令和四年・立宗七百七十年にして「報恩躍進の年」、明けましておめでとうございます。
昨年は、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年目の大佳節ということで、コロナ禍の中ではありましたが、勇猛果敢、それぞれ持てる力を結集し頑張ったお陰で、私達が経験していることが、すべて、すでに経文や御書に書かれていることを実感させていただいた、貴重な一年となりました。これは、私達の宝です。
また、大聖人様の御精神を改めて確認し合う一年となりました。
大聖人様がこの世に御誕生になったその瞬間の第一声が《苦我》の二字であったことに、我々はもっと注視しなければならないと思います。
この苦我の二字こそは、御本仏の大誓願である所の〝毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと)〟の文意を、ただ苦我の二字に凝縮されたものなのです。
あまり、このことに言及される方がいないように見受けられますので、改めて申し上げておきますが、大聖人様は『諫暁八幡抄』(一五四一㌻)に、
「涅槃経に云はく『一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり』等云々。日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり、と申すべし」
この意味は、釈尊の御化導を、それぞれ各人異なった苦しみを受けているのを我が苦・痛みとして感じとり、その苦・痛みをとり除くように化導されたと示し、大聖人様の御化導を、同一の苦を受けているのを日蓮一人の苦として受けきり、それを救うべく教えを説いてきた、とされているのです。
ここで気になるのが、「異の苦」と「同一の苦」という、それぞれの言葉の意味と意図されるところです。
「異の苦」とは、それぞれ人によって違う苦しみのことです。これは十悪業、あるいは五逆罪などにより、つまり、それぞれの業因によって受ける業果、現に個々人が受けている苦しみのことになります。
この中に十悪業とは、知れたこと。身には殺生(による多病・短命)・偸盗(盗みによる報いで経済的に不自由)・邪淫(男女の不適切な関係による、腹心の人の離反)等々の報いです。口には悪口・両舌・妄語・綺語による報いです。意には貪(は餓鬼)・瞋(は地獄)・癡(は畜生)による報いです。
五逆罪とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五つです。
殺阿羅漢と出仏身血と破和合僧とは、提婆達多が犯した三つの罪で、一つは蓮華比丘尼という僧尼(阿羅漢)を殴り殺したこと。
二番目は、耆闍崛山より大石を釈尊めがけて落して圧殺しようとしたが、既のところで金剛力士が金剛杵を投げて大岩を破壊しました。大岩は砕かれたものの、このこなごなになった小石の一つが釈尊の足の甲に当たって裂傷が出来、そこから血がにじみ出たのを「出仏身血」と言い、三番目に破和合僧とは、五百人の仏弟子を、甘言を弄して教団から離脱させたことを言います。
この五つは《逆罪》と、おどろおどろしい名が付いているように、その内一つでも犯せば、その人は一劫の間無間地獄に堕ちて苦しむことになる、と仏法では定められています。
それを『呵責謗法滅罪抄』には、
「五逆罪と申すは一逆を造る、猶一劫無間の果を感ず」(新編七一一㌻)
と御教示なのです。
では、その一劫とはどのくらいの時間なのでしょう。御書(右同㌻)には、
「一劫と申すは人寿八万歳より百年に一を減じ、是くの如く乃至十歳に成りぬ。又十歳より百年に一を加ふれば、次第に増して八万歳になるを一劫と申す。親を殺す者此程の無間地獄に堕ちて、隙もなく大苦を受くるなり」
これは、人間の寿命が八万歳だった時から百年ごとに一歳づつ寿命が縮まる…というのですから、最初の百年が過ぎた段階で、人は七万九千九百九十九歳の寿命となることになります。
ですから、寿命がゼロ歳になるのに、八万×百年で八百万年。このゼロ歳から八万歳に戻るまでが、同じく八百万年。この合計で千六百万年となるのはお分かりでしょうか。
これから、十歳の往復分を引き算するわけですから、一歳増えたり減ったりする毎に百年ですので、往復合計二十歳×百年で二千年。これを千六百万年から引き算すると、千五百九十九万八千年ということになります。
これが、お話しするだけでも長ったらしいのですが「一劫」なのです。親を殺すなどの五逆罪の一つも犯す者は、これ程の長い間、隙も無く大変な苦しみを受けなければならないのです。
これだけでも途方もない話しではありますが、こんな事で驚いていてはなりません。若し人が法華の心に背く、つまり謗法を犯せば、これとは比較にならないほど永く、ありとあらゆる苦しみをその人々は受け続けなければならないのです。それが、
「上の一劫を重ねて無数劫、無間地獄に堕ち候と見えて候」(同㌻)
の御文なのです。
ちなみに無数劫とは阿僧祇劫を翻訳したもので、一劫の十の五十九乗倍の年数になるのです。
この謗法罪はこのように恐ろしく、いったん誤りに気付いて反省懺悔して、その教えに従うこと、諸天が帝釈天を敬うように、私達が太陽や月を畏れ、その恵みを称えるように法華経の信心に付いたとしても、その信心が薄くいい加減で本気で取り組めない者は、不軽菩薩を最初罵った人たちのように、千劫もの間阿鼻地獄に入って大苦悩を受け続けなければならず、二百億劫というもの間、仏法僧の三宝に見放されることになるのです。
だから、一見すれば信心しているように見えても、邪宗謗法の者らと同じで何も変わらない、信心の悦びを感じられない日々を過ごすことになるのです。
謗法罪を犯した者はこのように、ほとんどが無間地獄に堕ち、少しの者は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天などの迷いの世界たる六道に生を受けます。
その六道の中にも人間に生ずる時は、貧窮下賤―貧しく、生活に苦しみ、人から蔑まれる卑しい身の上となり、健康状態はと言えば、まるで「病気のデパート」と、自嘲気味に言って憚らないほどに、何故だか次から次に病気に罹ってしまいます。
これが謗法の恐ろしさなんだと、御教示されています。
釈尊が異の苦を如来一人の苦とされたのは、主に十悪業、あるいは五逆罪をそれぞれ犯した事の原因によって、個々に受けている苦をお救いになるのに対し、同一の苦を日蓮一人の苦と仰せになったのは、極大重病たるこの謗法に依って苦悩に喘ぐ末法の一切衆生をお救いになるからです。このことを『諫暁八幡抄』(新編一五四三㌻)に、
「天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東に向へり、月氏の仏法、東へ流るべき相なり。日は東より出づ、日本の仏法、月氏へかへるべき瑞相なり。
月は光あきらかならず、在世は但八年なり。日は光明月に勝れり、五五百歳の長き闇を照らすべき瑞相なり。
仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ」
ところで、この謗法の恐ろしさを一番知っているのは、他ならぬ創価学会員です。彼等の頭にインプット・入力されているのは、「あらゆる不幸の原因は謗法にある」ということで、今日引用した御書の文からして誠に正鵠を射た(物事の急所を正確についた)言葉なのです。
しかも、その謗法とはさらに端的に言えば、彼等の折伏の時の必携の書・バイブルとも言うべき『折伏教典』にある通り、「富士大石寺の本門戒壇の大御本尊を信じない者はすべて謗法である」ということであり、それは仏法の最大肝要に背き、御本仏の御化導を真っ向から否定する仏敵になることに他ならないからなのです。
私達は、御本仏が大悲願力をもって末法に御出現になられたことに報恩感謝申し上げると共に、地域広布にいよいよ躍進しゆくことが、必ずや今眼前に起ころうとしている大災厄から逃れられる、唯一の道であることを申し上げ、新年の辞とさせていただきます。