『祈祷抄』

『祈祷抄』(六三〇頁)

 「大地はささばはづるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来たりてまぼり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも、智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護すべし」
 日蓮大聖人様が、御本尊を信じて題目を唱える人の祈りは、必ず叶うことを述べられた御文です。
 それはもう、中途半端な表現ではありません。
 たとえば、「大地はささばはづるとも」とは、私たちが弓を射たり、石をなげたりして的に当てようとしても、なかなか当たるものではありません。しかしその的が、私たちがいま足を踏みしめている大地だとしたらどうでしょう。しかも、当てるものは私たちの指です。この指で指して、まさかこの大地という的を外すものはないでしょう。その決してありえない「大地を指さして、その的を外すものがいたとしても」とは、万が一、このようなことが起ころうとも、ということを言われているのです。
 その次の「虚空をつなぐ者はありとも」とは、大空は常に流れているものです。ですから、「行雲流水」などといって、空を行く雲と流れる水は、一箇所にとどまることのないものの例えに使われるのです。でも、「虚空をつなぐ者はありとも」とは、その常に移ろいゆく雲を、誰かつなぎとめるものがあったとしても、ということですから、まれにもあることではありません。そのあり得ないことがあったとしても、ということです。
 さらに「潮のみちひぬ事はありとも」とは、海の潮の満ち引きは、太古の昔よりくりかえされてきたことです。しかし、それがいつの日かピタッと止まったとしても、ということは、それは私たちが一度も出会ったことがないことですけれど、あり得ない、このような事態になっても、ということです。
 その次の「日は西より出づるとも」とは、太陽が西より出るなどとは、絶対無いことであることは、誰でも知っています。そのあり得ない、太陽が西より昇り出たとしても、そのことは起こりえない。
 何がでしょう?そう、法華経を信じている人の、祈りが叶わないことがない、ということがです。それを強くつよく訴えるために、くりかえし、譬えがあげられているのです。
 「法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来たりてまぼり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失あり」とは、法華経を説き終わられた釈尊が、八十という御年の二月十五日にいよいよ御入滅になるということを伝え聞いて、あらゆる者たちが悲しみのどん底に陥るのです。
 いわく、「すべての人々の宝の橋脚が折れようとしている」、「一切生きとし生けるものの眼が抜け落ちようとしている」、「一切衆生の父母であり、主君であり、師匠である方が今亡くなられようとしている」という声がどこからともなく響き渡れば、それを聞いた人々は、身の毛がよだつのみならず、皆涙を流しました。
 涙を流すのみならず、頭をたたき、胸を押さえ、声も惜しまず大声を上げて叫んだので、血の涙・血の汗が、倶尸那城という、当時のインド十六大国の一つ・末羅国の首都に大雨よりも激しく降り、大河よりも多く流れたほどだったといいます。
 これもひとえに、お釈迦様が法華経をお説き下されたお陰で皆仏になることができたのに、この御恩を思えば、身命をも法華経のために捨てて、仏に見ていただこうと考えていたけれど、それももはや叶えられないとなれば、なんと情けないことであろうかと思ったがゆえです。
 このような悲しみに覆われた場所でも、「大恩ある法華経の敵が現れたなら必ずその者の舌を切ってやる」、などという言葉が、その座に連なっている人々の口から、次々と発せられました。
 迦葉童子は、「もし法華経を敵とする国があれば、自分は霜や雹となって苦しめてやろう」、と誓いを立てられました。
 すると思いもかけず、仏様が重篤の病の床より上半身を起こされ、大変よろこばれて、『善哉善哉』――善きかな善きかな、と、その誓いを為す人々をお誉めになったのです。
 諸の菩薩は仏のお心をご推察して、私たちが「大事な法華経のかたきを懲らしめよう」と申せば、しばらくであっても、仏様がこの世に生きるのをお延ばし下さるに違いない、と思って、一つ一つの誓いをされたのです。
まさにその通りでした。
 それゆえ、諸の菩薩や諸天人等は、いざ法華経をかたきとする人の出来してみよ。仏前での誓いを見事はたして、釈迦如来ならびに多宝仏、諸仏如来にも、本当に仏前にて誓ったように、法華経のためには名前も身命も惜しまなかったと思っていただけるようにと、覚悟していらっしゃるに違いありません。
 そうして、「いかに申す事はをそきやらん」と、大切なことを言い含めるために、色々な証拠を出して絶対的な確信を持たせようとしておられるのですが、言葉とはなんとじれったく、まどろっこしいものであろうか、と。
要は、絶対に法華経の行者の、祈りの叶わないことはないんだよ、ということを証明するために、膨大な根拠をお示しになっているのです。
 なぜ、彼ら菩薩や二乗、あるいは人天等がこのように法華経に思いのたけを寄せるのか。
 その背景には「五乗開会」ということがあるのです。
五乗とは、人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のことですが、法華経以前の教えでは、人乗には三帰五戒の法を説いて人間と生まれさせ、天乗には上品の十善、四禅八定の法を説いて天上界に達せしめ、声聞乗には四諦の法を説いて阿羅漢果を得させ、縁覚乗には十二因縁の法を説いて辟支仏果を成じさせ、菩薩乗には六度の行法を説いて仏果に至らせようとするなど、五乗それぞれの機根にしたがって教法が説かれていたのです。
 ところが法華経方便品に来て、これら五乗はすべて法華経にいたって一仏乗を顕すための方便として説かれたものであり、その方便を開き顕し、五乗そのまま唯一仏乗であるとされたのです。
 仏乗とは、仏の境地に運ぶ乗り物の意から、成仏の教法・成仏を教えた法のことです。
 ゆえに、自分たちがこれまで賜った教えとその修行は妙法蓮華経を信受するためのものであり、その五乗への執着を捨てて、一極の玄宗ともいうべき妙法蓮華経に帰入して、成仏することができたのです。
 それらについて『祈祷抄』のこの前の部分には、思いもかけず成仏できた人々の喜びがつづられています。
いわく、
 「二乗は大地微塵劫を経て先四味の経を行ずとも成仏すべからず。法華経は須臾の間これを聞いて仏になれり。もし爾らば舎利弗・迦葉等の千二百・万二千、総じて一切の二乗界の仏は、必ず法華経の行者の祈りをかなふべし。又行者の苦にもかわるべし」
 (声聞や縁覚の二乗の人々は、大地の砂粒の数ような長い長い年月をすぎて法華経以前の教えを修行しても成仏することができなかった。ところが法華経に来てからは、須臾というほんのわずかの間に仏になることができた。その当たりの彼らの心情を察すれば、舎利弗や迦葉などの千二百、あるいは一万二千、おしなべていえばすべての二乗界より仏になることが出来た方々は、かならず法華経を行ずる人の祈りを叶えて下さるに違いありません。また、行者が苦しんでおれば、その苦に取って代わってくださるでしょう)
 「されば二乗の御為には此の経を行ずる者をば、父母よりも愛子よりも両眼よりも身命よりも大事にこそおぼしめすらめ」(六二二頁)
 (そうであるならば、声聞・縁覚の方々のためには、南無妙法蓮華経を信じ行ずる人をば、自分の両親より、愛し子より、我が両眼よりも、身命よりも大事にしたいとお考え下さっているにちがいありません)
あるいは、
 「この経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が眼の如くまぼり給ふべし。人の身に影のそへるがごとくそはせ給ふらん。いかでか祈りとならせ給はざるべき」
(この法華経・私たちにとっては妙法の御本尊さまは、即本因妙の教主釈尊・御本仏の魂であります。この一つひとつの文字が仏様の魂であるから、この法華経を信じ行ずる人をば、仏様は我が眼のようにお守りになるに相違ありません。あたかも、人の身にかならず影が添うように、仏様がつねに私たちに添われていることでしょう。それで、どうして私たちの祈りにしるしが顕れないことがありましょうや)と説かれ、
 「されば法華経の行者の祈る祈りは、響きの声に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし」
(さすれば、法華経を信じている人の祈る祈りは、響きが発した声に応ずるように、影が必ず体に添うように、澄んだ水にかならず月の姿が写し出されるように、方諸つまりハマグリで出来た大盤は月光を浴びると水がしみ出すように、磁石が鉄をくっつけるように、琥珀が静電気で塵をとるように、磨かれた鏡が物の姿を明らかに浮かべるように、かならず叶うのです)と、このようにおっしゃっているのです。
 次の八部とは、八部衆といって、「天」という天界に住む諸天善神、「竜」という海や池にすむという、私たちは見たことがないけれど、誰もが知っている畜類、「夜叉」という鬼神の一つ、「乾闥婆」という天の音楽の神、「阿修羅」という須彌山のふもとの海底に住む鬼神、「迦楼羅」という竜の子供を主食とする鳥で、翼や頭が金色をしているといいます。
 七番目が「緊那羅」という楽器を奏する天の音楽の神、最後が「摩睺羅伽」という、人間の体にヘビの頭をした神の、以上八種類の諸天の衆のことです。
 これらは、仏法守護の諸天として、かならず法華経の行者を護るのです。
 また、「二聖・二天・十羅刹等」とは、『日女御前御返事』(一二三一頁)にあるように、
 「陀羅尼品と申すは、二聖・二天・十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説けり。二聖と申すは薬王と勇施となり。二天と申すは毘沙門と持国天となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり」
と説かれているように、五番善神のことです。ちなみに薬王菩薩は良薬を人々に施して、身心の病苦を治す、とされていて、『薬王菩薩本事品第二十三』では、みずからの臂を焼いて仏に供養した本事――過去世からの由来が説かれています。
 勇施菩薩は、一切衆生に仏法という宝を布施するのに力を惜しまないので「勇施」の名があるといいます。
 毘沙門天は、四大天王および世界を護る十二天の一人で、別名を多聞天ともいいます。須彌山の中腹の北面に住し、常に仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをもつといわれています。
 持国天は、四大天王の一人で治国天とも書き、須彌山の東腹、第四層の賢上城に住し、帝釈天の外臣として東方世界の守護を司り、他の三州も兼ねて守護するので持国と称する、と言われています。
 十羅刹女は十人の羅刹で、
 一に「藍婆」とは結縛といって、衆生を束縛し殺害するのでこの名があるが、仏法に帰依して諸天善神となってからは、煩悩をよく縛り、煩悩が法華経の行者を翻弄するのを許さない用きをするようになる。
 二に「毘藍婆」とは離結といって、人々の結びつきを離れさすのでこの名があったが、煩悩の使者を遠くに引き離す、遠離させる用きをするようになる。
 三に「曲歯」とは施積ともいい、歯牙が上下に生じているのでこの名があるが、仏に帰依した後は、財を積み、よく人に施す様になります。
 四に「華歯」とは、歯牙が上下にきれいに並んでいるのでこの名があります。
 五に「黒歯」は、歯牙が黒色をしています。
 六に「多髪」とは、髪が多いのが特色です。
 七に「無厭足」とは、衆生を害して厭きたらなかったからこの名がありましたが、仏法に帰依してからは、衆生を慈念して厭きたらなくなりました。
 八に「持瓔珞」とは、手に瓔珞――元はインドの貴族の男女が、珠玉や貴金属を編んで頭・頸・胸にかけた装身具だったが、これを仏法に帰依した時に仏にたてまつり、それが寺院の天蓋などにつける垂れ飾りとなったもの――を持っている羅刹です。
 九に「皐諦」とは何処ともいい、天界と人界との往来が自由なのでこの名があるが、帰仏の後は、何処であろうとも法華経の行者を守護するようになりました。ゆえに大聖人様は、「鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつつがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護深かるべきなり」(経王殿御返事・六八五頁)とおっしゃっているのです。
 十に「奪一切衆生精気」とは、一切衆生の精気を奪う羅刹であったが、帰仏の後は、一切衆生の煩悩の精気を奪って法華経の行者を煩悩から護り、仏の教法を広める役目を果たすようになりました。
 このような薬王・勇施、持国天・毘沙門天、そして十羅刹女等の五番善神が、次々と神呪を唱えて、仏の滅後濁悪の世の法華経を持つ人を守護していくことを仏前で誓うのです。
 これを「五番神呪」というのです。
 そういう仏様の前で誓いをなしたものが、千に一つも末法今の時代の法華経を信仰する人を護らないようなことがあれば、それは、上は釈迦諸仏を侮り――軽く見て馬鹿にすることであり、下は九界の修行中の人々をたぼらかす――うそをつく、だます罪があるということになります。
 ですから、法華経を信じている人が必ずしも誠実でなくても、智慧はさほど大したことはなくても、身は不浄で五戒を持つことによって得られる功徳や福徳も持ち合わせていないような人であっても、ただ南無妙法蓮華経と唱え、わずか一人の人にでも向かって御本尊の尊さを語っていく人は、かならず護られ、祈りも叶えられていくのです。
 なぜなら、財布が汚いからといって、まさか中のお金まで一緒に捨てる人はいないでしょう。栴檀という香木は伊蘭という死臭のにおいを放つ植物の中に生長するといいます。伊蘭のにおいがいやだと近づかなければ、決して栴檀の香木を手に入れることはできません。谷の池の泥によごれるのを嫌っていては蓮を取ることはできないでしょう?
 信心している人が見た目に大したことがないと思って嫌えば、かつての誓いを破ることになります。「とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなはざるべき」早くはやく功徳を授けたまえと、強盛に、強い気持ちでもって題目を唱えいけば、どうして祈りの叶わないことがありましょうか。必ず叶うのであります。
 この、大聖人様の懇切なる御指南を拝し、いよいよ御本尊様にしっかりと題目を唱え、仏様の御遺命である広宣流布のため、いささかでも貢献してまいりましょう。 

以上

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