立宗会
『清澄寺大衆中』(九四六頁)
「其の上、禅宗・浄土宗なんど申すは又いうばかりなき僻見の者なり。此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために、建長五年四月二十八日、安房国東条郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして、淨円房と申す者並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、その後二十余年が間退転なく申す」
日蓮大聖人がお生まれになったのは、貞応元年(一二二二)の二月十六日、釈尊の末法に入って百七十一年目のことでした。幼い頃のお名前は、善日麿と申します。
この末法とは、末世法滅というお釈迦様ご自身の言葉を省略したものですが、これはお釈迦様の仏法が滅んでしまう…、つまり、奈良の大仏の華厳経も、念仏の阿弥陀如来の浄土三部経も、真言の大日如来の大日経も、ともかくあらゆる経文に説かれる利益が失せてしまう時代のことで、この時代の様相は五濁悪世と経文に書かれている通り、世の中が乱れ、飢饉・疫病・地震・台風、それに洪水など、あらゆる災いが地上を襲い、人は逃げまどい苦しむばかりで、安穏な地は何処にもありませんでした。
そういった姿を見るに付け、幼き善日麿はどうしてこうも災難がうち続くのか、その疑問を晴らしたいと、いつしか思うようになりました。
そして、天福元年(一二三三)、御年十二歳の時、ご実家からほど近い清澄寺の道善房のもとへ入門されたのです。
この時の心情を大聖人様は、
「父母の家を出でて出家の身となるは、必ず父母を救はんが為なり」(開目抄・五三○頁)とも、
「日蓮は少きより今生の祈りなし。ただ仏と成らんと思ふばかりなり」(四条金吾殿御返事・一一七九頁)
あるいは、
「それ以みれば、日蓮幼少の時より仏法を学し候ひしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(妙法尼御前御返事・一四八二頁)
僧侶になるのはまずご両親の御恩徳に報いるため、また必ず仏となって人々を苦悩から救わんがため、そのためにも必ずおとずれる臨終の大事を、まず学んでいこうとされたのです。
それが『妙法比丘尼御返事』に、
「この度いかにもして仏種をもうへ、生死をはなるる身とならんと思ひて候ひし故に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱へ候ひし程に、いささかの事ありて此の事を疑ひし」
当時、安らかな臨終を迎えるべく、しきりに称名念仏が行われていた。ただ弥陀の本願にすがって南無阿弥陀仏とだに称えさえすれば、必ず極楽往生できるという。
しかし、現実は、特に専門家である僧侶が、七転八倒の末むごたらしい相で亡くなっていくのは、安穏な死を迎えたとは到底言えないものだったのです。
それでは、即身成仏を説く真言宗はどうであったか。清澄寺は台密といって、天台宗の寺院ながら、真言密教の影響を強く受けているお寺だったのです。そこでは当然の如く、真言によって即身成仏を祈る修行が行われていました。
しかし、よくよく考えてみると、実に不思議なことがありました。それは、真言宗の始祖である、善無畏三蔵が現身に地獄に堕ちたことでした。即身成仏を標榜する真言宗の始祖その人が地獄に堕ちたのではシャレにもなりません。それはこうです。
まず善無畏三蔵という人となりについて申します。
「善無畏三蔵は真言宗の元祖、烏萇奈国の大王仏種王の太子なり。教主釈尊は十九にして出家し給ひき。此の三蔵は十三にして位を捨て、月氏七十箇国九万里を歩き回りて諸経・諸論・諸宗を習ひ伝へ、北天竺金粟王の塔の下にして天に仰ぎ祈請を致し給へるに、虚空の中に大日如来を中央として胎蔵界の曼荼羅顕れさせ給ふ。慈悲の余り、此の正法を辺土に弘めんと思し食して漢土に入り給ひ、玄宗皇帝に秘法を授け奉り、旱魃の時雨の祈りをし給ひしかば、三日が内に天より雨ふりしなり。此の三蔵は千二百余尊の種子尊形三摩耶一事もくもりなし。当世の東寺等の一切の真言宗一人も此の御弟子に有らざるはなし」(善無畏三蔵抄・四四一頁)
というように、真言宗の元祖であり、インドの烏萇奈国の仏種王の太子であり、釈尊も十九歳で位を捨てて出家されましたが、善無畏はそれよりも早く十三歳で位を捨てて出家、月氏国の七十箇国、九万里の求道の旅を続け、その結果、すべての経論、すべての宗旨を習い伝え、ついには、北天竺金粟王の塔の下にして天を仰ぎ祈請(祈り請うこと)をされたところ、虚空の中ににわかに大日如来を中心とする胎蔵界曼荼羅が出現したといいます。
それで、これを自分だけが知っていては勿体ない。人にも教えてあげたいという命が昂じて、仏教の中心地インドからすれば辺土にあたる漢土に、この真言宗を弘めるために入られ、当時の玄宗皇帝に真言の秘法を授け、日照りの時には雨の祈りを行ったところ、三日の内に天より雨が降るという通力を示された、といいます。
この善無畏は、千二百余尊に及ぶ仏や明王等の種子(阿等の一字一字に様々な意味を含むこと)尊形(諸仏の尊形のこと)三摩耶(仏や菩薩の内証の本誓――修行中の誓願、または、その修行中の誓願を表す不動明王の刀剣、薬師如来の薬壺などのこと)を熟知しておられて一点の曇りがなかったといいます。
そして、日本の弘法大師を筆頭とし、東寺や高野山などの一切の真言宗の僧侶は、一人としてこの者の弟子でない者はない、ということです。
このような、晴れがましい経歴をお持ちの人であるが、ある日、とんでもないことがこの人に起こるのです。それは……、
「此くの如くいみじき人なれども、一時に頓死してありき。蘇生りて語りて云はく、我死につる時獄卒来たりて鉄の縄七筋付け鉄杖を以て散々にさいなみ、閻魔王宮に至りにき。」(善無畏抄・五○五頁)
なんと、善無畏三蔵は突然死をして、見るも無惨な鉄でできた荒縄で七重にもきつくしばられ、皮膚の上にはそれと知れる跡がクッキリと浮かび出たというのです。しかも、獄卒・地獄の鬼らが鉄の杖でもって散々に体を打ちつけ、とうとう閻魔王宮に引き立てられたのです。
これは、日蓮大聖人が作り話で仰っているのではありません。善無畏三蔵がみずから『大日経疏』という書の中に告白しているのです。
日蓮大聖人は「これはおかしい」と考えられ、回りの僧侶方に尋ねられましたが、誰一人として答えられる者はいなかったというのです。それが、
「日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給ひて、我等易々と生死を離るべき教に入らんと思い候ひて、真言の秘教をあらあら習ひ、此の事を尋ね勘ふるに、一人として答へをする人なし」(善無畏三蔵抄・四四二頁)の御文なのです。
真言宗では、大日経は一切経に勝れるのみならず、法華経にも勝るといい、私どもは真言によって安々と生死という苦しみの連鎖をのがれ、成仏をすると説いているから、その教えに入りたいと真言の秘密の教えを学び、重要なこの善無畏三蔵の事についても、どうしてそのようなことが起きてしまったのか、その訳を確かめたくて質問しても、誰一人として答えられるものがなかったといいます。
また『神国王御書』(一三○○頁)にあるように、
「又承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺の御室・三井寺の高僧等を相催し、日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給ふ。所謂承久三年四月十九日に十五檀の法を行なわる。乃至此の法を行なふ事日本に二度なり。乃至いかにとして一年・一月も延びずして、わずかに二日・一日にはほろび給ひけるやらむ」
とあるように、真言の十五檀の秘法という、真言宗が日本に渡来してよりわずか一度しか行われていない、日本中の真言宗の僧侶を総動員しての天皇方の戦勝祈願が、かくも無惨に負けて、しかも、後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇がそれぞれ隠岐の島、土佐、佐渡へと流罪になり、その地において崩御されなければならなかったのか、この疑問についても、誰も答えられるものはありませんでした。
いまだ幼い善日麿でしたが、この様々な疑問を解決するべく、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に御祈念をされたのです。
この虚空蔵菩薩は、不思議法師という人によって老柏樹に彫刻されたという伝承がありますが、不思議とは「言語の道絶えて、心の及ばないもの」ということで妙の一字に置き換えられるところから、不思議法師とは妙法師、つまり妙法の師により彫刻されたものである、ということができるのです。
この御祈念について述べられた部分を引用して見ますと、まず『破良観等御書』(一○七七頁)には、
「予はかつしろしめされて候が如く、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ」
また、『善無畏三蔵抄』(四四三頁)には、
「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云はく、日本第一の智者となし給へと云々。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給ひて、明星の如くなる智慧の宝珠を授け給ひき。そのしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗念仏宗等の大綱ほぼ伺ひ侍りぬ」
と。そして『清澄寺大衆中』(九四六頁)には、
「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せしことを不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖に受け取り候ひし故に、一切経を見候ひしかば、八宗並びに一切経の勝劣ほぼ是を知りぬ」
とこのように、幼いころより学文に励まれると同時に、「日本第一の智者となし給へ」と虚空蔵菩薩に願を立てられました。
すると、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となられて御出現になり、明星のようにまばゆいばかりに輝く智慧の宝珠を授け下されたのです。大聖人様はその大宝珠を右の袖で確かにお受け取りになられ、それより以降一切経をご覧になられるや、八宗ならびに一切経の勝劣、そして禅宗や念仏宗等の大綱をほぼ掌握できるまでになられました。
これこそ、智慧の宝珠をたまわりし、その印であります。
それよりは「所詮肝要を知る身ならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・天王寺等の国々寺寺あらあら習ひ回り候ひし」(妙法比丘尼御返事・一二五八頁)とあるように、諸国を回られ、あらゆる法門を検討され、ついに疑問は晴れました。
そして、この権実雑乱・正邪不明の世こそ、久遠元初の妙法が姿を現すべき前兆であることをお知りになるのです。
そのためには、旧来の念仏は無間の業、禅は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律は国賊なりと謗法であることをはっきり表示して、しかして妙法を示さなければなりません。
このことは上行菩薩の所作として、法華経にははっきりと示されています。しかし、同時に三類の強敵という迫害法難が起きるのも必定です。
そこで大聖人様は逡巡されるのです。その御文は数多くありますが、その中の一二を挙げてみましょう。『弥三郎殿御返事・一一六四頁』には、
「かかる事をば日本国には但日蓮一人ばかり知って、始めは云ふべきか云ふまじきかとうらおもひけれども、さりとては何にすべき。一切衆生の父母たる上、仏の仰せを背くべきか、我が身こそ如様にもならめと思ひて云ひ出だせし」
とあり、最初は云うべきか云わないでおこうか、迷われたというのです。
『開目抄』(五三八頁)にも、
「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生はかならず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし」
と、遂に決断されるにいたるのです。
そして建長五年四月二十八日の正午、清澄寺・諸仏坊の持仏堂の南面において、四箇の格言の声も高らかに、謗法を呵責し、南無妙法蓮華経のみが成仏の直道であることを宣言されました。
この説法を聞いた念仏の強信者である地頭の東条景信は、烈火のごとく怒り狂い、その場で大聖人様に切りかかろうとしました。しかし、淨顕房・義淨房がかくまって下さったお陰で危難をのがれ、一時花房の地に身を寄せられました。
そしてひそかに、ご両親の元を訪れられるのです。ところが、ご両親はそのような大聖人様の御行動に対して、どうか思いとどまられるようにと、嘆願されたというのです。
『王舎城事』(九七六頁)に、
「されば日蓮は此の経文を見候ひしかば、父母手をすりて制せしかども…」
と、「どうか後生だから、そんな大それた事はおやめください」とでも仰ったのでしょう。
そこで大聖人は、「父母の家を出でて出家の身となるは、必ず父母を救わんが為なり」(開目抄・五三○頁)の気持ちを忘れず、渾身の力をふりしぼって、しかも諄々と妙法の正義を訴えられました。
最初は「後生だからお止めください」という嘆願の、手をすってお願いされていたのが、やがて仏様を拝する合掌の形に変わっていかれたというのです。
そして、「他の人がどうであれ、私たちがまずあなたの妙法を信じていきましょう。すべての人が根底から救われていく妙法。ああ、なんとすばらしいんでしょう。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」とお唱えくだされたのです。
大聖人様はそういったご両親をみて涙を流され、「ああ、これで後顧の憂い無し。いさんで妙法広布の旅路に出発できます」と、初めての御授戒と、そして、自身日蓮と名乗ること。その一字ずつを取って、お父様を妙日、お母様を妙蓮との法号を授与されたのです。
こうして、立宗会の一日は過ぎていきました。
私たちも、この日蓮大聖人の不自惜身命の御精神を身に体し、この地域の広宣流布のために頑張ってまいりましょう。