「仏法を聴聞する功徳 この国を耳根得道の国と言う聴聞して題目を唱えて境界を開こう」

 一番目に「能く菩薩の、未だ発心せざる者をして菩提心を発さしむ」とは、
 これは、本来地涌の菩薩として、みずから題目を唱えて人にもこれを勧め、地域の広布へいささかでも貢献していくという崇高な使命を持ってこの世に生まれたにもかかわらず、うっかりこのことを忘れて、日常の生活のみに追われておられる方への警告です。
 人間としての日常の生活も大切であるけれども、そこが、広宣流布を前進させるための、実証を示す大事な場所であることをお忘れでしたら、「何のためにこんな苦労しなければならないんだ」と、すぐに匙をなげてしまう世間の人々と同じ道をたどり、その生活はやがて破綻してしまうでしょう。
 だから、信心とは、ただ御本尊様の前にすわっている時やお寺にお参りしている時だけでなく、毎日、日常のことがそのまま信心修行だということを、信心即生活といい、我々の生活は全部信心修行そのものなんだよ、ということを「生活即信心」と言うのです。
 私たちは、題目の修行をして自身の仏性をかがやかせ、なおかつ広宣流布という、この地上に仏国土を建設する目的のために生まれてきました。
 ところが現代人は、「そんな馬鹿な」と、仏様のお言葉に耳をふさいでしまっているがゆえに、「人生の目的?それは人類誕生以来の命題のようなもので、誰も発見したものはいない。人生、まったく不可解なり」と格好をつけてため息をつき、なげくばかりです。
 中には乱暴にも、「人生にはそもそも意味は無い」とか、「目的などない」などと、ひややかに言い放つ著名な仏教学者がいるかと思えば、スピリッチュアルなどという、死者の霊魂を見ることができるという人が、悲しみにうちひしがれている人の頼りにされ、大いにもてはやされたり、死はあたかもコンピューターのリセットボタンのように、今、自分にのしかかっている結果などの状態を取り消して、新たなものに改める便利なボタンのように捉えたり、あるいはソロバンの御破算のように、今までうまくいかなかった自分の人生を、はじめの、何もなかった状態に戻す手立てのように考えて、どう試行錯誤して考えてみても、それしかなかった、といって自殺した人が、昨年は三万二千人にも及んだと、警察庁が発表していました。
 どれもこれも、間違った死生観や、目的観の喪失に原因があり、このようなことからも、すみやかな広宣流布の進展がのぞまれます。
 仏様が教えを説かれた目的は、人々を、仏と同じ境涯にして、いささかも異なることがないようにすることです。
 そのために、仏の命が、本来どんな人にも具わっていることを開いて示し、なるほどと得心せしめ、頭での理解だけでなく、実際、その境界・境遇に導きいれようとなされたのです。
 このことは法華経でしか打ち明けられませんでした。
 つまり、仏様の御化導の仕組みや意図は、ほかのお経をお説きになる段階ではお示しにならなかったのです。
 これは実に不思議なことでございますけれど、それだけ、「私たちの心が目の前の御本尊と等しい」「我が心、仏なり」と信解させていただくということが、いかに難信難解であるかの証拠でありましょう。
 しかも、釈尊の弟子たちには、久遠以来の仏子であることを思い起こさせて成仏の果報をお与えになりましたが、初めて仏法に遭遇する我々初心の行者には、お釈迦様の法華経の説法の場面では披露することはなさらず、寿量品の文の底に秘し沈めて、地涌上行が御出現なって、拾い出されて始めてお弘めになるのをお待ちになるのです。
 それが、私たちの、本門の本尊と戒壇と題目という三大秘法なのです。
 私たちの胸中の肉団にも、私たちの目の前の御本尊様のような、輝くばかりの仏界という宝が存するのですよ。何を冷ややかに自分を卑しんでいるのです。何の宝よりすぐれたものがあるのに、それを使わないであたら人生を無駄に過ごそうとなされるのですか。それこそ、宝の持ち腐れではありませんか。
 「他人を思いやる心は、自尊の感情に根ざす」という世間の言葉があります。自分の慢心や思い過ごしでなく、また、誰かから与えられたものでもなく、本然として具わっている物を、仏という最高の善知識の教導によって、つまり正しき方法によって、自身に対する尊厳性を見出すことができるのです。また、自身がそうなれば、他にも見いだせるようになるのです。
 だから、自他の中に最高の宝を見いだす作業たる、この信心を本気になって取り組んでまいりましょう。
 そんな励ましを受けて、かならず菩提心という、人間の命がいかに尊厳であるか、その一人ひとりの一生がいかにかけがえのないものであるか、探求する道にいそしむ心が湧き出してくるようになるのです。
 二に、「この法華経を聴聞するものは、慈仁無き者には慈心が起こってくるようになります」
 慈とはその場限りではなく、本当に心の底から幸せになっていただきたいと相手を思う心で、仁とは情愛という情け深い心を言います。そういった心が自然と湧いてまいります。
 また、そういった心が湧き出てくるようになるのが法華経の修行だとわかったら、私たち自身がそういう風に意識して題目を唱えて、日ごろ、作々発々と振る舞うことが肝心です。
 やがていつしか、知らぬ間に、そういう自分に成長していることに驚かされることがあります。
 三に、「この法華経をよく聴聞すれば、殺戮を好む者も大悲の心が起こってくるようになります」
 殺戮とは、多くの命をむごたらしく殺すことを言います。そういう命を持つ人は、姿は人間でありながら修羅界や畜生界の命にある人々です。
 なぜそのようなことをしでかすのかと言えば、このものどもは自分たちより境界が低いものであり、価値など無いものだから、こういう犠牲を強いられても、痛みを受けても当然だと考えるに至るのです。
 そのようなことは、自分とは無関係だと思いがちですが、この命は意外と私たちのすぐ身近にあるものなのです。私たちは、何かのことで出会った人と、あれこれ自分と比較して、相手の人を値踏みしている自分に気づいたことはありませんか。
 このような命は誰にでも、多かれ少なかれあるのです。
 キリスト教の平等感は、すべては神が造り給ふものだから平等である、とこのようにいっておりますが、この論理は白人の自分たちの間だけ通用するものなのです。最近の幾多の戦争も、南米の広範囲の自然破壊なども、すべては神に似せて造り給ふた我々の犠牲になって当然、という思想が背景にあるのは否めません。スキーのジャンプ競技なども、日本人がいろいろ工夫して上位を独占するようになると、急に白人優位にルールが変更になりました。最近のスケートのフィギィアなども、かならず白人優位に変更になりますから、気をつけて見ておくとよいでしょう。
 ところが法華経には、一色一香、無非中道といって、人間のあらゆる民族や、白や黄色に黒の人種も、それに大きな動物から小さな生き物にいたるまで、はては、山や川、草や木などまで含めて真如実相・妙法蓮華経という仏の全体とするのです。個々の当体個性は無作三身の姿だと説くのです。
 ですから、テーブルに並べられた食物でさえ、私たちに食べられて当然、ではないのです。私たちは、彼の生き物たちがくれるといったわけではないのですが、貴重な命をまさにいただいて、生かさせていただいて妙法の修行をさせていただくのです。
 ただ、お父さんの労働の代償のお給料と、お母さんのお料理の手間に感謝して、それで「いただきます」というのではありません。個々の命に対して、心から「頂戴いたします。大事に使わせていただきます」と、感謝の意をささげているのです。
 このように、無闇に生命を傷つけ、見下して命をあやめようとする性癖を持つものにも、御本尊と一体化しようとする修行の題目を唱えいくことで、彼らの苦を、悲しみを取り除いてあげたい、という大悲の心が起きるようになるのです。
 四に、「嫉妬を生ずる者には随喜の心を起こさせる」とは、どういうことでしょう。
 嫉妬はどういう時に起こりますか。これは、自分と大体同じか下の者が、何かの幸運を手に入れた時でしょう。
 もう十数年前の「タンスにゴン」のコマーシャルで、バニーガールの格好の近所のオバサンが、夜の盛り場を軽トラックの荷台に立って、「タンスにゴン。匂わないのが新しい」と宣伝しながら回っているというのがありました。
 すると、その方のお知り合いの三人のご婦人が「ほらみたことか。背伸びしないで私たちと同じようにアパート暮らしをしておけばよかったのに。無理をして一戸建ての家など買うから、あんなアルバイトしなきゃならないんだわ。身の程しらずとはこのことよね。ざまぁ見ろだわ」と口に手を寄せて笑うというものでした。
 これは高額のローンの支払いを心配してあげてるんじゃありません。自分たちが買えない家を買った主婦に対し嫉妬して、これを夫のローンの返済の手助けのために必要に迫られてはじめた奥さんのアルバイトを見下して笑って、溜飲をさげているのです。
 これはよく見かける、たわいもない井戸端会議のようなものですからまだよいのですが、似たようなことは信心の世界にも起こりうるのです。
 自分が入信に導いてあげた。手取り足取り、勤行や御祈念のやり方を指導してあげた。時には、すべての悪業を転ずる道は折伏がもっとも早き道であると、折伏にも同行させた。
 そして、その人が、あれほど本当に八方塞がりだったのに、見事にすべてを乗り越えて、今日は支部総会の体験発表で、みんなの万雷の拍手の中にいる。
 そりゃあの人が、初心者が皆そうであるように、くわしいことはわからなくても、言われるがままに、純粋に、真剣に、ごまかしなしにやってきたことが、今日のことに結びついているんだけれど、そうなるようにしむけてあげたのは誰あろう、私でしょう。私へのほめ言葉わすれてはいませんか、などと人間は考えがちなんだそうです。
 ところが、ご自身、真剣な信心への取り組みをしてきたことによって、そういう、普通世間一般の人間からすれば、ややもすれば嫉妬の命にかられるところを、本当にその人の現在のしあわせを心からよろこべる、そういう随喜の心を生ずることができるようになるのです。あぁうれしい。我がことのようにうれしい。自分のことよりうれしい。そういう命に自然となれるというのです。本当にこれはすばらしいことです。
 五に、「愛着あるものには能捨の心を起こさしめ、諸の慳貧の者には布施の心を起こさしむ」とはどういうことかといいますと、笑い話に、自分の家で出してあるお菓子にはあまり手を出さないものだから、いつまでもテーブルの上に残っているが、よそ様を訪れた時に出されたものは、あっというまにたいらげてしまうということがあります。
 これは、自分の財産はいつまでも持ち続けていたい、という本能のしからしむるところなのです。だから、あの人には特にその傾向がある、などとはいえません。
 私にもそういった命があるのです。
 法華経の法門を聴聞するものは、利己的な、自分さえ良ければという命を押さえ、利他という菩薩の人しか持ちえない、困っている人には進んで手を差し伸べてあげようという命ができてきます。あるいは、無慈悲や御供養の精神の貧困な人には、布施という慈悲と護惜建立という、仏法興隆のために、お力添えをさせていただこうという気持ちを起こし、それが豊かな人間性を醸し出していくことに必ずやつながっていくことができるのです。
 自分の持ち物、財産、そういったものに愛着ししがみついている心、出来るだけ失いたくないという物惜しみの命を乗り越えて、困っている人の何らかの一助になれば、あるいは仏法興隆のためになればと御供養をする、そういう貪りの、餓鬼の命を退治する境界に立てるようになるのです。
 私は、本当に貧しいながらも、三世の生命観に立って、命をけずるような尊い御供養をされている――仏道修行ですから、誰とは名前をあげませんけれど――そういう方を幾人も知っております。これは本当にできないことですよ。
 やらない人は、気づかないふりをして、一年も二年も寺院参詣すらなさいません。
 また、やらない理由を、住職や役員の所為にして平然とされている方もおられます。
 御供養は、そういうことで自分に言い逃れをして、止めては損です。逆にそういう大したこと無い住職や役員の中でなさるほど、御本尊様や大聖人様に純粋な気持ちでなさることになるのですから、大きな功徳に直接むすびついてくるのです。
 住職の生活費をくれてやってると思うから、自分の命の一分を仏祖三宝にささげるという、崇高な御供養の精神が萎えてしまうのです。
 この御供養をかつての雪山童子や熱原の三烈士の、実際に身を布施された事供養になぞらえる「理供養」とすることを、もう一度考え直したいものです。
 六に、「憍慢多き者には持戒の心を起こさせる」とは、仏法を聞く機会をのがさず、喜んで、いくども聴聞する人は、おごり高ぶる気持ちをよく統御して、抑制して、大聖人の弟子檀那としてあるべき姿勢に常に身を置きたい、と振る舞えるようになります。
 おごるものは、全知全能であるかのように自惚れ、常識さえ無視するようになるのです。今いいお手本が生きてますから、よくよく見ておくといいでしょう。
 「忍をもって戒体とする。」みんな、よく覚えておいてください。忍、しのぶ、我慢する、たえる。
 仏法の体現者として、私たちは法華講の看板を背負っているのです。私たちを見て、人は法華講や日蓮正宗を値踏みしているのです。
 ですから、よく自らの心を抑制して、抑えて、人を傷つけたり、殺したりしてはいけない。人の物を盗んではいけません。不倫や売春行為などをしてはいけません。当然、うそをついてもいけません。いつもいつも酒飲んで、体こわしたり、お金使い果たしたり、けんかしたりしてはいけません。もちろん、もう生きる希望もないと、そのための命をちぢめるための飲酒も、我が胸中の無作三身を否定する、いわゆる正面切って御本仏の仏法をないがしろにする大謗法ですから、絶対してはなりません。
 かならず、御本尊を受持するのものは、これを自然とできるようになるのです。また、そのようになるよう、目的をもって修行に精進するのが「受持即持戒」と言うのです。
 七に、「瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起こさせる」とは、瞋恚とはいかりです。怒りはなぜ起こるかというと、自分がよしとする考え方をさえぎったり、否定されたりすることから起こります。
 人は、自分にお世辞を言い、顔色をうかがって近づき物をいう者を、ういやつじゃと相好をくずして愛する癖があるのです。これを貪愛といいます。
 その逆に、自分のよって立つ基盤・立場を無視し、自分の思考ややり方についてとやかくいうものを、人は激しい感情で報復してしまうのです。
 でも、この時自分をよく押さえることが出来ないと、後先も考えず、今までのすべてを失ってしまうことにもなりかねません。
 でも、この仏法を真摯に聴聞する人は、この瞋恚・怒りの感情に耐えるだけの忍ぶ心・忍辱の心を起こせるようになるのです。会社でもお店でもそうですが、この忍辱の心を持ち合わせる事のできた人が成功するのです。
 これができない人は、何をやっても成功しません。
 八に、「懈怠を生ずる者には精進の心をおこさしめる」、とは、懈怠とはなまけるということです。そんなに、毎日毎日まじめにやらなくていいだろう、と思う気持ちです。
 私たちは調子の良いときはホイホイやります。あるいは病気などのピンチになると一生懸命やります。
 ところが普段の何もない時は、「今日やったからといったって、すぐ何かがグルッと変わる訳ではないから、今日は少し疲れた、ということで許してもらおう」と、自分に言い訳してすぐ怠けてしまいます。
 ところが大聖人の『御義口伝』には、
 「『昼夜に常に精進す。仏道を求むるが為たること、もとよりなり』 この文は一念に  億劫の辛労を尽くせば、本来無作の三身念々 に起こるなり。所謂南無妙法蓮華経は  精進行なり」(一八〇二ページ)
 私たちがこうやって修行に精進するのは、仏道という、本来我らの胸中にそなわる無作三身という仏の命を輝かせるためである……、とこういう経文があるが、もし、私どもが一念という瞬時に長き年月にわたる一心不乱の思いを凝結して本尊・対境に望めば、その刹那刹那に、我らのみならず、一切万法を無作三身と見る如実知見という仏の大境界に立てるのです。ですから、南無妙法蓮華経は何物も交えず、間を置かずという意味の精進行と名付けられているのです。と、こういう風に御指南されています。
 何物も散漫な心で成しえたものはありません。このような説法を聴聞すれば、おのずと精進していこうという気持ちになってくるのです。
 九に、「諸の散乱の者には禅定の心を起こさせる」とは、お題目を唱えているとふとどこに置いたか忘れていたものを思い出したり、昔の色々なことが浮かんできたり、ああしたい、こうしたいと思うことがらが次々と浮かび上がってきます。でも、これが、洗たくをする時のように、汚れが落ちてきているんだと思ってさらに唱題を続けていると、いつの間にかそういう心は無くなって、御本尊のお命と一つになれたような、えもいわれぬ喜びに包まれることがあります。
 これ禅定といって、御本尊と境智冥合できた瞬間であります。また、これを聞いて、そうなるように頑張りたいですね。
 十に、「愚痴多きものには智慧の心を起こさせる」とは、なぜ愚痴が生ずるかといえば、それは因果の法則をしらないからです。全部自分の過去のしわざが原因となって、現在の自分のさわりをなすのです。
 その過去の自分の十悪業は、無明というものが引き起こすのです。無明とは、私たちが本来如是相、如是性、如是体という所を三辺読む意味、私たちの姿・振る舞いが仏の無作応身如来、私たちの心が仏の智慧の無作報身如来、私たちのこの身体が、仏の真如・悟りの無作法身如来という無作三身如来。これに気づかない事を中道の理に暗い、無知不明の『無明』というのです。
 いわゆる、間違った宗教たる邪宗謗法に身を置いておれば、いつまでたってもこの大真理にたどりつけないから、畜生のような低い境涯に甘んじて、いつしか十悪業を犯していって、また自分だけどうしてこうなんだという悪しき報いに、愚痴をたらたらこぼさなければならなくなるのです。
 そうすると、これは是が非でも御本尊を受持して、真剣に題目にとりかからなければならない。
 もうひとつ、自分が謗法・邪宗にどっぷりつかっている人たちに、その誤りをといてさしあげなければならない。そういう事がどんどんわかってくる。
 だから十一番目には、「いまだ彼を度すること能わざる者には、彼を度する心を起こさしめる」とあって、「人の信心をとやかく言ってどうするんだ」、「わざわざ自分に対する心証を悪くしたくない」と、人に信仰をおすすめすることを冷ややかに見ていた自分が急に恥ずかしくなって、よーし、ともかく折伏を行ずれば、大聖人が私の命にお入りになり、私の口を借りて仏法を語って下さるそうだ。自分が語っても、決して自分がその人を導くわけではない。仏がお導きになるのだ。私も仏の使いとして、仏の行をさせていただこう、という気持ちになるといわれているのです。     

以上

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