『日眼女釈迦仏供養事』

『日眼女釈迦仏供養事』(御書一三五一頁)

 「譬へば頭をふればかみゆるぐ、心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しずかならず、大地うごけば大海さはがし。教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ 水やあるべき」
 この御書は、弘安二年二月二日、大聖人様が御年五十八歳の時、四条中務三郎左衞門尉頼基、通称四条金吾と申していますが、このかたの奥様・日眼女にお与えになられたお手紙でございます。
 日眼女がご自身の三十七の厄年に当たり、先に二貫文(一文銭を千枚ごとに紐を通してたばねたものを一貫文という)、今回さらに一貫文を御供養され、大聖人様に御祈念を願い出られたことへの御返事と厄年に対する御指南が述べられています。
 このお手紙の冒頭を読んでみますと、大聖人様がこのたび、日眼女に対して「お守り御本尊様」をお認めになって授与されたことが分かります。それが「御守り書きてまいらせ候」の御文です。
 そして、「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女」とございまして、日眼女が三寸(約十センチメートル)の釈迦の木像を造立したことをご報告したことが窺い知ることができます。
 実はこの御書をお認めになる三年前の建治二年七月十五日にも、四条金吾が釈迦仏の木像を造立し、大聖人様にこの仏像の開眼について御指南をたまわっているお手紙が残っているのです。それが『四条金吾釈迦仏供養事』(九九二頁)です。
 このことを知って、私たちは大変疑問に思うわけです。なぜなら、お釈迦様の仏像は、私たち末法の衆生にとって、何の役にも立たない、即身成仏のための本尊とはならなかったはずだからです。
 それとも、私たちがお釈迦様の仏像を造って拝んでも、大聖人様はお誉めくださるのでしょうか?
 それは、そうではありません。これには深い訳があるのです。しかもこのことは、正しく大聖人様のご意思をお引き継ぎになった日興上人の門流・日蓮正宗の僧俗にしか、本当の意味を拝することはできないのです。
 日興上人は「此れは是れ、且く一機一縁の為なり。猶継子一旦の寵愛の如し」とおおせになりました。
 「一機一縁」とは、仏様が限られた一部の衆生のために、機根――仏の教えに対して、これを受け入れる人々の潜在的な能力――に応じた教えを説き、縁を結ぶことです。
 「継子」とは、配偶者の子で、実子でないものをいいますが、俗に、再婚した相手が子連れであった場合、二人に実子が生まれると今まで優しくされていたのが、急に冷たく扱われるようになることで、あたかもそのように、ほんの一時的に大切にされるさまを、このように表現されたものだと思います。
 周知のことですが、大聖人様が伊豆の御配流の時、地頭の伊東朝高が病気平癒のご祈祷のお礼に、海中出現の一体立像の釈迦仏を差し上げたのを、それ以降大聖人様は随身仏としてお持ちでしたが、御遺言では、
 「墓所の傍らに立て置くべし」(宗祖御遷化記録・御書一八六六頁)
と、大聖人様の墓の傍らに立て置いて、決して本堂の本尊として安置してはならないことを言い置かれましたが、まさに「継子一旦の寵愛のごとき」ではありませんか。
日興上人は、
 「諸仏の荘厳同じと雖も印契によって異を弁ず。如来の本迹は測り難し、眷属を以て之を知る。所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し、伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り。此の外の一体の形像豈頭陀の応身に非ずや」(五人所破抄・御書一八七九頁)
と御指南です。
 これは、仏様の相好は三十二相八十種好と皆相場は決まっていますので、見た目は同じで判別できませんが、手にどんな印を結んでいるかによってその違いを弁えることができます。あるいは、その仏様がどの経文の仏なのかは、そのお連れ・脇士によって知ることができるのです。ゆえに、阿含経という小乗教、これは教えの内容から蔵教とも言われますが、この仏は迦葉と阿難という二人を脇士とされ、ブッダガヤにて始めて成仏を遂げたという垂迹の仏は普賢菩薩と文殊師利菩薩を脇士とされている等で、そのお連れの方の素性を知れば、その仏が何仏なのか知ることができるのです。
 そのほかの一体の仏像はそれ以下の、頭陀を行じつつある応身ということになるのです、という意味になります。
 ※ちなみに、頭陀とは「身心を修練して衣食住に関する貪欲などの煩悩を払い除く修行のこと」で、十二の項目があります。
 ①在阿蘭若処…人里離れた山林などの静かな場所に住むこと。
 ②常乞食…常に乞食行(家々ごとに食を乞う修行)を修すること。
 ③次第乞食…家の貧富を問わないで乞食行を修する。
 ④受一食法…一日に一食しか摂らない。
 ⑤節量食…食べ過ぎることを慎む。
 ⑥中後不得飲漿…昼食以後は果汁や樹の汁(今でも白樺の樹液が売られています)などを飲まないこと。
 ⑦著弊納衣…他人が着られなくなって捨てた布で衣を縫い、これを着用すること。
 ⑧但三衣…仏より定められた、僧侶が着るべき衣、この三衣以外の物を身につけない。
 ⑨塚間住…墓場に住む。
 ⑩樹下止…樹の下に止まる。
 ⑪露地坐…空き地に坐る。
 ⑫但坐不臥…常に坐して横にならない。
と、以上ですが、これは華厳経に説かれる菩薩の修行の、その境界がどこまで達したか見る位に四十一の段階があるのですが、その中に十住・十行・十回向・十地・そして仏地とある中に、十地の最初・歓喜地にも未だ達してない位なのです。
 これと日眼女のものも、四条金吾のものも、あるいは富木常忍のものも、すべて眷属・脇士の無い一体仏でしたので、まさに同じく一機一縁の仏であって、我々が信ずべきものではないのです。
 それでは、日蓮大聖人さまの御本意ではないにもかかわらず、これをほめたたえられたのはなぜかといいますと、『末法相応抄』(六巻抄・一四○頁)に日寛上人は、
 一には、当時はまだ、一宗弘通の初めですから、これを用いさせるかあるいは捨てさせるか、時やその人物を考慮されて、次第に誘引せられたものと拝せられるのです。
 二には、その当時は日本国中一同に阿弥陀仏をもって本尊としていました。そういう中で、彼の人々がたまたま釈尊を造立したのですから、これはほめたたえるのに値することと言えるのです。
 三には、大聖人様の観見・御眼には、日蓮に命懸けで随順するこの人達が心をこめて造立した仏像は、これまったく一念三千即自受用身の本仏と映っているからなのです。
と御指南くだされました。
 この『日眼女釈迦仏供養事』には、まさにこの三番目の理由を証明する、大聖人様のお言葉が記されているのです。それが次の御文です。少々長くなりますが、引用してみます。
 「法華経の寿量品に云はく『或いは己身を説き、或いは他身を説く』等云々。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等、文殊師利菩薩・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人、いずれか教主釈尊ならざる。天照大神・八幡大菩薩もその本地は教主釈尊なり。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮ぶる影なり。釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を造り奉る人なり。」
と。
 この意味は、寿量品に「或いは己身を説き、あるいは他身を説く」とあるのは、久遠に下種を受けながら退転していってしまった人たちのために、仏が無量の変化の姿を現して、その者たちの成仏の種子を発芽・すなわち発心させ、さらにこれを調熟させてこられたことが初めて打ち明けられたのです。その中には十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏も皆釈尊の垂迹であることが明かされたのです。
 日寛上人は『報恩抄文段』(文段集・四○八頁)に、
 「大日如来とは、すなわち釈尊所現の仏身なり。全く別仏に非ず。当に知るべし、今日出世の釈尊は物機に応同し、或は丈六一里の劣応を現じ、或は十里百億の勝応を現じ、或は相多身大の報身を現じ、或は毘盧舎那法身を現ず。故に劣応、勝応、報身、法身殊なりと雖も、皆是れ釈尊一仏の所現なり。」
釈尊一代五十年間の説法の間示された様々な仏も、あるいは経典の中だけに出てこられた仏も、又菩薩に、声聞縁覚の二乗の人々も、諸天も阿修羅も、天照大神や八幡大菩薩さえ、ともかく、男であれ女であれ、身分の高い人低い人、卑しい人高貴な人、様々な階層の人も、あらゆる職業の人も、すべてが釈尊の変化の人だというのが、あの「或いは己身を説き、あるいは他身を説き、或いは己身を示し、或いは他身を示し、或いは己事を示し、或いは他事を示す」という経文の意味だったのです。
しかし、ここまでは寿量品の文上の所説で、十界の衆生が釈尊一仏の所現といっても、如来行の中でこれらを変化して表したに過ぎません。
 ところが日寛上人は、この『日眼女釈迦仏供養事』の御文について、このように仰せになっているのです。
 「日眼女抄」に云はく『東方の善徳仏・中央の大日如来、本化・迹化・梵帝・日月・天神・地神、何れか教主釈尊ならざる』等云々。この『教主釈尊』とは、久遠元初の自受用・本因妙の教主釈尊なり。若し爾らずんば何ぞ善徳仏を以て釈尊の垂迹とせんや。故に知んぬ、十方三世の諸仏乃至梵帝・日月・天神地祇、皆本地自受用一仏の内証に帰る。故に『寂光の都へ帰り』と云うなり。当に知るべし、久遠は今に在り、今は即ち是れ久遠なり等云々。久遠元初の自受用身とは蓮祖聖人の御事なり。蓮祖聖人は即ち久遠元初の一仏なるが故に等云々」(報恩抄文段・文段集四三一頁)
この意味は、『日眼女釈迦仏供養事』の中で大聖人様が仰せの教主釈尊とは、久遠元初の自受用身・本因妙の教主釈尊のことで、つまり日蓮大聖人ご自身のことである。
 なぜ、そうなるのかと言えば、寿量品文上に顕される、久遠実成の本果第一番の教主釈尊だったならば、東方善徳仏は、この教主釈尊の垂迹とはならず、余仏であるからである。
 つまり、いかに久遠五百塵点劫といっても、五百塵点劫と成仏の年限が区切ってある以上仏身に制約を受けるのは避けられず、法界一仏の境界とはいえない。そこで、余仏ありやと問うに「あり」と答えざるを得なくなるのです。
このことを日寛上人は『当流行事抄』(六巻抄・一八三頁)に、
「問う、およそ寿量品の意は唯釈尊一仏とやせん、別に余仏有りとやせん。若し唯一仏と言わば、玄文の第七に正しく東方の善徳仏及び神力品の十方諸仏を以て余仏と為す。若し余仏有りと云わば那んぞ『毘盧遮那の一本』等と云うや。
答う、若し文上の意は久遠本果を以て本地と為す、故に余仏あり。何となれば本果は実に是れ垂迹なり。故に本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枝一葉なり。故に本果の釈尊の外さらに余仏あるなり。若し文底の意は久遠元初をもって本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し。何となれば本地自受用身は天の一月の如く樹の一根の如し、故に余仏なし。当に知るべし、余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり。故に日眼女抄に云わく『寿量品に云わく、或説己身或説他身云々。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等乃至天照大神・八幡大菩薩等その本地は教主釈尊なり。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮かべる影なり』等云々」
と、『日眼女釈迦仏供養事』の「教主釈尊」が、もしインド御出現のお釈迦様が次第に昇進してお示しになった「文上脱益の本果妙の教主釈尊」だった場合、本来余仏となるべき東方善徳仏と十方諸仏が、垂迹と位置づけられているところから、これは紛れもなく「文底下種の本因妙の教主釈尊、すなわち日蓮大聖人ご自身の御事」を指れているのは明白です。
 ゆえに日寛上人は引き続いて、
「『唯日蓮一人』等とは、即ち是れ『唯我一人のみ能く救護を為す』の法華の行者なり。『一迷先達して以て余迷を救う』の最初の導師なり。ゆえに唯日蓮大聖人御一人を信じ奉りて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち是れ十方三世の諸仏乃至梵帝・日月・天神地祇等を信ずるに成れり。譬えば、頭を振れば即ち髪揺れぬ、心働けば即ち身動く、大風吹けば草木しずかならず、大地動けば則ち大海騒がしきが如し。蓮祖一人を動かし奉らば、豈揺るがざる草木有るべけんや」
と、「教主釈尊を動かし奉る」とは、日蓮大聖人お一人を信じて御本尊様に南無妙法蓮華経と唱え奉ることであり、これによって、頭を振れば髪が揺れるように、十方三世の諸仏、それにあらゆる菩薩に二乗も、大梵天王帝釈天王等に代表される諸天も、鬼子母神・十羅刹女等も、この題目によって動かしことができるのですから、かならず祈りも成就していくのであるとの御指南であります。
 私たちは、この御文にあるように、南無妙法蓮華経日蓮のお命、即ち法界を揺り動かすような真剣な題目を唱え、みずからの宿業を転じ、そして地域広布へと大いなる歩みを進めてまいりましょう。
 ますますのご精進をお祈りもうしあげます。

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