一人一日の中に八億四千念あり。念念の中になすところ、皆これ三途の業なり等云々」と、仰せられているのです。
 現代人は、人類の英知をもって、未曾有の進歩を遂げつつあると自負していますが、このしばしの平和さえ、地球上のあらゆる生命をいくたびも絶滅させてもまだ余りある原水爆の、いわゆる核の均衡によってもたらされているのです。なんと愚かなことではありませんか。
 足もとの我が日本を見れば、朝という朝、むごたらしい事件が報道されない日はありません。それも、どうしてこのような事がと、我が目を疑い、心が震えあがるような事件が、これでもか、これでもかと起こってまいります。
 本当に人間は進歩していると言えるのでしょうか。
 私どもの心には、わずか一日・二十四時間の間に、八億四千の思いが生まれては消え、消えては生まれているといいます。
 そのいずれもが、先ほど申し上げた怒りやむさぼり、それに愚かの、いわゆる地獄・餓鬼・畜生の三悪道に生まれる因となるものばかりです。
 もし、自分の一日の心の軌跡を、ビデオテープのようなものにでも撮って後で見る事ができるならば、誰でもきっと自分のことながら愕然とするはずです。
 ですから、正しい信仰をもたない限り、正しい善知識に遭遇しないかぎり、かならず、後悔の多い人生を歩むことになるのです。
 だから、正しい信仰が必要なのです。
 まして、お釈迦様時代の悪人の代表者たる阿闍世王や鴦掘摩羅などという人たちは、どうもがいても地獄に堕ちることは必至の情勢でしたが、釈尊という大人(大丈夫の人のことで、転輪聖王・菩薩・仏などを指す。仏の相好である三十二相を大人相ともいい、人々のあらゆる願望・理想・すばらしい徳を一身にそなえておられる方)に巡り会えて、急転直下、仏になることができたのです。
 さればこそ、仏になる道、仏になろうという時には正しい教えを信ずることは勿論、いかなる組織、いかなる指導者に出会うか、ということが決定的な意味を持つといえるのです。その時には、自分の智慧が優れているか劣っているかはさほど問題ではありません。ごくごく基本的な、いわば、火を手にして熱いと感じ、水に触れて冷たいと判断できるほどのものを持ち合わせておれば、あとは善知識によって、どのような人でもかならず成仏が可能なのです。
 それを証明するのが、先ほどのお二人でしょう。この方々について、少しお話ししておきましょう。
 まず阿闍世王ですが、この方は、お釈迦様ご在世当時の大国であった、マカダ国の王だったのです。この方の誕生には、悲しい物語があります。この阿闍世王の父は頻婆沙羅王・母は韋提希夫人といいます。
 この二人は、結婚して久しいのに、なかなか子供が授かりませんでした。日本の妃殿下がそうであったように、後継ぎがないというのは大変なことなのです。
 その上、韋提希夫人は年をとって容姿が衰えたこともあり、このままでは王妃の座も危うくなるという不安もあってか、是が非でも子供が欲しいと思うようになりました。
 そこで、ある占い師に占ってもらったところ、ある山奥に住む仙人の寿命が尽きようとしており、この仙人が死ぬと韋提希夫人の子供として転生する、ということを告げたのでした。
 しかし、王と夫人はその期限を待つことが出来ず、仙人を殺してしまいます。仙人はそれを恨み、子となって生まれ変わったなら、父親を殺してやると呪うのです。当然です。
 韋提希夫人はその直後に子供を身ごもります。后の懐妊の噂を聞いた先の占い師は不審に思い、王と后に問うために城を訪ねます。そして、子供を早く欲しいばかりに仙人をあやめたという王の告白を聞き、かならずや、この子は両親に災いをもたらすであろうと、予言するのです。
 ここに、生まれる以前から、すでに親にうらみを持っている人、ということで「未生怨」と、人々は口々にささやくようになりました。
 この未生怨のインドの言葉を、阿闍世というのです。
 勝手なもので、お腹の子がだんだん大きくなると両親は仙人の呪いが恐ろしくなり、生まれてきた子を高い塔から産み落として殺そうとします。しかし、子供はわずかに指を折っただけで助かってしまうのです。
 そこで今度は、人々は又こうささやき合ったのです。「指折れ王」と。これを、昔のインドの言葉で「婆羅留支」というのです。
 まことに、人の口とはさがないものです。
 この阿闍世太子は成長して提婆達多と仲良くなります。そして、この提婆達多から、自分の出生時の秘密を耳にすることになるのです。
 そして、そのような親に何の気がねなどあろうか。そんな自分勝手な親など殺して、マカダ国を一刻も早く自分のものにしてしまいなさい、とそそのかされます。阿闍世は、このささやきに負けて父親を牢屋に閉じ込めて殺してしまうのです。
 このような親殺しの罪を持つ阿闍世王なんですが、仏様という善知識に出会って罪を滅し、救われていくのです。
 この阿闍世王については、精神分析学派でフロイトの直弟子であった古沢平作(一八九七―一九六八)という人が、子供は、自分を生み育てるとともに、実はいつでもご都合主義で自分の存在を抹殺してしまう母親に対し、生まれる前からのうらみ=未生怨を持っているとして、これを阿闍世コンプレックスと名づけています。(人はなぜ、人を殺すのか 小田晋 はまの出版)と言うことは、これは、阿闍世という個人だけの問題ではなく、本当は誰の心の深層にもあることなのです。何かのきっかけがあるかないかで、表に出るか出ないかの違いだということです。
 つぎの鴦掘摩羅は、元は極めて健康的な人でした。つまり、まじめで、スポーツが大好きで、勉強もよくできて、人を見下すようなこともなく、だから、よく人からも愛される青年だったのです
 両親は、将来を楽しみに、鴦掘摩羅をマニバツダラという高名なバラモンの僧に預けました。学問を仕込んでもらうためです。
 立派な弟子を育てることは、師匠の誉れですから、優秀な弟子ができたということで、彼は全魂を傾けて自分の持てるすべてを弟子に伝えようとしました。
 そんなある日のこと、たまたまマニバツダラが用事で出かけた時、彼の奥さんが鴦掘摩羅を誘惑したのです。まじめな鴦掘摩羅は即座におことわりしたのですが、恥をかかされたと思った師匠の奥さんは、彼に復讐をしてやろうと決意するのです。
 そこで、夫が帰って来る時間を見計らって、着ている服をビリビリ破いて、髪をバサバサにして、顔といわず手足といわず体じゅうに切り傷をつけ、部屋の中をめちゃくちゃにして、ベッドの上をかき乱し、鴦掘摩羅から乱暴を受けたように見せかけたのです。
 人は、自分が愛していた、あるいは善意をもって接していた、何かをしてやったという相手に裏切られたと感じた時、強い怨みを生じるといいます。
 それは親子関係でも師匠と弟子の関係でも、あるいは国家や社会に対する関係でも同じで、いったん依存の感情をもった対象から裏切られたと感じた時、怨みの感情は大きくなります。さらに、それが殺意として醸成されることもあるといいます。
 世間からは先生と呼ばれているマニバツダラですが、この怨みは相当なものがありました。そこで復讐が始まるのです。つまり、何食わぬふりをして鴦掘摩羅に告げます。お前に今日は最高の修行を教える。これは私が長年秘密にしてきたものだが、それは千人の人を殺して、一人に一本ずつその小指を切り、それを髪の毛に結わえるのだ。これこそ、その殺された人も救い、我も天に生じる最高の道である…。つまり、鴦掘摩羅を大量殺人鬼に仕立てようとしたのです。
 これが悟りへの道?最初はとまどいつつも、師より呪文をかけられ、命じられるままおこなっていた彼も、やがて慣れてきて、本当にこれが素晴らしい修行のように感じ、疑惑を感じなくなります。人々はこわがって、人の指で出来た鬘の殺人鬼ということで、指鬘・インドの言葉で、鴦掘摩羅と呼ぶようになりました。
 この、どうしても罪を購うことが不可能に思える鴦掘摩羅の行動でしたが、道理にそぐわない教えは行じてはならない、法に背いた悪師には従ってはならない、と仏に諭され、ようやく迷いから醒めることができるのです。
 このように人の心は簡単に悪に染められやすいけれども、また決めつけて、あきらめてはならないことを教えられているのです。
 この、人が最終的に救われていくのに欠かせない善知識ですけれど、これに会うことが極めてむずかしいのです。大聖人は「第一の難きなり」と申されて、一番難しいとされているのです。それではどんな人が善知識か。ただ、広く大衆に支持される人か。それとも、外国の一流の知識人にも認められる人か。博学の人か。
 しかし、大聖人は血脈伝持の人と、確かに指し示しておられます。この方をあくまで信じ奉って仏法を立てていくことの困難を、三千年に一度海上に浮かび上がってきた亀が、赤栴檀の浮木に合うことに、あるいは風のある日に、富士山の頂上から垂らした糸を、麓に立てた針の穴に通すことに譬えられているのです。
 まさに、今日の創価学会の人たちが、日蓮正宗の御本尊をいったん受持しながら、御法主様を笑っていることが、このことを証明しているではありませんか。
 これは、先の阿闍世が提婆達多にそそのかされて父を殺し釈尊を迫害したように、鴦掘摩羅がバラモンのマニバツダラの復讐の怨念によって殺人鬼に仕立てられたように、全く師と仰ぐ人によって、誤った道を歩むことになってしまったのと同じであります。
 舎利弗という方は、智慧第一の誉れ高いお方です。この方の入門によって、釈尊の教団の評価は一段と上がりました。あの方がお弟子になられるくらいだから、その師匠のお釈迦様は、よほどの方に違いない、と当時いわれたのだそうです。
 しかし、その人ですら、教えを説くのに、相手の方にそぐわない内容のものであったばっかりに、その人を退転させてしまったことがあるのです。
 その相手方は鍛冶屋を営んでいました。その方に舎利弗は「不浄観」という教えを説いたのです。不浄観とは、男性が、うつくしい女性に愛欲の煩悩を起こし易い事から、どんな人でも死ねば、やがて死臭がして、ガスがたまって腹が膨れてきて、次には体が破れて内蔵がはみだし、うじはたかり、眼球は飛び出し、やがて骨となり水となっていくものだと、死体の腐敗していくさまを想像して、何も執着するものはない、すべては不浄なのだと教えるものなのです。
 しかし、この教えは鍛冶屋には実感のともなわないものでしたから、仏法とはこのようなものか、自分には役に立たないものだと早計してしまって、仏法を信じることをやめてしまったのです。
 ある時には洗濯屋の人に「数息観」というものを説きました。
 これは、呼吸をする時、ゆっくり吸ったり吐いたりして、その入る息と出る息を数えて、精神を統一する修行法だったのです。
 これも、洗濯屋さんにとっては生活上の実感のともなわないものでしたから、何の役にも立たない、時間のむだ、自分にはそぐわないもののように感じて、やはり仏法を退転してしまうのです。
 ここは当然、鍛冶屋に数息観を教えれば良かったのです。トンテンカン、トンテンカンと相づちを交互に打つのですから、呼吸が合っていなければ仕事になりません。このような人たちには、生活上の実感のともなう数息観を説くことが、喜びを与えることになるのです。
 洗濯屋さんはどうでしょう。彼らは、常によごれた衣服をきれいに洗うという仕事ですから、汚いことに敏感であってこそ、この職業にむいているわけです。ですから、彼らには不浄観が生活感をともなった分かりやすい教えというわけです。
 こんな勝れた人ですら、人を見て法を説くことはむずかしい。いわんや、その他の人師には、数限りない誤りが存するのであります。ですから、御法主が、血脈相伝にもとづいて法を説くことを、時代遅れなどと言って、小馬鹿にした発言は厳に慎まなければなりません。彼らは常に自慢しているから、よほど時代の先読みが得意なのだろうが、あまり機を見て敏すぎると、公明党が蝙蝠党と揶揄されたように、何の宗教か分からなくなるから、用心が肝要でしょう。
 それでは、私たちが法を説くときの姿勢はどうあるべきでしょう。
 これは、宗祖日蓮大聖人が、「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし。只、南無妙法蓮華経なるべし」とおおせのように、愚直にも謗法を呵責し、南無妙法蓮華経が一切を開いていく道であることを訴えていくことが大事であります。題目を唱え、折伏を行じる。そこに南無妙法蓮華経が、あらゆる事態に対応するさまざまな意義や功徳を含んでいることを、自覚させていただけるにちがいありません。
 私は、御法主日如上人猊下様の御指南のもとに、新たな御命題達成にむかって、一人がひとりの折伏を心がけ、題目を真剣に唱えていくことが、時機にかなった修行であり、又、この猊下様のもとに集える法華講こそ、大善知識の集団であることを確信いたします。
 なお一層の精進を誓い合い法話を終了させていただきます。

                           以 上

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