我らが御本尊、流通分の大曼荼羅なり十二、十六から三十二までは習学・序分、立宗から龍口までは本因妙の修行、正宗分なり

創価学会の人たちは、口を開けば「御本尊根本」と言っておきながら、私たちが、一般の人が勝手に御本尊を複製したり、それを会員に配っている非を咎めると途端に、図星を指されてそのくやしまぎれにか、あるいは動揺してのことかのいずれであるかは知りませんが、「御本尊は本来有っても無くてもいいんだ。拝みたい人は拝めばいいし、別段、必要性を感じない人は、拝まなくてもいいんだ」と、信心していても、その人の好き勝手で拝む・拝まないを決めても良いようなことを言います。
 この言いぐさは、本人は気づいてないかもしれませんが、「御本尊根本」という日ごろの彼らの主張に、真っ向から反しています。
大聖人の「日蓮がたましひを墨に染めながして書きて候ぞ、信じさせ給え」(経王殿御返事・御書六八五頁)のお言葉さえも、この一言で「どうでも良い」事となってしまいます。
彼らは逆上して、一時的な記憶喪失になってしまうのか、それとも過去世の謗法の習気や妄念から、このような事をうっかり漏らしてしまうのでしょうか。
 これは御本尊否定であり、それはとりもなおさず大聖人の御化導の否定でありますから、日蓮大聖人そのものの否定でもあります。
 大聖人は『開目抄』に、「諸宗は皆本尊に迷へり」(御書五五四頁)と述べられ、さらには、「寿量品の仏を知らざる諸宗の学者は畜生に同ず」と、人々がいかなる本尊を立てるべきか分からず混迷を続けている中で、日蓮は一切衆生の成仏のために、寿量品の仏を本尊と打ち立てるために生まれ出たことを、高らかに宣言あそばされているのです。
 それが、今、私たちが拝する御本尊様です。この御本尊様は、私たちの信行の上に、是が非でも無くてはならないものです。
 色々な迷乱の元となっているのは、大聖人の御修行と御本尊とが、どうつながっているのか分からないところにあるように思えてなりません。
 それで、今日はこのことについてお話ししてみたいと思います。
 大聖人御一期の御化導を大きくつかむために、「序分・正宗分・流通分の三段」という、三つに区分する方法があります。
 これを「三分科経」といいます。
 ところが、これについて、今まで大きく判断を誤らせていたのが、大聖人の出世の本懐は弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊さまだから、これが正宗分だろう、という思いこみによる位置づけです。
 確かに、弘安二年十月十二日御図顕の、今、奉安堂に御安置もうしあげる「本門戒壇の大御本尊」は、日蓮大聖人の出世の本懐、出世の一大事です。
 ところが、大聖人様の御指南によりますと、御本尊は「流通分の大曼荼羅」なのです。
 このことは、『御本尊七箇之相承』(平成新定日蓮大聖人御書・第三巻二○九四頁)に、
 「六、序・正・流通の中にはいずれぞや。師の曰く、流通分の大曼荼羅なり。乃至在世は正宗が面となり、滅後は流通が面となる。経文解釈分明なり。」
 と、大聖人自らが明らかにお示しになっているのです。
 この相伝書は見ての通り問答形式になっていて、日興上人の問いに大聖人がお答えになったものが、「師の曰く」と、記されているのです。
 この中に、「在世は正宗が面となる」とは、「脱は現に在りといえども、つぶさに本種を騰ぐ」とあるように、釈尊在世の人々は、釈尊の久遠実成という五百塵点劫の自行成道の説法を聞いて、自分たちが過去に成仏の種子を下されたという仏の化導の記憶を呼び覚まし、妙覚という仏の位に上ることができたので、「在世は正宗が面となる」と言い、「滅後は流通が面となる」とは、滅後末法の衆生は、日蓮大聖人という御本仏の、久遠元初をそのまま末法に再現された御自行と成道を見ても何のことか気づかないし、元々、記憶を呼び覚ますべき過去の下種とてありません。
  そこで、滅後末法の御本仏は、自行成道を遂げた自身の内証を一幅の本尊に図顕し人々に示すことによって、初めて人々は仏性を呼び起こす下種を受け成仏を遂げることができるので、「滅後は流通が面となる」と、御指南されているのです。
 ここに御注意を申し上げておきますが、御本尊を流通分に位置づけるといっても、今までの私たちの思いより、御本尊様の値打ちが下がるわけではありません。
 また、私がこのようなことを申し上げることが、日蓮正宗の信心を破壊したり、御本尊を卑しみ、あるいは冒涜することを意図して申し上げていることでは無いことは、当然であります。
 先ほど引用したように、大聖人より日興上人への相伝書にもあることですから、謗法でないのも勿論です。
 なぜ、御本尊の相伝書に、明白な形で示されている「流通分の曼荼羅である」ということが言われなくなってしまったのか想像しますに、一般に使われている序分・正宗分・流通分の定義からすると、流通分の曼荼羅と言うと、何か御本尊が一番大事なものではなく、二次的なものに貶めることになるのではないか、と躊躇する心が、やがて御本尊様は根本だから正宗分に間違いないと言われる様になったのだと思います。
 しかし、決してそうではありません。末法は「流通正意」なのです。それこそ、「御本尊根本」なのです。
 普通、「序・正・流通」とは、お経を解釈する場合に三段階に分ける方法で、先ほども申しましたように、「三分科経」と言います。
 その中の第一の序分とは、経を説く因縁を明かされる部分であり、第二の正宗分とは正説といって、経の中心をなす本論に当たり、第三の流通分とは、この経のもたらす利益を挙げ、後世に流通するために説かれた部分を言うことであることは、ご承知の通りです。
 ところが、この相伝書の中で仰せの、序分・正宗分・流通分等の定義は、これとは少し違うのです。
 それでは、どのような意味なのか私が申し上げる前に、まず妙楽大師の『法華文句記』の文を挙げましょう。それは、
 「習学を以て序と為し、自行を以て正と為し、教他を以て流通と為す」(旧富士学林版法華文句記上八十八頁)
と言われているのが、そうであります。これを忘れてしまっているから、『御本尊七箇之相承』の「流通分の曼荼羅なり」の御文が、会通できないのです。
 教他とは、他の人に教える、あるいはそれを信受することを人に勧める(勧他)、という意味です。
 それではまず、大聖人の御本尊の御図顕が、果たして人に何かを教えるためのものであるかどうか、調べてみましょう。
 これは、日寛上人の『観心本尊抄文段』に、
 「この久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種の本尊と顕れたもうといえども、雖近而不見にして自受用身即一念三千を識らず。故に本尊に迷うなり。本尊に迷うゆえに、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死を離れず。故に仏は大慈悲を起こし、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」(日寛上人御書文段二○三頁)と。
 この中に「下種の本尊と顕れ給ふ」とは、あの「龍の口の御法難」の御事です。
 日寛上人は更に『開目抄文段』に、
 「九月十二日、子丑の時に頸はねられぬ文。乃至この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたもう明文なり」(御書文段一六七頁)      
と、申されている通りです。
 しかし、「雖近而不見(近しといえども、見えず)」で、私たち末代の凡夫は五眼の内の肉眼しか持ち合わせていませんから、そのままでは、御本仏の御内証(内なる悟り。真実の仏様の御境界)が拝せないんですね。
 龍の口の御法難の前と後とでは、日蓮大聖人の境界に大いなる違いが有ることが分からない。全く区別がつかないし、見ようにも端から知らない。
 それに邪宗謗法の害毒でしょう。我執・妄念が強くって、目がつぶれて開かないか、目に霞がかかってしまっているんです。
 私たちの今眼前に拝する御本尊様、題目の左右に十界の衆生が縦・横に書いてあるでしょう?これ、大聖人様の、十界互具の意義を表す御工夫なのです。これで百界。これに十如是が一つ一つに必ず具わって千如是。千如是に五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間が必ず具わりますから、三千世間。これ、宗祖の一念に三千の諸法が具わる相をお示しになっているのです。
 この一念三千の姿こそが、自受用身という、宇宙法界と冥合された御本仏の相貌・お姿なのです。ですから、自受用身即一念三千と申されているのです。
 自受用身とは、十界の衆生の姿形・振る舞いを相とし、十界の衆生の心を性とし、十界の衆生の身体を体となされるところから、この生命の繁茂する宇宙法界を、この仏様の一体に法身報身応身の三身の徳を具え給う全体と拝する、この仏の全容をかくお呼びし奉るのです。
 そういう風に、十法界と大聖人の智慧とが、深く冥合あそばされた日蓮大聖人の御内証こそが、私たちの仏性を目覚めさせゆく下種の御本尊であることを私どもは分からないから、結局自分自身がどのようなものかも分からない。要するに宝の持ち腐れで、あたら人生を無駄に過ごして、苦しみに喘がなければならなくなるのです。
 そこで「仏」、つまり末法御出現の日蓮大聖人様は大慈大悲を奪い起こされて、「我が証得」――悟り、身に具えられた所の仏としての全容を、一幅の御本尊として御図顕になられ、「末代幼稚」――私たちのことです――に信受して、仏と成り給えと授与せしめられた、お勧めになられたのです。
 これが御本尊の御図顕です。御本尊をお顕しになる目的です。
 このようにして、大聖人の御本尊の御書写は始まりました。大聖人様の御直筆の御本尊は、現在百数十幅残っています。
 このように言うと、意外な顔をなさる方がいます。御本尊様は戒壇の大御本尊様、一つではなかったのですか、と。
 そうです。大聖人様は龍の口の御法難以降、佐渡が島に渡られて御本尊様の書写を始められ、あるいは僧侶に、あるいは御信徒に授与されていきました。
 ところが、この御本尊様の相貌が同じではないんですね。
 どんどんどんどん、形が変わっていくのです。もちろん、南無妙法蓮華経の七字と大聖人のお名前と愛染明王と不動明王の梵字は変わらないんですけれど、ほかの十界の衆生の名前が変わっていくのです。
 皆さん、どうしてだと思いますか?大聖人様の御境界が変わるにつれて、御本尊の相貌も変わっていったのではないか?
 それとも、大聖人様が、はてさてどういう風のがよいものかと試行錯誤された結果?あるいは大聖人様がその場の思い付きで書かれた、いわゆる、行き当たりばったりだから?それとも大聖人がどうしたらよいか迷走された結果?
 この考えは残念ながら、全部間違いです。大聖人様はきちんとしたあるお考えがあって、このような経過をたどられたのです。簡単に顕すと軽く見られるから、勿体ぶられた?これも全くのお門違いです。
 この御本尊の正体が、法華経寿量文底の、いわゆる久遠元初の自受用報身如来であることをお示しになるために、あの法華経の『見宝塔品』からずっと、虚空会の儀式をたどっていかれたのです。
 なぜ、そのようなことをなされたのか。
 それは、迹門の「迹」という字は、「あしあと」ともよみます。
 このことについて日寛上人は、『序品談義』(日蓮正宗歴代法主全書第四巻三九頁)に玄義の七(旧富士学林版玄義下二一二頁)を引かれて、
 「意は、本地第一番は本人のごとし。第二番の後今日迹中の示現は足跡と云う意でござる。乃至譬へば雪降りの時などに、その人を尋ねんと思うに、その跡を尋ねて行けば、かならずその人に逢うが如くでこそあれ、と云うことを云々」
と、雪降りの時などに、一緒に歩いていた人とはぐれてしまった場合、本人を見つけ出すにはどんな方法が考えられるでしょうか。そうですね。その人の、雪の上に残した足跡をずーっとたどっていけば、本人にたどりつけますね。
 大聖人様が御本尊様を顕れされるについても、この方式が取られているのです。
これを「流通還迹」というのです。
 ですから、初期の頃のものからずーっと御本尊を拝見すると、まず宝塔涌現、そして二仏並座の経文を表すように、題目の七字と釈迦・多宝という二人の仏が並ぶ御本尊が書かれます。しかも、愛染明王と不動明王の梵字が左右に書かれているのは、『産湯相承事』という相伝書を拝見するに、大聖人がこの二明王を実際に日食と満月の中にご覧になられて、これを写し取られた絵の中に、明らかに日神と月神の金烏と玉兎が描かれており、これを合わせて十という諸神を束ねたる深義、つまり、この二つを図すことにより、そこには十界の衆生が本来なければならないのだけれど、今はまだ表すべき時でないのでそれを表していないけれど、代わりにこれをもって、十界の衆生が具わっている事を表する意味があるのです。
 それで、「日神と月神とを合して文字を訓ずれば十なり。十羅刹女と申すは、諸神を束ね合わせたる深義なり」(御書一七○九頁)と述べられているのです。決して、真言宗を容認するとか、あるいは真言宗のお寺である清澄寺での修行の名残でもって、愛染明王は煩悩即菩提を、不動明王は生死即涅槃を示されたのではありません。
そして、釈日目、つまり日目上人授与の御本尊には提婆達多と竜王の女が現れて、さらには地涌の菩薩の出現を表すように、四人の上首唱導の師たる四菩薩が書かれ、そして南無十方分身諸仏、南無東方善徳如来の文字が記されているのは、天台大師によると、寿量品の文上には五百塵点劫の成道と年限が設けられている以上、仏身に制約があるのは避けられず、法界を一仏の境界というのにはほど遠く距離感が残ります。それで、釈迦牟尼仏の他に余仏有りや否やと問いかけるに、「有り」とされ、東方の善徳仏および神力品の十方諸仏をもって余仏とすることが『玄義』の第七に書かれているのです。
これを受けて日寛上人は『当流行事抄』(六巻抄一八三頁)の中で、
「寿量品文上の意は、久遠本果を以て本地と為す。故に余仏あり。何となれば、本果は実にこれ垂迹なり。故に寿量文上の本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枝一葉なり。故に本果の釈尊の外に、さらに余仏あるなり」
と。
 このように、東方善徳如来、あるいは十方分身諸仏が表されている御本尊は、寿量品の文上であることを示されているのです。
 これで、見宝塔品・提婆達多品・勧持品・安楽行品・従地涌出品・そして文上の寿量品まで、ずーっと足跡をたどってきたことになるのです。これまでが、本を顕すのに迹を借りる姿、ここまでが迹なのです。つまり、釈尊の仏法の領域を表しているのです。
 この次、十方分身諸仏・東方善徳如来の文字がこつ然と消えた時、寿量品の文上から文底に移ったことを知り、その相貌は、久遠元初の自受用報身如来の全身が顕わされたものであることが了解されるのです。
 この時はもう迹ではありません。事を事に顕わしたものですから……。
 そして、外にはかねて立正安国論に予証、すなわち、あらかじめ証言されていた自界叛逆の難、他国侵逼の難という二難が現実のものとなり、内には熱原の法難という信徒が命をかけて仏法を守護するという大いなる出来事があり、この内外の因縁があいまって、ついに、弘安二年十月十二日、戒壇の大御本尊様の御図顕があい成るのです。
 もちろん、この御本尊はあの龍の口の御法難の時の大聖人の御内証を写されたものであるのは当然です。
 これは大聖人の魂です。「日蓮が魂を墨に染めながして書きて候ぞ、信じさせ給へ」という御文、感慨新たな気分ではありませんか。
 次に、魂魄の二字についてですが、いずれも「たましい」と読みますが、魂は精神の方に、魄は肉体の方に属します。死は、この魂魄がバラバラ・離ればなれになった状態を言い、魂と魄を一つにすることが、死者を再生・更新・蘇生・よみがえらせることになるのです。
 古代の葬儀や墓の前の祈りは、全部そのためのものだったのだそうです。
 そして、その方角はかならず子の方角、つまり北方においてなされるのです。なぜなら、子の解字は了(りょう・終わり)と、一(いち・はじめ)になるからです。いわゆる、死から生へ、これほどふさわしい場所はありません。そして、この子の方角の北方は、五行の説でいうと、水に該当するのです。
 東は木、南は火、中央は土、西は金、北は水です。
 ですから、みんなお墓参りすると、水を墓石の頭からかけますよね。これはちゃーんと、この理に基づく早期の、死者の再生・蘇生・更新を願ってのことだったのです。
 すると、大聖人様が龍の口で首をはねられて、この魂魄がそれぞれこの龍の口から真北の、水の中に浮かぶ佐渡が島に行って一つになったということは、ここに、久遠元初の自受用報身如来として「非生現生の誕生」をされたということになるのです。(日寛上人・蓮祖義立八相の事)
 代々の御法主様が、次々と御本仏のお命を継承して非生現生の不思議の相をお示しになるのも、この原理に基づかれているのです。たとえば、大聖人のお葬儀が日興上人の御記録になる『御遷化記録』(御書一八六四頁)に記されていますが、そこには、
 「弘安五年十四日戌の時、御入棺 子の時、御葬なり」
と、あえて真夜中の子の時に葬式が行われていた事が、はっきり示されています。
 日有上人は『化儀抄』の第四に、
「一、手続の師匠の所は三世の諸仏、高祖以来、代々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし。また、我が弟子も此の如く、我に信を取るべし」
と仰せられているように、あたかも蛇が脱皮して新しい命に再生更新するように、大聖人のお命がもぬけられて、日興上人以来代々の御法主上人と出現されることをお示しになっているのです。 
 次の御法主上人の魄と大聖人の魂とが一つになり、非滅の滅と同時に、非生の生を顕され、三世常住のお姿をお示しになるのです。  戒壇の大御本尊様は「蔵の形式」をもって荘厳したてまつるという、御相伝があるそうです。これは、蔵とは御法主上人のお体の象徴であり、つまりは御法主上人のお命の中においてくらし給うを表す言葉なのです。
 だから、先の『御本尊七箇之相承』には
 「日蓮在御判嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何。師の曰く、深秘也、代々の聖人、悉く日蓮なりと申す意なり」(二○九五頁)
と仰せになっているのです。
 お習字の練習のように、側に御本尊のお手本をおいて、それをそっくりまねて書くのが御本尊の書写じゃないんです。ご自身の命の中にくらし給う戒壇の大御本尊を、人々に流通するために書き表すのを御書写というのです。ですから、その時の上人は悉く日蓮ということになるのです。ゆえに日寛上人は『観心本尊抄文段上』(文段集二二八頁)に、
 「本尊書写、豈化他にあらずや」
と仰せになっているのです。
 さらには、御法主は、この御本仏命を毎日、蘇生・更新ならしめるために、大聖人様の龍の口の再現たる丑寅勤行を、龍の口の頸の座と同じ時刻の二時半から執行されているのです。
 ゆえに、まず、猊下様の御認可をいただいてない本尊は、今日の精巧なるコピー印刷の技術をもって模倣したものでも、我々の即身成仏の御本尊足りえないのは当然なのです。
 次に、日顕上人の三月二十八日における開宣大法要を、創価学会の者たちや離脱僧らは、「『日顕宗』立宗の宣言」であると、息巻いています。これらも、すべては「習学を序と為し、自行を正宗となし、教他を流通となす」という定義に対する無知・不明から起こっているのです。
 大聖人様は『本尊問答抄』(御書一二七九頁)に、
 「生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかり」と記されているように、学文を志されて十二才の時に千光山清澄寺にお上がりになり、十六歳にして、道善房を師として出家得度され、是生房蓮長と名乗られることになりました。
 それよりは三十二歳、建長五年に至るまで、清澄寺はもとより、諸国をまわって、ありとあらゆる宗教・思想・学文を修められました。これについては、『妙法比丘尼御返事』(御書一二五八頁)に、
 「所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々、あらあら習ひ回りし」
とある通りでありますが、これが大聖人の一期の御化導の中には序分にあたるのです。
これを習学・序分とすることは、ほとんど問題無いと思います。問題はこの次です。建長五年の宗旨建立から文永八年の龍の口までの御修行がなんであったか、ということです。
 普通は、南無妙法蓮華経を唱えられて、邪宗謗法を折伏されて法華経が最も優れた真実の教えであることを訴えられ、それで次々に襲い来る法難をお受けになって、法華経の経文の一つ一つを身に当ててお読みになった忍難弘教の日々であった、ということになっています。
 それでは、大聖人は何を修行されて、久遠の御本仏として成道を遂げられたのでしょう。まさか、釈尊の法華経ではありますまい。
 日蓮大聖人は『百六箇抄』に、「久遠の釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」(御書一六九四頁)とか、「日蓮が修行は久遠を移せり」(御書一六九四頁)とか、「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾ばかりもたがわざるなり」(御書一六九五頁)とか、あるいは『本因妙抄』には、「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」(御書一六八四頁)等と仰せになっています。
 このように、ご自身が幾度も幾度も申されているのに、大聖人様のいつのどの修行のことか、検証されたことがありません。
 御本仏の御修行は修一円因といって、ただ一つのものであり、これによって感一円果、たった一つの自受用身という御本仏としての成道をお遂げあそばされるのです。そのたった一つの修行こそ、本地の自行たる本因妙の修行ではないでしょうか。これよりほかにあるはずがありません。
 これについて日寛上人は『当体義抄文段』(御書文段六三四頁)の中で、
 「釈尊は久遠五百塵点劫の当初、如何なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。答う、これ種家の本因妙の修行によるなり」
 久遠の釈尊は、種家の本因妙の修行をされて、妙法蓮華経の仏となられた、とございます。この修行と日蓮大聖人の御修行とは寸分もたがわないものであることは、先ほど引用申し上げた『百六箇抄』で確認しました。
それでは、その種家の本因妙とはどのようなものでしょう。
 「前文に云わく『聖人この法を師と為して修行覚道したまえば、妙因妙果倶時に感得し給ふ』等云々。文に『聖人』とは、すなわちこれ名字即の釈尊なり。ゆえに位妙に当たるなり。後をもって之を呼ぶ故に『聖人』と云うなり。この名字凡夫の釈尊、一念三千の妙法蓮華をもって本尊となす。ゆえに『この法を師と為す』と云う。即ち是境妙なり。『修行』等とは、修行に始終あり。始めは是れ信心、終わりは是れ唱題なり。信心は是れ智妙なり。唱題は是れ行妙なり。故に『修行』の両字は智・行の二妙に当たるなり。この境妙・智妙・行妙・位妙を合して本因妙と為す」(御書文段六三四頁)
 もう一度確認しておきますが、この久遠元初の名字即の釈尊の修行を日蓮大聖人の身の上にそのままお移しになったと申されるのですから、これは実は、全部日蓮大聖人様のことなのです。
 日寛上人はこの『当体義抄文段』の中で、境妙・智妙・行妙・位妙の四妙を合わせて本因妙と言う、と。この種家の本因妙を「本地の自行と言う」ということは、誰でもご存知のことです。
 これがあの妙楽大師が『法華文句記』で言われた「自行を以て正と為す」で、大聖人の御一代を三期に分けた時の序・正・流通の中には「正宗分に相当」するのです。
 智妙は以信代慧で信心、行妙は唱題、位妙は名字即の位、そして本尊としての境妙は一念三千の妙法蓮華。
 智妙・行妙・位妙の三つは分かりましたが、大聖人の信行の対象とされた、四妙の中のもう一つ、境妙・御本尊は、いつ感得あそばされたのでしょう。
 大聖人は『当体義抄』に、次のように説かれています。
 「至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法これ有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人この法を師と為して修行覚道し給ふ」(御書六九五頁)
 当たり前と言えば当たり前ですが、本地の御自行たる本因妙の修行は、境妙・智妙・行妙・位妙の四つをそなえて一つの本因妙の修行とするのですから、境妙本尊が無いままで修行が成立することはありません。ですから、この本因妙の修行を始める前に、始めるに当たって、その最初に本尊の感得をされたのです。
 でもよく考えてみれば、この大事なことが、日蓮大聖人の御生涯のいつ起こった出来事なのか、はっきりしていません。
 この御文をじっくり読んでいくと、大聖人が御修行されようとしたときには、久遠元初の時のように宇宙法界を貫く至極の深理はまだ不現前、つまり仏法は世の中に現れていませんでしたから、当然名前がつけられていなかったことがわかります。
 そのような時、聖人はご自身のお心が、因果倶時という因果が同時の、不思議の一法であることにお気づきになるのです。
 この未聞・未見の法を世に示すには、これに名前をつけなければなりません。そこで、「因果が同時」のこの法を、華と実が同時に見られる「蓮華の名」をとってつけられるのです。不思議の一法の方は、「妙は不可思議に名づく」というように、不思議という字は妙という字と同じ意味ですから、「不思議の一法」は「妙法と置き換える」ことができます。それで、「双方合わせて妙法蓮華と名づける」ことにされたのです。
 この妙法蓮華という尊い聖人のお心には、これまた不思議にもこの地球上のあらゆる物が全部具わっているのです。これを仏法では十界互具の原理から十界三千の諸法と呼ぶことにしました。
 これが、久遠の名字即の釈尊、すなわち末法の日蓮大聖人が本地の自行の時に師と仰ぎ、境妙となされた御本尊です。
 これだけ言うと、何かあまり有り難くなさそうな、ちょっとした思い付きのような軽い印象をお受けしますが、そうではありません。
 像法時代の法華経の弘宣者である天台大師は、一切経の中から境妙御本尊となるべきものを拾いいだされ玄義の中で列挙されています。
 それは十如・因縁・四諦・二諦・三諦・一諦・無諦の境の七つであるけれども、この中で最もすぐれ、他の一切を包み含んでいるのは真諦・俗諦の二諦の境であるとされています。
 しかし、その二諦の境についても、蔵通別円の四種類の二諦、別接通・円接通・円接別の三種類の二諦があり、都合この七種類の二諦についても、それぞれ、随情・随智・随情智の三つの意義があり、合計、七種類二十一個の二諦に分かれています。
 しかし、これらの意義を全部含んで、その頂点に立つものが、事(俗諦)と理(真諦)の二法なのです。
 理とは先ほど申し上げた、大聖人のお心が因果倶時・不思議の一法の妙法蓮華であること。事とは、その日蓮大聖人のお心に凝縮されて、ちぢめられて納められた、宇宙法界の一切の法(十界三千の諸法)なのです。
 (今お話ししている事は、日寛上人は『序品談義』に書かれ、御隠尊日顕上人は教学部長時代に、全国の僧侶を対象に、教師講習会という席で、『玄義境妙略見』という題で御講演くださいました)
 これを「下種六重本迹の中では、理(真諦)事(俗諦)の二つを束ねて、久遠名字即の釈尊の境妙本尊とし、理境と名づける」と、されているのです。
 そう、日蓮大聖人がご自身の本因妙の修行の時、本尊となされたものです。総本山の塔中には、この名前の「理境坊」という宿坊が一番目に建っていますから、当然、昔の人々は今お話ししてきたことをご存じだったのです。
 しかも、総本山には、この理境坊が戌亥の方角に建っているのに対し、辰巳の方角には了因仏性を表す了性坊が建っています。了因仏性とは智慧のことです。辰巳とは易の消長卦においては陰の気が尽きた全陽、乾為天に相当し、それに対し、戌亥の方角は陽の気が尽き果てて純陰の状態を示す坤為地に当たります。
いわゆる、あの龍ノ口において辰巳の方より戌亥の方角に光り物が轟音とともに走り渡ったというのは、この陰陽が合致、すなわち大聖人の境智が冥合したことが、法界まで動かして現実の上に現れたことを示しているのです。
それはさておいて、大事なことは、この久遠名字即の釈尊、つまり日蓮大聖人の本因妙の御修行の時の御本尊をいつ感得されたか、という問題です。あの『当体義抄』に説かれている、久遠元初の様相さながらに、末法日本国において、そのような聖人の己心が妙法蓮華の姿をし、そこに宇宙法界の十界三千の諸法が具わっている光景をご覧になった瞬間が果たして有ったか、無かったか。
 もし、あったとしたらこの時が本因妙の御修行の最初、立宗の時と言えるのです。
 これは先ほどらい紹介している『御本尊七箇之相承』に、ちゃーんと載せられているのです。
 「明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代凡夫幼稚のために、何物を以て本尊とすべきと虚空蔵菩薩に御祈請ありし時、古僧示して言く、汝が身を以て本尊と為すべし。明星ヶ池を見給へとの給ふ。即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影、今の大曼荼羅なり」(平成校定日蓮大聖人御書二○九五頁)
 私たちは「末代の凡夫・幼稚の者」というと、すぐ私たちのことだと思います。でも、ここでの「末代の凡夫幼稚の者」というのは言総意別、言葉は総じて末法の私たち全体を指しているようですが、別意は日蓮大聖人ご自身をお指ししているのです。しかも、ご自身の御謙譲のお言葉です。これから、ご自身が修行あそばされるにあたって御本尊の感得を祈らせたもうところですから、こういうへりくだった言葉になるのです。
 水面は、鏡がそうであるように、その人の本性を写し出すものとの考えが古来よりありました。大聖人がご覧になった、明星ヶ池に写し出された大聖人様のお姿は、今、まさに私たちが目の前に拝している御本尊様の姿をなされていました。
 詳しく言えば、中央の南無妙法蓮華経は、まだ南無の二字がなく、妙法蓮華経の五字だけであったであろうことは、先ほどの『当体義抄』の御文を拝すると想像できます。
 その妙法五字の回りに十界の衆生の代表が、上下左右にえがかれていることは、これで十界互具・百界千如・三千の諸法を表していることは、先に述べたとおりです。
 ですから、「久遠元初に名字即の釈尊が最初無教の時、我が己心に因果倶時・不思議の一法を見いだしこれを妙法蓮華経と名づけられ、この名字即の釈尊の一念の心法に十界三千の諸法が具足して一切欠けるものがなく、この法を師となされた」という下りは、末法にその修行のありのままをお移しなされた大聖人の、あの明星ヶ池の本尊を会得された瞬間と全く同一のものであると、言えるのであります。
 これが大事です。これを日顕上人は「内証の宗旨建立」と申され、改めて、宗門行事の中に、この御報恩御講の復活をなすべき、宣言をされたのです。それがあの三月二十八日の「開宣大法要」だったのです。
 改革同盟などと名乗る、総本山に後ろ足で砂をひっかけて創価学会に走った、いわゆる離脱僧らは、『開宣大法要』は、『日顕宗』の立宗の宣言だなどと、けたたましく吠えまくっていますが、これこそ、大聖人の本因下種の妙法の何たるものかを知らぬ者のたわごとと言わざるを得ません。

 このように、前代未聞の法なればこそ、四月二十八日に至る日々を、説くべきか説かざるべきかと、空前絶後の葛藤を繰り返されたに違いありません。ほかに、なにも思い当たらないからです。もう一度申します。四月二十八日の立宗宣言の日は、あの理事を束ねて理境とされた大聖人が、「聖人、下にこうむらしむる言」として、衆生に示す教えとして明らかにされた日であり、本因妙広宣流布の大いなる船出をなされた永遠に記念すべき日であります。                                以上

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