「色心二法ともにあそばされたるこそ貴く候へ」

このたび、当面青年部の五名ほどで、この『色心』という法華講機関紙を発行することになりました。
 その目的は、住職の指導を支部講員お一人おひとりへ伝えるためです。
 二に、青年部が集まって一つの事をなしとげることで、人材の育成と異体同心のきずなをさらに深めていくためです。
 三つ目は、講中の活動状況をお載せして、講の動きを皆に知ってもらい、ともにあゆみを進めるためです。
 四番目は、体験談の掲載を通じて、信心のよろこびをその人お一人だけにとどめるのではなく、逆境から立ちなおったこの人をみんなでたたえ、心から拍手をおおくりするためです。
 そして、大聖人の仏法を高らかにうたいあげ、折伏・広宣流布への一翼をになっていくためです。
 それにしても、この機関紙をつくるにあたり、まず機関紙の名前をみんなで考えてくるよう指示を出しましたが、幾日もおかないで、このような『色心』という強烈な印象を与える名前を考え、その文字にすばらしいデザインまでほどこされているのを拝見すると、芦原御尊師がいかにすぐれた人材群を広布の陣列におとどめ置きになられたかが、この一事をもってしても推し量ることができるのであります。
 伝え聞くところによりますと、青年部の皆さんには、これから二陣三陣とスタッフに加わってくださるよし、まことにたのもしいかぎりです。
 「色心」という文字を拝見して誰もがすぐ頭に思い浮かぶのは、あの『土籠(つちろう)御書』の一節ではないでしょうか。
 いわゆる、
 「法華経の余人の読み候は、口ばかり言葉ばかりは読めども心は読まず。心は読めども身に読まず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(御書四八三頁)
の御文です。
 ちなみにこの意味は、法華経をほかの人が読むのは口ばかりで、言葉として声に出しては読むけれども、本当に心で読まれる人はいない。
 かりに、心で読んでいる人がいたとしてもただそれだけで、身にあてて読む人、つまり仏様のお経文どおり、実際に人々を不幸におとしめる邪宗謗法を破折して、そのためにさまざまな迫害を受けてもなおかつ妙法を広めゆく人は皆無に等しい、ということになります。
 たしかに、世間で法華経を信じている人は少ないわけだから、ともかく法華経を読んでいる人は貴いにちがいありません。
 そのなかにも、口先ばかりでなく心で読んでいれば、これはさらに貴いということになります。
 しかし、それにもまして、このままいてもたってもおられずに、仏の御遺言通り、勇気をもって過去の遺物であり、正法のさまたげともなり、あらゆる不幸の原因でもある邪宗教をうちくだき、しかも、そのためにさまざまな迫害を受けるであろうと仏があらかじめ宣告されていた法難を身にうけて、それでもなお喜々として法華経の信仰に行き抜く人は、これほど尊厳なる人は無いということになります。
 ゆえに、「色心二法ともにあそばされたるこそ貴く候へ」・・・色法の身体でも、心法という心においても法華経を読み実践している方をこそ、まことに貴い人と申し上げなければならないのです。
 また「色心」の二字について『御義口伝』(御書一七三四頁)には、
 「色心二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり」
と説かれていて、私たちが両親からいただいた、この体という色法と、心という心法のいわゆる色心の二法が、そのまま妙法の二字、妙法蓮華経の当体であることを唱題の中に信解させていただくことこそが、よろこびが中の喜びであり、そのよろこびが胸中にあふれ心が小躍りするような、あるいはまた生命が生き生きと躍動する、いわゆる歓喜踊躍というのだ、と説かれているのです。
 また『御義口伝』(御書一八〇一頁)には、
 「貧なる人(日本国の一切衆生なり)、この珠を見て、その心大いに歓喜(色法心法)す。 この文は始めてわが心本来の仏なりと知るをすなわち大歓喜と名づく。いわゆる南無妙法蓮華経は大歓喜の中の大歓喜なり」
とおおせになっています。
 貧なる人とはまずしき人という意味です。
 ところが、この人は本当は何物にも替えがたいすごい宝を持っているのです。持ってはいるんですが、あるということを知らないもんですから結局持ってないのと同じことになるんですね。
 また、鑑定士などが見ればものすごい値打ちのあるものを持っていらっしゃるんですが、価値を判断する能力や、それを教えてくれる人が近くにいないもんですから、まさに猫に小判で、ぜんぜん振り向こうともしない。
 結果、宝の持ち腐れで、困ったこまったと戸惑うばかりで、どんなものにも対応して使えるのに、使わずじまいで、あたら人生をむなしくすごしてしまうんですね。
 このような人が、意のままに自由にお金や物、それに智慧を取り出せる宝珠を自分の生命の中に見いだしたら、どのような反応を示すでしょう。
 エーッという驚きの声と同時に、言うにいわれぬ歓喜に包まれるのではないでしょうか。
 この珠というのは南無妙法蓮華経の御本尊様のことです。
ですから『御講聞書』(御書一八四四頁)にも、
 「この珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。この題目を唱え奉る者は心大いに歓喜せり。されば宝塔を見るという見と、この珠とは同じ事なり。詮ずるところは、この珠とは我ら衆生の一心なり。一念三千なり。この経に値ひ奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云ふなり。この珠は広く一切衆生の心法なり。この珠は体の中にある財用なり。一心に三千具足の財を具足せり」
と説かれているのです。
 この中に特に大事なことは、わが前に拝し奉る御本尊様は、大聖人が実修実証といって、みずから久遠の御本仏の修行をされて証得された全体をお表しくだされたこの上無き尊きものでありますが、それがとりもなおさず、私たちの心法を表されたものなのだ、ということであります。
 私たちが御本尊を拝見する「見る」の字は色法、「その心大いに」と言うのは心法を表し、色心二法ともに歓喜するゆえに大歓喜というと御指南されているのです。
 本当にすばらしい名前を選択されました。後は内容を充実させるべく、共に切磋琢磨してまいりましょう。

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