『撰時抄文段』

『撰時抄文段』 (日寛上人御書文段二九九頁)
「弘の一の下十一に云わく『たとい発心真実ならざる者も正境を縁ずれば功徳猶多し。若し正境にあらざれば、たとい偽妄無けれども亦種と成らず』云々。当に知るべし、正境とは本門戒壇の御本尊の御事なり。是れ則ち正中の正、妙中の妙なり。久遠名字の妙法、事の一念三千、何ぞ外に之を求めんや。即ち是れ末法下種の正体なり」
はじめに
日蓮大聖人が顕された御本尊様は,現在百二十数幅残されています。
日蓮大聖人様は、御信徒や僧侶に、大きい御本尊、小さいお守り御本尊にかかわらず、すべて渾身の力を込めて顕され、授与されてきました。
ですから、御本尊はすべて尊く、これでなくてはならないとか、どれそれが根本・中心だなどと主張することは宗派根性であり、本来そこに差別は無い、などと言う人が昔から居ました。
しかしそれは、「片岡随喜居士」の発願集成、「山中喜八」編集者になる、「立正安国会」発行の『御本尊集』を見ると、一目瞭然、そうでないことがわかります。
最初の御本尊は、南無妙法蓮華経の七字と日蓮の文字、それに愛染明王と不動明王の梵字が左と右に書かれた、きわめてシンプルなものです。それが時を経るに従って、徐々に形を変え、やがて私たちが普段拝している姿へと変化してくるのです。
これをどう捉えるのか。ある人は「まだ日蓮大聖人のお心のなかで本尊は完成されておらず、どのように描き顕すか試行錯誤を繰り返され、それが本尊・妙法曼荼羅の相貌の様々な変化となって現われた」と言っていますが,果たしてそうでしょうか?
大聖人は御本尊をいつ証得された?
実は、大聖人の御本尊は龍口の御法難の時に、――次の言葉が適切で無いかもしれませんが、すでに出来ている・完成・完結しているのです。あるいは言い方を換えれば、これを機に大聖人御自身が下種の本尊として顕われ給うたのです。
これまで、この『色心』紙上でいくたびも述べてきたように、様々な意義を持つ龍の口の御法難なるがゆえに、色々な言葉で表現されてきました。
いわゆる、本地の御自行(種家の本因妙)によって遂に成道をとげられた瞬間のこの御境涯、これが取りも直さず一念三千の成仏という、大聖人御一人すなわち一仏のみならず法界同時の成仏を示された御境地、身は末法に処しながら、即久遠元初の即座開悟をとげられた――名字凡身のまま直ちに我が身すなわち法界、法界すなわち我が身なりと悟りを開かれたそのお姿、これらの御内証そのものが、「寿量品の仏」であり、我らの「下種の御本尊」なのです。
それが『御本尊七箇之相承』(平成校定日蓮大聖人第三巻二〇九四頁)の、
「日蓮と御判を置き給ふ事如何三世印判日蓮体具。師の曰く、『首題(南無妙法蓮華経)も、釈迦多宝も、上行無辺行等も、普賢文殊等も、舎利弗迦葉等も、梵(天)(帝)釈・四天(王)・日(天子)月(天子)等も、鬼子母神十羅刹女等も、天照八幡等も、悉く日蓮なりと申す心なり。之に付いて、受持法華本門の四部の衆を、悉く聖人の化身と思うべきか。』
師の曰く、『法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり。法界即日蓮、日蓮即法界なり。当位即妙(法蓮華経)不改(本位)、無作本仏の即身成仏の当体蓮華、因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり』」
の御文なのです。
御自身が本尊を証得した事を宣する文
日蓮大聖人さまが龍ノ口の御法難の時、末法久遠の下種の御本尊と顕われたもうことを自ら宣せられた御文は、たとえば『開目抄』に、
「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたる」とあります。(平成新編御書五六三頁)
日寛上人は『開目抄文段』(文段集一六七頁)に、
「この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われたもう明文なり(中略)大曼荼羅とは、即ち是れ一念三千即自受用身なり云々。釈尊は、二月の八日の明星の出ずる時、霍然と大悟し給うを成道の相と名づくるなり。明星の出ずる時は即ち是れ寅の刻なり。我が祖亦爾なり。名字凡夫の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と顕われ、内証真身の成道を唱えたもうなり」
と御指南されているのです。
また『三世諸仏總勘文教相廃立』にも、
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開き給ふ」(御書一四一九頁)
とありますが、これは、久遠なるがゆえに五百塵点劫といい、元初のゆえに当初というのです。
この仏法元始の時である久遠元初とは即ち、仏法隠没・無教の時の末法今日と等しきがゆえに、その時の「凡夫の釈迦如来」とは即ち、「名字凡身の日蓮大聖人」のことなのです。
この日蓮大聖人が、我が身は地水火風空の五大より成れるものであり、これ即ち妙法蓮華経の五字なりと覚知されて南無妙法蓮華経と唱えられたところ、即座に開悟され、久遠元初の自受用身と顕われ出られたのです。
地水火風空とは五大種ともいい、これはつまり妙法蓮華経の五字のことであり、この五字でもって人身の体は造られているのですから、本有常住であり、本覚の如来(本来そのままの姿で悟っている仏)なのです。〈總勘文抄一四一八頁〉
ということはすなわち、十(法)界の姿はまちまちであっても、五大種は一つなのですから、名字凡身の釈尊(日蓮大聖人)の五大種・妙法蓮華経は即十界の衆生の五大種・妙法蓮華経、十界の衆生の五大種は即名字の釈尊(日蓮大聖人)の五大種ということになりますから、この十界互いに具わり、互いに融通して、法界は十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経・自受用身の姿と拝されるのです。
これを『撰時抄』(八三四頁)には、
「一念三千は九界即仏界、仏界即九界と論ず」
と御教示されているのです。
宗祖の心も一念三千の妙法蓮華経
これは大聖人の色法(肉身)の上に拝することでありますが、心法の上でもやはり同じように拝する事が出来るのです。それが『当体義抄』の、
「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果俱時不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果俱時に感得し給ふ」
の御文なのです。
 つまり、「仏法不現前」という、仏法がまだ世に現われていない無教の時代、聖人が三世十方を貫く真理を見出し名を建立されようとした時、因果俱時不思議の一法がありました。
この法は因果が同時であるから、花と実とが同時である蓮華に名を借り、不思議は妙の一字に置き換えることができるから、不思議の一法を妙法と名づけることとされました。
すなわち、「妙法蓮華経の五字なり」と、名をお立て遊ばされたのです。
さらには、この妙法蓮華の一念の心法に、十界三千の諸法を具えておられることを感得されるのです。
明星直見の本尊の意義
この時というのが、あの「明星ヶ池」に我が身を映してご覧になった瞬間です。
「明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代の凡夫幼稚の為に何物を以て本尊と為すべきと虚空蔵菩薩に御祈請ありし時、古僧示して言わく、汝が身を以て本尊と為すべし、明星ヶ池を見給へと、の給ふ。即ち彼の池を見るに不思議なり。日蓮が影今の大曼荼羅なり」(平成校定日蓮大聖人御書二〇九五頁)
と、一見すれば、将来の私たちに授与される御本尊を予見・あらかじめご覧になった出来事、それだけのように描かれていますが、勿論それも含まれてはいますが、それだけではなく、これは言総意別と言って、大聖人御自身の、これからの本地の御自行・種が家の本因妙を行ぜられるに当たって、その境妙たる本尊を御感得あそばされる瞬間を述べられたものであることに、注意をしなければなりません。
すなわち、今さっき申し述べた『總勘文抄』の、「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫の御時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして……」の御文、
あるいは『当体義抄』の「至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くるの時、因果俱時不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し……」の御文は、久遠元初の時の釈迦如来がまだ凡夫僧の時と、今の明星ヶ池を大聖人様がのぞきこんで御自身の本当のお姿をご覧遊ばされた時の事とが、全く同じだからです。
すなわち、中央の妙法蓮華経は大聖人の色法(肉身)であり、心法(一念の心)です。大聖人の色心の二法が共に妙法蓮華経なのです。
ここに具わる「三千の諸法という数量」は、「一代の観門を一念に統べ、十界の依正を三千につゞめたり」(撰時抄八四八頁)とあるように、この法界全体――空を飛ぶ鳥、大地を往き来する人や獣、水にすむ魚、土の中の小さな目に見えない生命それらすべて、そしてそれぞれの生命の居住する国土世間という生活環境など、その全体を表す言葉なのです。
聖人はこの法を師と為して修行覚道されたところ……これを「照境未窮(境を照らすこと未だ窮らざる)を因と言う」の、種家の本因妙と言い、ついに妙覚果満の仏、すなわち久遠元初の自受用報身如来と顕われ出られた……これを「尽源為果(源を尽くすを果と為す)」の、種家の本果妙とは、まさにこのことなのです。
大聖人の折伏行が一念三千の振るまい
現実にはどのように修行されたのかというと、聖人の心に映じた、聖人がご覧になっているのは、つまりは聖人の心の投影ですから、現実の目の前の人々、これに向かって不軽菩薩の礼拝行のように仏性を拝し、貴賤上下を選ばず、折伏行を敢行されたことが、そうなのです。
それゆえに『治病大小権実違目』(一二三九頁)には、
「一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊なりごとなりと、御臨終の御時は心へ有るべく候」
と、大聖人のあの折伏が事の一念三千のお振舞なるがゆえに、「観念すでに勝る故に、大難又色まさる……」と仰せられたのです。暗い一室に閉じこもって、一人座して静かに心を観察観念などしていて、大難が降りかかろう筈がありません。
御本尊の御図顕こそ宗祖の御化導
このようにして、ついに龍ノ口の御法難の時成道を遂げられ、我らの下種の御本尊として御出現になられたことを日寛上人は『観心本尊抄文段』(文段集二〇三頁)の中で、
「応に知るべし、此の久遠元初の自受用身乃至末法に出現し、下種の本尊と顕われたもう」
と。
しかし末代の我ら肉眼しか持たず、しかも過去の善根の持ち合わせが無いために、そこに下種の御本尊が御出現になっているにも拘わらず、雖近不見――まさに、近しと雖もしかも見えずで、尊形を出でたる名字凡身の日蓮大聖人こそ、寿量品の仏たる自受用身にして、即一念三千という法界全体の成仏を開悟された最高至尊の存在なることを識らず、故に本尊に迷うこととなるのです。
この者らは、本尊に迷うゆえに亦我が色心がいかに尊厳であるかも知らず、迷いの中をさまようこととなり、結局、我が色心に迷うゆえに生死の苦を離れることができない、という哀れな人生を歩んでいかなければならなくなります。
そこで仏は大慈悲を起こし、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けられたのです。
ゆえに我らは但この御本尊を信受し、余事を交えず南無妙法蓮華経と唱え奉れば、その意義を識らなくても、自然に自受用身即一念三千の本尊を知るに当たります。すでに本尊を知るに相当するのですから、また、我が色心の全体、事の一念三千の本尊のごとき本来その姿なり、と知るに当たることとなるのです。
妙法蓮華経の当体とは、御本尊様を信ずる、我ら父母より頂いたこの体と心の全体なりと、信解させて頂けるようになるのです。
これが御本尊を顕わされた目的です。
なぜ御本尊に違いが
それではなぜ、御本尊様に違いがあるのでしょう。それは、この御本尊が、法華経寿量文底の久遠元初の自受用身・寿量品の仏であることを人々に知らしめんがためです。大聖人は『開目抄』(五五四頁)に、
「諸宗は皆本尊にまどえり」
「寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり」
「寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり」
と、諸宗こぞって、というより、人々がこぞって最も大事な寿量品の仏を知らず、迷っていることをお示しになられています。
ゆえに、これを表わすことは容易ではありません。これを教え、勧めなければ、末法の我らは仏種を目ざめさせ、用かせることはできません。
迹を借りて本を顕わす
そこで大聖人は、見宝塔品第十一から提婆達多品第十二、勧持品第十三、安楽行品第十四、従地涌出品第十五、そして如来寿量品第十六と、虚空会の儀式を借りて寿量品へ、そして文底へとたどる方式を用いられたのです。
これとて、思いつきで為さったのではありません。日寛上人は『寿量演説抄』(日蓮正宗歴代法主全書第四巻一五七頁)の中で、
「玄義の七に云わく、人の依処に則ち行跡有り。迹を尋ねて処を得るが如し已上。寿量所説の本地第一番は本人の如く、第二番已後今日まで迹中の示現は足跡の如くなり。故に迹と云うなり。
迹とは〝あしあと〟と読むなり。若し本地第一番のことを尋ね知らんと欲せば、迹中示現利益の相を漸々と尋ね行けば、則ち本地の事を知るなり。譬えば雪降りにその人を尋ねんと欲せば、その跡を尋ね行けば、必ずその人に尋ね逢うが如くぞ、と云ふ意なり」
と、仰っていますが、雪降りの時などに人を見失ってしまったら、どうやって見つけることが出来るでしょうか。それはその人が雪の上に残した足跡をたどれば、やがて本人にたどりつくことが出来ます。
宝塔涌現を表す本尊の姿
大聖人の御本尊御図顕の次第も、そのような意図のもとに書きあらわされました。
現存する最初の御本尊は「文永八年十月九日付」の、相模依智の本間邸で図顕されたものですが、これには南無妙法蓮華経とお名前と、梵字の愛染明王・不動明王のみです。図①
これは平成二十七年一月号の色心の上でも述べましたが、『見宝塔品第十一』での、多宝塔が大地より涌現したことを表わされたものと拝します。
同じく宝塔品の二仏並座を表わす相
②番は「文永九年二月十六日付、佐土の国に於いて図す」と示されていますが、先ほどの御本尊と比べても判るように、左に南無釈迦牟尼仏、右に南無多宝如来とあることから、宝塔出現の段階から、この宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並んでお座りになった、いわゆる「二仏並座」の儀式を示されたものでしょう。
確かにこうして、経文通りもの事が順番に進んでいけば、要は簡単なのですが、必ずしもそうはいきません。法華経の説法が進むに従って、登場する人物を、行きつ戻りつ交錯して本尊上に表わされるものですから、確かに大聖人が試行錯誤を繰り返されたかのように受け取る人がいるかもしれません。
釈子日目授与の提婆と竜王の女
しかし、③の釈子日目にお与えになられた御本尊のように、今まで無かった提婆達多・龍王女の名が忽然と現われることは、提婆達多品を明らかにお示しであるし、そして地涌の菩薩の上首唱導の師たる上行等の四菩薩の名の出現は従地涌出品、寿量品に至っては文上の意義と文底の差異を明らかにお示しになる御工夫仕組みを、誰もが見て取ることが出来ます。
寿量品の文上を表わすとは?
それは④の御本尊のように、南無妙法蓮華経の右側の南無多宝如来の右脇に「南無善徳如来」、左側の南無釈迦牟尼仏の左脇に「南無十方分身諸仏」とあるのが、寿量品の文上を示されているのです。このことを日寛上人は『当流行事抄』に、
「文上の意は久遠本果を以て本地と為す、故に余仏有り。何となれば本果は実に是れ垂迹なり。故に本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枚一葉なり。故に本果の釈尊の外更に余仏あるなり。
若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す、故に唯一仏のみにして余仏無し。何となれば本地自受用身は天の一月の如く樹の一根の如し」(六巻抄一八三頁)
と。要するに天台が玄義で言う「善徳如来と十方分身諸仏」の名がある時は、寿量品は寿量品でも、文上の色相荘厳の脱益の仏。この二つの名前が消えた時が文上より文底へと移ったことを示して、本尊が究竟したことになります。この時の御本尊が、久遠元初の自受用身、名字凡身の当体、本因下種の御本尊のお姿なのです。
一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし
しかも法華経の文意は、常に一に帰することを元意としますから、(多くあるそのものが垂迹。例えば天空の一月と、地上の水に宿る月の万影のようなもの)『開目抄』で呼び掛けられた、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護無き事を疑はざれ、現世の安穏ならざることを嘆かざれ」(御書五七四頁)
に呼応する不自惜身命の信心を貫いた熱原信徒の出現(この方達を大聖人は「法華講衆」と)、『観心本尊抄』(御書六六一頁)の、
「此の釈に『闘諍の時』と云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に未だ此の本尊有さず」
この御文に予め証言された時の到来と相まって、ついに、正法・像法の二時にはインドにも中国にも未だ曾て有らざるところの一閻浮提第一の本尊が、この日本国に御出現になるのです。
それがどれあろう、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様なのです。
この御本尊様を顕わさんがために、すべての御振舞があるのです。ゆえにこれを「出世の本懐」と申しあげるのです。
総体と別体の御本尊とは?
これについて、本門戒壇の大御本尊と他の御本尊との関係を示す法門を、「総体と別体」の名目を用いて判りやすく日寛上人が御教示です。
「若しその名を借りて以てその義を明かさば、本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり」(観心本尊抄文段・文段集二四三頁)
戒壇の御本尊は全世界の民衆を救うために顕わされた御本尊なるゆえに「総体の本尊」と言い、他の御本尊はおのおのそれぞれに与えられた御本尊なるゆえに「別体の本尊」と言う、と。
また、百千の枝葉が同じく一つの根に趣くように、すべての御本尊が戒壇の御本尊に納まるのです。ですから、日興上人は例えば西山本門寺に格護せる建治二年二月五日付の大聖人の御本尊さまに、祖父河合入道にこれを譲り与えられる時加筆されて、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(富士宗学要集第四巻二二〇頁)の文言を残されましたが、この文字を見て、「本門寺とは戒壇堂の意味だから、あるところにこれを安置すれば、そこが戒壇になる」というのは誤りです。
これは将来大石寺が正式に「多宝富士大日蓮華山本門寺上行院」と名乗る時、そこに改めて戒壇の大御本尊を中央に御安置し、あとすべての御本尊をこの根源の所に納めなさい、という意味と拝すべきなのです。
このように、大聖人様の信心は決して戒壇の御本尊様と、血脈相承をお受けあそばす御法主上人猊下様を除いては成り立ちません。
私たちは大聖人様がお示しになった信仰の筋道をたがわず、功徳の実証を示して、大きく広宣流布の道を切り開いていきましょう。
本年もどうぞよろしくお願いします。

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