「寿量品談義」 (歴代法主全集四巻二二八頁)
「仏果を成ずることは因行による。因行を励むことは信心による。信心を進むることは法を聞くによるなり。聞かざれば信心生ぜず」
初めに
今日の御書は、「寿量品談義」といって、総本山第二十六世日寛上人の寿量品の御講義の記録です。御説法の稿本だったのかもしれません。
聞法の大事
意味は、「仏になるには修行が無くてはなりません。その修行を励むことは、その人の信心のなせる技です。なぜなら、修行は、見えないその人の信心が外に現れ出たものだからです。
そして、その信心を奮い起こし、淀んだりもせず、また退かないようにして、いよいよ前へ前へと押し進めるためには、どうしても法を聞かなければ叶いません。法を聞かなければ、信心は生じることはないからです。また、人は容易に我意我見におちいってしまうからです」という意味になるかと思います。
仏になるってどういうこと?
ここで私たちは、「成仏、成仏とたやすく言うけれど、果たして仏に成るとはどういうことなのだろう」と、ふと立ち止まって考えることがあります。
「あの絵や仏像みたいな、人間離れした格好になるのでしょうか。それだったら無理かもしれない。」そういう風に人は思うはずです。
私たちにとって成仏とは、極々簡略に申せば、無作三身の境界を開くという事です。
法華経の徳は毒変じて薬と為す事
大聖人様は『内房女房御返事』(一四九二頁)に、
「妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし。毒変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉と申す泉は石を玉となす。この五字は凡夫を仏となす」
と、仰っています。つまり…、
妙法蓮華経に具わる徳について、大まかですがざっと申し述べてみれば、世の中には、もし口にすれば大変な毒になるものが、あることによって還って薬となることがあります。
例えば、ペニシリンは私たちの病気の時に大変役に立っている抗生物質の最初に造られたものですが、これは化学実験道具のシャーレ(皿)の中で培養していた菌の中に、腐った蜜柑の青カビの胞子がたまたま混入したことにより、偶然発見されました。
地上最強の毒が薬に転用されてる?
あるいは、北海道立衛生研究所微生物部細菌科長で医学博士の木村浩一氏によると、地球上で最強の毒素といえば、あの食中毒を引き起こすポツリヌス菌だと言われます。
それは、体重六十㎏の人を殺すのに必要な推定最小量は、青酸カリが一七四㎎、サリンがその十分の一弱の十二㎎、キノコ毒はサリンの半分の六㎎、VXガスはサリンの十分の一の一・二㎎、陸に住む最強の毒を出すタイガースネークの蛇毒は二十分の一の〇・六㎎、ふぐ毒はサリンの四百分の一の〇・〇三㎎であり、ポツリヌス毒素は、サリンの実に二十万分の一の〇・〇〇〇〇六㎎で人間一人を殺すことが出来る…。
ですから、計算上ではわずか五百グラムもあれば、全人類を完全に殺すことが可能になります。地上最強の毒素と言われるゆえんです。
このポツリヌス中毒の症状は筋肉の麻痺で、重傷では呼吸筋も麻痺するために息が出来なくなって死んでしまいます。
しかも、意識が最後まであるので、体が動かず、呼吸ができなくなっていく苦痛と恐怖とにさらされながら死んでいくのですから、ことさら悲惨なものであると言えましょう。
この様な恐ろしい毒素ですから、ほんの十数年ほど前までは生物兵器以外には使い道がないと思われていましたが、筋肉を麻痺させるという性質を利用し、筋の異常な緊張で起こる頸性斜頸や斜視などへの治療薬として用いられるようになり、さらには脳梗塞などの後遺症で起きる体の麻痺の治療にも応用されるようになりました。
さらにさらに、女性の顔のシワをとるためにも用いられているというのですから、正に「毒変じて薬となる」良き例でしょう。
仏法で「毒変じて薬となる」とは?
仏法では毒と言えば、すぐ貪瞋癡の三毒が思い浮かびます。貪はむさぼり、瞋はいかり、癡はおろかで、これが心の正常な働きを麻痺させ狂わせるのですから、まさに三つの毒・三毒と呼ばれるゆえんです。
この貪瞋癡の三毒は、地獄・餓鬼・畜生の三悪道を表し、それゆえ「魔性の命」とも言われます。
ところが、このなかなか拭い去ることも、消し去ることも困難な三毒が、南無妙法蓮華経の御本尊への信心によって、劇的な変化が生ずると仏様は明かされているのです。
先ずこの事を述べておきましょう。
それは……、法華経の『提婆達多品』は、私たちの時代に広められることが約束されている、妙法蓮華経の御本尊のお力を二つあげて、広く弟子達に弘通を勧める箇所、いわゆる「二箇の諫暁」といわれる部分です。
その「二箇の諫暁」の内の一つ「女人成仏」を証明する段で、八歳の竜女の貪瞋癡が、妙法によって成仏することで、ある状態に変化したことをお示しになるのです。それが、
「娑竭羅龍王の女、年始めて八歳なり。智慧利根にして(中略)慈悲仁譲、志意和雅にして、能く菩提に至れり」(『妙法蓮華経並開結』・二六五~二六六頁)
の御文なのです。
法華経以外の経典では、女性は物事の道理よりも、自分のお気に入りかどうかで判断する――。口の悪い奴にかかると「男は頭で考えるが、女は子宮で考える」などと言われてきたものです。
このように愚かで、教えに関しては鈍根である。つまり信根(三宝を信ずること)・精進根(勇んで智を尽くして法を行ずること)・念根(正法を記憶して心に留め置くこと)・定根(心を一つ所に定めて動揺しないこと)・慧根(真理について深く思索すること)等の五つの能力(五根)が微弱である、とされていました。(失礼ですねー)
その「愚癡」の命が「智慧利根」へ転じます。智慧―すなわち物事を筋道立てて理解することにすぐれ、よく仏の教えを理解し、五根等の能力も勝れています。
次の「瞋恚」という怒りは「慈悲仁譲」へ転じます。人の苦しんでいることや悲しみを、見て見ぬ振りが出来ない。何とかその根本原因を取り除き、真実の幸せを得させてあげたい。
仁とは情愛深きことを、譲とは謙譲ですから、良いことをしても決して目立とうとせず、当たり前のことをさせていただいたまでの事と、へりくだることです。
自己愛の肥大が人へ与える害
「貪欲」の「むさぼる命」は、「志意和雅」へと転じていきます。貪欲の貪とは元々は「自愛」と訳します。言葉の意味自体としての、自分を愛するという行為は、健全な心の発達の為には必要なものですが、それが病的に肥大化して自分に対する誇大感を持つようになると、それは「自己愛人格障害」と呼ばれるものになります。健全な人のように、ありのままの自分を愛することができないのです。
その人の特徴は、
・何でも自分の思い通りになるという空想に耽ったりする。
・自分のことにしか関心が無い。
・高慢で横柄な態度。
・特別な人間であると思っている。
・自分は特別な人間にしか理解されないと思っている。
・冷淡で、他人を利用しようとする。
・批判に対して過剰に反応する。
・虚栄心から、嘘をつきやすい。
などが挙げられ、それがために、共感の欠如―他人の気持ち及び欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。あるいは、友人または仲間の誠実さや信頼を不当に疑い、それに心を奪われていたりします。(ニフィティ「自己愛性人格障害とはなにか」より引用および参照しました)
そのような命が、志意――心や志が他の人の心と和し―共感出来るようになり、すぐれた人柄という意味の雅――品性が備わるようになるのです。
もう一つの毒・三道が三徳の薬へ
また「毒」とは、煩悩・業・苦の三道のことです。「薬」とは、法身・般若・解脱の三徳のことです。ゆえに日寛上人は『当体義抄文段』(文段集六二二頁)に、
「龍樹菩薩、今経の妙の一字を釈して云わく、『譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し』等云々。『毒』は即ち三道、『薬』は即ち三徳なり。『能く毒を以て薬と為す』とは、豈三道即三徳の法門に非ずや。天台大師の云わく『言う所の妙とは、妙は不可思議に名づく』云々」
と御指南なのです。
煩悩とは?
煩悩とは、見思・塵沙・無明の三惑のことです。詳しくお話ししている時間が無いので省略いたしますが、要は、煩悩とは心に由来するむさぼり・怒り・おろか・うぬぼれ・疑いなどの心の諸相―意識の表面部分に出てきた色々な姿を言ったものです。
平たく言えば、煩悩とは普通の人にとって心のほとんどを占めているもの、いわば全体像のことですから、煩悩とはつまりは心そのもののこと、すなわち十如是の中の「如是性」、とこうなるのです。
業とは?
業とは、五逆・十悪・四重等のことですが、この過去に為したことによって招来された――引き起こされたとする、十界の衆生の、この姿形や境遇、それに振る舞いのことを指しています。ですから、業とは私達の姿・形や振る舞い、つまり、十如是には「如是相」のことなのです。
苦とは?
苦とは苦果の依身・五陰・十二入等の、いわゆる私たちのこの身体ことです。
十二因縁の法門には、苦しみの原因は無明より始まり、生・老死に行き着くとされています。それで、この道理の上から私たちの身体のことを法華経以前の教えでは「苦果の依身」と称してきたのです。
苦果とは悪業、すなわち過去に悪いことをした報い・結果ということで、その苦しみのことです。
依身とは心識、すなわち心やその働きのより所・宿る場所となる肉体・この身のことなのです。
この三毒の三道が薬の三徳へと転ずるとは『始聞仏乗義』(御書一二〇八頁)に、
「止観に云はく『云何なるか円の法を聞く。生死即法身なり、煩悩即般若なり、結業即解脱なり』
とあるように、
生死(苦)→→法身
煩悩(迷い)→般若
結業(結縛)→解脱
となることを言うのです。
この中に「転ずる」とは、その体を改めず、ただその相を変ずる事を言います。(当体義抄文段・文段集六二二頁)
しかも、この図式の中の、
「生死即法身」の法身は、三身如来の「法身如来」のことであり、
「煩悩即般若」の般若は智慧の「報身如来」のことであり、
「結業即解脱」の解脱は、慈悲応現の「応身如来」の事だと言われるのです。
誰がこのようなことを、信じられると言うのでしょうか。誰も信じられません。
しかし、この事こそが「妙の一字の功徳」と心から信じゆく時、私たちの成仏の道が開かれていくという事を、御書に、
「是くの如く之を聞いて何の益有らんや。
答へて云はく、始めて法華経を聞く也。妙楽云はく『若し三道即ち三徳と信ぜば尚能く二死の河を渡る。況んや三界をや』云々。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するのみに非ず、父母も又即身成仏せん。之第一の孝養なり」(始聞仏乗義・一二〇九頁)
と御指南されているのです。
我が身が三身即一の本覚の如来?
また『十如是事』(一〇四頁)には、
「我が身が三身即一の本覚の如来にてありける事を今経に説いて云はく『如是相。如是性。如是体(中略)』文。
初めに如是相とは我が身の色形に顕はれたる相を云ふなり。是れを応身如来とも、又は解脱とも、又は仮諦とも云ふなり。
次に如是性とは我が心性を云ふなり。是れを報身如来とも、又は般若とも、又は空諦とも云ふなり。
三に如是体とは我が此の身体なり。是れを法身如来とも、又は中道とも、寂滅とも云ふなり。
さればこの三如是を三身如来とは云ふなり。
この三如是が三身如来にておはしましけるを、余所に思ひへだつるが、はや我が身の上にありけるなり。
かく知りぬるを法華経を悟れる人とは申すなり」
と、ハッキリと示されているのです。
これらに類する御文は枚挙にいとまが無いほど多くあるのですが、それではどうして、過去の業によってもたらされた結縛の法・手かせ足かせともなる私たちの姿形や振る舞いが、それから解脱し、慈悲を本体とする、つまりそれぞれの人の境遇に最もふさわしい姿を現わして法を説かれる仏の慈悲応同の、いわゆる応身如来なのでしょうか?
それに、私たちの心は煩悩が次々とあふれ出て止まない、濁った泉のようなものだった筈なのに、それがどうして智慧(般若)を本体とする仏の、いわゆる報身如来になるのでしょうか?
さらには私たちの身体は「苦果の依身」という、人間が受けるあらゆる苦しみの出所であるところから、身体とは苦しみの集積所・聚集しているものと儚んでいたのに、それがどうして法性とか真如などという、法そのものを仏に見立てた、あるいはすべての法が集まって造られた、あるいは仏の覚体・さとりの正体である法身如来のことであるなどと、言えるのでしょうか?
それについて理解するヒントとしては、『総在一念抄』(一一五頁)があります。そこには、こう記されています。
「成仏の時の三身とは其の義如何。答ふ、我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身にいたるまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり」
日蓮大聖人様が無作三身の仏果を成就(義浄房御書六六九頁)あそばされた時のお姿・御境界を彷彿推尋するに、円融とは「それ独自の立場を保ちながら、しかも他のものと完全に一体となって、互いに溶け合い妨げのないこと」ですから、大聖人様の一身一念に、法界の三千の諸法すべてが具わっていることです。
ゆえに『当体義抄』には、
「至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減なし」
とお示しになっているのです。
日寛上人は『当体義抄文段』(文段集六三一頁)の中で、
「因果倶時不思議の一法」とは久遠名字即の釈尊、すなわち日蓮大聖人の一念の心法であるが、これまた「色心総在の一念」のことである。妙楽大師が「総じては一念に在り、別すれば色心を分かつ。別を摂して総に入る」とはこの事であると御指南されています。
大聖人は久遠名字即の釈尊と同じくこの法を師と為されて修行あそばされたところ、久遠元初の自受用報身如来となられました。この久遠元初の自受用報身如来を又無作三身と言うのです。
日寛上人は同文段の中で、
「此の自受用身とは境智冥合の真身なり。所証の境を法身と為し、能証の智を報身と為し、境智冥合する則んば必ず無縁の慈悲有り、是れを応身と名づく。故に自受用の一身は即三身なり」(文段集六二七頁)
つまり、我が身は地水火風空の五大すなわち妙法蓮華経の五字、我が心も因果倶時不思議の一法すなわち妙法蓮華経の五字なりと知ろしめし、ここに十界三千の諸法が具わっていることを覚知あそばされたのです。
御本尊様の妙法五字の両脇に十界の衆生が図顕されているのは、大聖人の色心に十界三千の諸法を具えた法身如来、我ら十界三千の諸法を具えた妙法蓮華の当体と知ろしめされた智慧を報身如来、この境智冥合の上に無縁の慈悲を起こされて八万四千の相好、つまりはあらゆる衆生の姿を現わして衆生を利益あそばされるのが、慈悲の応身如来、ということになるわけです。
私たちは皆聖人の化身と
ゆえに『御本尊七箇之相承』には、
「七、日蓮と御判を置き給ふ事如何。師の曰く、主題も釈迦多宝も、上行無辺行等も、普賢文殊等も、舎利弗迦葉等も、梵釈・四天・日月等も、鬼子母神十羅刹女等も、天照八幡等も、悉く日蓮なりと申す心なり。之に付いて、受持法華本門の四部の衆、悉く聖人の化身と思う可きか」(平成校定日蓮大聖人御書第三巻二〇九四頁)
とあるように、草や木に至るまで、あるいは虎狼野干さえ無作三身の命ならざるものはない森羅万法の中で、特に日蓮正宗の、御本尊を信ずる四衆を指して「聖人の化身と思うべきか」と仰せられているのです。
何を、我が身を嘆く必要があるでしょうか。
最後に、長くなって恐縮ですが、日寛上人の『寿量品談義』を読んで終わりにしたいと思います。
「寔に有り難き義なるは、若し本門寿量の妙法蓮華経を信じ奉れば、煩悩業苦の三道その体を改めず、煩悩が即般若の智慧となり報身如来と転じ、業縛の不自在は解脱自在の万徳応身如来となり、苦道は自ずから不生不滅の妙理と変じ、即法身如来の正体と顕われ、この三身三徳に常楽我浄の四徳を備えて、遷流生滅にも移されず、四苦にも値わず、煩悩にも染まらず、業のきずなにも繋がれず、自由自在の徳相を施すゆえに、これを『本心に帰する時は之を呼んで四徳の勝用と称す』と釈し給へり(中略)
然れば面々我らが当体所具の煩悩業苦の三道即法身般若解脱の三徳法報応の三身如来なれども、無始より已来妄心に由って己心所具の妙理に迷い之を知らず。然るにこの度法華経に値い奉り、ことさらに教主釈尊祖師大聖人の本懐に叶い、本門寿量品を信じ奉り、朝夕本門事行南無妙法蓮華経と修行する信者なれば、即身成仏決如たり」
(日蓮正宗御歴代法主全書第四巻 一九四頁〜一九五頁) 以 上