『経王殿御返事』(六八五頁)
又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。
さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」
この御書は、文永十年(一二七三)八月十五日、日蓮大聖人様が五十二歳の時、佐渡ケ島でおしたためになられ、宛名はお子様の経王殿ですが、当然ご両親の四条金吾殿ご夫妻に対してお与えになられたものです。
これは、四条金吾夫妻が、佐渡の一谷に配流中の大聖人様のもとに使いを立てて御供養をお届けになり、幼い経王殿の病気平癒を願い出られたことへの、御返事です。
その子供さんの病気について、二六時中に人の寿命を司っている日天子・月天子に御祈念をしていますから、どうか安堵されるようにと、まず述べられています。
二六時中とは、今の言葉では四六時中ということになりますから、大聖人様が二十四時間ずっと気を休まず御祈念されていることをお知らせになっているのです。
これは、すごいことではありませんか。
私共も、御信徒の病気平癒や、祈願成就の願いがあった時、また特別に願い出が無くとも、この御信徒の人たちが居てこそ地域の広宣流布が成し遂げられ、日蓮正宗の教義が護られて、しかも後世に伝えられていくのであるから、どうか御利生に預かることが出来ますようにと、御祈念をさせていただいているのです。
それはさておいて、先ほど拝読いたしました御書の少し前の方を読んでみますと、〝先日〟という言葉から、ついこの前、御本尊様を四条金吾へお授けになられていたことを、うかがい知ることができるのであります。
しかも、その御本尊を守りとして、しばらくも身から離さないように持ち続けるように注意を促し、「その御本尊は正法・像法二時には習へる人だにもなし。ましてかき顕し奉る事たえたり」と、正法時代・像法時代には、本で読んだり、あるいは誰かから聞くなどして習い会得した人もいなければ、まして書き顕した人もいない。
これこそ、前代未聞、古今未曾有の御本尊であって、今まで聞いたことや見たことがないからと等閑にしてはならない。今ここにこの御本尊が出現したところの意義をよく考えて、重く受け止めていきなさい、というお気持ちをこめて御指導をされているのです。
それゆえ、次に、
「師子王は前三後一と申して、ありの子を取らんとするにも、又たけきものを取らんとする時も、いきをひを出だす事はたゞおなじきことなり。日蓮守護たる処の御本尊をしたゝめ参らせ候事も師子王にをとるべからず。経に云はく『師子奮迅之力』とは是なり」
と述べられて、百獣の王たるライオンは、獲物を捕ろうとする時、例えそれが小さな蟻だったとしても、前三後一といって、現在の短距離のスタートの時に、選手が両手をスタート・ラインについて、後ろ足の一方を前の方の、もう一つを後ろの方のスターティング・ブロックに置いて、よーいどんの音とともに一気にダッシュするように、渾身の力を振り絞って獲物に挑み、大きいものには力を出し切るが、小さいものには手を抜いて、などということはありません。
それと同じように、日蓮が長く胸中に守護してまいった所の御本尊をこうしてしたため、書き顕す時も、これは大きい御本尊だから、あるいはこれはどうせ小さい御本尊だからと、手を抜いたり、あるいは力をこめたりと、その時々で、力を入れる度合いに違いが生じるなどということは決してありません。経文にもある通り、正に「師子奮迅の力」の様に惜しみなく我が力を出し切って、この御本尊を顕し奉ったのですと、この御本尊に対する並々ならぬご自分の思いを述べ、虚心坦懐、心を真っ新にして受け止められるよう、丁重に言葉を投げかけられています。
その次が、本日拝読の箇所です。
「又此の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし」
と。先には「其の御本尊は正法・像法…」「日蓮守護たる処の御本尊…」と、御授与になったお守りを御本尊と仰せになり、その同じお守りを今度は曼荼羅と仰っています。
たまに、御本尊と曼荼羅の違いについてご質問になる方がおられますが、これはお判りのように一つのものです。
ただ「本尊」とは、「根本尊敬」といって、私たちがすべての根本として尊敬すべき対象を意味します。
また「本来尊重」といって、元々本来誰しもが尊び重んずべき対象、との意味もあります。
さらに「本有尊形」といって、衆生の生命が本来具えている尊い姿を顕したもの、という意味も含んでいます。これは『日女御前御返事』(一三八八頁)に、
「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。これを本尊とは申すなり。経に諸法実相と云ふは是なり」
とある通りです。
それでは、「曼荼羅」とはどういう意味かといいますと、同じ『日女御前御返事』(一三八八頁)には、
「曼陀羅と云ふは天竺の名なり。此には輪円具足とも功徳聚とも名づくるなり」
とありまして、曼荼羅とは古代インドの言葉で、中国の漢字に意訳すると、「輪円具足」と「功徳聚」という二つの意味がある、と述べられています。
「輪円具足」とは、丸い輪や円球の形のように、少しも欠けることなく、まさに円満な姿で全てが具わっているということです。
「功徳聚」とは、功徳が集まったもの、ということです。
これらは、勿論、日蓮大聖人様が御図顕になられた御本尊様の御事ですが、誰が題目の五字七字を書いても、これらの意義が具わっているというわけではありません。
法華経『神力品』の、いわゆる「四句の要法」は、上行菩薩に対する「本尊付嘱の箇所」ですが、このなかに、先ほどの「輪円具足と功徳聚」の意義が説き尽くされています。
つまり、上行菩薩の再誕(生まれ変わり)・久遠の御本仏の日蓮大聖人様が顕される御本尊には、「如来の一切の所有の法」といって、仏様のお持ちあそばす全てのものが此所に存する、と釈尊が証言されているのです。
しかも、これはこの後の三つを総括する言葉ですから、詳しくは次の三つに明らかなのです。
その詳細の一つ目は「如来の一切の秘要の蔵」という、いわゆる「諸法実相」です。妙楽大師も仰っている「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如乃至十界は必ず身土」というように、この御本尊様の中に十界の衆生が、縦横に画かれているのはすなわち、十界互具して百界に、この百界の一つ一つに十如是が具わって千如是、この千如是の一つひとつに三世間が具わって三千世間、すなわち一念三千を表し、これは即自受用身の相貌(お姿)なのです。
これをもって、真実の諸法実相というのです。諸法という十界十如権実(九界を権、仏界を実とする)の法が、ことごとく実相妙法蓮華経一仏の姿なのですから。
大事なことは、この自受用身という御本仏のお姿は尊形を出でたる仏で、名字凡身の日蓮大聖人様、そのものなのです。その御内証を御図顕になられたのがこの御本尊様ですから、「未曾有の大曼荼羅」と名づけ奉るのです。また、「仏滅後二千二百二十余年には、この御本尊いまだ出現したまわず」ということなのです。
二つめは「如来の一切の自在の神力」という、仏の八自在、自由自在に衆生を利益する力や用きが具わっているのです。
三つめは「如来の一切の甚深の事」ということですが、これは「因果」が具わっているということです。因行果徳の二法ともいいます。三世の諸仏の因位の修行の功徳、つまり万行万善諸波羅蜜の一切の功徳と、果徳…仏という果位の万徳です。
「皆この経において宣示顕説す」とは、これらの一切が、大聖人御図顕の御本尊中に欠けることなく具わっているということです。
ゆえに『依義判文抄』(六巻抄一○二頁)には、
「二に『以要言之(要を以て之を言わば)』の下は本尊付嘱とは、即ち是れ如来の一切の名(所有の法)体(秘要の蔵)宗(甚深の事)用(自在の神力)は、皆本門の本尊、妙法蓮華経の五字に於て宣示顕説する故に『皆於此経(皆此の経に於いて)』等と云ふなり。此の本尊を以て地涌千界に付嘱する故に『その枢柄を撮って而して之を授与す』と言う、豈本尊に非ずや」
と、仰っているのです。
ですから、これは言い換えれば「輪円具足」となるのです。
もう一つの「功徳聚」は、この御本尊にはあらゆる功徳が聚集している、という意味です。ところで、それは誰の功徳か、ということが問題です。
よく、「三世諸仏の万行万善諸波羅蜜一切の功徳」といわれますが、これ「大聖人御一人の功徳」なのです。「大聖人様御一人の功徳」が、「三世諸仏の万行万善諸波羅蜜一切の功徳」に匹敵するのです。
一般に言われる「法華経の行者」という言葉は、大聖人様の御聖意から外れた意で理解され、使用されているように思います。
総本山の堀日亨上人猊下様は『両巻抄後述(上)』の中で、
「本因妙之行者と宗祖は御書に書かれたことは無いが、久遠本因妙之行者と云われた。但し、宗祖の云われたる法華経の行者とは一般を指されたるに非ず。四安楽行の者も法華の行者なれども、折伏の行者は日蓮なり。折伏の行者即本因妙の行者なり」
と述べられています。
つまり、日蓮大聖人様は単なる釈尊の説かれた法華経の崇拝者・殉教者ではない、ということです。
寿量品の文底に明かされた、名字即の釈尊の御修行を末法に移して行ぜられた本因妙の行者、本果妙の文上の法華経・文底本因妙の法華経とある中に、寿量文底の本因妙の法華経を修行されたのを、法華経の行者と表現されたのです。
故に日寛上人も『当流行事抄』(六巻抄一八○頁)に、
「本因妙抄に云はく『釈尊久遠名字即の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移すなり』と云々。血脈抄に云はく『今の修行は久遠名字の振る舞いに介爾計りも相違無し』と云々。行位全く同じきなり。」
と、おっしゃっているのです。
いわゆる寿量品の説法において、「然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」の言葉によって、今から四十数年前、菩提樹の下で成道を遂げたというこれ迄の説法は虚妄なり、真実にはあらずと否定されたのです。
この菩提樹の下で初めて成道を遂げたというのを、「始成正覚」といいます。これを打ち破るということは、華厳経の「始成正覚」、阿含経の「初成」、淨名経の「始坐仏樹」、大集経の「始十六年」、大日経の「我昔坐道場」、仁王経の「二十九年」、無量義経の「我先道場」、法華経方便品の「我始坐道場」の文を、一言に大虚妄なりと打ち破る文(開目抄・五五二頁)なのです。
このように、今までの始成正覚の説が破られれば、四教の果が破られることになり、四教の果が破られれば四教の因が破られることとなり、故に爾前迹門の十界の因果が打ち破られる事になるのです。
ここで「四教の果」というのは、四教とは蔵通別円という教えの内容のことです。仏様はこの教えの内容によって、それにふさわしい仏の身をお現しになるのです。
いまちなみに列挙すると、(報恩抄文段・文段集四六七頁)
蔵 教 色相荘厳の丈六一里の劣応身
通 教 丈六一里の身相を帯び、十里百億の色相を現ずる勝応身
別 教 十蓮華蔵微塵の色相を荘厳する他受用身
法華経以前の円教は、この別教の仏の範疇に属する
法華経迹門 先の劣応、勝応、報身を開いて法身を現す応即法身
などなどを「四教の果」と言うのです。これを、仏の方便・虚妄・垂迹の仏なり。真実にあらずと破られたのです。
そうすると、その教の仏果が方便垂迹・虚妄なりと打ち破られたのですから、その仏になるために修されたという四教の中の因、つまり修行もすべてが、方便、垂迹、虚妄なりと否定されることになる。故に爾前迹門の十界の因果、仏界を果とし、九界の修行を因とする、これをことごとく真実ではない、方便・垂迹であるとして、真実の十界の因果、いわゆる本因本果の法門が説かれるのです。
この本因本果というのが、大聖人様が修行された本因妙の修行で、これでもって無作三身の仏果を成就あそばされたのです。
この本因本果を譬えで言うならば天空の月、四教の果・四教の因は、地上の大小さまざまな水たまりの上に宿す月の影、つまり万影です。
だから、大聖人様の御修行と無作三身の仏果のところに、三世の諸仏の万行万善諸波羅蜜一切の功徳と果位の万徳が具わっているのです。
ですから、その大聖人様の御境界を御図顕された御本尊は「功徳聚」なのです。
ゆえに、この日蓮が顕した曼荼羅をよくよく信じていきなさい。南無妙法蓮華経は……、余りにも自画自賛にも聞こえ、夜郎自大な振る舞いのように見えるかも知れないけれど、決してそうではありません。
今まで見てきた通り、この南無妙法蓮華経はいわば師子吼のようなものなのです。ライオンがひとたび雄叫びをあげれば、どれほど獣たちが寄ってたかって悪さをしようとしていても、あっという間に、蜘蛛の子を蹴散らしたように逃げ出すではありませんか。
これと同じです。たとえ、どんな病気があなたを襲おうとも、この病気がさわりをなすことはありません。かならず変毒為薬して、かえって回りの人々にこの仏法の素晴らしさを証明し、またこうして生きていることへの喜びを享受できるようになるでしょう。
それでも覚束ないとお思いでしたら、法華経には、鬼子母神、あるいはその子供達の十羅刹女までもが、法華経の題目、すなわち南無妙法蓮華経の御本尊を持つものを、きっと守護するということが書かれています。よもや、そら言ではありますまい。
鬼子母神とは、王舎城の夜叉神の娘で、結婚して千人の子供を産んだけれど、他人の子をさらっては食らうなどして、人々を恐ろしさや、悲しみと苦悩のどん底に突き落としました。これを見かねた仏は、彼女の末子・ピンカラを隠して、子を奪われた親の苦しみを気づかせられました。それよりは、自分の子ばかりではなく、万人の子の守り神となりました。
十羅刹女とは、この鬼子母神の娘で、最初は羅刹・悪鬼でしたが、法華経に来て成仏を許され、法華経の行者を守護する諸天善神となりました。
①藍婆――結縛という。最初は人々を束縛し殺害したのでこの名がありますが、法華経を信じてからは、人を翻弄する煩悩をよくしばりつけ、悪さをさせない用きをするようになりました。
②毘藍婆――離結という。人と人との結びつきを引き離させたのでこの名がありますが、法華経に来てからは、人に忍び込もうとする煩悩の使者を、遠く引き離して護るようになりました。
③曲歯――施積という。キバが上下に生えているのでこの名がありますが、後には財を積んで、法華経の行者に施すとされています。
④華歯――歯やキバが上下に綺麗に並んでいる。
⑤黒歯――歯やキバが黒い色をしている。
⑥多髪――髪の毛が異常に多い羅刹。
⑦無厭足――衆生を苦しめても苦しめても飽き足らない。それが、人々を慈愛の念をもって接して飽きることが無い善神へと変わった。
⑧持瓔珞――手に瓔珞を持っている鬼。
⑨皐諦――何所という。どこであっても、御本尊を持ち広宣流布へ御奉公・精進する人や、その子供達を護る。
⑩奪一切衆生精気――最初は人々の精気を奪う悪鬼であったが、法華経に来てからは、人々を悩ます煩悩の毒気を奪って、御本尊様を信心する人を護り、広宣流布の前進に寄与貢献する善神となったのです。
次に、「さいはいは愛染の如く」の愛染とは愛染明王のことで、愛染の梵語でラーガとは「愛欲貪染」の意味。愛染明王は人々の煩悩を浄化し、さまざまなしがらみから解脱させるところから、この名があります。
愛染は、利益や福徳をもたらし、あるいは悪しき者を調伏し、無事息災をかなえるところから、「幸いは愛染のように」とおっしゃったものと拝せます。
その次の「福は毘沙門の如くなるべし」の毘沙門とは多聞天ともいい、世界の中心にそびえ立つと言われた須彌山の中腹の北面に住んでいて、常に仏の説法を聴聞し、仏法の道場を守護する働きを持っています。
この毘沙門は、先の愛染明王と同様、御本尊様の中にあってこの信心をする者をよく守護し、福を得たり、心の内外から起こる魔との戦いに勝利をもたらしたりする、といわれていて、このことを「福は毘沙門の如くなるべし」と仰っているのです。
このように、御本尊様の偉大なお力といい、様々な諸天善神の守護といい、私たちの生活万般にわたって、かならず護られていくようになるのです。
十羅刹女の中の皐諦女は「何所」という名前の通り、如何なる所でも守護を果たすべき誓いを立てており、そういう観点からも「いかなる所にて遊びたわむるとも、つつがあるべからず」と仰せになったものと拝します。
ただし、そうはいっても、みずから危険な所へいってふざけたりしていては、とうてい諸天善神といえど、守護するのに手に負えないでしょう。そういう点は常識を踏まえていかなければなりません。
この御本尊を持つ人の行くところ、前後左右に諸天が仏法広宣流布のため、妙法を自行化他にわたって精進する人を護っていこうとするのですから、「まさに遊行して畏れ無きこと、師子王のごとくなるべし」と、こうなってくるのです。
御本尊様と共に、そして素晴らしい講中にあって、どうぞこれからも自行と折伏弘教に御奉公して参りましょう。
以上