『聖愚問答抄』(四〇三頁)
「今の世は濁世なり。人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。この時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義をせめよとなり」
初めに
この御書は文永五年、日蓮大聖人様が四十七歳の時に認められたものですが、誰に与えられた書であるかは判っていません。
この御書の冒頭には、なぜこの書を後世に残そうと思い立たれたのか、その動機が先ず述べられています。
それはこうです――「そもそも、この世に生を受けた者が、いつかは死を迎えなければならないということわりは、天皇陛下から私たち一般国民に至るまで、誰もが知るところではありますが、実にこれを大事としこれを嘆く者は、千万人に一人としていません。
今日も今日とて、芸能人の愛川欽也が亡くなったことを知らせる速報が、テレビのテロップなどで報じられると、『えっ、あの人もとうとう亡くなったの。あんなに元気で、いつも優しい語り口でほほえみかけてくれていたのに…。本当に、人っていつかは死ぬんだなぁ」と、しばし感慨に浸り、自分の死をもわずかに意識して恐れを抱いたりもしますが、やがてそのことすら忘れ去ってしまいます。
ごくごく親しい間柄だと涙を流して嘆きもしますが、結局、早く死ぬのは愚かで、今もこの世に留まっている自分がいかにも賢いように思いこんでいるふしが、どの人にもあります。そして、できるだけそちらに関心が振り向いてしまわないように心が用きます。避けられない現実は考えても仕方が無いと、そのことに蓋をしようとしているのです。
ですから、昨日は彼がわざ―いわゆる身の上のこと、今日は我が身に起こりうることとも知らず、只なすがままに、この目や耳で見たり聞いたり、鼻で嗅いだり、舌で味わったり、肌で触れたりすることで引き起こされる様々な欲、いわゆる五欲にほだされた―しばられた生活を送り続けることになるのです。
「白駒のかげ過ぎやすく」
白い馬がすばやく走り過ぎるのを、壁のすきまからほんの僅か見るように、「羊の歩み近づくことをしらずして」…羊が人に引かれておもむく先が屠殺場(人の食料となる為に殺される場所)であることを知らないように、人の一生はまことに儚いのです。
なのに、華やかな衣装を纏ってブランド品のバッグをぶら下げ、人に羨望のまなざしで見られることのみを願い、飽食の宴には腹を満たして優越感に浸ってはみたものの、本当の幸福感に満たされたことは無く、まさに「衣食の牢獄」に繋がれているかの様です。
ですから折角あいがたき人間界に生を受けたとしても、一生を空しく過ごした結果、またあの過酷な地獄・餓鬼・畜生という古巣に立ち戻ることになり、六道という苦しみの世界を転々と、水車のようにぐるりぐるりと巡らなければならなくなるのです。
「嗚呼、老少不定は娑婆の習い」…先にこの世に生を受けた老いたる人が先に旅立ち、その後塵を拝するのが後に生まれた人というのなら、これは順番ですのでなんら不足はありません。
しかし、これが逆に若い人が先になる事があるという風に、後先が定まっていないのがこの世の常で、今に始まったことではないのです。子が親に先立つことを「アア、親不孝」などと一時は嘆いて見せたりするものの、皆もすでに了解しているように、この世界では取り立てて大騒ぎするような、特別なことではないのです。
なんとも酷いことではありませんか。
また「会者定離は浮き世のことはりなれば、始めて驚くべきにあらねども…」ごく自然に、こうして楽しい言葉を交わし、そして助け合って生きてきた人とも、いつかは離ればなれになるという、この憂き世…辛いことが多いこの世の習いであるので、今初めてことさらに驚くようなことでは無いのでしょうが、「正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、或は幼き子をふりすて、或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ」
正嘉元年丁巳八月の大地震
正嘉の初めとは、当然「正嘉元年丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震」のことです。
震央は相模湾内部、江ノ島の南約十㎞、つまり鎌倉と目と鼻の先でマグニチュード7.0~7.5の巨大地震が起きたのです。
この時、無念にも早世(早くに亡くなった)した人のことに思いを馳せてみれば、泣きすがる幼い子をあたかもふり捨てるようにして、あるいは老いたる親を心ならずも一人この世に留め置きさったように、まだ働き盛りであるにもかかわらず黄泉路へ旅立つ人の心の中を察するに、さぞや胸を切り裂かれるように悲しかったことでありましょう。
「行くもかなしみ留まるも悲しむ」…あの世に行くのも後ろ髪引かれる思いであれば、留まる人も悲しみに打ちひしがれて、生きる気力すら失ってしまいました。
末の世の忘れ形見にも
「末の世のわすれがたみにもとて、難波のもしほ草をかきあつめ、水くきのあとを形の如くしるしをくなり」…この悲しみの連鎖から逃れる術は、妙法という真実の教えを人々がこぞって信ずる以外には無い…。
このことを後の人らに託す忘れ形見にもと思って、大事な事どもを集めて書き記し置くものであると、この書をお認めあそばされた目的を、明らかにされています。
登場人物の愚人
ここにある愚人がいて、無明という根本の煩悩の酒に酔いしれてしまったがために、形の如く六道四生を巡り、焦熱大焦熱などの八熱、紅蓮大紅蓮という氷に閉ざされる八寒などの地獄の苦に責められ、あるいは飢えと渇きの悲しみに遇って、五百回生まれ変わっても、その間一度も、飲物も食べものの名さえ聞いたことがないという餓鬼に堕ち、あるいは小さい物はより大きなものに呑まれ、短いものは長いものに巻かれるなど畜生界の残害の苦を受け、あるいは修羅闘諍の苦しみ、また人間に生を受けては生老病死などの四苦八苦を受け、ようやく天界に生じてみたもののあっという間に天人五衰を受けて、喜びの反動の分苦しみも半端ではありませんでした。
この悲惨な状況を、これまで何回繰り返してきたことでしょう。
しかし、このたび、受けがたき人間界に生を受け、仏の教えに巡り会うことが出来ました。それはあたかも、一眼の亀が赤栴檀の浮木に出会ったのと同じ程、めったにない機会です。
このチャンスを活かして、大きな水車がぐるぐると果てしなく回るような、苦から苦へと流転するその宿業を断ち切り、迷いの三界という籠燓・鳥籠から突き破って出なければ、どんなに嘆いても嘆き足りません。
律宗への招き
と、ここで一人の智人が来て、「無常を感じて道心に目覚める者は、麟角―麒麟という想像上の動物の、角の数よりも僅かである」とほめ称え、「吾最第一の法を知れり。志あらば汝がために之を説いて聞かしめん」と、よく耳を傾けて聞きなさいと語りかけ、教えを説き始めるのです。
それが、「仏教は一口に八万の聖教と言われるようにおびただしい数に上るけれど、すべての教えの父母とも言うべき『戒律』に及ぶものはない」として、歴史上著名なインドの世親・馬鳴といった菩薩らがこれを重んじたこと、日本には聖武天皇の世に鑑真和尚がもたらし、あの奈良の東大寺に戒を授ける戒壇を築いたことを紹介します。
それよりは人々がこぞって信仰して今日に至り、あの極楽寺の良観上人はこの教えによって、生きた仏であると大衆より仰がれているのは周知のことです。
また、彼の上人の慈善事業は人々の多く支持するところであるとして、厳しく戒律をたもち、同じく広く民の為に橋を築き、道を作るよう勧めます。
これを聞いて、愚人はなるほどと感じ入って、律宗を信じ始めるのです。
念仏へのいざない
それからしばらしたある日、一人の在家居士が訪れて来て言うのには、あなたの宗教は小乗教という下劣な教えで、説かれた仏でさえ八種類の譬えをもうけて、これを退けられています。
また有名な人や多くの人が信じているからと言って、その教えが勝れているわけではありません。それを仏様は、「法に依って人に依らざれ」と、誡め置かれているのです。
では何を信ずべきであるかというと、この在家居士は、「末代の、悪を造らざる事無き愚悪の人々にとって、念仏往生の教えこそが機に叶っている」として、慧心僧都源信の「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり」の文を引いて、しきりに称名念仏を勧めるので、とうとう戒律の律宗を捨て、他力往生に死後を委ねていくことを決意するのです。
真言宗の誘い
ところが、それからしばらくたったある日のこと、またまたこの愚人の元へ、一目見ただけでも並々ならぬ肩入れようであることがそれと知れる、真言密教の僧侶がやってくるのです。
そして、西方極楽浄土の教主に、すべてを委ねようとするこの愚人をたしなめようとするのです。
その行者が言うのには、
「仏教には顕教と密教の二種類があり、顕教の極理といっても、密教の、出家したばかりの僧が学ぶ初等科の法門にも及ばないほど劣ったもので、その差は歴然としている。
あなたがご執心の念仏は釈迦が説いた顕教であり、私が所持しているのは大日覚王の秘法である。
つまり、顕教は人々を救済するために、救済する相手の宗教的能力に応じた姿を現した仏、つまり舎利弗等の弟子の請に応えて説く教えなるゆえ、仏はこの様であって欲しい…そういう人々の仏に対するイメージに沿った形での、応化の身を示した、すなわち応身の説法であるのに対して、密教は自受法楽――仏が自らの悟りの内容を深く味わい楽しむために、真理そのものとしての仏の本体・いわゆる法身の大日如来が、金剛薩埵を聞き手として説かれた、大日経などの三部経を密教というのです」
このご高説を聞いて愚人は、「実に以て然なり。先非をひるがへして賢き教へに付き奉らんと思ふなり」と、念仏から真言宗へ信仰を変えるのです。
禅宗の勧誘
そのような時、諸国を浮き草のように転々としている乞食のような男がブラリとやって来て、庭先にたたずんでいるものの、含み笑いをするばかりで何も語ろうとしません。あまりにおかしな様子なので問いかけてみたところ、最初は何も喋らなかったのですが、後に強く問いかけましたら、ようやく「月蒼々(青々)として風茫々(果てしなく広々としている様)たり」と、風貌が尋常でない上に、言葉が何を言っているのか通じません。
どうやらこれは、今流行の禅宗だったようです。そこで、その禅とやらの修行の大要を、言葉でもって伝えて貰おうとすると、その人の言うのには「経文の教えはただ月をさす指であり、教えの網は、人をして言葉に埋没させ、往々にして大事を見失わせる事が多い。我が心の、本来の姿に私たちを落ち着かせようと現われたのが、禅というものである」とし、「その志深くば壁に向かひ座禅して本心の月を澄ましめよ、(中略)是心即仏、即心即仏なれば、この身の外に更に何くにか仏あらんや」と言う言葉を残して立ち去っていくのでした…。
これまで、夢のように色々な仏教各派の話しを聞いてきたが、実に様々な教えに分れていて、どれが正しく、あるいは正しくないのか、分別することが難しい。あれこれ考えあぐねているところに、聖人に出会うのです。
法華経以外は皆三悪道の業因
聖人は「願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり。そもそも今まであなたが出会った教えは、小乗大乗と、位の上下は多少認められるとしても、皆『三悪道の業』であることに代わりはありません」と。
それに対して愚人は、「仏が一生を通じて説かれた経は、皆人を救わんが為であり、どの一つをとっても釈尊が説かれたものでないものはありません。少しぐらいは互いの勝劣を言うことはあっても、どうしてすべてが『地獄・餓鬼・畜生などの、三悪道の業因』だなどと、否定しさることなど出来るでしょうか。」
なぜ仏は方便を説かれた?
聖人が答えられるのには、「仏は菩提樹の下で悟りを得られて、その後直ちに妙法蓮華経を説かれようとしましたが、いかんせん人々の仏法を受け容れる能力に余りに差があるので、しばらくは方便の教えでもってその命を一つに融合し、高められるなどして、四十二年後にようやく、法華経を説くためにこの世に出現したとの、仏の目的と化導の仕組みを明らかにされるのです。」
それこそが、
「我先に道場菩提樹の下に端座すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずる事を得たり。仏眼をもって一切の諸法を観ずるに宣説すべからず。所以は如何、諸の衆生の性欲不同なるを知れり。性欲不同なれば種々に法を説く。種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には真実を顕はさず」
の『無量義経』の文と、『方便品』の
「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」
の御文なのです。さらにはこれを受けて『譬喩品』に、
「余経(法華経以外の経の)の一偈をも受けざれ」
と、法華経以外の一切の経文を信じてはいけない。捨てなさいとおっしゃっているのです。
この言葉をなかなか受け容れがたい人の為に、東方宝浄世界からやってこられた多宝仏は「真実なり」と証明を加え、十方の諸仏は来集して舌相を梵天につけて、こぞってこれまた真実なることを証言あそばされたのです。
ゆえに、仏自らの言葉である「妙法蓮華経は諸仏出世の本意、衆生成仏の直道」であることを信じようとしない人は、諸仏の舌を切り、賢聖をあざむく人となるのです。
ですから『譬喩品』には、
「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」
とあって、「もし、この経の一偈一句であっても背く人は、過去・現在・未来の、いわゆる三世十方の仏を殺すに等しい罪を犯す」と定められているのです。
このように、信じないだけでも無間地獄は免れえないのに、況んや念仏の法然上人などは捨閉閣抛――法華経を捨てよ、閉じよ、差し置け、あるいは抛てという。これがどれだけ恐ろしい仏罰を被ることになるか、誰でもお分かりでしょう?釈尊の五千七千の経巻いずれに、法華経を捨てよと書かれた経文があるでしょうか。
この法然は、中国の善導の『観経疏』の「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これを『正定の業(必ず極楽浄土に往生することが確定するための要因)』と名づく、彼の仏の願に順ずるがゆえに」という一文を見て、念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得、浄土宗を開きました。
ゆえに法然は「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と言っているところから、法然を宗祖、善導を高祖と崇めています。
この善導和尚は、人々からは三昧発得の行者、生身の弥陀と崇められています。またそのように人々が思い込むように、自己の宣伝に相務めました。
法然も善導を真似て三昧発得?
三昧発得とは、建久八年(一一九七)法然六十五歳の時重い病気に沈んでいましたが、小康を保っている時に九条兼実の請いによって『選択本願念仏集』を著述することを開始しました。そのさなか、建久九年一月一日から三・七日間、毎日七万遍の念仏を行い、その称名念仏の中で極楽浄土の有様を現実に見たと言う記録を、『三昧発得記』に残しているのです。
これはもちろん、善導の真似をしたものですが、これをもって選択集の権威付けを狙った…深い宗教体験に基づく記述、と見せかけようとしたのです。
だいたい念仏の数珠は、平べったい牛乳びんのふたのような形をしており、これではいっぺんに二枚三枚四枚と、間違って括ってしまってもおかしくありません。一万遍のお題目さえ三時間半はかかるのに、一日七万遍を二十一日修して、しかも同時に選択集を書いたと言うのは、眉唾物です。
しかも、病気の上にメチャクチャな称名念仏をして、とにかく数を出さなければならないとがむしゃらに称えていれば、それは頭も朦朧とするでしょうよ。
その中で、ありもしない浄土の聖相を観察したというのは、それこそ妄想に他なりません。はっきり、仏が方便と決めつけられ、これを「正直捨方便」と、捨てることを厳命されたのですから、それでも極楽浄土が見えるはずがないじゃありませんか。
しかも善導は「五種の雑行」をたてて、法華経を「千中無一」つまり、法華経を千人信ずる人がいても、一人も成仏できないと言いました。法華経には仏の金言として「若有聞法者 無一不成仏」…つまり、この法華経を聞けば十界の衆生も、そのもの等が住まう国土世間も皆成仏すると説かれているにもかかわらず、です。
ですから法華経にはあの悪逆の提婆達多も天王如来の記別…成仏の太鼓判を受け、器に非ず、あるいは五つの障りありとして、未だかつて成仏を一度も許されたことの無かった八歳の竜女は、南方無垢世界でたちまちに成仏を遂げる実証を示して見せたではありません。これ女性成仏の初めです。
しかもこの経文には、蛣蜣という昆虫、私たちは通常ふんころがしと呼んでいますが、こういった類の虫けらまで六即という位が立てられ、成仏が許されるのですから、どんな下位・愚悪の人といえ、この法華経によって救われる対象から漏れることはありません。
経文を見れば一目瞭然、完全な念仏者らの誤解なのです。善導の言葉と法華経の文と、実に以て天地雲泥なのです。
私たちはいずれに付くべきなのでしょうか。
これら念仏の指導者らは、この道理をもって検証するに、すべての仏、あらゆる経文の怨敵・仇や敵であり、全ての真理を求める聖僧や大衆の讐敵・仇や恨むべき対象なのです。
経文に照らしてみれば、どうしてこの人達が無間地獄を免れることが出来ましょう。
このように、念仏やら真言、それに禅宗等の誤りを懇切丁寧に挙げて、そこから脱却して法華経の信仰に入ることを勧められます。
五濁悪世とは何か?
しかし、今の世は法華経に仏がいみじくも記し置かれていたように「五濁悪世」ですから、人の心もひがみ歪んでしまっています。
五濁とは、一に「劫濁」とは、戦争・疫病・飢饉などが起こり、世の中が乱れるという、時代そのものの濁りをいいます。天台大師の『法華文句』に、
「劫は是れ長時、刹那は是れ短時なり。
但だ四濁に約して此の仮名を立つ」
とあるように、劫濁は他の四濁が盛んで、その濁りが長く続いている時を指します。
次に「煩悩濁」とは、五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)などの煩悩による心身の濁りをいいます。貪は愛着することであり、瞋はいかることであり、癡は道理に暗く愚かなことをいいます。慢はおごり高ぶることであり、疑は法を信ぜず躊躇・ためらうことなど、これらは煩悩に支配されるという個人における本能的な迷いの姿をいいます。
次の「衆生濁」とは、煩悩に冒された人間の集まり、すなわち社会全体の濁りのことをいいます。衆生濁について『文句』には、最初の劫濁とともに「別体無し」と釈され、時代や社会の濁りについては実体があるのではなく、全体的・総合的な濁りを意味します。
四番目の「見濁」とは、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒取見)などによる思想的な迷いをいいます。身見は自我に執着する考えであり、辺見とは「生命は死によって無となる」など、一辺に偏った考え方のことであり、邪見は因果の道理を無視する考えをいいます。見取見は前の三見に固執し、劣っているものを勝れていると見る考えであり、戒取見は仏法上、戒め禁じられている邪行に固執する考えのことをいいます。これらは理に迷って煩悩に冒されている姿を指します。
最後の「命濁」とは、心身ともに衆生の生命そのものが濁り弱まることや、寿命の短減のことをいいます。
五濁の関連性について
『文句』には、
「煩悩と見とを根本となす。此の二濁より衆生を成ず。衆生より連持の命あり。此の四時を経るを謂いて劫濁と為すなり」
とあり、煩悩濁と見濁が根本となって衆生濁となり、それが連続維持し命濁を生じさせ、さらに劫濁という時代自体の濁りになるとしています。
ちなみに、私ども大聖人様の仏法を奉ずる者を『御義口伝』には、
「日蓮等の類は此の五濁を離るゝなり。我此土安穏なれば劫濁に非ず。実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず(乃至)正直捨方便・但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」(御書一七二九頁)
と、五濁を免れることを御指南賜わっています。(※五濁悪世については、大白法・平成九年二月十六日発行第四七二号より転載させていただきました)
さてそのような五濁悪世ですから、当然人の心もひがみ歪んでしまっていて、権教という随他意・方便の教え、あるいは法華経の意に背く謗法の邪教のみが蔓延していて、正法を弘めることが極めて困難な状況となっています。
法華三昧、如法一日経の書写も無駄
「この時は読誦・書写の修行も」…この読誦とは、私たちが勤行の時に読んでいる、方便品と寿量品のことではありません。これは法華三昧・不断経といって、一定の期間を設けて昼夜関係なく法華経を読むことです。インターネットなどで検索すると、「法華経不断経会」と銘打って、「三月六日の十二時から九日の十二時まで、七十二時間途絶えること無く法華経を読誦する行で、序品第一から普賢勧発品第二十八までを繰り返します」と掲示してあるのを見つけることが出来ます。
三昧とは法華経を読むことに没頭するということです。
書写とは法華経を書き写すことで、これに「如法経」と「一日経」というのがあります。
「一日経」とは、多人数で法華経の書写を一日で行うことです。
写経は、元々は印刷技術が十分でない時、広く教典を人々に行き渡らせることを目的に始まったものですが、これがやがて功徳を積むことを目的とするようになり、自分で書写することも、お金を供養して写経の協賛をすることも大きな功徳があると信じられるようになりました。
特に精進潔斎と苦行によって身を清めて書写をすることを「如法経」といい、筆や墨も、動物の毛や煤を動物の膠で固めた墨は使わず、「石墨草筆」といって、黒い色の石を擦って墨とし、草の葉先を筆として法華経一部を書写したのでした。
しかしこれは、像法時代の行で、今となっては去年の暦と同じで、正行の唱題と折伏の妨げともなりますから、行わないとご指南されているのです。
これを受けて日興上人も『富士一跡門徒存知事』(御書一八六八頁)に、
「五人一同に云はく、如法経を勤行し之を書写し供養す、仍って在々所々に法華三昧又は一日経を行ず。日興が云はく、此くの如き行儀は是末法の修行に非ず、又謗法の代には行ずべからず」
と、また、『五人所破抄』(御書一八八〇頁)にも、
「又五人一同に云はく、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写読誦に於いても相違あるべからず云々。
日興が云はく、如法・一日の両経は法華の真文なりと雖も、正像転時の往古、平等摂受の修行なり。今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らとせず、但題目を唱へ、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か。此則ち勧持・不軽の明文、上行弘通の現証なり。何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや。但し四悉檀の廃立二門の取捨宜しく時機を守るべし、敢へて偏執すること勿れ云々」
と、きめ細やかに、しかも厳しく御遺戒あそばされているのです。
観念工夫修練…去年の暦で無用
さらには、一室に閉じこもっての観念観法、工夫と言う名の座禅瞑想、修練という心身を厳しく鍛える、真冬に冷水を体に浴びる水垢離などの荒行も全く無用…あっても役に立つどころか正しい修行の妨げとなるのです。
「只折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」…どうしても折伏を行じて、人々を苦悩から・地獄から救っていかなければならない。しかし国中に謗法が盛んで、せっかくの正法もなかなか弘まりにくい。この様な時には「威勢」をもって謗法を破折し、法門の上から邪義を気づかせるべく責めていきなさいとのご教導です。
威勢とは何か?唱題の力と確信
この中の「威勢」とは何かと言うと、決して暴力的な、居丈高な、威圧的な態度や言葉で相手を脅すことではありません。大聖人様は『日厳尼御前御返事』(御書一五一九頁)にも、
「叶ひ叶はぬは御信心により候べし(中略)水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよはきはにごるがごとし。信心のいさぎよきはすめるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ」
と仰せられています。すなわち、まず強盛なる読経唱題の力であり、それに基づく大確信であります。
大聖人様は『教行証御書』(御書一一〇九頁)に、
「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず。彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時、爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず(中略)法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過ち有らんやと意得て宗論すべし」
と仰せであります。折伏に当たっては臆病であってはならない。そして、たとえ相手がその宗旨の仏であろうと物の数ではない。自分は大王の位にて折伏すると思っても行き過ぎではないと、大確信をもって折伏せよ、とおっしゃっているのであります。
慈忍信の三力無くては叶わぬ
江戸時代から明治にかけて、今の創価学会のように謗法と化した「堅樹派」という異流義がありました。総本山第五十二世日霑上人は、これらの者を折伏するに当たって、
「かかる我慢偏執して理非を弁えざる狂人共を教化致し候ことは、中々容易ならざる事なり。偏に慈・忍・信の三力強盛に之無くては相叶い難し。宜しく注意専一に存じ候」(妙寿日成貴尼全伝)と御指南されています。物事の理非を弁えない者を折伏するに当たっては、偏に慈悲と忍辱(忍耐)と信心の力との三力が強盛でなければ折伏はできないと御教導あそばされているのです。
これは『法師品』の「衣座室の三軌」のことと思います。『御義口伝』に、
「衣とは柔和忍辱の衣、当著忍辱鎧是なり。座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり。室とは慈悲に住して弘むる故なり。母の子を思ふが如くなり」(一七五〇頁)
と記され、柔和忍辱の衣を着て、不惜身命の信心で、母の子を思うがごとき慈悲に住しての折伏以外にないと仰せられているのであります。
業を動かす
天台大師は『摩訶止観』に「業を動かす」ということを説いています。これを日寛上人は『開目抄文段』(御書文段一七九頁)に、
「宿業冥伏して身中に之有り。散善の分にては動ぜざりし」
と説かれています。これは「微弱な勤行・唱題・折伏では、相手の業を揺り動かす事は出来ない」何度も訪問し、強いて折伏し、相手の業を揺さぶり動かした時に現証が現われ、初めて耳を傾け話しを聞くようになるのであります。
オウムの消防
御法主日如上人猊下は、御登座以来折伏の大事について御指南されています。
その中で、「オウムの消防」の説話をもって、折伏・育成のコツをお話し下された事がありました。すなわち、「折伏や育成は、私たち凡夫の小さな力では思うようにできない。しかし、たとえ小さな力であっても、何度もなんども愚直なまでに訪問し、折伏・育成していくことが大事である。その姿を仏様や諸天善神が御照覧あそばされてお力添えをされるのである」との内容でした。
御本尊様がお力添えをして下さるほどの威勢ある折伏を、不自惜身命の信心と、母の子を思うがごとき慈悲と、柔和忍辱の衣を着て、今だ懲りず候の意気で頑張って参りましょう。
以上