「法蓮抄」 

「法蓮抄」       (八一四頁)
「これらの経文は又未来の事なれば、我等凡夫は信ずべしともおぼえず。されば過去未来を知らざらん凡夫は此の経は信じがたし。又修行しても何の詮かあるべき。是を以て之を思ふに、現在に眼前の証拠あらんずる人、此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」

はじめに
この『法蓮抄』は、建治元年(一二七五)四月、大聖人様が五十四歳の時に身延でしたためられ、曾谷教信・法蓮日礼にたまわった御妙判です。
曾谷教信とは、下総国(千葉県)葛飾郡曾谷に住んでいたので曾谷氏と呼ばれるようになったもので、正式には曾谷二郎兵衛尉教信と称し、文応元年(一二六〇)頃に入信、後に入道して法蓮日礼と法号を大聖人よりたまわりました。
入道とは、仏道・仏門に入る意味で、元は出家と同じ意味でしたが、日本では平安時代以降、在家のまま剃髪・頭の毛を剃った人で、社会の一線より身を引いた方を、こう呼ぶようになりました。
御書の名前の「法蓮抄」も、この法号から名づけられたものです。この方は後に「安国寺」「法蓮寺」の二ヶ寺を建立したことや、七編たまわった御書の中には、「境智の二法」「総別の二義」「種熟脱の法門」など、きわめて高度な、また重要な法門が含まれている事などから、信心の志篤く、しかも相当な見識を具えていた方であったことが窺い知れます。そのような方に与えられた長文の御妙判です。
御文の冒頭には、法華経『法師品』の、
「若し悪人有って不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん。その罪軽し。若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀訾せん。其の罪甚だ重し」
の文を挙げられ、これを承けて妙楽大師が補釈した、
「しかも、この経を修行した場合の功がとてつもなく高く、理屈では解明できないほどであるから、このような前代未聞・空前絶後とも言うべき説をなされているのです。他の経文では断じてあり得ない事です(大旨)」
の御文を添えておられます。

一劫とは
それでは、この経文の意味とはどういうものなのでしょうか。まず、「一劫」という時間の単位を説明されています。それによると「一劫」とは、かつて人の寿命が八万歳であった時、百年ごとに一歳寿命がちぢまるのだそうですが、この方法で計算していくと千年たつと十歳ちぢまることになり、やがて次第に短くなって、ついに人間の寿命が十歳になるというのが「一劫の半分」に当たり、これだけでも気の遠くなるような長さになりますが、この寿命が十歳になってから今度は逆に、百年経って十一歳、またさらに百年過ぎて十二歳という風に、千年たって寿命が二十歳に延びていきます。このように年数を重ねて寿命が八万歳に戻る—–このように、一度十歳まで減って、さらにもう一度八万歳にまで増える、この「一減一増の期間」を「一劫」というのです。この劫の名を「増減劫」と言います。
この外にも、劫の長さを説明する「払石劫」等がありますが、今回はこの増減劫を用いてお話しをされます。
この長き一劫もの間、身口意の三業より事起こって——つまり、身も心もそして口にも仏を憎みたてまつる者があったとします。例えば提婆達多のようなものです。
提婆達多の嫉妬
皆様ご存知のように、お釈迦様は迦毘羅衛城の浄飯王の太子ですが、提婆達多はその浄飯王の弟の斛飯王の太子なのです。釈尊も提婆達多もその父が兄弟なのですから、従兄弟同士ということになります。いとこ同士であれば普通仲が良いはずですが、どうして仏を憎むようになったのでしょう。
それは、今も昔も、聖人も凡人も仲違いになるそのきっかけは色々あるでしょうけれど、女性問題に端を発することが多いようです。
当時、耶輸大臣という方に娘さんがおられ、名を耶輸多羅女と言いました。この方は五天竺第一の美女と謳われ、四海名誉の天女—世界中に名を轟かせるような天女・この世のものとは思えないほどの美しい人だったといいます。
悪い事に出家前のお釈迦様・悉達多と提婆達多は、共に生涯の伴侶にしたいと考えており、そこで話し合いの結果、相撲でもって勝った方が妻に迎えるとして、非情なる勝負の結果、悉達多はサバ折りの技で勝利したのです。
(でもこれが悉達多の宿業となって、後々腰痛に悩まされることになるのですが、お釈迦様はご自身の過去の業を償うために、あえて神通力などでこれを無かった事にしよう、などとは為されませんでした)
この耶輸多羅女の争奪戦に負けたことがきっかけで、提婆達多は悉達多に対し異常なまでの嫉妬心を持つようになるのです。
この後、悉達多は耶輸多羅女との間に一子・羅睺羅をもうけると、出家して仏になられます。
その後を追うように、提婆達多も須陀比丘という人を師として出家します。
仏は二百五十戒という戒を持ち、三千の威儀という、行(歩行すること)住(立っている事)坐(座る事)臥(横になって眠ること)などの起居動作が自然と規律に叶い、威儀を失わない事—-裏表の無い言動や、体から発するそこはかとない、人が敬わずにおられない、人として最高の徳を身につけておられたので、神々や人々がこぞって、喉が渇いた時に水を求めるようにその徳を仰ぎ慕い、僧侶も尼も在家の男も女も慎み敬いました。
それと比べて提婆達多はどうかというと、誰も敬うどころか注目もいたしません。どうにかして世間の評判が仏より上になる方法は無いだろうかと、色々考えあぐねた末に捻くりだした結論というのが、次の五法です。

提婆の五法
一つは、仏は人の施す衣も喜んで受けて着用されましたが、提婆達多は人々が着古して捨てた布を拾い集め、これを縫い合わせた糞雑衣のみを身に着けました。
二つには、仏は人の施す食もお受け取りになりましたが、提婆は常に家々をおとずれて食を乞う、常乞食行に徹しました。
三つには、仏は必要とあらば、日に一、二、三回と食事を取られましたが、提婆は一日一食の一座食にこだわりました。
四には、仏は塚間・墓地や樹下・木の下でお体を休められることがありましたが、提婆は日ながら露地・屋根の無いところで生活しました。(常露座)
五には、仏は健康を損ねた弟子には、塩を摂ることや五味—-甘味・酸味・辛味・苦味・塩味を食事で補うことを許されましたが、提婆はあくまで塩や五味を使うことを拒絶しました。
これで、提婆は仏より自分の方が衣食住の欲を去って、より過酷な条件下に自分を追い込んで修行をしているかのように、世間に印象づけようとしたのです。
こうなると、世間の見る目は提婆の方が仏に勝れていること、あたかも天と地・雲泥のようだと評価するようになります。しかし、その修行というのも、すべて嫉妬の為せる技です。世間に凄いと思わせ、評判を取るためです。
このようにして、何とか仏を蹴落とさんと、あらゆる機会を捉えてその隙をうかがっていました。

頻婆舎羅王と阿闍世太子
それにしても妬ましいのは、あの頻婆舎羅王のことです。彼の王は、当時摩伽陀国という大国の王ながら、仏の大檀那として、一日になんと五百輌の車に供養の食べ物を満載して、この数年というもの一日も欠かさず、仏やお弟子達に送り届けていたのです。
仏は、誰もが羨む膨大な国王の供養を受けているのに、自分はその万分の一も、王の尊敬を受けることも供養に預かる事も無い。これほど、妬ましいものはありません。
そこで、頻婆舎羅王の子供である未生怨太子(後の阿闍世王)に、出生にまつわる世間の口さがないうわさ話に尾ひれをつけ、悪意たらたら吹き込んで、「自分は両親に望まれて生まれた子供では無い」と思い込ませ、あるいは「本来、あなたが王になった時、あなたの財産となるべきものを、惜しげも無く仏や弟子にくれてやっている。まるで、ドブにでも捨てるように—-」とそそのかして、ついに父王を牢に幽閉して殺させてしまうのです。
自分はと言うと、仏に取って代わるためには、仏を亡き者にするのが一番手っ取り早いとして、崖の上より大岩を投げ落として殺そうとします。
また、常に「仏は人々を誑惑・たぶらかす者」と罵声を浴びせかけました。
さらに、心の底の底から「仏は今世のみならず、宿世の怨—-はるか昔からの因縁による敵」と、憎悪の炎を燃やし続けていました。
これまで仏に対して、身と口と意という三業すべてに憎しみの感情を顕わにして敵対した者はおりません。
この提婆達多のような悪人が、身も心も口にも怨念の感情をむき出しにして罵詈雑言を浴びせ、あるいはこぶしで殴り、杖で撃ち、嫉妬してあらぬ噂を流して仏を窮地に追いやるなどしたら、その罪はいかほどのものになるでしょう。

提婆が地獄に堕ちた穴を三蔵法師も見た
私たちの踏みしめている大地は、古代インドの人達は十六万八千由旬の厚さと考えていました――由旬とは帝王の一日の行程で、六町(約七百メートル)を一里として、十六里とも、三十里とも、四十里とも言う距離です。(※現在では、地球は幾層かから出来ており、表面の地殻が平均六十㎞、その下に固い岩石の層があって、これと地殻を合わせて「リソスフェア」と言い、その厚さは百五十㎞と推定されています)
いずれにしても、この大地の上に四大海の水も、九山の土も石も、地球上のあらゆる草木も、すべての生物も乗っかっているわけですが、それが重すぎてひっくり返ったり、傾いたり、破れたりせず、通常は平穏に保たれています。
しかし、提婆達多の身長はようやく五尺・百五十㎝、わずかに三つの逆罪を犯したに過ぎないのに、大地はその重さに耐えかねて沈み行き、彼はその穴から地獄に真っ逆さまに堕ちていってしまったのです。
この時出来た穴というのが今も残っているそうで、玄奘三蔵という中国・唐の時代の僧が、インドに経典を求めて旅をしたその道中記を『大唐西域記』という書として残しましたが、その中に現地の有識者の案内を受けて、この穴を実地で検分した事が書かれているのです。
(※ちなみに、この話を元に作られたのが西遊記で、三蔵法師のもとに孫悟空・沙悟浄・猪八戒をお供に、様々な妖怪などをやっつけながら、とうとうガンダーラに到着する物語となっています)

法華経の行者を謗る罪
ところが、仏様の御金言では、お釈迦様が御入滅されて二千年たった末法(私たちが住んでいる今)の時代に、南無妙法蓮華経を広める法華経の行者が必ず出現するが、この法華経の行者を、宿世の敵などと強く思っているわけでもなく、顔に憎々しげな表情を表わしているでも無く、ただその時の、腹の虫の居所が悪くて、ほんの軽い気持ちで軽口を叩いて「うるさいな」などと馬鹿にするのが、先ほどお話しした、「提婆達多のように、身も心も口も、一劫という長きに亘り、仏に面と向かって悪口雑言の限りを尽くし、あるいは暴力をふるい、心に憎悪の念をたぎらせるのより、遙かに多くの罪を作る事になる」との、経文の意なのです。
いわんや、大聖人当時の人らのように、多年の間、まさしくあの提婆達多と寸分違わず、否それ以上に、心に親の敵以上のものの様に思い、皆憎悪の表情を隠そうともせず、まさに大悪心でもって法華経の行者を、あるいはののしり、そしり辱め、ねたみそねみ、あるいは棒で打ち、罪をでっち上げて死罪になさんとし、また直接殺害に及ばんとするに於いては、必ず無間地獄に堕ちるは必定、と言い置かれているのです。
これがお釈迦様の御本心なのです。

法華経の行者を讃歎する福
また、この罰をもって徳を推するに、法華経の行者を讃歎・褒め称える者が、その福十号に過ぎるのは当然なのです。ゆえに、法華経第四『法師品』には「人有って仏道を求めて一劫の中に於て(乃至)持経者を歎美せんは、其の福復彼に過ぎん」と述べられ、妙楽大師はこの文を解釈して「若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養する事有らん者は福十号に過ぐ」と仰っているのです。

教主釈尊より大事なる法華経の行者
しかし、仏を長い年月謗るよりも、今の法華経の行者を賤しむ事の方が、罪が重いというのなら、仏とは我々が想像しているほど大したことは無いのじゃないか、と思われる方がおられるかもしれません。
それは、そうではないのです。ひとえに、「教主釈尊より大事なる法華経の行者」(下山御消息・一一五九頁)なることを、仏自らが証明されるためのものなのです。
そのことを気づかせるために、先ず人中におわす最上の転輪聖王のことが述べられます。その方が如何に勝れた方であるか、と。でも、この転輪聖王も、その上の天界の方々には及びません。その天界の方々も、その上の声聞衆には及びも付きません。その声聞衆も、さらにその上の縁覚衆には及びません。その縁覚衆も、その上の菩薩衆には及びません。かくして、その菩薩衆といえども、仏には足下にも及ばないのです。(これらについては、詳細に説かれていますので、是非読んでみて下さい)
仏様は、このような方々に比べれば、なんと百千万億倍勝れておわしますのです。それは、仏には必ず三十二相という相好を具えておられます。それは、梵音声(声が明瞭で遠くまで聞こえ、清浄で聞く人を喜ばせる)・無見頂相(誰もその天辺を見た事が無い)・肉髻相(頂上の肉が髻のように隆起している事)・白毫相(両眉のあいだに伸びる長い白い毛が、右回りに生えている事)・乃至千輻輪相(足の裏、手のひらに輪宝の肉紋がある)・・ところが、この中の一相を具えるにも、百福を積む事で初めて叶えられるのです。

百福荘厳
百福というのが、あるところに名医がいたとして、その方が世界中の目の不自由な人々を、一時に元のように目が見える状態にするほどの大功徳を一つの福として、この福を百も重ねてようやく三十二相の中の一相を身につける事が出来るのです。
ですから、この一相の功徳は三千大千世界の草の数よりも多く、この地球上に降る雨粒の数にも勝ると表現されているのです。
このような仏ですから、地球が破壊期を迎えた時、僧佉陀という風が吹いて須弥山を吹き飛ばし、色究竟天に挙げたかと思うと次には粉々にする、という風が吹いても、釈尊の御身の一毛をも動かす事ができません。
また、釈尊が亡くなろうとする時、胸に平等大慧大智光明火坑三昧という炎が表われて、体を焼き尽くそうとしますが、世界中の水をつかさどる神々が仏のお姿が失われるのを惜しんで、地球を傾けて水をお掛けしますが、とうとう炎を消すことはできませんでした。

阿闍世王の暴虐と帰依
このように大いなる徳をお持ち遊ばされていましたから、阿闍世王が世界中の悪人を集め、あらゆる外道の者とたくらんで、提婆達多を師として仏の弟子を罵り、あるいは暴力の限りを尽くして殺害したのみならず、賢王にてあらせられた頻婆舎羅王を、一尺の釘で以て体の七カ所を打ちつけて磔にし、ついに死に至らしめたかと思うと、母親に対しては髪のかんざしをムンズと掴み、刀を顔に当てるなどした重罪が積み重なり、それが原因で体に七カ所悪質な吹き出物ができ、二十一日を経て三月七日に大地が割れて無間地獄に堕ちてその苦しみを受けましたが、仏の元へ体を這いつくばって詣でて懺悔いたしたところ、立ち所に病気は治り、四十年の寿命を延ばす事が出来たのです。
これらのエピソードを聞いてもお分かりのように、仏を一度でも供養した人は、どのような悪人であれ女性であれ、成仏得道は間違いないのです。

提婆の白毫相と千輻輪相
ところで、先ほどからお話ししている提婆達多ですが、彼はどのような手段で我が物にしたのか分かりませんが、自身の相好を、仏の三十二相には二つを欠くものの、あとはすべて具えるまでになっていました。整形手術でもしたのでしょうか。
その二つとは、一つは眉間白毫相と、もう一つは千輻輪相です。彼は、二つの相が欠けていれば、弟子達は「我が師は仏に劣っている」と思うに違いないと邪推して、白毫相の代わりにホタルを集めて眉の間に貼り付け、仏の眉間白毫相のように眉間から光を発する様に見せかけました。ところが、折角これを人に見せびらかしている時、このホタルが逃げてしまって、彼はとんだ赤っ恥をかくのです。
千輻輪相は、足の裏に肉で出来た輪宝の紋があることですから、これは鍛冶屋に注文して菊形の焼き印・焼きごてを作らせて足に履いて歩いていましたが、足が焼けて大変な事となり、今にも死にそうな状態になったので、わらをもすがる思いで仏に救いを求めました。仏は嫌な顔一つなさらず、これを御手でもって優しく撫でられたところ、立ち所に火傷は治り、痛みは消え去ったのです。
普通ならばこれで前非を悔い、心を入れ替えるところですが、そうはなくて、「瞿曇が習った医師は小賢しいものであり、妖術を使うに過ぎない」などと、ギリギリの見栄を張り、口汚くまくし立てたというのです。
このような者にも、仏は怨みをお持ちになる事はありませんでした。いわんや、一度でも信じたことのある者を、お捨てになる事がありましょうか。ある筈もございません。

仏像が歩み、絵像が説法した
このような仏様でしたから、これを絵像や木像に写し奉れば、優填大王の木像は歩みをなし、摩騰迦・竺法蘭が中国へ仏教をもたらした時の絵像は、一切経を説かれたと言うではありませんか。
これ程に貴い教主釈尊を、一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間手を合わせ、両目はただ仏の御尊顔を見つめ、頭を深々と垂れて他の余分な事はすべて捨て、あたかも頭に燃え移った火を一心不乱に消そうと願うように、喉がカラッカラッに渇いた時に水をひたすら思い、ひもじい時に食べ物を求めるように、一瞬の心のスキもなく仏を供養したてまつる功徳よりも、心にもなく一言、継母が継子を褒めるように、そのつもりがなくても、末法今日の日蓮大聖人という法華経の行者を讃歎し供養する功徳は、先ほど言った、身と心と口と一致した信心で、一劫という長きに亘って生きた仏を供養するよりも、百千万億倍勝れているとは、紛う方無き仏の御金言なのです。
このことを受けて、繰り返すようですが、妙楽大師は「福過十号」と書かれているのです。
これら二つの法門は仏の説ではありますが、にわかには受け入れられません。そりゃそうでしょう。どうして仏を供養するより、凡夫僧を供養する方が勝るでしょうか?
しかし、「これは嘘だ」と言えば、釈迦如来の金言を疑い、多宝仏の「皆これ真実なり」との証明を軽んずることになり、十方分身の諸仏が虚空会の儀式にお集まりになってなされた、その舌を梵天につけて「一字一句真実でないものは無い」との証明を破ることになります。そんなことをしたら、私たちはこのまま阿鼻地獄に堕ちなければなりません。そうなれば、大岩がゴロゴロ横たわるその上を、荒馬に乗って走るようなもので、心中穏やかでいられるはずがないでしょう。
また、もしいささかの疑いもなくこの事を信ずる事が出来るならば、本物の仏になれるに違いありません。どのようにして、このたび法華経に信心を取るべきなのでしょう。
信が無い状態でこの経を修行するというのは、手が無い人が、そこら中に宝が散らばっている宝山に入るようなもので、折角の宝も手にする事ができません。また、足が無い人が千里の道を行こうと言うのと同じですから、これも一歩も歩みを進めることができません。

近き現証を引いて遠き信を取る
しかし、身近な現実の証拠を見て、遠く、かつ前代未聞の事柄について、信を持つことも可能です。そう思われたのでしょう。釈尊は八十になられた年の正月一日、法華経を説き終えられて、あることを語られました。それは、
「阿難・弥勒・迦葉等の我が弟子達よ、良く聞きなさい。私が仏として世に現れたのは、ひとえに法華経を説かんがためである。私はこの元より抱いていた望みを果たす事ができ、これ以上為すべき事とて残ってはいない。ゆえに、私はこの二月十五日に涅槃・すなわち亡くなるであろう」と、述べられたのです。
多くの人達がこのことに疑いを抱きましたが、本当にその日に亡くなられました。それで、仏の説法に疑いを残していた人も、仏の言葉はすべて真実なのだと、信を取ることができました。
また、仏様が記し置かれたものの中に、「私が亡くなった後百年後に、阿育王という大王が出現して、インドの三分の一を統治してその王となり、八万四千もの数の塔を建て、仏の遺骨・舎利を供養するであろう」と予告あそばされましたが、いくら仏でも百年後のことなんか分かるものかと、疑問を抱くものもおりましたが、本当に大王が世に出られて、仏様の仰せのように大偉業を成し遂げられました。そこでまた、仏への信を取る者が多く現れたのです。
またある経文には、「私が亡くなって四百年後に、迦弐色迦王という王が生まれて、五百人の阿羅漢を集めて『婆沙論』を造るであろう」と記し置かれましたが、これとて途方も無い未来の事、疑問を呈する人も多かったようですが、これも歴史上の事実として起こり、いよいよ仏の言葉はまさに金の言葉、金言として固く信ぜられるようになっていったのです。
このような例からもして、先程来申し上げている法門がもし、妄語・うそ偽りならば、この法華経一経そのものが妄語・うそ・たばかりということになります。

寿量品の説法
その上、『寿量品』には、「仏はこの法華経の説法よりわずか四十数年前に、菩提樹の下で初めて悟りを開いた、いわゆる始成正覚の仏であるというのは真実ではなく、本当は五百塵点劫という久遠の昔に成仏を遂げた仏であり、釈尊より他の仏というのが、この久遠の仏が、国や人柄・あるいはその時に応じて方便垂迹して、仮の姿でもって人々を導いてきたものである」という説においては、これは通常、「信じろ」というのがどだい無理な話なのです。
しかも、この寿量品の文の奥深く、私どもと同じく凡夫身のまま妙法を唱え、人々の仏性を目覚めさせゆくべく、誰彼を選ばず礼拝行を行じられた、「本因妙の教主釈尊」が説き明かされているのです。この事が寿量品の究極・極説の法門で、この仏を「無作三身」とも申し上げるのです。
無作三身とは、三十二相等で身を荘厳される事も無く、本地のお姿のままで、我が身と心、すなわち色心の二法に宇宙法界の森羅万法・十界三千の諸法を具えておいでなのは法身如来、このことを覚知あそばす智慧を報身如来、この一切法は皆仏法・妙法蓮華経という一仏の境涯なりと境智が冥合してより、無縁の慈悲に立って一切衆生を利益したもうは応身如来と申します。これを理の上にも実際の振る舞いにも具現体現されるので、倶体倶用の無作三身と申し上げるのです。
この本因妙の教主釈尊のお振る舞い・御化導を、末法今日にそのままお移しになられたのが、日蓮大聖人様であり、それだからこそ「教主釈尊より大事な法華経の行者」(下山御消息・一一五九頁)なのです。
ゆえに『御義口伝』には、
「この品の題目は日蓮が身に当たる大事なり。神力品の付属是なり。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。寿量品の事の三大事とは是なり」(御書一七六五頁)
と、おっしゃっているのです。
このお方は、お釈迦様が法華経の説法をされている時は、久遠のお釈迦様の弟子たる、地涌の菩薩の棟梁として登場されます。そしてこの方が釈尊より妙法を譲り受け、私たちの末法の世にこれをお広めくださることに、定められているのです。これを経文には「この人世間に行じて、能く衆生の闇を滅す」とあり、これを受けて『御義口伝』には、
「この人とは上行菩薩なり、世間とは大日本国なり、衆生闇とは謗法の大重病なり、能滅の体とは南無妙法蓮華経なり。今日蓮等の類是なり」(御書一七八四頁)
と述べられている通りなのです。
しかし、いくら仏様が御遺言されたといえ、二千年後の末法濁悪世に出現される上行菩薩のことなど、本気になって信じる人が、果たして凡夫の中にどれほどいたでしょうか。
私たちは凡夫・愚かで凡庸な人間ですから、自分の生まれてこの方のことすら、覚えておりません。況んや、前世やその前の世の事といったら、なおさらです。
また法華経には、そこに列座する人達、たとえば舎利弗に「汝、未来世において無量無辺不可思議劫を過ぎ乃至当に作仏することを得べし。名を華光如来と曰ん」と、未来成仏が記され、又摩訶迦葉にも「未来世において、乃至最後身において仏に成ることを得ん。名を光明如来と曰ん」等と、おびただしい数の人達へ、未来成仏が記されているのです。
ようやく、本日拝読の部分にたどり着きました。
これらの経文(舎利弗・迦葉等、法華会座の人々の未来成仏を記したもの)は、果てしないほど未来のことを記されたものですから、我等凡夫が易々と信じられるとは思われません。
それゆえ、過去も未来も知る事が覚束ない凡夫は、この経を信ずる事がきわめて難事でありましょう。経文の、過去や未来を記した文について、本当に、信の一字をもって受容できないならば、修行しても何の詮・甲斐が有るでしょうか?
このことをもって、どのようにしたら人に法華経を信じ受け入れさせる事が出来るか、あれこれ考えてみると、現在、眼前の証拠・目の前で実際に起こっている、法華経の説が正しいこと・生きた言葉であることを証明する事柄・経験がある人が説けば、人は信ずるのではないでしょうか。

大聖人様の眼前の証拠
『蒙古使御書』(九〇九頁)には、
「仏のいみじきと申すは、過去を勘へ未来をしり、三世を知しめすに過ぎて候智慧はなし」
と、仰って、立正安国論にあらかじめ示された、謗法を要因として起きる自界叛逆の難(内乱・同士討ち)・他国より攻められる他国侵逼の難の二難の的中こそ、正に、眼前の証拠と言うべきものでしょう。
また大聖人様が末法の始め百七十一年目に御誕生になり、謗法を打ち破って成仏という最高の幸福境涯を人々に得させようとされましたが、「況滅度後(いわんや滅度の後をや)」の経文通り、悪口罵詈(悪口やののしられ)、刀杖瓦石(刀で斬りかかられ、杖でぶたれ、瓦石を投げつけられ)、或遭王難(王命によって捕らえられ死罪に及び)、数々見擯出(しばしば所を追われ島流しに遭い)、毒不能害(食べ物に毒を盛られるが害することが出来ない)などの、俗衆増上慢(他宗在家による迫害)、道門増上慢(他宗僧侶による迫害中傷)、僣聖増上慢(聖人に似せて振る舞っているが、嫉妬や貪欲の念が強く、権力にすり寄って正法の行者を迫害する)などの、釈尊が二千年まえに法華経『勧持品』に予証された法華経の行者の振る舞いを、ことごとく一身の上に体験されたことなど、法華経の経文がまったく空文でないことを証明されました。
だから、逆から申せば、日蓮大聖人が御出現にならなければ、釈尊は妄語の人・嘘つきとなるところだったのです。
このような眼前の証拠を見る事によって、私たちは日蓮大聖人を御本仏と拝したてまつることが出来たのです。
今日、私どもが一般の人々に仏法を語ろうとする時に、もちろん仏法の道理を語る事も大切であるが、自身の功徳の実証体験、あるいは同士の方の実際の体験をお話しする事によって、人は大聖人さまの仏法を信じてみたいと、発心することになるのではないでしょうか。
私たちは常日頃から体験談を語る人を大切にして、自分自身も、もし魔の障礙や宿業に悩まされる事があったら、「ヨシッ、これを唱題で乗り切って、その体験を折伏に使わせていただくぞ」、という心持ちで頑張っていただきたいと思います。
以上

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