聖人御難事(一三九六頁)
「去ぬる建長五年太歳・癸丑四月二十八日に、安房国長狭郡の内、東条の郷、今は郡なり。天照大神の御くりや、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳・己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すが如し。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり。」
この御書は、弘安二年(一二七九)十月一日、日蓮大聖人様が五十八歳の時に、宛名が「人々御中」とあるように、門下一同に与えられた書であります。
この御書をおしたためになられたのは、あの熱原法難のまっただ中でした。いわゆる、神四郎・弥五郎・弥六郎等の二十人の百姓衆が、日蓮大聖人の仏法を信じているという理由だけで、理不尽にも、日ごろ彼らがお慕い申し上げている日秀師の田んぼの稲刈りの最中に捕らえられ、否応なく鎌倉へ押送されました。そして、平左衛門尉頼綱の屋敷庭にてさまざまな脅しをかけられ、あるいは拷問されて信仰の退転を迫られたのです。
しかし、彼らはひるむどころか、信心ゆえにこの迫害・法難に遭うことを誇りに思い、莞爾として受け入れる決定心を示したのです。
そこで、大聖人様はこのことを称えられると共に、ついに出世の本懐を成就する時が来たことをお感じになり、彼らにはご自身の受けられた御法難を上げられて、「仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめ」(佐渡御勘気抄・御書四八二頁)と、何か大事をなそうとする時は必ず魔が障礙をなすものである。彼らにも決して屈することなく、信心を続けていくよう真心の激励を尽くされたのです。
この御書を、最初から順を追って拝読すると、先ず建長五年の四月二十八日に――大聖人様の御直筆には、この四の数字の横に、ご自分で参という字を書き加えられています――、安房国長狭郡の内の東条の郷――今は郡となりましたが――と、先ず時と場所を述べられ、さらにその地が天照大神の御厨という、伊勢大神宮に貢納物を献上すべく、作物を調進するところとして、「右大将家」――広辞苑等によると、右大将とは右近衛大将の略で、この場合源頼朝のことです。彼は弟の範頼・義経をして一谷・壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡に追いやりましたが、その間、自身は入京して右近衛大将に任ぜられ、やがて鎌倉幕府を開いて征夷大将軍となるのです。
この源頼朝が寄進した、当初さえ日本第二でありましたが、今は日本第一となった所として名を馳せている、この郡の内の、清澄寺というお寺の諸仏坊という僧侶の持仏堂(個人的に本尊を安置して修行を行う場所)の南面している所で、真昼の十二時にこの法門を人々に申し始めて、今に二十七年目、弘安二年であるとおっしゃっています。
御書の内容とは関係有りませんが、伊勢大神宮には内宮と外宮とがあり、内宮には天照大神が祀られています。この神はご存知のように太陽神ですが、後に北辰信仰が日本に伝わって来た時、この北極星と習合され、外宮はその回りをまわる北斗七星として、地上の人々の捧げる食べ物などの貢ぎ物を、この北の空の一点で動かぬ天照大神に届ける柄杓の役をになうようになりました。このような意味から、伊勢大神宮に参るには、かならず、まず外宮に参拝してから内宮へ行くのです。もちろん、私たちは参拝いたしませんが……。
閑話休題
次の御文には、「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給ふ」と、日蓮大聖人が「三国四師」と呼ばれた方々の内、自身を除いた外三人の、出世の本懐を成就されるまでの年数を上げられています。
大聖人様は『一代聖教大意』に、釈尊の説法の期間について、次のように仰っています。(御書九十一頁)
「いわゆる、お釈迦様は十九歳で出家され、三十歳の時、菩提樹の下で悟りを開かれた、ということは、『大智度論』という龍樹菩薩の著に出てきます。
お釈迦様が教えを説かれた年数のことを、一口に『一代聖教五十年』と言いますが、これは『涅槃経』に書かれています。
法華経以前の経文のことを『爾前経』といいますが、これを説かれた期間が四十二年であったことは、『無量義経』という法華経の開経(一つの経典の序説となる経典)に出てきます。
法華経の説法が八カ年であったということは、先に挙げた涅槃経の五十年の文と、無量義経の四十二年の文とを突き合わせることで導き出されます。」(趣意)
つまり、釈尊は菩提樹の下で成道を遂げられた後、三七日間をかけて『華厳経』を説き、次の十二年間に『阿含経』を説き、さらに浄土三部経や大日経などの方等経と般若経を説くのに三十年――これは山門、いわゆる比叡山延暦寺の方の説では、方等経は説かれた時と場所は定まってなく、ただ般若経の期間を三十年とするのに対し、寺門――すなわち、園城寺〈三井寺〉の方では、方等十六年・般若十四年の都合三十年の説であるとしますから、どちらにしても、菩提樹の下で成道を遂げられてから、それらの経を説き終えられるまで、四十二年の歳月が費やされたことになるのです。
その四十二年が過ぎた七十二歳の時に、釈尊はそれまでの経文を指して、(無量義経二三頁・新編妙法蓮華経并開結 大石寺版)
「善男子、我先に道場菩提樹下に、端座すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。佛眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々に法を説きき。種々に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。」
と、全くの方便の教えであることを打ち明けられるのです。
つまり……、仏は菩提樹の下での、六年の思索の末に無上正覚を得られたが、佛眼でもって人々の機根(仏の教えを受ける衆生の可能性・心の状態・レベル)を観察するに、まだ法華経を説く段階に至ってない、と判断せざるを得ませんでした。それは人々の性質やら性格、あるいは仏に対して説いて欲しいと願っているものが、一つに融和していなかったからです。それゆえ、今は本心を隠し、当面様々な方便の教えを説いて調機調養(人々の機根を調えるために低い教えから高い教えへと、あるいは浅い教えから深い教えへと導き、さらにその機根・仏法受容の性分を教化し養い育てること)をしてきたのです。ゆえに、四十余年の経文には、まだ真実を顕していません。虚妄・方便なのです」と、それら法華経以前の教えを説いてきた意味を示されたのです。
しかし、その方便の教えも役目を終えたので、「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」(方便品第二・法華経一二四頁)と、この経文を斥けられ、無上道たる法華経を説くことを宣言されました。
そうして、さらに、
「我本誓願を立てて、一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき。我が昔の所願の如き、今者已に満足しぬ。一切衆生を化して、皆仏道に入らしむ」(方便品第二・法華経一一一頁)
と、仏の御本意は、一切の人をして仏と等しき境涯に至らしめんが為であったが、それも四十二年間の善巧方便という、巧みな方便を用いた教化によって人々の心を錬り、また一つに融和させ、ついに時至って法華経を説いてその誓願を成就できたことを、心から満足している。それは、すべての人を教化して、仏の道に入らしめることができるからである、と心情を吐露されていますが、正に法華経こそ釈尊の出世の本懐であることが明らかなのです。
ゆえに、お釈迦様の出世の本懐は、最初成道の時から四十二年後に達成されたということに、誰も異論を差し挟む余地はありません。
次の「天台大師は三十余年」とは、天台大師が二十三歳にして光州大蘇山の南岳慧思の門に入り、厳しい修行の末に『薬王品』(法華経五二六頁)の、
「その中の諸仏、同時に讃めてのたまわく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり。是を真の法をもって如来を供養すと名づく」
の句にいたって、忽然として「法華三昧」を得られました。
これを「大蘇開悟」といいます。
これより三十余年後、すなわち五十七歳の時に摩訶止観を説いて、出世の本懐を遂げるのです。
さらに「伝教大師は二十余年」とは、延暦二十一年(八○二)、伝教大師が三十六歳の時、高尾寺(京都市右京区にある真言宗の寺・高尾山神護寺のこと)において、桓武天皇の勅使・和気弘世とその弟・真綱臨席の講会で南都六宗と法論し、帰伏せしめてから二十余年、すなわち五十六歳で入滅したその直後に、戒壇建立の勅許が下されて、出世の本懐を遂げたことを言われているのです。
次いで、「その中の大難申す計りなし」というのは、どの一つの例外もなく、易々と本懐を成就されたものはなく、様々な苦難を乗り越えて、その目的は達せられたことをお示しになっているのです。
そして、「余は二十七年なり。その間の大難は各々かつしろしめせり」とは、今までの文章の流れからいっても、当然大聖人様が、建長五年四月二十八日の宗旨建立から二十七年目の本年・弘安二年の十月に、ついに出世の本懐を成就するに至ったこと。その間の大難の数々は、皆が知ってのとおりである、という意味になることは間違い有りません。
何か思わせぶりでなく、ハッキリものを言えばいいのに、と皆さんは思われているかもしれませんが、私たちは相伝によってこの御文を読んでいますから、このことが、熱原の法難を契機とする、弘安二年十月十二日の「本門戒壇の大御本尊の御図顕の事」だと分かるのです。
ところが、日蓮正宗に背いている不相伝の他門下にいる人たちは、このことが全くわからない、というか、信じられないのです。
正に「文はまつげの如し」です。
彼らは、日蓮大聖人様とは、お釈迦様の説かれた法華経の殉教者のほか何者でもなく、取り柄と言えば、法華経一部八巻二十品六万九千三百八十四の文字を、ただ題目の五字七字に縮めて、誰もが唱えやすくされたことだと、哀れにも思い込んでいるのです。
ですから、日蓮大聖人様の出世の本懐といっても戸惑うばかりで、つまりは、法華経に説かれた末代の法華経の行者が必ず受けるであろうとされた法難・迫害の数々を、悉く(=文文句句といいます)実際に体験することの出来た達成感、その充実感をもって「出世の本懐」だとしているのです。果たしてそうでしょうか?
日蓮大聖人様は『経王殿御返事』(新編御書六八五頁)に、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」
と、四条金吾ご夫妻に御本尊をお与えになり、これを、「日蓮が魂を墨に染めながして書いた」と、とおっしゃっているのは何故でしょう。日蓮大聖人様が単なる法華経の崇拝者だったなら、どうして釈尊の法華経と日蓮大聖人の南無妙法蓮華経とを対比させる必要があるでしょう。
また『観心本尊抄』(六五四頁)には、
「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を観るが如く、十方の諸仏は大地の上に処し給ふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之無し。乃至未だ寿量の仏ましまさず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」
と、十界互具・事の一念三千の御本尊を指して、釈尊在世にも、正像二千年にも未だかつて無かった本尊であり、日蓮大聖人様が今始めてお顕しになられることをお示しになり、この御本尊の相貌・お姿こそ、寿量品の仏という真実の仏の像、いわゆる仏像であることを示されているのです。
そもそも大聖人様が御本尊を顕されるのは、『開目抄下』(五五四頁)に「諸宗は本尊にまどえり」とあるように、諸宗教は何を本尊とすれば良いのか分からずに迷っている。そこで、過去に仏の種子を下されたことのない人々に、仏性を目覚めさせゆく下種の本尊を顕して人々を教え導こうというのが、大聖人の目的なのです。その本尊こそ、寿量品の仏すなわち目の前の一念三千の御本尊なのです。
それゆえに、同じ『開目抄下』(五五四頁)には、「寿量品の仏を知らざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生と書けるなり」とあるように、「寿量品の仏」を知らず、他の仏や菩薩を拝んで得々としている人たちは、仏法を学びながら無知ゆえに根本の仏に背いてしまって、畜生と等しい不知恩の者と成り果てているので、これを救っていこうとされているのです。
それが熱原法難を契機として顕された「弘安二年の本門戒壇の大御本尊様」なのです。ですから、日道上人の『御伝土代』(歴代法主全集一巻二六六頁)には、
「日興上人の御弟子駿河国富士のこほりあつわらより二十四人かまくらえめされまいる、一々にからめとつて平さへもんかにわにひきすえたり。子息いヽぬまはんくわんむまとのりこひきめをもつて一々にゐけり。そのにわにて平さへもん入道父子うたれり、法花のはちなり。
さてあつわらの法花宗二人ハくひをきられおハん、その時大聖人御かんあつて日興上人と御本尊にあそはす云々」
と示されてあるように、熱原の三人が頸を切られたことをきっかけとして、大聖人様と日興上人の師弟が一如して御本尊を御図顕になられたことが記されています。また、日興上人の『日興跡条々事』(御書一八八三頁)には、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」
と、特別の意をもって御図顕になられたこの弘安二年の御本尊を、血脈相承によって、本門弘通の大導師たる日興上人に御付嘱になり、また嫡々代々血脈付法の御法主上人の魂とも為し、広宣流布の暁には大本門寺の本堂に安置するように言い置かれたのです。
では、それまでにも認められていた、全体として百三十幅と今に現存している本尊を一機一縁とし、唯この弘安二年十月十二日の御本尊を一閻浮提総与の大曼荼羅と、なぜ特別視するのでしょうか。
そもそも御本尊は、日蓮大聖人様の御内証を、我々凡夫の肉眼で見えるように、文字でもって図顕されたものです。このことを『御義口伝』(一七七三頁)に、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」
と、仰せになったのです。
それでは、その本尊の境界はいつ成就あそばされたのかというと、これは日寛上人の『開目抄文段』(文段一六七頁)に、
「九月十二日、子丑の時に頸はねられぬ文。この文の元意は、蓮祖大聖は名字凡夫の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたもう明文なり」
とあるように、あの龍ノ口の巨難の最中に証得されたのです。
では、いかなる修行によってこれを得られたのかというと、日寛上人は『当体義抄文段』(文段六三四頁)に、
「釈尊は久遠五百塵点劫の当初、如何なる法を修行して妙法当体の蓮華を証得せしや。答う、これ種家の本因妙の修行によるなり」
と明かされています。
この中の「久遠五百塵点劫の当初」とは久遠元初のことです。その時の釈尊とは名字即の釈尊の御事ですが、この方と行位全同と言って、修行と仏としての名字即の位も全く同じなので、つまりは今の日蓮大聖人様の御事なのです。日蓮大聖人様が妙法当体の蓮華を証得・悟り得られたのは、種が家の本因妙の修行による、と御指南なのです。
ですから、『百六箇抄』には、「久遠の釈尊の口唱を今日蓮直ちに唱ふるなり」(一六九四頁)とか、「日蓮が修行は久遠を移せり」(一六九四頁)とか、「今日蓮が修行は久遠名字の振る舞ひに介爾ばかりもたがわざるなり」(一六九五頁)と仰せになり、あるいは『本因妙抄』には、「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」(一六八四頁)と仰っているのです。
次に、その境界を御本尊に顕す意味はどういうことかと言えば、日寛上人は『観心本尊抄文段』(文段二○三頁)に、
「この久遠元初の自受用身末法に出現し、下種の本尊と顕れたもうといえども、雖近而不見にして自受用身即一念三千を知らず。故に本尊に迷うなり。本尊に迷うゆえに、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷うゆえに生死を離れず。故に仏大慈悲を起こし、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」
大聖人様は凡夫の身を繕うことも、飾ることもなさらず、そのままに久遠元初の自受用身という下種の仏・本尊と顕れ出られたのですが、いかんせん、我々は迷いの凡夫で肉眼しか持ち合わせていませんので、その本当の御本仏のお姿を拝見することが出来ません。これを「すぐ近くにあるけれど、見ることができない(雖近而不見)」というのです。この本尊を見ることができないから、我が体と心の全体が妙法の当体という尊極の命と知ることができずに、迷いのちまたを彷徨うことになるのです。
そこで、仏・日蓮大聖人様は大慈大悲をもって我が悟り得たところの全体を一幅の本尊として図し顕して、私たちの頸に懸け、決して忘れないようにしてくだされたのです。
でも、日蓮大聖人様が顕されたものは、百三十幅ものあって、その形も一様ではありません。なぜ形が違うのか。なぜ弘安二年の御本尊が特別であって、他のものは一機一縁といって、限られた人のみ有効のように言われたりするのか。本門戒壇の御本尊様と他の御本尊様の関係は如何。
これは、この御本尊様を年代順に見ていくと分かるようになっているのです。御書の「日蓮大聖人年表」を見ると、「文永八年(一二七一)十月九日、相模依智の本間邸にて本尊を顕わす」という記事が載っています。今手元に『立正安国会』という所が発刊した、日蓮大聖人の御本尊写真集がありますが、それを見るとこの御本尊は南無妙法蓮華経の七字と、日蓮のお名前と花押、それに左に愛染明王、右に不動明王の梵字が描かれただけのものです。これは現在、京都の立本寺という寺にあるそうです。これは現存する御本尊様としては最も初期のものですが、大変貴重な情報をもたらしてくれます。
すなわちこれは、『見宝塔品』の宝塔涌現を描写されたものだ、ということです。番号二が付けられた御本尊は、「佐渡の国において之を図す」と書かれ、文永九年二月十六日付けのものですが、先ほどの南無妙法蓮華経の七字にお名前と花押、そして愛染明王・不動明王の他に、題目の両脇に南無釈迦牟尼仏と南無多宝如来の二仏が描かれているのは、宝塔涌現から次の段階の、「二仏並座」の儀式に移ったことが表現されていることが分かります。
このように、御本尊の形の変遷は、法華経虚空会の儀式を、見宝塔品・提婆達多品・勧持品・安楽行品・従地涌出品・寿量品とたどる姿で描かれていることに気づくことができるのです。
なぜ、そんなまどろっこしいことをされたんでしょうか。それは、人々が寿量品の仏をしらず、何を本尊にしたらよいか迷っていたからです。日寛上人は『序品談義』(歴代法主全集第四巻三十九頁)に、
「玄義七初に、『人の依処に則ち行跡あり。迹を尋ねて所を得るが如し』と文。意は、本地第一番は本人の如し。第二番の後、今日まで迹中の示現は足跡の如くであるによって、迹と申す事でござる。迹と云うは、足跡と云う意でござる。若し、本地第一番の事を尋ねんと欲せば、迹中の示現利益の相をつぶさに尋ねれば、則ち本地の事を知るでこそあれ。譬えば、雪降りなどに、その人を尋ねんと思うに、その跡を尋ねて行けば必ずその人に逢うがごとくでこそあれと云うことを、『人の依処に則ち行跡あり。迹を尋ねて所を得るが如し』と釈し給いてある」
と述べられています。
つまり、雪降りの時などに、友を見失った場合どうしたら本人のところにたどり着けるでしょうか。それは、本人が雪の上に残した足跡をずーっとたどっていけば、やがて本人にたどりつけるようなものです。「本地第一番とは本人のごとし」とは久遠元初の自受用身、寿量品の仏の御事であります。それに迷ってしまっている人たちに、これがそうだと示すためには、見宝塔品の説相からずっと辿るように御本尊の形を示していけば、最後にたどり着いたのが、寿量文底に説き明かされる本因下種の仏、久遠元初の自受用身の相貌・姿ということになるのです。
そういうことで、この経文をたどって御本尊を顕してこられたのが第一の条件です。次に、『蒙古使御書』(九○九頁)の、
「時に当たりて我が為国の為大事なることを、少しもたがへざるが智者にては候なり。仏のいみじきと申すは、過去を勘へ未来を知り三世を知ろしめすに過ぎて候御智慧はなし」
との、『立正安国論』で予言された自界叛逆・他国侵逼の二難が起こり、三世を知る自らが仏であることの証明も終わったことが第二の条件です。ゆえに、
「この釈に『闘諍の時』と云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(観心本尊抄・六六一頁)
と、おっしゃっているのです。
そして、最後第三の条件が、人々が命をかけてこの仏法を守る。そのような人たちが出現することが、必須のこととなるのです。それこそが、名も無き熱原の百姓衆が、命を投げ打って題目を唱え通した、この法難ではなかったでしょうか。
この本門戒壇の御本尊の一番下、日蓮大聖人様のお名前の直下に、「本門戒壇なり。願主 弥四郎国重等 法華講衆敬白」と誉れの名前が刻まれているのであります。これ、我等が法華講衆の先達であります。
大聖人・日興上人の御化導に真剣に応えていったこの先輩の方達のことを胸に、常に誇りをもって共々に歩んでいこうではありませんか。以上