今月の拝読御書は『十法界明因果抄』
(二〇八ページ)です。一緒に声に出して読んでみましょう。
「第四に修羅道とは、止観の一に云はく
「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを 欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を 珍ぶこととびの高く飛びて視下すが如し。 而も、外には仁義礼智信を掲げて下品の善 心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」文。(題目三唱)
修羅とは、古代インドの言葉・梵語ではアスラというのを漢字に音訳した、阿修羅を略した名前です。
古代インドでは、修羅は常に戦闘を好み、帝釈天と戦い、あるいは日月とも争う鬼神とされています。
なぜ、阿修羅が帝釈天と争うようになったかは、諸説がありますが、次のような興味深い話が伝えられています。それは……、
阿修羅は、元は帝釈天などと同様、天界に住む神であったといいます。そして、彼には適齢期を迎えた近所でも評判の、お嬢さんがいたのです。
顔は誰でも好かれるようなさわやかな美人顔、かといってお高くとまっていないで、よく気が利いて、困っている人や病人・老人にやさしく、そして、同性の女性たちからも好かれ、彼女が町を歩けば、ぱーっとそこが急に明るくなった気さえします。
阿修羅は、そんな美しく成長した娘がかわいくてかわいくて、本当に目に入れても痛くないんじゃないかと思うほどです。
だいたい天界というところは、男性であれ女性であれ、美しい人が多いところだそうですから、その中でも群を抜いているのですから、そりゃ、自慢の種にもなったでしょう。
しかし、いかに手塩にかけて、みがきにみがいてはぐくんできた娘といえども、もうそろそろお嫁にださなければなりません。嫁ぐ朝、きれいな衣装にいろどられた娘が、一筋のなみだをそっとふきながら、私たちに対してこれまで育てていただいたお礼をいう光景を想像しただけで、ぐーっと胸が締めつけられる思いです。
あぁ、早くその日が来ないものかな。
このような自慢の娘でしたが、実はひそかにおもう花婿候補がいたのです。男気があって、筋肉で体がしまって、頭の回転がよくて、誰からも将来を嘱望されている、そう、それはあの帝釈天だったのです。
ところが、ところがです。その帝釈天はそのようなこととは露知らず、ある日、ふと、この阿修羅の娘を街角で見つけるのです。
おっ、いい女がいるじゃないか。あとは否応なく、その娘をかっさらって、自分の女房にしてしまうのです。
お父さんの阿修羅はひそかに、娘を帝釈天のような男性に嫁がせられたらいいな、そう思っていたのですよ。
彼が、そういう風に、自分の娘を気に入ってくれたのなら、まず、誰かを意向を伝える役目に立て、娘の親が了解をしたなら、まず親の所にあいさつに来て、結婚を前提におつきあいをさせていただく許可をもらうことが先決じゃないか。
そして、両家にふさわしい仲人をたて、結納をすませ、結婚式の日取りを決め、日一日と、その日がやってくるのを待つ……。
そんな花嫁の親の意向なんか全く無視して……、何事も手順というものがあるだろう、手順というものが。
おれの大事な娘を、まったく俺の立場や手続きを無視した上に、誘拐みたいにかっさらって自分の女にしやがって……、エエィ、もう許さん。
それからです。阿修羅が帝釈に戦いをいどみ続けたのは。帝釈は乱暴なのではないのです。そういう、こまかな社会性に気がいかないだけなのです。ただ、一人の女性が好きになったらまっしぐら。悪念がもともと無いものだから、なぜ父親が怒っているのかわからないのです。これは、双方原因があるといえます。
ほんのわずかなボタンのかけ違いが、後には、こーんなに大きないさかいになっている。
だから、最初は有無をいわさずというか、てごめの形というか、ともかく社会の常識をはずれた形で帝釈の嫁になりましたが、今では本当にしあわせに暮らしているのです。その上、二人の間に、かわいい赤ちゃんもできて、父親の阿修羅にしても、まだ娘が大人の女になる前にいろいろ空想していたような、仲の良い蜜のような甘い、また互いにいたわりあう夫婦生活をしているのに、過去の一度のあやまちが許せないのです。
それが果てしない戦闘へ阿修羅を駆り立てているのです。彼は、このような命から、最初、天界に住んでおりながら、仏によって天界を追放されるのです。いや、自分の業によって、おのずと転落せざるを得なかったと、云ったほうがいいのかもしれません。天界から頭を下にしてまっしぐら、人界も通りすぎて、下へ下へと落ちて、やっと畜生の前で止まりました。
私たちが新聞の三面記事を読んでおりますと、まさに修羅のちまたや、修羅場とみまがうような事件が載っています。そこには、本人たちも、なぜそこまでして相手を傷つけなければならないのかわからなくなってしまっている、そういう状況がそこにあります。
これを犯せば、自分の今後の人生が、取り返しもつかなくなることをわきまえることすら、もう、忘れてしまっているのです。この激情に身を任せば、きっと後戻りできないような命に支配されてしまうのかもしれません。これが修羅です。
日蓮大聖人様は、『観心の本尊抄』に、「諂曲なるは修羅」(六四七ページ)と明かされています。諂とはへつらうですから、へつらいねじ曲がった心を持つものを阿修羅とおおせなのです。だから、彼は自分より弱そうな相手や、自分の一存でどうにでもなりそうなものには自分の身体がすごく大きく、譬えば海の深ささえ、彼の足のすねほどにしかならないような気分になり、手ごわい相手、自分の運命を握っているような相手の前では、空気のぬけた風船のようにちぢこまって、蓮の葉の下に隠れてしまうような根性の持ち主であることを指摘されているのです。
あるいは修羅闘諍という言葉があるように、おごりたかぶり、猛り狂った、わずかなことで争いがちな生命状態であり、また増上慢の命に支配された人といえるでしょう。
今月の拝読御書の『十法界明因果抄』ですが、ここには天台大師の摩訶止観の文が引かれています。
「若しその心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐えざれば人を下し他を軽しめ、己を珍ぶこととびの高く飛びて見下ろすがごとし」とは、常に自分と他人との優劣を推し量ろうとしてやまない、命の状態を表しています。
これは慢心です。
先日亡くなったある落語家が、お弟子さんたちに常々こういうことを教えていたというのです。
「へたな野郎だな、と思ったら自分と同じぐらい、自分を鏡で見ていると思いなさい。自分と同じぐらいだな、と思ったら、向こうが一枚上手だと思いなさい。少し自分より上手だな、と思ったら、自分より数段上、ちょっとやそっとでは追いつかないくらい上だと思いなさい。それほど人間とはうぬぼれやさんだし、自分のきずを隠し、徳をあげたいと願っているものだから……」と。
この落語家は八慢に対するという仏法の智慧を自然と会得しておられます。これはすごいことです。
人間は慢心から、同じ程度の人を、自分をあげ人を下げるために、自分より格下だと無理やり見てしまう傾向があるのです。
同じ理由で自分より格上の人を、自分と同レベルと下し見て、溜飲を下げたがるのです。
自分より格段上の人は、いくらひきずりおろそうとしても、到底自分のレベルからは届かないから、否応なく、自分よりすぐれていると認めざるを得ない。
しかし、あんな奴の運は長続きなどしっこない、などと勝手に自分で自分を思い込ませ、本当は情けない自分の感情の均衡をたもち、心を癒そうとするのです。
このような人に、決して成長はありません。少し人気が出てきても、二重の人格のみぞは開くばかりで、逆にものすごいつらい人生を歩むことになるのです。
修羅はいつも人と自分をくらべ、常に自分が優れているような評価が下されることをのぞみ、また、そのような噂が流れることを欲し、それが不可能とみれば、みずから、相手の評価がおちるようなことを述べて同意を求めたり、あるいは人をそういう風にとらえさせようとする。
このように、自分を可愛がり、自分をすごいすごいと言い聞かせ、あるいはうぬぼれる様は、ちょうど、トビが高く天空を舞って、大地にうごめくものたちを見下ろすようなものである。
しかも、このような、人を見下ろして、ふん、こんなレベルか、大したこと無いと人の人格を否定することに長け、いやしむるを常としていながら、これを誰にも気づかせないようにするのは、これは一流なのです。
これが、「而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて、下品の善心を起こす」というものなのです。
心の中では人を否定し、人格をおとしめようとしているのに、外には五つの徳目を述べて、しかもいかにも自分が常に行じているように振る舞うというのです。
なんと救いがたく、かわいそうな人でしょう。
一、仁とは、人を愛する徳のことで、さらに色々な徳を具えた人間らしさのことです。情愛の深さをいっているのです。
二、義とは、人間としての道のことです。人間として踏み外してはならないことをよく慎んで、人間としてふさわしい行動をとることです。
三、礼とは、社会秩序を維持するための生活規範のことで、礼儀とか礼節とかいったりするものです。
四、智とは、物事をよく知り、わきまえていることです。物知りとか、かしこいともいいます。
五、信とは、誠とか、信頼のことです。
これらを仏様は下品の善心と申され、情け深さや、礼儀礼節、あるいは人として歩む道などという事を声高に言い、しかもそれを自らが実践しているかのような、紳士淑女然としている様に、反吐が出る思いがすると申されているのです。
なぜなら、これらの行為が自然とあふれでてやまぬふるまいでなく、人より自分が高みにあるための仕組みであり、これをできぬ人たちをおろかな人とあざけり笑う声を、我々は耳にする事ができるからであります。
これらは、確かに一つ一つは良い事でしょう。しかし、そうした振る舞いの内面では、ともかく人に馬鹿にされたくない、人より立派だ、すごい人だと言われたいという勝他の念にかられ、慢心の心に支配されている人の、表面をつくろう手段であることは明白であるからです。
今は高校受験というより、私立の中学、あるいは私立の小学校、あるいは名門の幼稚園の御受験が、ある特殊な人たちの中では大はやりだと言います。
かわいそうに、少し名が売れた芸能人の親御さんが、自分が教養がないために、本当に苦労されたというか、みじめな思いをされたことがあったんでしょう。
それで、お金である程度のことができるのであれば、ということで、子供の意向も無視して、一生懸命、御受験御受験と走り回っておられるのです。
それらの教育ママが、本当に人間としての知性をこの子につけてあげたい、人として生まれた喜び、人を心から愛する人間になってほしいという思いでこれらのことをされているかといえば、子供がそれらの有名幼稚園、有名小学校、有名中学校に入れば自分も価値があがったつもりになって、知人の前で鼻高々になりたいだけなのです。
だから、表面的には子供の教育に熱心なようで、その実は、勝他の念にかられ、あのお母さんに勝ちたい、あそこの子供に勝ちたい、勝ってみずからの利己心を満足させ、優越感に浸りたいだけなのです。ですから、同じ所を受験される子供さんが病気になれば、とか、受験勉強をさまたげるなにかが起こればと、ひそかな願望を持つようになるのです。これら修羅の命を引き起こす劣等感のためにも、この命を大きく転じゆく唱題行が必要なのです。