「妙法の功徳は毒薬変じて薬となる」

 今月は『内房女房御返事』を拝します。
 「妙法蓮華経の徳、あらあら申し開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉と申す泉は、石を玉と成す。此の五字は、凡夫を仏と成す」
 内房女房とは、駿河の国、現在の静岡県の庵原郡内房という所に住んでおられた方で、『三沢抄』によりますと、大聖人様のお母様ぐらいの御年齢の方であられたようです。
 この方に、様々な角度から、題目を唱える功徳について御指南されたお手紙なのです。
 まず、「妙法蓮華経の徳」とは、御本尊様、題目の功徳ということです。「あらあら」とは、おおよそ、大筋のことで、御本尊様、題目の功徳について、大筋をざっと申し上げましょう、という意味です。
 それは、毒薬を変じて薬となす・・・、一般には毒のように思われていて、何の役にも立たないどころか、かえって人の妨げになる、人を苦しめることになる原因と捉えられていることでさえ、逆に薬、すなわち、有益なものに変えていく、そういう力が、徳の姿が題目にはあるのです。
 それでは、その毒とは何かといいますと、私たちの煩悩・業・苦の三道のことなのです。(始聞仏乗義・一二〇八項)薬とは法身・般若・解脱の三徳のことです。
 それで、「毒薬変じて薬となる」とは、これら煩悩・業・苦の三道が、南無妙法蓮華経の功徳で、法身・般若・解脱の三徳へと転ずることを言うのです。
 これは、昔インドで大天才の誉れ高かった龍樹菩薩というお方が、『大智度論』という書物の中で、法華経が釈尊一代五十年の説法の中で、特に優れて、素晴らしい点を褒め称えられている言葉なのです。
 それでは、煩悩とはなんでしょう。『始聞仏乗義』(一二〇八項)によりますと、見思・塵沙・無明の三惑のことであるとされています。
 これが、私たちに不幸をもたらしている迷いの大本ですから、複雑で面倒ですが、厭わず見てみますと、まず見思とは、見惑・思惑のことで、見惑とは物事の道理に迷うことで、これを大きく分けて十使とし、これをさらに、五利使・五鈍使の二つに分けます。
 この中で五利使とは、身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五つをいい、
 一の身見とは、わが身が常住不変のものであると思い込み、因縁によって種々の物質が寄せ集まって出来ているに過ぎないということを知らないことを言います。
 二の辺見とは、二種類あって、一方を断見といい、もう一方を常見と言います。最初の断見とは、人は死んだら体がなくなると同時に、霊魂も何もかも無くなる、我というものは、全部無くなるという考えと、もう一つの常見とは、これとは全く逆の、人間は死んでも霊魂という形で肉体より遊離して存在するものであるとともに、人はまた人に生まれ変わり、牛は牛に生まれ変わるなど、善い行いや悪い行いなどに関係無く定まっているものである、とする見方で、ともに中正を得ていない、片寄った思想を辺見と言います。
 三の邪見とは、因果など存在しないと因果の道理を無視する思想で、人生はもとよりこの地球上の全てが、皆偶然の出来事であるとする考えです。
 四の見取見とは、自分の勝手の良いように理屈をつけて、劣っているものを勝れているように言う、邪宗謗法の者達の考えです。
 五の戒禁取見とは、因でないものを因であるかのように言い、道でないものを道であるかのように思うことで、邪宗の人々の主張が皆そうです。
 次の五鈍使は、今までの五つの考えを通して徐々に起こってくる迷いで、容易に断ち切ることが出来ないから前と反対の鈍の字が使われています。
 これが、貪・瞋・癡・慢・疑の五つです。
 第一の貪とは、前の五見をおのれの法となし、この自分の考えを是とするものを貪るように愛することです。
 第二の瞋とは、そのおのれの法に異論を唱えるものを瞋ることです。
 第三の癡とは、先の五見こそが心身にまといつき心をかき乱す元であり、大いなる苦につながっていることを知らないことです。
 第四の慢とは、自分の思い込みに対し、我は解し、他人は解せずとみずから高ぶることです。
 第五の疑とは、ぐずぐずして煮えきらず、疑いを抱いているが故に心を痛めてもだえ、正当な答えを得ることが出来ないことです。
 次の思惑とは、先の十使の見惑が元となって、実際、人が何ごとか行う時、さまざまな物を貪り、それに執着する心が起こって生ずる障りで、貪欲・瞋恚・愚痴・憍慢・疑惑などの煩悩を言います。
 この思惑という煩悩は、先の見惑の中の五鈍使の貪・瞋・癡と名前は同じですが、先ほどの見惑は迷理の惑と言って、何かをどう捉えるかについて、考え違いをすることから生ずるのですが、こちらの思惑の方は迷事の惑、あるいは倶生の惑と言って、私たちが生まれてくると共に一緒についてくる煩悩でして、私たちが普段よく使っている煩悩という言葉は、こちらの方を指します。
 つまり、貪欲とは、何かを欲しい欲しいと貪り飽きたらないことです。瞋恚とは、自分の心に逆らうものを、憎み怒ることです。愚痴とは、理非曲直の見分けがつかないことです。憍慢とは、驕り高ぶることです。そして、人をあなどって、勝手なふるまいをしたりすることです。疑惑とは、他人の行いや性質を素直に理解出来ず、妬んだり疑ったりすることです。
 次は塵沙惑と呼ばれるものですが、これは別惑とも言いまして、菩薩が人を教化するにあたって生ずる種々の惑いですから化導障の惑とも言い、菩薩独特の惑いですから別惑と言うのです。
 いやしくも、人を教化して誤りのないようにするためには、自ら努力をして無量の法門に通じていなければなりませんが、菩薩の境涯では未だ智慧が仏様に及ばないため、無量の法門を自由にわきまえて述べることが出来ず、種々惑いを生じることを言います。
その多さが塵沙(砂つぶ)のようですから、塵沙惑と言うのです。
 最後の無明惑とは障中道の惑ともいい、中道実相の理を障蔽(さえぎりかくす)する、すなわち、成仏を妨げる一切の煩悩の根本となるもののことです。
 これら見思・塵沙・無明の三惑が、人を狂わせ、不幸にしていく毒薬の第一、煩悩です。
 毒薬の第二は、業です。大聖人様は、「結業とは五逆・十悪・四重等なり」(始聞仏乗義・一二〇八項)とご指南です。
 この中の五逆とは、殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の五つです。
 十悪とは、悪口・両舌(二枚舌を使う)・妄語(嘘をつく)・綺語(真実に背いて、たくみに言葉を飾り立てる)、殺生・偸盗(人の財産を盗む)・邪淫、貪(欲張り)・瞋(いかり)・癡(おろか)です。
 四重とは、四重禁の略で、殺生・偸盗・邪淫・妄語の四つを言います。
 これは、僧侶に対して戒められた最も厳重な戒めで、これを犯せば教団から追放され、二度と僧侶になれないとされていました。
 このように、業とは、体で行動したり、口で話したり、心で思ったりすることで、これが未来にもたらされる結果の原因となるので、業因とも言います。
 また、過去世の業を宿業と言い、現世の業を現業と言います。
 この業が、現在私たちがそれぞれの場面で痛感しているように、私たちのすべてを、手かせ足かせ、がんじがらめにして、何をするにしても不自由、うまくいかないようにしてしまうのです。
 これが毒薬の第二、「業」です。
 毒薬の最後は「苦」です。
 苦しみという言葉と生死という言葉は、しばしば同じ意味で用いられます。なぜなら、人々が過去の業因によって、六道の迷いの世界に生まれては死に、死んでは生まれ変わる、いわゆる六道輪廻を繰り返す中に苦しみはあるからです。
 それで、日蓮大聖人様は「生死とは我らが苦果の依身なり」(始聞仏乗義・一二〇八項)と申されているのです。簡単に言えば、毒薬の第三・苦とは、私たちの肉体そのものであると、法華経以前の仏法では信じられていたのです。
 今の御文の中の苦果とは、悪業の果報の意味で、六道の衆生の生死・苦しみを言います。依身とは、心の依拠(よりどころ)となる身のことですから、全体で六道凡夫の、この私たちの体を言うのです。
 この私たちの体を、法華経以外の教えの中では、きわめて不浄なものと考えられていたことは、次の御文に、「しかるに我らその根本を尋ね究むれば、父母の精血赤白の二渧和合して一身となる。悪の根本不浄の源なり。設ひ大海を傾けて之を洗ふとも清浄なるべからず」(一二〇八項)と仰せられている通りなのです。
 そのように、お釈迦様が初めて菩提樹の下で悟りを開かれてから四十二年間というもの、ずっと煩悩・業・苦の三道を毒と称されてきたにもかかわらず、どうして妙法蓮華経の五字は、それを、法身・般若・解脱の薬へと転ずることが出来ると言われるのでしょうか。
 この教えは、あまりに今までのものとかけ離れていたので、魔王が仏に化けて、人々をたぶらかそうとしているのではないか、と思う人がいたといいます。
 ところが、この教えこそが、仏様がお悟りになった内容そのものだったのです。これまでは、時が来ていなかったことと、人々の心が一つに融けあっていなかったので、さまざまな教えを説いて、人々の気持ちを高めると同時に、その時をお待ちになっていたのです。
 そして、いよいよわが悟りをありのままに民衆に向かって説くべき時が来たとの宣言こそが、「四十余年は、いまだ真実を顕さず」「世尊の法は、久しからずして後、真実を説くべし」の言葉だったのです。
 それでは、煩悩・業・苦の三道という毒薬が、法身・般若・解脱の薬へと変ずるという証文とは、どの経文なのでしょうか。
 それは、方便品に、「わが身が三身即一の本覚の如来にてありけることを今経に説いて云はく『如是相 如是性 如是体……』」(十如是事・一〇四項)と説かれてあるのがそうです。
 如是相とは、私たちの体に現れた姿形をいいます。これは当然、過去の善悪の業によって現れたものです。私たちがお互いを見てお解かりのように、十人十色、千差万別です。人は、この違いによって、いろいろな悩み苦しみが生ずるのです。
 それで、この違いが生ずる原因を、過去の宿業によっていると説いてこられたのを、これを応身如来とも、または解脱とも、または仮諦とも言う、と明かされたのです。これが如是相の経文だといわれるものです。
 これは、方便品の中では、諸法という、私たちがこの目でみているこの世の姿が、そのまま実相と捉えることからいう意味と、さらに本門寿量品では、この世の一つ一つが、すべて仏様が衆生を教化するために御出現になられたお姿、すなわち、仏様の変化応現の姿である意味があります。
 そして、大聖人のお悟りの上からは、十界の衆生ことごとくが、桜梅桃李そのままに無作三身の意味があるのです。
 それで、人々のさまざまな境遇の違いは、宿業が私たちを結び縛りつけていた意味があったのですが、これが、応身如来という仏様の意思によって現された境遇ということが明らかにされたのですから、その束縛や苦しみから抜け出ることはその人の意志で、自由自在になるのです。何によって?もちろん、題目によってです。ですから、業即解脱なのです。
 これを、「如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云ふなり。是を応身如来とも、又は解脱とも、又は仮諦とも云ふなり」(一〇四項)と仰せになられているのです。
 第二の如是性とは、私たちの心性、心の本来の姿を言ったものなのです。これは、私たちの心には煩悩が渦巻いているのですが、これが妙法の信行によって報身如来という仏になり、その徳の姿として般若という実相を達観するための智慧が現れ、三諦の上からは空諦という、すべての事柄に、真実の平等の姿を見ることが出来るようになるのです。
 いわゆる、私たちの貪瞋癡慢疑等によって起こる迷いが、仏様の清浄な一切に透きとおった濁りの無い智慧に転ずることです。これを煩悩即般若といいます。
 第三の如是体とは、私たちのこの身体のことです。日ごろ卑しいと思っていたこの身が、一切の真如を具えた仏の身であるということが顕われるのです。そこに、この上無い喜びがあふれてきます。これを『御義口伝』には、「わが心、本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く。いわゆる南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」(一八〇一項)と申されているのです。
 これを、生死即涅槃といいます。
 このようにお話ししますと、何もしなくても、自然と仏に成れるような気がしますが、そうではありません。やはり、真剣な信行があってこその成果があるのです。そこで、より具体的に罪障消滅をする方法を最後に述べたいと思います。
 その一は、三世の因果の法則が厳然としてあることを心から信ずる、ということ。自分の罪障を他人が肩代わりしてくれることは絶対にありません。その二は、自分の犯した罪を深く恥じる、ということです。
 三は、正しい仏法を真剣に求めようとしなかった自分を、本気で変えていこうと決意することです。四は、過去を振り返り、自分の罪をしっかり認めることです。
 五は、重ねて謗法をしないと堅く決心することです。これが中途半端ですと、また同じ状況に戻りかねません。六に、菩提心をおこし、衆生救済の願を持つ、ということです。今までの、自分が幸せだったらいい、という気持ちを捨て、すべての人が平等に利益を受けられることを祈念して、具体的に折伏弘教の行動を起こしましょう。
 七に、精進すること。唱題に励み、先の六つを念ずることです。八に、正法を守護する。水のごとくたゆまず信心を持続することです。九に、仏様を念ずること。この世は寂光土であると念じ、常に仏様がご覧になられており、また、導いてくださると信じ、常には、善知識を求めて説法を聴聞することを心がけることです。
 十には、罪の本性は空と観ずること。『三世諸仏総勘文抄』には、私たちが真剣に唱題と折伏に精進するとき、自然に、私たちの心と仏様の心とが一つであるという境地に達し、この時には臨終をさまたげる悪業も無く、生死に留まる妄念も跡形無く消え、日ごろの私たちの言動の一切が仏の心と合致して、罪障も宿業も無い自在の身となることができるとお示しです。

                           以 上

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