『当体義抄』 (御書六九五頁)
「至理は名無し。聖人理を感じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふ」
私たちにとっては当たり前の、四月二十八日は大聖人の宗旨建立であるということについて、これはおかしいと疑問を呈する者がいます。
これは、正信会の「広田頼道」という人で、彼が発行している『芝川』(十八号)という本に書いているのです。
ではなぜそうなのかという根拠を彼は、「宗旨の三箇とは本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の、いわゆる三大秘法のことだが、それでは、宗門が宗旨建立の日といっている四月二十八日に、その宗旨を見いだすことができるかというと、
一、四月二十八日は佐前であり、まだ釈尊の使いである上行菩薩の生まれ変わりという立場での御法門だから、当然宗旨の三箇は現れてない。
二、前にも関連するが、四月二十八日は発迹顕本もされていないいわゆる佐前だから、釈尊の寿量品の領域である文上の法門はあっても、久遠元初の御本仏の立場を明らかにして初めて示すことのできる文底の法門、つまり、宗旨の三箇はまだ顕わされるはずがない。
三、四月二十八日はまだ法華経身読がない。それなのに宗旨の三箇を建立できるはずがない。
四、四月二十八日をよくよく調べてみるに、宗旨の三箇の片鱗も見ることができない。
つまり、題目も佐前の題目で如是我聞の上の釈尊の題目。そのうえ、戒壇ももちろんなら、三大秘法の中心の本尊もまだないのだから、宗旨の三箇は何一つとして存在していない。
また、受持の師弟一如するところが一念三千であり、その宗旨の三箇を受持する信者もまだ当然ながら一人として現れていないのに、宗旨の三箇を建立できるはずがない。
五、四月二十八日には真言・天台の批判が控えられている。
以上、五つの理由から四月二十八日を、到底「宗旨建立日」とは言えない、と述べています。
それでは、四月二十八日とはどういう日であったかというと、彼は、建長五年四月二十八日は『宗旨』ではなく法華経の行者の誕生、出発という重要な日。
一切衆生成仏の『法華最第一』にたどりつき、『法華最第一』の内容を実行し詮じ詰めて行く『宗教』の山裾野を登りだした立教開宗の日、だと述べています。
それでは『宗旨』はどこにあるのか、『宗旨建立』された日はいつなのか自ら問いかけて、私は『宗旨』とは昔から通説とされている、戒壇本尊が建立されたという弘安二年十月十二日という風に表現され、限定され固定化されたものではない、と答える。
弘安二年に起きた、熱原法難を機縁として示された本尊自体を宗旨というのではなく、顕わされる基になった法を『宗旨』という。
形や年月日に限定されたものでなく、時、空を越えて一切衆生に共通・共有される、元々からあった『法』なのである。
これを『久遠元初の法』という。
釈尊在世、正法時代、像法時代は、釈尊が根本と考えられ、仏法は釈尊の創造物、所有物、占有物の様に信じられ、戦争時代の天皇現人神、朕が国家なりの様に、釈尊自体が仏法の様に拝されて来たけれども、真実の仏法はそうではなく、仏の法ではなく、仏が悟った法であり、一切衆生全ての法、一切衆生すべてが当事者の法であり、釈尊個人のものでなく、一切衆生自体のものであることを示したのが、久遠元初の法なのである。『宗旨』=『久遠元初の法』でなければ一切衆生成仏は成立しない。『宗教』と『宗旨』、このたてわけを整理し明確にしなければ、何を信じ、何を行体とし、何の為に信心しているのか、その要である成仏を失ってしまう。
「建長五年四月二十八日を分別なく『宗旨建立』と言う者、何故そこに『宗旨』があるといえるのか、今度は私からの質問に答えて頂きたい」
と、最後は怖い言葉でしめくくっているのです。
広田頼道の主張を改めて振り返ってみると、要は、「宗旨」とは三大秘法のことだから、その三大秘法の中心根本の御本尊もまだ顕されてもいない建長五年四月二十八日を、どうして宗旨建立と言えるのか。
題目も唱えられてはいるものの、これも佐前の題目であるから、まだ釈尊の法華経の領域を出るものではない。
それでは改めて宗旨建立とはいつかと言えば、熱原の法難を契機として顕された戒壇の御本尊の、いわゆる、楠の板に彫刻されて顕された物体それ自身ではなく、その本尊を顕される基になった法、すなわち久遠元初の法を宗旨と云うべきである、と言っているのです。
この文章を見て、あれ?これはどこかで見たことがあるぞとふと考えてみたところ、何と、あの池田氏の主張と全く同じではありませんか。
お二人が実は以前より気脈を通じておられて、それでこの際よくご相談をされた上で、楠に彫刻された板御本尊をただの物だと一緒に否定して、久遠元初の法を根本としようと、合意にいたったわけではないでしょうが、破門、そして宗外に追放された者が全く同一の考えに至るとは、まことに厳しい仏法の因果を見せつけられる思いが致します。
しかも、「形や年月日に指定されたものでなく、時空を超えて一切衆生に共通共有される、元々からあった法なのであります。これを久遠元初の法という」と、広田氏も池田大作氏も全く同じ表現を用いています。広田氏は蛇蝎のように嫌っておいでだった池田氏の弟子に、いつおなりになったのでしょう。
仏法といえども、釈尊の占有物ではないとか、創造物ではないなどと、他宗の学者に聞かせたら、きっとプッと噴き出したり、腹を抱えて大笑いするに違いありません。
誰もそんなこと言ってないでしょう?
仏は最初から、衆生は一人一人の命の中にある仏界という無上の宝を持っていることに気がつかないでいる。それゆえ、不幸にあえぎ苦しみ、しかもそこから抜け出せない悲しみの連鎖の中にいる。
だから、それを気づかせて救うべく、いろいろな教えを説かれたのではありませんか。
それを駄々っ児のように、これは俺が発見したものだ。俺が悟り出したものだから、仏法は全部私に所有権がある、などと言われるはずがないでしょう?
このようなことを敢えて主張される広田氏や池田氏は、どのような悪だくらみを抱いておられるのでしょう。
ただし、仏法は当然のことながら、釈尊を離れては一言も語ることはできません。
しかも、ご自身が、脱益(だっちゃく)という、久遠に下種を受けられて、それよりずっと修行を重ねてこられた方々の化導の終点、総仕上げをされるお役目の仏として、この人々を等覚妙覚の仏の位に至らしめられて、ようやくこの化導を終えられるに当たっては、居並ぶお弟子達を全部押し分けて、下方の大地より地涌六万の大菩薩を召し出し、ただ、その上首唱導の師たる上行菩薩に、仏法の一切、なかんずく三大秘法を四句の要法に結んで御付嘱になられたのです。
それを『総勘文抄』(御書・一四一九頁)には、
「正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、その中に四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし納(い)れて一仏乗と丸(がん)し、人一の法と名づく。一人の上の法なり。他人のいろえざる正しき文書を造る。たしかなる御判の印あり」
と、申されているのです。
つまり、まず釈尊より上行菩薩へ、仏法のすべては勿論の事、最も大事な三大秘法を厳格な法式をもってお譲りになり、他の誰もが追随を許さない、口を差しはさめない、手を出すこともできない、どうのこうのと評論することすら差し控えなければならない、ただ上行菩薩御一人に限って一切の権能が具わっていることを証明する、明々白々な譲り状が、教主釈尊によって、あの壮大な虚空会のみぎりに、大衆の見守る中で示されていったのです。
この上行菩薩の再誕・お生まれ変わりこそは、「日蓮大聖人様」です。
これは、末法の初め百七十一年目に、大乗種姓の国の日本国に御誕生になり、権実雑乱・正邪不明の世に題目を広められて、法華経の行者の受けるであろうと仏の予告されていた法難の数々を、全部自身が事実の上に体験され、しかも衆生をあわれむ慈悲の上からこれをお忍びあそばされたのですから、これには異論が出ようはずがありません。
ゆえに、「人一の法、一人の上の法なり」と厳然とお示しのように、日蓮大聖人を離れて三大秘法は無いし、御本尊はありえないのであります。
これを「人即法、法即人、人法一箇の御本尊」というのではないでしょうか。
このような明らかな道理を無視して、この池田・広田の両氏は「久遠元初の法はもっと普遍的なものであるから、ことさら日蓮大聖人でなくても本尊図顕は可能であった」、「たまたま日蓮だった」、などと言っているのです。
そして、さらには、、無知な日蓮正宗の僧俗がーーこれ、どうやら私たちの事らしいのですがーー久遠元初の法を普遍的な真理としてだけでなく、物として表現された板曼陀羅本尊に執するゆえに、これが、法主絶対論という邪義が生まれる温床ともなっている、と飛んでもない言い掛かりをつけているのです。
では、大聖人が板御本尊でなく、ただ久遠元初の法のみで御化導されていたら、今日のような混乱はなかったはずだとおっしゃりたいんでしょうか。
なるほど、大聖人は「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す…」あるいは、「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す」と、あまたのお弟子の中から日興上人お一人をお選びになられ、仏法のすべてと三大秘法、なかでもその随一たる本門戒壇の大御本尊をお譲りになっています。
これを「唯授一人(ゆいじゅいちにん)」といいます。
そして、その日興上人も、「日興が身に宛ててたまわるところの弘安二年の大御本尊は日目にこれを相伝す」と、日目上人に御付嘱になっていて、これが今日まで一糸乱れず、代々の御法主への、一人から一人へという方式が連綿と続いているわけですが、これすなわち仏法そのものがもともと『総勘文抄』にも御教示通り「人一の法」、「一人が上の法」なるが故なのです。
法界広しといえども、一仏の境界なのです。だから、今、御本尊をはじめ、仏法の一切は御法主上人の掌中にあるといっても、決して過言ではないのです。
ところが、これが彼らにとって目の上のたんこぶで、邪魔で邪魔でしょうがない。それで、何とか御法主から奪い取ろうとして、「一閻浮提総与の御本尊というお名前のとおり、我々全世界の民衆にお与えになったものだから、法主の占有物ではない。我々民衆の手に取り戻そうではないか」とか、「我々の目に見える形で顕わされた本尊より、久遠元初の法が大事である」と主張しているのです。
これは仏法を壊乱する謗法ですから、仏法を厳護するために集われた地涌の精鋭の法華講の皆様は、厳しく指弾しなければなりません。
次に「佐前」ということについてですが、これについても誤解をといておきたいと思います。
「佐前」という言葉は、大聖人様が佐渡に流刑になられる以前の……、という意味です。
この「佐前」は、『三沢抄』という御書の、
「又法門の事は、さどの国へながされ候ひし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(御書一二〇四頁)
の文に由来しています。
広田氏の犯した第一の過ちは、この御文でもって、佐渡以前の大聖人の御行動について、これは釈尊における法華経以前の方便の教えと同一のものであり、下種の御本仏である大聖人にとって、釈尊が法華経に予言された法難の一つ一つを、実際わが身の上でお受けになられた以外、さほど重要でないと、佐渡以前のお振る舞いが何であったのか、もう一歩深く考えることもなく、バッサリと切り捨ててしまっている、ということです。
皆さんは、勤行の二座の大聖人様の御観念文の時、「南無本因妙の教主……」とお読みしていますよね。
これは実は「語略(ごりゃく)」と申しまして、詳しくは、「南無本因妙の教主釈尊である日蓮大聖人」とお読みしてたてまつるのです。
ゆえに日寛上人は『当体義抄分段』に、
「もし本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法にあらず。かえってこれ過去なり。過去とは久遠元初なり。ゆえに行証あり。これ当流の秘事なり。口外すべからず。まさに知るべし。本因妙の教主釈尊とは、すなわちこれ末法下種の主師親、蓮祖大聖人の御事なり」(日寛上人御書分段六一二頁)
と、お示しになっているのです。
それでは、この本因妙の教主釈尊である日蓮大聖人が真身の成道を遂げられ、末法久遠の本仏として顕れ出られたのは、いつのことでしょうか。
これは何度もお聞きの通り、あの龍の口の御法難の時です。故に日寛上人は(取要抄分段・五四二頁)に、
「文永八年九月十二日子丑の刻、龍口御難の時、名凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり」
と、仰せられているのです。
さて、これからが問題ですが、ではこの成道のために、大聖人はどのような修行をされたのでしょうか?
日寛上人は『当体義抄分段』(分段・六三四頁)に、
「答う、これ種家の本因妙の修行によるなり」
と、「下種が家の本因妙の修行」によって成道を遂げられた、と言われているのです。
このようなことは私たちにとっては至極当然のことですけれど、彼らにとってはさぞかし惑耳驚心のことでしょう。
それでは、その種家の本因妙の修行とはどういうものであるかと言いますと、まず『撰時抄上愚記』には、
「本因妙の文に云はく『我本行菩薩道、所成寿命』云々。『我』とは釈迦如来なり。『本』とは五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫の御時なり。『行』とは本時の行妙なり。『菩薩』とは是れ因人、復位妙を顕すなり。慧命は即ち本時の智妙なり。智には必ず境あり。即ち境妙なり。六重本迹の第二の理本、之を思い合わすべし」(御書分段三四一頁)
法華経に本因妙のことが明かされているのは、法華経の中でも寿量品の「我本行菩薩道所成寿命」の、わずが十字しかありません。
本因妙は、境妙・智妙・行妙・位妙の四妙を合わせて一つの本因妙と申します。本因妙にはかならずこの四つのことが具わっているということです。
つまり「本」とは五百塵点劫の当初(そのかみ)ということで、久遠元初(くおんがんじょ)のことです。「我」とは釈迦如来のこととされていますが、インドのお釈迦様のことではなく、久遠元初の釈迦如来といえば、名字凡身の日蓮大聖人様のことなのです。
ゆえに、『報恩抄分段』(文段・四六七頁)には、
「釈尊五百塵点劫の当初、凡夫の御時、無教の時、即ち内薫自悟・一迷先達・以教余迷の教主釈尊は、すなわちこれ本門寿量の文底、久遠元初の自受用報身、名字凡夫の当体、本因妙の教主釈尊なり」
と仰せになっているのです。
先ほど文証も挙げましたように、名字凡夫の本因妙の教主釈尊とは日蓮大聖人であることは、厳として定まっているのです。
ところが、本因妙の四妙が説かれているというこの経文には、菩薩の時という位妙、菩薩道を行じたという行妙、寿命という智妙の三つしか見えないのです。
ところが、この天台大師の文を補釈した天台宗代六祖妙楽大師は『釈籖』という書の中で、「一句の下は本因の四義に結す」と、確かに天台大師はこの経文について四妙を明かして、これをたばねて本因妙とされている、と述べられているのです。
これは「能照(のうしょう)」といって、対象を照らす智慧があるというのであれば、当然そこには照らされる境があるのであり、これはいわずもがな、ということで、結論として四妙が含んで説き明かされていることになるのだ、ということになるのです。
また文字としては秘匿して明かされて無いというところに、末法御出現の御本仏によって初めて明らかにされる、という意義を含んでいるのです。
それでは、その境妙(きょうみょう)とは何ぞや、というに、日寛上人は「下種六重本迹の第二・理本」(撰時抄愚記・分段集三四一頁)のことを結びつけて考えなさい、と御指南されているのです。
実はこれが今、忘れさられているのです。
龍の口以前の大聖人の御修行が、まず種が家の本因妙であることが定まった以上、その時、大聖人様が境妙御本尊とされたものが何であったか、明らかにしないわけにはなりません。それをしないから、法門の混乱が生じてしまうのです。
その前提に、日寛上人が仰せになった六重本迹とは何かといいますと、これは『百六箇抄(ひゃくろっかしょう)』という御書に載っている相伝の法門です。
その第一は理事本迹(りじほんじゃく)、二は理教本迹、三は教行本迹、四は体用本迹、五は実権本迹、六は已今本迹の六つのことですが、この中に、理事・理教・教行の三つを本因妙、体用・実権は本果妙について述べられたもので、六番目の已今本迹はお経について述べられたものなのです。
その第一の理事本迹とは、日蓮大聖人がまだ凡夫であられた時、すでにその己心に理事の二法を具えておいでです。その己心に具えておいでの理を本とし、やはりその己心に具えておいでの事(じ)を迹としますから、これを理事本迹と云うのです。
このお心に具えておいでの本迹にお気づきになっていない間を「理即(りそく)」と申し上げます。
次いで第二の理教本迹とは、その大聖人のお心に具えたもう所の理事の二法をたばねて理本となづけ、その理を教えに説き顕すのを教迹といいます。
第三の教行本迹とは、先の理教本迹を束ねて教本とし、この教えによって修行をなされるのを行迹といいます。
以上が「本因妙」ということになります。
この中に、理とか事とかいう言葉が出てきますが、これについて妙楽大師は釈籖の中で「理事というは、ただこれ真俗」と釈しております。「真俗」とは真諦・俗諦の二つのことです。
つまり、日蓮大聖人の己心が妙法蓮華経であることが真諦の理本といいます。次に、地球上の、十界三千の諸法などという、私たちがこの目で見たり、この耳で聞いたり、あるいは手で触れたりしているこの世の中の事象(観察しうる形をとって現れる事柄)などのいわゆる万法も、広しといえども、ギュッと凝縮されて、収斂されて日蓮大聖人の己心を離れず存在することを俗諦(ぞくたい)の事迹(じしゃく)といいます。
このことにまだお気づきでない時を、「凡夫(ぼんぶ)にておわせし時」という、理即と申し上げるのです。
そのような、まだこの世の中に教えが存在しない時に、色々ご苦労された結果、まさにこの二つが、わが一念に存することを見出される一瞬というものがおとずれるのです。
それが、一番最初に拝読いたしました『当体義抄』の、「至理は名無し。聖人、理を感じて万物に名を付するの時、因果倶時・不思議の一法これ有り。これを名づけて妙法蓮華となす。この妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減なし」の御文なのです。
この中で「聖人」と、誰か大聖人以外の人であるかのような記述をされていますが、それこそ、大聖人の御謙譲のお言葉なのです。もし、「私が」とやったら、なんと生意気な坊さんなんだ。慢心もはなはだしいと反発が起こってくるのは目に見えてます。そこで「聖人」とお書きになられたのです。
このように、まだ、世の中が久遠元初の時のように教えも無く、人々が霧の中をさまようように迷いの中にある時、大聖人が宇宙法界の姿をご覧になって、三世十方をつらぬく大真理を見出されるのです。
それは因果が同時の不思議な一念の心法なんですね。
因果が同時といえば、花が開いた途端、その中にすでに果実が見える蓮華と全く同じです。
一法というのは大聖人の一瞬の心をさして、しか云うのですが、これが誠に不思議。不思議とは「言語道断(ごんごどうだん)・心行所滅(しんぎょうしょめつ)」と申しまして、言語の道絶えて言説すべからず。言葉をどんなにたくみに使っても言い切れない。あるいは心の働きの滅するところにして、思念することができない。自分の知識や経験、あるいは想像の及ばないようなものですから、私たち凡夫の浅ましい心では簡単に判断しかねるほど尊いもの、と云う意味で、一言では「妙の一字」に置き換えることが出来るのです。
それで「大聖人の一念の心」が因果倶時ということは蓮華に、不思議の一法とは妙法の二字に置き換えることができることから、「妙法蓮華」と名づけられたのです。
これが、真諦の理本です。
しかも、大聖人の一念の心法という妙法蓮華経に、「十界三千の諸法を具足して欠滅なし」十界三千の諸法とは、この地球上の私たちの見たり聞いたり触れたりできる目の前のすべての事柄です。これは、先ほどの理事本迹の中には俗諦の事迹です。
これが大聖人の心法妙法蓮華経に具わっているというのは、真諦俗諦・理事の本迹が二つながらにして一つに束ねられていることを表します。
それが第二の理教本迹の理本といわれるものです。そうです。先ほどの日寛上人のお言葉のなかの、「六重本迹の中の第二の理本、思いあわすべし」と指摘された、あの理本です。
ですから大聖人様は次の『当体義抄』の御文に、「聖人この法を師となして修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ」と、仰せられたのです。
大聖人の御修行とは何でしたっけ。そう、種家の本因妙ですね。その時の「境妙本尊」がここに示されているのです。
それはいつのことなのでしょう。先にも申しましたが、建長五年四月から文永八年九月の龍の口の御法難までの御修行のことです。
では、その大聖人の己心を因果倶時不思議の一法なりとされ、そこに宇宙の万法が具わっていると、ご自身の修行の時の御本尊を感得あそばされた瞬間は、本当にあったんでしょうか。それとも、『当体義抄』の中での、はるか大昔の、いわゆる久遠元初での出来事で、その時の単なる伝説なんでしょうか。
いえいえ、たたの伝説なんてとんでもない。ちゃんと、現実に体験されたのです。それこそ『御本尊七箇之相承』の中の「明星直見の本尊の事」なのです。
「一、明星直見の本尊の事如何。師の曰く、末代の凡夫幼稚の為に何物をもって本尊とす可きと、虚空蔵菩薩に御祈請ありし時、古僧示して言わく、汝等が身を以て本尊と為す可し、明星の池を見給へとのたまへば、すなわち彼の池を見るに不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なりと云々」(日蓮正宗聖典三七九頁)
この御文の意味は、日蓮大聖人様が十二才の時に清澄寺にお上りになり、十六才の時に本格的に出家されて蓮長と名乗られ、さらに十六年諸国をまわられるなどしてあらゆる学問を修められ、ついに習学を終えられて、建長五年の春、再び清澄寺にお戻りになられました。
そして、この寺の本尊である虚空蔵菩薩に、末代の我ら、何物をもって本尊とすべきであろうと御祈念あそばされるのです。
すると、古僧、永く修行の年輪を重ねた僧侶が大聖人の脳裏に現れて、日蓮大聖人を指して、「汝が身をもって本尊となすべし」とお告げになるのです。
そこで日蓮大聖人は、日蓮の本当の姿とは、どのようなものであろうと、明星の池に行って、我が姿を池の面に映してご覧になるに、なんとそこには、私たちが今、目の前に拝している御本尊様のお姿が浮かび上がっていた、映し出されていたというのです。
この御本尊の相貌は、大聖人の一念に十界三千の諸法が具わっているお姿を顕したものですから、これこそ、本因妙の修行の初めに当たって、大聖人が大事な境妙本尊を感得あそばされた瞬間ではありませんか。
日寛上人は、
「末法今時は全く是れ久遠元初なり。運、末法に居すといえども宗は久遠に立つ。久遠は今に在り、今は則ち久遠なり。」(当流行事抄・一九九頁)
と仰せられています。
これは、日蓮大聖人が御誕生になった末法は、少しも変わらず、仏法の原始の時の久遠元初であると言ってよい。運……、時の回り合わせからすれば末法という時に住んでおられるけれど、実の所は、宗は久遠に立てられたのである。ところが、その久遠というのが今にあるのであって、今はあの久遠元初そのものの再現なのです、という意味になります。
『当体義抄』のあの御文は、明星が池の御本尊感得と全く同じもの、否、大聖人のこの明星が池での本尊感得の事を述べられたものなのです。
なぜなら、久遠元初のものでなければ、明星が池にて大聖人が直見されたと言っても、本無今有(ほんむこんぬ)の失があるからなのです。
大聖人は何物も対象としないでお題目をお唱えになったように言われていましたけれど、己心の一念三千の妙法蓮華経にむかって唱えておいでだったのです。
これが、大聖人の種家の本因妙なのです。
ただし、この時感得あそばされた本尊には、南無の二字はまだ無かったであろうことが『当体義抄』の御文より推測されます。
南無の二字が加わるのは、「照境末窮(しょうきょうみぐ・境を照らすこと未だ窮まらずを因となす)」という建長五年からの種家の本因妙の修行を経て、「尽源為果(じんげんいか・源を尽くすを果と為す)」というこの修行をついに成就された、いわゆる種家の本果妙と位置づけられる龍の口の御法難にて、この己心の本尊と境智冥合あそばされた瞬間からなのです。
大聖人は『御講聞書』(一八四四頁)に、
「今、末法に入りて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る。日蓮世間に出世すと云へども、三十二歳までこの題目を唱へ出ださヾるは仏法不現前なり」
と、仰せられていますが、まさに前代未聞・未見の大白法出現の瞬間と云わなければならないのです。
そして、この最初、大聖人が明星が池にて境妙本尊を感得あそばされた瞬間に「宗旨建立」があったか無かったかということは、これらはすべてお聞きになってお分かりのように久遠元初という寿量文底の御法門でありますし、本尊(境妙)も、それを照らす智慧(智妙)も、題目を唱える(行妙)も、一切法は皆妙法と見いだされた境界を示すという名字即の位(位妙)も全部そなわっているのですから、宗旨が建立されているといってもおかしくないのです。
このように、まさに未聞未見未行の法なればこそ、三月二十八日より1ヶ月の間、説くべきか説かざるべきかとの、思案の日々をお過ごしになられたのではないでしょうか。
そうではなくて、ただ法華経が最第一であることを見出して、それを言い出すかどうかためらわれたというのであれば、それこそ、すでに天台大師が言い尽くされたことであって、いまさら、大聖人が深刻な顔をして言い出すべきかどうか自問自答をくり返されることなどありようはずがありません。天台大師に対しておこがましいことになるわけです。
そして、激しい葛藤の末、ついに万難を排してこれを説いていこうと決断され、四月二十八日をおむかえになるのです。これが、三月二十八日が己心に一念三千の妙法蓮華の本尊を感得された瞬間であったのに対して、いわゆる聖人、下にこうむらしむる言教として、もって余迷に教えを説かれた最初だったのです。
これが六重本迹の第二、理教本迹の教迹というのです。だから、三月と四月に宗旨建立があったと言われるのです。三月は理本、四月は教迹という法門の化儀なのです。
全部本因妙の御修行なのです。大聖人の折伏も当然そうなのです。
大聖人様は「日蓮は不軽の跡を承継す」とおおせになっていることはご承知の通りです。
不軽菩薩が貴賤上下の人をえらばず、常に礼拝してあなたも菩薩道を行ずれば、かならず仏になれる方だから、こうして軽んずる事なく礼拝をさせていただくのだと唱えたのは、大聖人の南無妙法蓮華経とお唱えになったのと、全く同じ意味だと申されているのです。
大聖人はご自身の一念の心たる妙法蓮華経に、地球上の一切の衆生を凝縮して、集め来たって、この二つ二つながらにして一つという境界を本尊としてこれに題目を唱えるという本因妙の修行を立てられました。
これを具体的に行えば、まさに不軽菩薩のように、貴賤上下、老若男女をえらばず折伏を行ずる姿になるのです。すると、怒って迫害する人もいるけれど、中には信順する人も現れてきます。この順逆二縁のすべての人々の仏性に向かって題目を唱え、この一音にて仏性を目覚めさせてゆくのが、大聖人の折伏行であり、同時に本因妙の御修行なのです。
大聖人は『御義口伝』(御書・一七八一頁)に、
「第二十 我本行菩薩道の文礼拝住処の事
御義口伝に云(のたま)はく、我とは本因妙の時を指すなり。本行菩薩道の文は不軽菩薩なり。これを礼拝の住処と指すなり」
と明らかに、本因妙の時の菩薩行とは不軽菩薩の折伏の振る舞いであることを御指南されているのです。
この時、邪宗の僧侶や在家の男女がよってたかって不軽菩薩を迫害しますが、これを現実的に示したのが法華経勧持品の二十行の偈であり、これがまさに大聖人御一身に自然と備わっていかれたのです。
これが法華経の身読・色読と云われているものです。
そして、『御義口伝』に、「不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性もまた不軽菩薩を礼拝するなり」とあるように、折伏する人される人、互いに礼拝するのですから、この礼拝行の最大の龍の口法難にて仏界即九界、九界即仏界、真の十界互具して百界千如、事の一念三千の修行が成就するのです。
なぜなら、大聖人がご覧になっている人々は、もちろん大聖人とは別の人々なんですが、大聖人の目を通して心がご覧になっている方々ですから、大聖人の御一念に住する人々であるとも言えるのです。
この人たちは十界三千の諸法ともいうのです。
この大聖人のお振る舞い本因妙の修行を、私たちにも実践出来るように仕立て直してくだされたのが三大秘法の勤行であり、折伏なのです。
これが大事なのです。
ですから、御本尊様に勤行唱題するとともに、一人でも他の人のために慈悲をもって折伏を行じていくことが、私たちの尊い本因妙の修行なのです。
以上